終末エスケープ 後編
人の少ない電車に乗っている。ずいぶん遅くなった時間帯ゆえか、上り電車を使う人はあまりいないようだ。まばらな車内で、天馬と一成は隣同士で座っている。
湖から戻った二人は、先輩にこれまでのお礼を伝えた。短い期間とはいえ、ずいぶん世話になったのだ。先輩は鷹揚に「いつでも来てくれ」と笑って、駅まで二人を送ってくれた。
そのまま電車に乗り、帰路へと着いたのだ。天鵞絨町へ帰るため、どこか遠くへ行くのではなく、みんなの待つあの場所へ帰るため、電車に乗っている。
「とりあえず、今日中には帰れそうだねん」
「何だかんだで、出るの遅くなったからな」
一成の言葉に、天馬は静かに答える。思いの外長く湖に滞在していたこともあって、あの離れを出る時間は予定よりも大幅に後ろへずれこんだ。結果として、寮へ帰るのは遅い時間になるだろう。
一成はスマートフォンを取り出して、カンパニーのグループトークへ帰宅時間を知らせる。すぐに既読がついて、いくつものメッセージが返ってくる。一つ一つに目を通していた一成は、夏組からの答えに言葉をこぼす。
「夏組のみんな、起きて待ってるって。寝てていいのにねん」
増えていくメッセージの中で、寮に残っている夏組は二人を出迎えると告げていた。
深夜というほどではないものの、いつもならばベッドに入っている時間帯だ。長期間寮を空けていてようやく帰宅するなら、わざわざ出迎える意味もわかる。しかし、今回はせいぜい二日寮から離れていたくらいなのだ。就寝時刻を押してまで待たなくてもいいのに、と言うことはできる。
「――いろいろ聞かれそうだな」
一成の言葉に、天馬はぽつりと答えた。静かな声に一成は、天馬も恐らく気づいているんだろうな、と思う。
夏組がわざわざ二人を出迎えると言ったこと。傍から見れば、一成の気まぐれに天馬が付き合わされたと思われるような事態だ。事実として二日ほどいなくなっただけなのだから、ちょっとした外出でしかないだろう。
だけれど、きっと、夏組だけは。大切な仲間の、特別なつながり結んだ彼らだけは。拭いきれない違和感に気づいていたのかもしれない、と二人は思う。もしかしたら、二度とは戻らない旅路だった。天秤が傾いたなら、何も言わず姿をくらませて、つながりを断ってしまうつもりだった。
危うい選択の上に二人が帰ってくるのだと、夏組だけはどこかで気づいていたのかもしれない。だからこそ、ちゃんと出迎えるという意志表示をしたんじゃないか、と天馬も一成も思っている。
「そだねん。どこ行ってたのかとか、何してたかとかめっちゃ聞かれそう~」
あはは、と明るい声で笑う一成はいたずらっぽい表情で天馬を見つめる。それから、そのままの雰囲気で言葉を続けた。
「いい感じにごまかさないとねん。お土産ばっちり買ってきたから、それでどうにかなんないかな!?」
楽しそうに言った一成は、そっと笑顔を拭い去る。おだやかに落ち着いて、どこか泣きそうな表情で天馬に向かって言葉を紡いだ。電車の揺れる音にかき消されてしまいそうな声で、誰にも聞こえないような声で。
「二人だけの秘密にしてくれる?」
二人で向かった先。過ごした場所。分け合った時間。交わした会話や、心の内を告げた言葉。たった二日程度のあの全てを、二人だけの秘密にしてほしいと一成は言った。夏組のみんなに隠し事をしたいわけではなかったけれど、これだけは天馬と一成だけの秘密にしたかった。
天馬はいつでも真っ直ぐで、嘘を吐くことも苦手だ。あれだけどんな役も演じられるのに、私生活では気持ちが表に出やすいし、そもそも天馬の性格からして、隠し事をすることを良しとしない傾向がある。だから、うかがうように尋ねたのだけれど。
「――そうだな。これはオレたちだけの秘密だ」
そっと笑って、天馬はうなずく。いつものまばゆい笑みではなかった。もっとやわらかくて、やさしい。心の全てで一成を抱きしめようとするみたいな、そういう笑みで天馬は一成の言葉にイエスと答えた。
真正面から受け取る一成は、その笑顔から目が離せない。きっと天馬はうなずいてくれると思っていた。嘘は吐けないと言われる可能性も考えてはいたけれど、ほとんど確信もしていたのだ。一成の言葉を受け取ってくれた天馬なら。一成の心を、気持ちを、何一つ蔑ろにせずいてくれるなら、天馬は二人だけの秘密を守ってくれるだろうと。
ひたひたと満ちていく愛おしさを感じながら、一成は「ありがと、テンテン」と告げる。それから、明るい雰囲気で言葉を重ねる。
「先輩もいつでも来てくれって言ってたし、また遊びに行こうね」
笑みを浮かべて、一成は言う。過ごした時間は短くても、あの場所での時間は一成にとって特別なものだ。
天馬と二人だけで、まるで世界に二人しかいないみたいな時間。天馬の瞳には自分だけしか映らなくて、ただ隣にいる温もりを感じられる。そんな風にずっと過ごしていくことはできないとわかっているけれど、ときどきあんな時間を過ごしたい、という気持ちは充分にあった。
「そうだな。今までにない感じで面白かったし、リフレッシュできそうだよな」
「だよねん。自然いっぱいだし、いろいろ新鮮な感じだったよねん」
「ああ。それに二人きりになれるしな」
ぼそり、と小さな声でつぶやく天馬の耳は赤い。当然一成はそれに気づいているので、同じように顔に熱が集まっていく。電車内ということはわかっているから、大げさな反応はできなかったけれど許されるなら抱きつきたいくらいだった。
天馬が好きで、大好きで仕方なくて、一成は胸を高鳴らせながら口を開く。
「――オフの日とか、あ、大学休みの時とかどう? てか、週末だけでも行けるんじゃね!?」
やや上ずった声で一成が言えば、天馬は少し考えたあと「まあ、週末くらいなら空けられるかもしれない」と答えるので、一成は明るい笑みを浮かべた。
「マ!? じゃあ、週末だけ駆け落ちする!?」
「それは単なる旅行だろ」
冗談めいた響きの言葉に、天馬は軽口で答える。傍から聞いてもじゃれあいの延長線上のものとしか思われないだろう。わかっているから、気軽に駆け落ちという言葉を口に出す。
本当は、何一つ冗談じゃなかった。一緒にいたくて、同じ気持ちだと言いたくて、天馬の言葉にうなずきたかった。だけれど、それは決して簡単ではないとわかっていた。それでも愛を交わしたくて、身勝手な選択を提案した。二人で逃げてしまおうという一成の言葉に、天馬はうなずいてくれた。
結局、二人はそれを選ばなかったから、単なる冗談の顔をしていられるけれど。一成は真剣だったし、天馬はきちんとそれを受け取ってくれたのだ。
だからもしかしたら、こんな風に軽口の一つに紛れさせてしまうことができない未来もあったかもしれない、と一成は思ったのだけれど。同じくらいに、どこかできちんと理解もしていたのだ。
「オレら、駆け落ちしてる場合じゃないもんね」
天馬をじっと見つめて、一成は言う。唇にはささやかな笑みを浮かべで、どこまでも真剣な表情で。
世界に二人きりみたいな、あの家で過ごした時間で、一成はどうしようもなく理解した。やりたいことはいくらでもあって、何もかもを捨てては叶えられないことがたくさんある。天馬に何も失わせたくない。これまでの全部とこれからの未来を、丸ごと抱きしめて一緒に生きたい。大事なものも大切なものも何一つ失わず、これからずっと生きていきたい。
二人でいくつも、やりたいことを数え上げていけば、自分たちが生きるのは天鵞絨町というあの場所で、大事な人たちと共に生きていくのだという確信が深まっていく。結局、あの時間は捨てられないものを確かめるためのものだったのだろう。
だから、今一成は理解している。この駆け落ちは最初から失敗するって決まっていた。初めから、成功しない賭けだった。
そう思う一成は、何だか清々しい気持ちになっていた。これから先の未来が、どこまでも明るく照らされているような。進む道が、どこまでもはっきりと見えているような。
何だかいっそわくわくしながら一成は言葉を続ける。きっと天馬も同じ気持ちだと、疑いなく思える。だってテンテンは、オレと一緒に未来を見てくれる。オレの気持ちを受け取って、オレの隣で、未来を見つめて生きていく。
だからきっと、二人だけの世界なんて。他の誰もいない、オレたちだけの世界なんて。
「何かもう、世界が終わっちゃうって日が来たら、そしたらその時またオレと駆け落ちしてね」
何もかもが終わりを迎える日まで、そんな機会はやって来ない。だから、世界が終わるまでは何にも捨てずに失くさないで、大事なものを抱きしめて、オレと一緒に生きてほしい。
心からの気持ちで告げれば、天馬は心底楽しそうに「駆け落ちの予約されたのは初めてだな」と答えた。
END