最果てで手をつなぐ
大きく息を吐き出した一成は、胸元の手を移動させた。ポケットを探り、スマートフォンを取り出して時間を確認する。戻ってくるよう言われた時間までは、まだ余裕がある。もう少しここにいられるだろう。
一成の視線は、自然と上へ向かった。頭上を覆う木々は、目の覚めるような緑を宿す。その向こうにはよく晴れた空が広がっている。やわらかな光を宿した青空は、どこまでも澄み切っていた。
ぼんやりとそれを見つめる一成は、高い高い空にたった一人の面影を重ねる。
果てのない高みを目指して、真摯に努力を重ねた姿を知っている。空の向こうまで、どこまでだって高く飛ぼうとしていた。いつだって力強い輝きを宿した、何より大切なたった一人。もうすぐ骨と灰になってしまう、一成の恋人。
空の上ってどんなところかな、と一成はぼんやり思った。これから天馬が行く先は、空の彼方なのだと当たり前のように思っていた。
だって天馬には、それが一番よく似合う。どこまでも果てしなく広がる、青い空。遮るものは一つもなく、高く高く駆け上がっていける。そんな場所が、天馬にはぴったりだ。
(空の上って、どんな景色が見えるんだろうね)
高い空の上には、澄んだ空と力強い太陽が輝いているだろうか。上手く想像はできないけれど、天馬の目にする世界が美しくあればいいと一成は思う。
どんな苦しみも悲しみもなくて、ただ幸福に満たされるような場所であってほしい。だってもう、天馬には一つだって痛い思いなんてしてほしくはないのだ。
(テンテンのことだから、どこにいたってお芝居してるんだろうな)
予想というより、単なる確信だ。どんな場所だって天馬が天馬であるなら、芝居をしているに違いないのだ。どうすれば芝居が良くなるかを考えて、立ち止まることもせずに研鑽を重ねて、ますます演技力に磨きをかけるのだろう。空の果てを飛び越えて、高みを目指す天馬らしい姿だ。
(空高く目指して、本当に空の上まで行っちゃうとかさすがテンテンって感じ?)
くすり、と小さな笑みを浮かべて一成は心の中でつぶやいた。もっともっとと上を目指していくのが天馬だった。果てしない空のように、限りなく高い場所を見据えて真っ直ぐ向かっていくのだ。確かな決意と揺るぎない意志で、空の彼方を目指していた天馬は、もうすぐ空の上へ辿り着く。
(――ちょっと早すぎるよねん)
本当に空の上へ行ってしまうのは、もっと遅くて良かったのに。こんなに早く、誰より早く空の上へ居場所を移してしまうなんてきっと誰も思っていなかっただろう。天馬本人だってそうだ。
もっとずっと、この場所で、同じ世界で、みんな一緒にいられると思ったのに。大地を踏みしめているからこそ、高い空をいつだって目指せたのに。今はもう、天馬は同じ場所にいない。姿を変えて地上に別れを告げて、空の上へと行ってしまう。
(テンテン、幸せだった?)
あざやかに浮かぶ面影に向けて、一成は尋ねた。
一緒に過ごした日々。ほんの些細な偶然が重なって出会った自分たち。夏組として掛け替えのない仲間になって、大事な瞬間をいくつも重ねた。気づけばお互いに惹かれ合って、恋に落ちた。この人だけがたった一人の特別だと、自身の全てが叫んでいた。想いを伝えて、心を交わして、恋人になった。
二人で過ごした時間を、輝くような毎日を思い出す。天馬からの答えなんて、とっくにわかっている。力強い表情で言ってくれる言葉を知っている。だって、一成だってすぐに答えられる。幸せだった?なんて、そんなの。
(オレは幸せだった。どうしようもないくらい、幸せだったよ)
全てが過去になってしまう痛みと、襲いくるような愛おしさがないまぜになりながら、一成は天馬に向かって言葉を紡ぐ。
ねえ、テンテン。テンテンを好きになって、同じように想いを返してもらって、オレの毎日は驚くくらいにあざやかになったんだ。
一成は、何にでも楽しみを見出すことが得意だ。心を躍らせるものならたくさん知っているし、楽しいことならいくらでもあった。夏組やカンパニーに出会う前から、一成の毎日はカラフルに彩られていたと言えるだろう。
だけれど、天馬を好きになってからの日々は、今までと比べ物にならないほどにあざやかだった。
天馬が隣にいるだけで、目が合っただけで、その声で名前を呼ばれるだけで。ほんの些細な瞬間が、こんなにも光を放つのだと一成は毎日思い知っていった。
天馬が好きで、同じように天馬が好きだと言ってくれた。何でもない毎日が、色あざやかに彩られていく。一成が思うよりもっと強く、これまでの日々全てが塗り替えられていく。
楽しみやきれいなものを見つけるのが得意だった。そう思っていたけれど、天馬と過ごした時間は、一成の想像以上のあざやかさを連れてきてくれたのだ。
こんなにも世界は美しいのだと何度だって思い知る。一成の当たり前の日々を、彩り豊かに染め上げる。天馬と出会って恋に落ちた日々は、あまりに美しくて光に満ちていて、特別だった。
思い出すたび、胸がいっぱいになって抱きしめたくなるような日々だ。宝物だと丁寧に手のひらで包み込んでいたいような毎日だ。幸せだったと、胸を張って言える。世界中の美しいものを全部詰め込んだような、幸せな恋だった。
抜けるような青空を見つめて、一成は目を細める。やわらかな光が、辺りには降りそそぐ。立ち並ぶ木々は、瑞々しい緑を宿している。透き通った空に、まばゆいばかりの光と、かぐわしい木立。悲しいくらいにきれいな景色は、旅立つ天馬へのはなむけのように思えた。
全てが光を含んでいるような。胸を震わせる一枚の絵画のような。目の前の光景に、一成はただ素直にきれいだな、と思った。
こんな風に、どこまでも美しい気持ちで、天馬は一成を想っていてくれたのだと知っている。同じように、一成も自分の全てで天馬への愛おしさを形にした。
天馬は照れが先に立つことが多くてあまり素直ではなかったけれど、大事な時には言葉や態度で示すことを忘れない。一成は、自分の気持ちをあふれるように何度も天馬に告げた。心の全てを差し出して、どれほどまでに大事で愛おしいのかと、余す所なく伝えてきた。
天馬も一成も、何一つ惜しむことはなかった。
照れてしまってもためらっても、最後には自身の心を、言葉や行動の全てで降るように相手へ届けたのだ。天馬に愛されたことを、思う限りの精一杯で天馬を愛せたことを、一成はただの事実として理解している。
木々の間から見える青空。美しい場所へ旅立っていく一成の恋人。あの空の彼方で、何より太陽に近い場所で、まばゆい光を抱いた大事な人は、変わらずお芝居をしているのだろう。どこにいたって、天馬ならきっとそうするのだ。
ぼんやり天馬の姿を思い浮かべていると、風が吹いて周りの木々を揺らした。同時に光がちらちら動いて、木漏れ日が揺れる。
一成は地面に落ちる光の斑へ視線を向けた。木漏れ日は小さな太陽だと聞いたことがあったからだろうか。太陽のようなまばゆさと力強さを持った人なんて、一成は一人しか知らない。
空の上にある、大きな太陽は一つきり。だけれど、木漏れ日は小さな光がいくつも地面に踊る。まるで太陽がここまで来てくれたみたいだな、と思う一成の唇は自然と弧を描いた。
(――ああ、テンテンなら、きっとここに来てくれる)
地面に踊る小さな太陽。空の高い所に行ってしまったとして、天馬はきっと地上の自分たちを見ていてくれるだろうと思った。深い愛情を持って、周囲の人間を大事にしてくれる人だ。たとえ空の上へ行ってしまったとしたって、夏組やカンパニーのことを蔑ろにするわけがない。どんな時だってずっと見守っていてくれる。
だからきっと、天馬なら。こんな風に小さな太陽になって、そばに来てくれると思った。
風が吹いた。光が揺れる。一成は頬を撫でる風に、ちらちらと動く光に、きっとこの一つ一つに天馬がいてくれるんじゃないかな、と思う。空の上へ行ってしまう大事な人。だけれど、きっと姿を変えるだけだ。体をなくして、今までとは違ってしまっても、ここまできっと来てくれる。
たとえば太陽の光に、吹く風に、降る雨に。咲き誇る花に、輝く月に、空へ架かる虹に、色づく葉に、舞う雪に。この世界の全てに天馬はいて、いつだって寄り添っていてくれる。
(テンテンはちゃんと、オレたちのところにいてくれる)
しんとした気持ちで、一成は思う。上手な根拠も確かな理屈もなかったけれど、天馬だったらそうしてくれると思えた。
空の彼方へ、自分たちとは違う場所へ天馬は旅立ってしまうけれど。それで終わりになんてならないのだ。だって天馬はやさしくて、面倒見がよくて、夏組はオレがいなくちゃな、なんて笑うのだ。姿を変えて、これまでとは違う形で、いつだってそばにいてくれる。
これはただの祈りなのだと、一成は理解している。だけれど、同じくらいに単なる事実なのだとすんなり思った。一成の体と心の全てが、これが答えだと告げていた。
だからこそ、一成はそっと決意を紡いだ。
テンテンはきっと、いなくならない。目の前から消えてしまっても、二度と笑う顔は見られなくても、温もりに触れられなくても、その声で名前を呼ばれなくても。テンテンはちゃんと、そばにいる。
(だからさ、オレここで生きるよ。やけにならないで、大事なものを大事にしながら、これから先を生きていくよ)
天馬と二度と会うことができない、という現実は一成を容赦なく打ちのめした。悪い夢だと信じたかったし、悲しみや絶望という言葉さえ生ぬるかった。監督からの一報を聞いてからの全てが曖昧で、現実だと信じたくなかった。
誰より愛した人がいなくなる。大好きだと言っても答えはなくて、温もりを分け合うことも、大好きな声で名前を呼ばれることもない。広い背中を抱きしめることも、力強い腕で抱きしめ返されることもない。
唐突に全てが断ち切られて、二度と戻らないという現実は、一成に大きく深い傷を与えた。心がズタズタに引き裂かれて、ぽきりと折れてしまいそうだった。
どんな時だって笑顔の種を見つけてきたけれど、そんなことはとてもできなかった。だって、こんな酷い現実のどこを探したって、何にも見つからない。全てが真っ暗に塗りつぶされて、光なんて欠片も見えなかった。
天馬がいない。喉が壊れるまで呼んだって、答えてくれない。血が出るまで歩き回っても、どうしたって会うことはできない。この世界のどこにも、天馬はいない。――それなら、オレが生きている意味なんてあるのかな。
うつろな思考で、一成はごく自然に思った。
たった一人。人生を懸けて大事にするのはこの人だと、当たり前のように理解した。この人と心を分かち合うために生まれてきたのだと知っていた。
他の誰とも違っている。どうしようもなく特別な、たった一人をなくして生きていく意味が、一成にはわからなかった。
後を追うことを、何度も考えた。曖昧な思考の中で、それだけははっきりしていた。天馬のいない世界で生きていたくなかった。何もかもを捨てて、自分で自分を終わらせてしまおうかと思った。
だけれど結局それを選ばなかったのは、そんなことをすれば天馬が怒るとわかっていたし、一成を必死でつなぎ止めようとしてくれていた人たちがいたからだ。
夏組。カンパニー。家族。友人。一成の危うさを、恐らく誰もが察していた。だから、決して一成を一人にさせなかったし、どんな時も近くにいた。手を取って寄り添って、ずっとずっとそばで支えてくれた。
そうやってつなぎとめてくれる人たちの存在に、一成はおぼろげながら思った。
もしも一成が後を追ってしまえば、今度は一成が決して消えない傷を残す。ギリギリの思考回路で、それは嫌だなぁ、と思った。オレとおんなじ気持ち、させたくないなぁ。
そう思うのと同時に、一成は理解していたのだ。後を追うなんて、何より天馬が望むはずがないなんてこと。まばゆいほどの強さで、生きろと言うなんてこと。
一成が「テンテンのところに行きたい」と言えば、きっと天馬は「わかってる」と答えてくれる。一成の気持ちを受け止めて、うなずいてくれるだろう。だけれど、一成の選択にノーと言うのだ。
だって天馬は、真っ直ぐ一成の強さを信じてくれる。一緒にいられないことを悲しんでくれるのは嬉しい、一緒にいられたらオレだって嬉しいけどな、なんて笑ってから。天馬がいない世界でも一成は生きていけると、当たり前みたいに信じてくれる。
悲しいくらい鮮明に、一成には天馬の答えがわかっていた。だから、一成はどうにか踏みとどまった。自分で自分を終わりにせず、天馬を空の上へと送り出した。
そうして今、一成はすとんと理解した。木漏れ日を受け止めて、すぐそばにある小さな太陽に、ああ、そうか、と唐突に思い知った。
体をなくした天馬は空へと昇り、姿を変えて寄り添ってくれるのだ。だって天馬は、一成の愛した人は、強くてやさしい。一人にして終わりになんてしないのだ。真っ直ぐ向けられる愛情は、簡単になくなったりしないのだ。どんな形になっても、きっとずっとそばにいてくれる。
降る光に、頬を撫でる風に、世界中のあちこちに、きっと天馬はいる。そう思えば、これから先を生きていく決意が静かに形になっていく。
だって、天馬は終わりにせず生きていく強さが一成にはあると、信じてくれる。天馬は決していなくならず、ちゃんとそばにいてくれる。だから、それなら。
(笑うことを忘れないで、絵もいっぱい描いて、お芝居もたくさんやって、デザインもめっちゃ作って、テンテンに話したいことをたくさん集めて、めいっぱい生きるよ)
自分の命が尽きるその日まで、大事な人たちと一緒に、天馬のいない世界を、これからも生きていこうと一成は思う。それが、天馬の信じた一成で、天馬の愛した一成だ。
永遠の喪失は、これから先二度と戻ることはない。一成の心の一部は天馬と一緒に空の上へと旅立って、決して帰ってはこない。永遠に失ったものを抱え続けるしかないとわかっている。それでも、一成は生きるのだ。
天馬と二度と会えないことが、苦しくて仕方ない日が来ても、悲しくて辛くて、何もかもを投げ出したくなる日が来ても。
それでも、一成は信じる。
澄み切った青空に、辺りを照らす光に、頬を撫でる風に。客席から贈られる拍手に、幕が上がる瞬間の鼓動に、千秋楽のスポットライトに。降りしきる雨に、こうこうと照る月に、大きくてあざやかな虹に。
筆を置く最初の瞬間に、頭の中に描いたものを形にできたときに、出来上がった作品を見た人の目の輝きに。春のほころぶ花びらに、夏の夜空に輝く星に、秋の深まる夕暮れに、冬の澄んだ空気に。
最高の一瞬を切り取った写真に、何でもないありふれた瞬間に、一緒に過ごす掛け替えのない時間に、大好きな人たちの隣で感じる温もりに、笑いあう日々に。
これから先の人生のあらゆる瞬間に、天馬はいてくれるのだと。姿を変えて、ずっと近くで生きてくれるのだと。辛くても、苦しくても、全てが嫌になっても、悲しくても、一成は信じる。
静かな決意を握りしめて、一成はそっと手を動かす。手のひらで木漏れ日を受け取った。ゆるやかに吹く風と同時に光が揺れて、一成の手のひらで小さな太陽が躍る。一成はゆっくりと手を握った。
天馬の欠片を集めるような気持ちで、そっとやわらかく包み込む。温もりはささやかで、ほとんど温度は感じられない。当然のことだとわかっていたけれど、あらためてその事実を思い知った一成は、天馬に向けて言葉を掛ける。
これから先も、一成は生きていく。天馬のいない世界で、天馬の息遣いをあちこちに感じて、天馬と寄り添いながら生きていく。それでも、どうしたって足りない。隣で感じる温もりが、包み込むみたいに大きな手が、恋しくて仕方なくなる日は来るのだ。
わかっているから、一成は言う。そっと目を閉じて、大事な人を思い浮かべながら。青空とまばゆい光がよく似合う、一成の大事な人に向けて。やがて来るいつかを描いて、祈るように、愛の言葉を告げるように。
ねえ、テンテン。いつかまた出会えたら、その時は手をつないでね。
END
「ありふれた人生を 紅く色付ける様な たおやかな恋でした」
―初音ミク「サイハテ」(小林オニキス)