ワンルーム・ランデブー





「SNSにもいろいろあるかんね。投稿先の雰囲気に合ったの選ぶし、あと周りの流行りとか今はどんな話題が熱いかってチェックしながら、投稿するタイミング見るの大事だよん」

 一通り互いの写真を鑑賞してから、一成は言う。天馬が趣味だけではなく、仕事でもSNSを使っていることを見越しての言葉だ。
 天馬は一成ほどしょっちゅうSNSへ目を通しているわけではない。一通りの操作などはできるものの、活用しているかと言えば心もとない部分もあるのだ。だからこそのアドバイスだ。

「ああ。SNSは使いようによってはプラスになるからな。上手く使うようにする」

 天馬が真面目な顔で言うと、一成は一瞬沈黙を流す。しかし、それもほんの束の間だ。すぐに「そだね」とうなずいた。心からの声が形になったのだとわかるような、しみじみした響きだった。
 明確に言葉へしたわけでもないし、具体的な話を口にしてもいない。ただ、二人の頭に浮かんでいるのが同じものであることはお互いに察していた。
 一成はSNSがもたらす恩恵をおおいに受け取っている。しかし、何もかもがプラスになるとは限らない。使い方によっては大きな痛手を被ることもあるし、心無い言葉に傷つけられることもある。
 たとえば、一成が主演を務めた「スカイギャラリー」公演。他でもない一成の様子がおかしくなったのは、SNSでの言葉がきっかけになったものだ。
 あの時夏組や監督は、一成を元気づけるために力を尽くしてくれた。中でも天馬は一成に真っ直ぐ向き合って、心からの言葉を掛けてくれた。同じ舞台に立つ主演だとか準主演だとかを飛び越えて、ただ皇天馬としての素直な言葉を、自分の心の内を、一成に向かって告げてくれたのだ。
 高台から見た青空や、あの時描いた絵。隣同士で舞台に立って迎えた千秋楽の景色。何もかもが光り輝くような、全てがあざやかに彩られていくような光景は、二人の胸にいつまでも刻み込まれている。
 だから、SNSの話を口にした時点で、何を話題にしているのかはすぐに察したのだ。お互いが大切に宝物のように大切にしている記憶。二人ともきっと同じ景色を脳裏に映し出している。

「――うん。SNSは上手く付き合えば、めっちゃプラスになるかんね」

 そっと何かを抱きしめるような笑みを浮かべた一成は、天馬の言葉にうなずく。
 あの時の一成は、SNSの言葉が棘のように突き刺さり、じわじわ毒が染み込んでいくようだった。しかし、それだけではないことは他ならない一成だからよく知っている。SNSの言葉によって勇気づけられたことも、もっと頑張ろうと思えたことも、一度や二度ではない。
 天馬もそれは充分わかっている。だからこそ、SNSを一律に遠ざけるようなことは選ばないのだ。「そうだな」と笑みを浮かべて答えると、一成は一転して明るい笑顔を浮かべた。

「でも、炎上とかはマジで気をつけないとだけどねん。あ、テンテンがそんな迂闊なことしないっていうのはよくわかってるけど!」

 良くも悪くも、SNSというのは拡散性が高い。特に何かしらの感情が増幅されやすいのだ。
 プラスの感情ならば大きな利益を生むけれど、その逆となれば徹底的に攻撃される可能性がある。だからこそ、SNSでの振る舞いには気をつけなければならないのだけれど。

「テンテン、どこ切り取ってもだめなとこないかんね。芸能人皇天馬的にはどうかってとこもあるけど、そういうのって全部テンテンのチャームポイントだし!」

 方向音痴だとか野菜嫌いだとか、かっこいいイケメン役者としての皇天馬像を裏切る面がないわけではない。ただ、それは天馬の価値を貶めることにはならないと一成はきっぱり言う。
 天馬としては、ブランディングイメージというものがあるので、簡単に「そうだな」とは言えないものの、一成の言葉は素直に嬉しかった。だめなところも、ちょっとばかりかっこ悪いところも、一成はむしろプラスだと言ってくれるのだから。

「素直じゃないとこもあるけど、オレはそういうとこ好きだし――。それに、テンテンはいつも真面目で、どんなことも真剣に向き合ってくれるからさ。性格的に炎上はしないと思うよん!」

 朗らかに一成は言う。天馬の持つ誠実さなら、カンパニーの誰もがよく知っている。実は裏表があるだとか、知られたら軽蔑される面があるとか、そんなことは一切ないのだ。
 取り繕う必要はなく、ただ天馬が天馬であるだけでいいのだから、自然体でいれば炎上することはないというのが一成の弁だった。
 念のため、ということで一通りの炎上対策としてある程度の注意事項は一成も伝えている。具体的な事例を踏まえながら、「こういうところ気をつけたらいいよん!」とアドバイスしているし、実際の投稿時に内容をチェックしたこともある。
 天馬は知らないことを素直に聞く性質なので、一成の言葉に「なるほどな」とうなずいていた。すぐに飲み込んだので、SNSの運用が順調に進んでいることは、一成にも周知の事実だ。

「――だからさ、あとはスキャンダルに気をつけないとだねん」

 笑みを浮かべて、一成が言った。天馬の性格上炎上はしてなくても、芸能人としてのスキャンダルが発覚すれば話は別だ。燃料となってSNS全体に燃え広がっていく可能性はあるから、真っ当な指摘と言えるだろう。
 しかし、そう言う一成の雰囲気が変わったことに天馬は気づいている。嬉しそうな、楽しそうな、イタズラっぽい表情。いつも見る、天馬をからかう時の空気に似ていた。しかし、浮かぶ笑みはもっと違う色をしている。
 普段の明るくてぴかぴかしたものではない。もっとやわらかくて、あざやかに色づいていくような。まとう雰囲気が、漂う空気が甘やかに染まっていくような。その意味を天馬は知っている。

「スキャンダルに心当たりあるっしょ?」

 隣に座る一成が、そっと距離を詰めた。ぴたりと体を寄せると、楽しそうにささやく。
 声は弾んで、まるで無邪気な子供ようだけれど、漂う雰囲気はもっと違う色をしている。天馬を見つめる瞳も、きらきらとしたまばゆさではなくとろりとした蜜のような揺らめきを宿していた。
 何の話をしているのか、一成が言いたいことは何なのか、今何を求めているのか。言葉にしなくても天馬にはわかったし、自分が選ぶ行動は一つだけだと理解していた。
 天馬は一成に向き直ると、ゆっくり手を伸ばした。一成の頬に手のひらを滑らせる。なめらかな肌の感触を確かめるように撫でたあと、ぴたりと手を止める。それが合図だとでも言うように、一成がゆるゆると目を閉じた。
 心臓が否応なく高鳴っていく。何度経験しても、いつだって初めてのような気持ちになるのだ。天馬はドキドキと鳴る心臓を感じながら、そっと顔を近づける。真っ直ぐ向かう心を伝えるように、そっとキスを落とした。
 やわらかな感触を味わって、ゆっくり離れる。手を外すのと同時に、一成はぱっと目を開ける。大きな緑色の瞳が天馬を見つめていて、きれいだな、と思う。その輝きを見つめながら、天馬は言う。

「心当たりはあるが、ここなら気にしなくていいだろ」

 201号室には二人しかいないから、人目を気にする必要がない。秘密が漏れる心配もないし、寮内で他の人に目撃されていたたまれない気持ちになることもないのだ。だから、この部屋なら何も気にしなくてよかった。
 一成は天馬の言葉に「そだね」と笑った。軽やかでいながら、確かな色を宿す表情に天馬の心臓がドキリと鳴る。
 普段の一成によく似ていて、自分だけにしか見せない顔だと知っていた。きれいで、かわいくて、目が離せない。思わず見惚れていると、一成が動いた。身を乗り出すようにして、天馬の唇に自分の唇を重ねたのだ。

「テンテン、好き」

 ちゅ、と音を立てて離れるのと同時に、一成が言う。白い歯をこぼして、照れくさそうに頬を染めて。
 薔薇色の頬があんまりあざやかで、天馬の胸の奥まで色づいていく。告げられた言葉が何度もリフレインして、さっき離れていった感触が恋しくて、天馬はほとんど衝動で動いた。
 一成の唇に、もう一度キスを落とす。少し湿った感触がして、やわらかな吐息を感じるのがくすぐったい。あふれる気持ちを注ぎ込むように、丹念に唇を味わって離れる。すると、すぐに一成が隙間を埋めるように再び唇を重ねた。天馬だって、拒むつもりはない。二人はソファの上で、何度もキスを繰り返した。
 心の内を伝えるように、互いの気持ちを交換し合うように、唇を重ねる時間に酔いしれる。このままいくらでも、互いの体温を感じ合うことはできただろう。ただ、机の上に置いた一成のスマートフォンが振動して、二人は我に返った。
 いくらここには天馬と一成しかいないとはいえ、厳密にいえば決して二人だけの部屋ではない。いずれ幸は帰ってくるだろうし、それ以外でも誰かが訪れる可能性はあるのだ。理性と常識は一応ちゃんと残っていたので、名残惜しく思いながらも二人は体を離した。
 それでも、くっついていたい気持ちは同じだったから、手をつないで隣同士で座っている。

「――何か連絡があったんじゃないのか」
「平気! アプリの通知だったよん」

 スマートフォンの振動を指して尋ねると、一成は軽やかに答える。実際、ちらりと画面を見ただけで返事をするようなことはしていないので、通知というのは間違いではないのだろうと天馬は思った。

「ニュースアプリの通知でさ。芸能ニュースもちらほらあったよん。テンテン、オレとの話出たら絶対ここに載るっしょ」
「まあ、それはそうだろうな。確実に騒がれるだろ」
「さすがテンテン~!」

 天馬にくっついた一成は、冗談めかした調子で言うけれど。決してこれは大げさなものではないし、単なる事実でしかないことは二人ともよくわかっている。

 天馬はれっきとした芸能人であり、売れっ子役者だ。私生活も常に注目されているので、些細なことも話題に上る。
 圧倒的に若い女性から支持を受けていることもあり、恋愛方面の話には特に敏感だ。ちょっとばかり共演したことがある相手との恋愛報道なんてものが、ときどき現れては消えていくくらい、皇天馬の恋愛事情は注目されていると言っていい。
 だから、迂闊に恋人の存在を匂わせることはできない。芸能人として生きているからこそ、当然の結論だった。
 夏組としてのつながりを結んできた天馬と一成。いつの頃からか、お互いのことを他とは違う気持ちで思うようになっていた。どんな人間かを知れば知るほど、自分の中で相手の存在が大きくなっていく。
 友達として、夏組の一人としてだけでは抑えられない感情があふれて、こぼれだす。結果として、二人は互いの気持ちを確かめあって恋人という関係になった。
 しかしこれは、芸能人皇天馬として、決して知られてはいけない関係だとわかっている。
 ひとたび情報が広まれば、瞬く間に取り上げられるだろうし、好意的にとらえられるかはわからない。むしろ、嫌悪の声や心無い言葉が向けられる可能性はある。下卑た好奇心によって、あらゆる全てが消費されていくことは想像に難くなかった。
 だから一成は二人の関係を「スキャンダル」と言ったのだ。
 何一つ、胸を張れないことはしていないと誓える。天馬は一成のことを心から大切に思っているし、軽い気持ちで新しい関係を結んだわけではない。一成だって同じ気持ちでいることを天馬は一つだって疑わない。心の全てで、真剣に天馬のことを思って手を取ることを選んでくれた。
 しかし、世間はそう思わないだろう。もちろん応援してくれる人もゼロではないだろうけれど、面白おかしく揶揄して娯楽の一端として消費されるのが関の山だ。下品な想像が飛び交って、辛らつな言葉も投げつけられるかもしれない。
 紛れもなく、天馬の恋人関係はスキャンダルになる。自分の影響力の大きさをわかっているからこそ、天馬は誰にもこの関係を口にしなかった。
 カンパニーのメンバーはきっと気づいているだろう。夏組だって、それとなく察しているに違いない。いつか全てを打ち明ける日は、きっと訪れる。カンパニーの誰もが祝福してくれるだろうことは疑っていない。
 しかし、それはまだ今ではないと天馬は思っている。一成にも話はしているから、誰にも言わずに秘密にすることは二人で納得している。ただ、それは何一つ憂いがないことと同義でない。

「外へデートも行けないし、我慢させて悪いな」

 つないだ手に力を込めて、天馬はつぶやく。 
 一成は誰かと一緒に出掛けることが好きだし、デートスポットだって「行ってみたいよねん!」とよく言っていた。しかし、天馬と付き合うようになってからデートらしいデートをしたことはない。夏組として仲の良さは知られているから、二人で出掛けたことがないわけではない。しかし、いかにもデートといったことはできないのが実情だ。
 一成は天馬の言葉に、大きく目を瞬かせた。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった、という顔だ。しかしそれも一瞬で、すぐに明るい笑みを浮かべた。

「全然だいじょぶだよん! テンテンと外でがっつりデートもしてみたいけど、オレはテンテンがいればおけまるだし!」

 無理をしたものではないことは、天馬もわかっている。だって一成だ。どんな状況でも、快いものや楽しいものを見つけるのが上手い。いつだって、美しいものを掲げて見せてくれる。だから一成は、デートらしいデートができなくても心からそう言ってくれる。
 あらためてその事実を受け止めた天馬は、「一成が好きだな」と思う。
 一成の持つやさしさや心根の健やかさが、いつだって傍にいてやわやわと明かりを灯してくれる姿が、天馬に向けられる真っ直ぐの愛情が、三好一成を形作るものたちが好きだ、とあらためて思った。
 だから、もっときちんと言いたかった。
 デートができなくて悪いと思っているのは本心だ。しかし、それだけで全てを塗りつぶしてしまいたくなかった。できないことを数えるのではなく、できることを拾い上げていくのだ。自分の気持ちを形にするのだ。
 素直な思いをちゃんと伝えるのが大事なんてこと、天馬はとっくに知っている。

「オレも一成がいればどこだって嬉しいし、楽しい」

 真っ直ぐ一成の目を見つめて、天馬は言う。握った手から伝わる温もりを感じながら、一成の宝石みたいな目に吸い込まれそうな気持ちになりながら。自分の心をそのまま取り出すように続けた。

「もちろん外でデートできたら楽しいだろうが、こうやって部屋で過ごすのも好きなんだ」

 見慣れた場所で、日常の一部だ。何の特別さもないけれど、ささやかな毎日がよりあざやかに感じられるようで、一つ一つが大切な思い出になっていく。だから部屋で二人きりで過ごす時間も大事だと思っている、と告げる。一成は天馬の言葉に、やさしい笑みでこくりとうなずく。
 そのまなざしに勇気づけられるような気持ちで、天馬は一度深呼吸をしてから口を開いた。一成を真っ直ぐ見つめて、ありったけの思いを込めて。

「それに、部屋なら一成を独り占めできるだろ」

 心からの真剣な言葉で、嘘や偽りはないし冗談でもない。ただ、あらためて言葉にすると照れくさくなってしまって、天馬の頬は赤らむ。
 だってこんなことを思っているなんて、きっと一成は思っていなかった。案の定、ぽかんとした表情を浮かべて天馬を見つめている。その反応に、さらに羞恥が募るけれどここまで来たら最後まで行くまでだ、と腹を決めた天馬は言葉を継いだ。

「恋人の顔してる一成を見られるのは、オレだけだ。でも、外でデートになったら、他のやつの視界に入る。あんまりおおっぴらに見せたくない」

 かっこわるいことを言っている自覚はあった。本当なら、もっと余裕を持っているべきだと思った。しかし、これは紛れもない天馬の本心だ。
 いつでも明るい笑顔を浮かべる一成。しかし、天馬の前では少し違う顔を見せる瞬間がある。
 それは恋人としての表情だとわかっていたし、その顔を見せるのは自分の前だけがよかった。他の誰の目にも触れさせたくない。恋人の顔は、あんなにかわいくてきれいな表情は、自分だけが知っていればよかった。

「一成が好きなんだ。オレだけの一成でいてほしいって思ってる」

 顔を赤く染めて、羞恥を宿しながらもきっぱり天馬は言った。
 予想外でかっこわるい本心だとしても、一成は受け止めてくれる。わかっていても、こんな風に素直に告げたことはなかったから、恥ずかしくてたまらない。頭に血が上るような感覚でいると、一成が動いた。
 突進するような勢いで天馬に抱き着くと、「めっちゃ嬉しい!」と明るい声を弾けさせる。

「オレもだよん! オレだって、こういうテンテン独り占めしたいもん!」

 一成は、きらきらとした輝きを宿した瞳で、薔薇色に頬を染めて言う。
 もちろん一成とて、流行りのデートスポットへ行きたい気持ちもゼロではない。天馬と一緒ならきっと想像していた何倍も楽しめるだろう。しかし、顔を赤くして照れている天馬の姿に、一成の心はどうしようもなく浮き立っていた。

「オレだけに見せてくれる顔があるの、オレだってすげー嬉しい」

 弾む気持ちそのまま形にしたような声で、全身の何もかもであますところなく心を伝えようとするように、一成は言った。
 他の人の前で、天馬はこんな顔を見せない。一成の前だから。一成といるから。だからこそ見せてくれた表情だ。さらに、ここには二人しかいないから、今の天馬を独り占めできるのは自分だけなのだ、と思えば一成の胸は甘くくすぐられるのだ。
 告げられた言葉が心からのものであることを、天馬は理解している。同じ気持ちで一成はいてくれるし、今ここで二人きりで過ごすことの掛け替えのなさを、同じように感じていてくれるのだと素直に思えた。

「二人きりでさ。部屋で何でもない話して、お菓子とか食べながらくっついて。こうやって過ごすのは、オレの特別だよ」

 ふふ、とやわらかな笑みを浮かべた一成は言う。特別な場所に出掛けなくたって、二人でいればきっとどこでも特別な場所だ。日常の一つの風景だって、心はふわふわ舞い上がって空にだって舞い上がれそうになるくらい。
 一成の告げた言葉に、天馬ははにかんで「そうだな」と答えた。ささやかでも、大きなイベントがなくても。自分だけに見せる恋人の顔を独り占めできるのは、贅沢で幸福な時間であることは間違いない。
 今この瞬間がこの上もなく大切なのだと、二人はあらためて噛みしめる。外へデートに行けないことは確かでも、この部屋で過ごす二人きりのデートは特別で、甘い気持ちで満たされていくのだから。
 天馬が一人きりになるタイミングで、一成が部屋を訪れた。もらったお菓子を一番に天馬に食べてほしいと、一成は缶を差し出す。不思議な味を味わって、お互いの話をして写真を撮って、二人で何でもない話をしていた。この瞬間までのことを丹念になぞるように、脳裏には部屋で過ごした光景がよみがえる。
 大事で特別な時間だ。何でもない日々があざやかに色づいていくのだと、天馬が実感していると一成の視線が動いた。机の上にあるお菓子の缶を見ているらしい。ただ、それも数秒だった。一成はすぐに天馬に向き直ると、口を開く。

「ねね、テンテン。カリソンの由来って知ってる?」

 抱きついていた体を離して、わずかに距離を開けると、一成が尋ねる。天馬の目を見つめて真っ直ぐ問いかけられて、天馬は首を振った。

「不思議な響きの言葉だとは思うが、予想がつかないな」
「抱擁っていうのが一番有名なんだけど、それ以外にもいろいろあるんだよねん」

 そう言った一成は、一瞬口をつぐむ。一呼吸置いてから、そっと言葉を重ねた。やわらかな笑顔に確かな色をにじませて、無邪気な子供のようでいて何度も夜を共にした恋人の顔をして。

「あのね、やさしいキスって意味があるんだって」

 だから、と言う一成は天馬の服の裾を引っ張った。その意味がわからない天馬ではない。何を求めているかなんて、一成が望むことなんて。まとう空気のあざやかさに、声音ににじんだ甘やかさに、導かれるように一成の肩に手を添えた。

「きっと今のオレらにぴったりだよねん」

 匂い立つ芳しさを宿す声で紡がれた言葉。天馬は答えるように顔を寄せた。一成の願い通りに、自身の心に従って。心臓を高鳴らせながら、これから訪れる瞬間に胸を弾ませて。今ここで天馬のするべきことはただ一つだけだと知っている。
 誰より大事な、自分だけの顔を見せてくれる恋人へ、とびきりのやさしいキスを。







END