アンラッキー・ハッピーデイ
一成はあまり、夢らしい夢を見ない。ただ、それは物語性のある夢を見ることが少ないだけで、まったく何も見ないわけではない。
カラフルな色彩に満たされた世界を訪れたり、きらきらとした輝きに包まれたり、具体的なストーリーが展開されない夢を見ることが多かった。
案の定、仮眠している一成は、ふわふわとした雲の上を歩く夢を見ていた。
一歩進むたび、やわらかな感触が跳ね返る。辺りにはただ雲だけがあって、一成以外の登場人物はいない。見上げた空は晴れでも曇りでもなく、ただまろやかな光を放つ。
何もかもの輪郭は淡く、やわらかい。全ては静かに、やさしくたたずんでいる。いつも一成がまとっているにぎやさかはかけらもなかったけれど、落ち着いた気持ちで雲の上を歩く。
ふわふわした感触。淡い光。やさしい静けさ。心地いい空間をたゆたうように、一成は夢を見ている。
しかし、しばらくして夢は少しずつぼやけていった。完全に寝入ったわけではないからだろう。誰かが部屋へ入ってきた気配を、敏感に察知したのだ。
まだ夢の世界から抜けきらない状態で、一成はぼんやりと思う。足音がする。むっくんじゃない。起きなくちゃ。
ただ、気持ちとは裏腹に体はまだ眠っている。ぴくりとも動かなかったし、まぶたも開かない。まどろみの中で、思考だけが少しずつ覚醒していく。
誰だろ。用があるのかな。思っている間に、気配はゆっくり近づいてくる。
誰かが立っている。ふわりと空気が動く。距離が近くなった。きっとオレに用がある。起きなくちゃ。思いながらも、体はやはり動かない。まぶたを閉じたまま、人の気配をぼんやりと感じている。
長い時間が経ったのか、それともほんの短い時間だったのか。空気が動いた、と思った次の瞬間。ふわり、としたあたたかさが頬に触れた。
手のひらだ、とわかった。大きな手のひらが頬をそっと包み、じんわりとした温みが広がる。あったかい。気持ちいい。ぼんやり思っている間に、手はゆっくり離れる。
それから、ためらうような間が空いたあと、再び手のひらが触れたのは頭上だった。恐る恐るといった風情で、壊さないよう細心の注意を払うみたいに。大切なものに触れる手つきで、一成の頭をひそやかに撫でた。
やさしい手のひら。あたたかな体温。目は開いていなくても、はっきりと確認できなくても、誰なのかなんて考えるまでもなかった。
こんな風に自分に触れる人なんて。戸惑いながら、それでいて宝物みたいに触れてくれる人なんて。たった一人しか知らない。
「……一成?」
そっとこぼされた声に、一成はぱちりと目を開けた。
瞬間飛び込むのは、やわらかな笑みを口元に浮かべた天馬の顔だ。いつものはつらつとした笑顔ではない。
太陽みたいなまばゆさと強い光ではなく、抱きしめて包み込むようなやさしい光をまとっている。愛おしさを形にしたらきっとこうなるのだ、と思えるような表情を浮かべていた。
一成は真っ直ぐ天馬を見つめた。至近距離で一成の頭を撫でていた天馬とは、当然ばちりと目が合う。
天馬は呆気に取られたように一成の顔を見つめて、数秒固まっていた。しかし、すぐ我に返ったらしい。慌てた素振りで手を放し、勢いよく叫んだ。
「起きてたのか!?」
「今起きた!」
言いながら、一成は横になった姿勢から跳ね起きる。眠気はすでにかけらもない。それどころか、胸が弾んで仕方なくて、部屋中を駆け回りたい気持ちだった。
「ねね、今頭撫でてくれたよね!?」
しゃがみこんだままの天馬に、一成はにじり寄る。きらきらとしたまなざしで、喜色満面といった表情で。天馬は「う」と一声発して、気まずそうに視線をさまよわせる。
一成が眠っていると思って、天馬は頬に触れて頭を撫でたのだろう。だから、まさか一成本人にバレるとは思っていなかった。こんな風に、当人の口からあらためて事実を直視させられるなんて。
ただ、決定的な瞬間はばっちり目撃されていることも理解していた。今さら言い逃れもできるはずがないのだ。天馬は恥ずかしそうな雰囲気を漂わせつつも、さまよっていた視線を上げる。一成を真っ直ぐ見つめて答えた。
「ああ。その、眠ってるところ悪かった」
真剣な表情で告げられた言葉に、一成はぱちり、と目を瞬かせる。それから、ふにゃりと笑みを広げて言った。
「なんで謝るの」
心から一成は告げる。きっと天馬は、本人の許可なく触れたことを悪いと思っているのだろう、ということはわかったけれど。謝罪する必要なんて、かけらだってないのだ。
「オレ、めちゃくちゃ嬉しかったよ。むしろ、もっと触ってほしいくらいだもん」
こぼれだしそうな微笑をたたえて、一成は言う。いつも浮かべる、ぴかぴかした笑顔ではない。胸の内から湧き出るような愛おしさが、ただ降りそそぐような。天馬の心を受け止めて、そっと抱きしめていようとするような。そういう笑顔だ。
天馬はそんな一成をじっと見つめてから、ふっと唇をゆるめた。一成の言葉が心からのものであることくらい、すぐにわかったのだろう。「そうか」と答える声はやわらかくて、一成の耳をやさしくくすぐった。
いつもの天馬とは違う、声の響き。まとう空気も、夏組としてのものとは違っている。
どこか甘さを感じさせるようで、一成の胸はどうしようもなく高鳴った。恋人としての天馬が目の前にいてくれるのだ、とわかったから。
「てか、テンテン仕事じゃなかったっけ?」
ふわふわとした気持ちのまま、一成は尋ねた。仕事は長引きそうだったし、まだこの時間には帰ってこないはず、と思っていた天馬が目の前にいるのだから、もっともな疑問だろう。
天馬は一成の言葉に、数秒黙った。ためらうような沈黙を流すけれど、ゆっくり口を開く。何かを決意するような表情で。
「急いで終わらせてきた。――その、デートはできなかったが、早く会いたかったんだ」
恥ずかしそうではあるものの、声はしっかり届いた。告げられた答えに、一成の胸はきゅんと高鳴る。
手を抜くような人間ではないので、持っているものを全力以上で出し切って、予定よりも早く仕事を終わらせてきたのだろう、と察する。
その原動力が自分である、ということを知るのはくすぐったくて照れくさくて、胸が弾んで仕方なかった。
「ううん。仕事頑張ってるテンテンも好きだし、それに、早く帰ってきてくれて嬉しい」
自然とこぼれる笑みを唇に乗せて、一成は答えた。早く会いたいと思っていてくれたことが嬉しい。実際にこうして、きちんと会いに来てくれたことが嬉しい。天馬の行動の全てが、一成にとっての喜びだった。
一成の言葉を受け取った天馬は、こくりとうなずいてから真剣な表情で告げた。
「今日の埋め合わせは必ずする。行く予定だったカフェ以外にも、行きたいところがあれば言ってくれ」
「ありがと! でも、テンテンと一緒なら、どこだって嬉しいよん」
おどけるような言葉ではあったけれど、これは至って純粋な一成の本心だ。天馬がいるなら、どこだって世界一の場所になることくらい、一成はよくわかっている。
天馬は一成の答えに、苦笑めいたものを浮かべて言った。
「それじゃリクエストにならないだろ」
「まね~。でも、めっちゃ本音だし!」
軽やかな調子で答えた一成は、天馬の隣に座り直した。天馬も、数秒考えてから体勢を立て直して、ラグの上へ座った。隣同士、ぴたりと寄り添うように。
肩が触れ合って、お互いの熱を感じている。夏組としてもパーソナルスペースは狭いから、こんな風にくっついていているのは、珍しいことではない。ただ、今隣にある温もりは、いつもと違う意味を持っているのだと、二人は充分理解していた。
隣同士の体温を噛みしめるように、しばらくの間沈黙が流れる。何も言わなくても、満たされる。おだやかで、やわらかな無音に身を浸したあと、ゆっくり口を開いたのは天馬だった。
「一成、無理はしてないか。疲れが溜まってるんじゃないだろうな」
心配そうに尋ねたのは、一成が横になっていたからだろう。もしや具合でも悪いのではないか、と思っていることは察したので、明るい声で答える。
「大丈夫だよん! ちょっと眠くなっちゃって寝てただけだし!」
一成は軽い口調で、昨日ちょっと夜更かししていた、ということを告げる。それから、冗談めいた響きで「しかもアラーム鳴らなくて、めっちゃ慌てた!」と続けた。
「そういえば、何かバタバタしてたな」
「そそ。テンテンにもあんまり挨拶できなかったし、今日なんかついてなかったんだよね~」
しみじみとした口調で、一成は今日の出来事を語る。寝坊しただけではなく、目当ての電車に乗れなかったこと。パソコンがフリーズして書いていたレポートが消えたこと。
期間限定のプリンが目の前で売り切れただとか、帰り道は突然の雨に降られただとか、エピソードには事欠かなかった。
決して快いと言える話ではないけれど、天馬への話題提供になると思えば、悪いことではないように思えた。
天馬は驚いたような顔で「そんなにいろいろ重なることがあるんだな」と感想を伝えてくれる。笑ったりすることなく、きちんと受け止めてくれる、という事実に「テンテンだなぁ」と一成は思う。
一つ一つは些細なことだし、何でもないと言ってしまうこともできるけれど。天馬は一成の言葉を蔑ろにすることなく、いつだって真っ直ぐ受け取ってくれるのだ。
そんなところが好きだなぁ、と思いながら、一成はさらに言葉を重ねる。
「うん。そんでちょっとついてないな~って思ってたらさ。デートできなくなって、めっちゃしょんぼりしちゃった!」
今日という日の一番の目玉は天馬とのデートだったのだ。それなのに、急きょ入った仕事で流れてしまったのは、一成を最大限まで落ち込ませた。
伝えられた言葉に、天馬は明らかに申し訳なさそうな表情を浮かべるので。一成は、やわらかなものを抱きしめるような笑顔で答えた。
「でも、楽しいことは見つけられたから大丈夫だよん!」
心から楽しみにしていたからこそ、予定がキャンセルになってしまったことにしょげてしまった。だけれど、そのまま悲しい気持ちでいたわけではない、ということを伝えたくて一成は天馬に告げる。
凹んだり落ち込んだり、気分が塞いでしまう日のために、一成が用意していること。お気に入りのお菓子の缶に入れた、取って置きをたくさん集めたある種のイベントについて一成は説明する。
心が弾む出来事や、幸せになれる行動を、一成はいくつも集める。笑顔になれる用意をして、気持ちを上向きにさせるための仕組みを作る。自分を幸せにする方法はたくさん知っているから、いつだって笑顔の準備は万端なのだ。
結果として、今回は特別な紅茶でティーパーティーをすることにしたのだ、と告げる。
「いろいろ準備したんだよん。むっくんも明日には帰ってくるし、一緒に飾り付けとかする予定!」
明日の楽しみを想像して、一成は満面の笑みを浮かべる。落ち込んだことも事実ではあるけれど、楽しいことが待っていると思えばわくわくするし、あのお菓子の缶には笑顔の種がたくさん詰まっているのだ。
きらきらとした笑顔で告げられる言葉を、天馬はまぶしそうな表情で見つめていた。
決して虚勢を張っているわけではなく、心から一成が言っているのだとわかっていた。無理して笑っているのではなく、楽しみで満たされた心から自然と笑顔がこぼれるのだ。
その事実を目の当たりにした天馬は、つくづくといった調子で口を開く。
「お前の、そういうところがすごいなって思うし、その――好きだなって思う」
最後の言葉はおおいに照れながら、天馬は言う。
実際、天馬は一成の笑顔でいようと努力できるところを尊敬していたし、好ましく思っていた。
時として、無理に笑おうとする弱さになることもあるけれど、夏組として共に過ごした時間が告げている。笑顔でいようとすることは、一成の限りないやさしさと、強さの証なのだと。
苦しい時や悲しい時はもちろん、落ち込んでいる時や沈み込んだ時だって、一成は笑顔でいようとしてくれる。それに何度も救われてきたことを天馬は知っている。
そして今、あらためて知ったのだ。
ついてない、なんて出来事が重なって凹んでしまったって、一成はそのまま腐ってしまうようなことはしない。自分の機嫌を取って、幸せになるための方法を考えて、笑っていようとする。
そういう努力のできる恋人を天馬はいじらしいと思うし、心底尊敬する。何より、そんな風に笑ってくれる一成を大事にしたくて、好きだと思うのだ。
一成は天馬の言葉に、意外そうな表情を浮かべる。そんなことを言われると思っていなかったので、大きな目を丸くしてしまう。ただ、すぐにやわらかな笑みを広げて答えた。
「ありがと」
天馬の言葉が嬉しくて、くすぐったい。雲の上を歩くようなふわふわとした気持ちのまま、一成は言葉を続ける。胸の奥からあふれる感情が、声になってこぼれていく。
「ついてないな~って思ったけどさ。全然そんなことなかったよねん」
今日は朝からついてない、と一成は思った。寝坊はするし、電車には乗り遅れるし、書いていたレポートは消えるし、期間限定のプリンは買えないし、雨には降られるし、天馬とのデートはなしになるし。
今日は厄日だ、と確かに思ったのだけれど、そんなことはないと一成は首を振る。
「だって、テンテンが早く会いたいって思ってくれて、マジでソッコー会いに来てくれたし。頭とか撫でてくれたし。好きって言ってくれて、今隣にいてくれるし」
一つ一つを数え上げれば、天馬は嬉しそうな、はにかむような表情を浮かべて一成の言葉を聞いてくれる。天馬に連なる出来事は、みんな一成にとっての喜びなのだ、ということが伝わったのだろう。
ちゃんと届いていることや、天馬が笑ってくれることに嬉しくなりながら、一成は言う。ついてないと思った今日という日を思い起こして、それでも胸に宿る確かな気持ちを、たった一つの事実を伝える。
「テンテンがいてくれたら、それだけで、逆転ウルトラ大ハッピーなんだよ」
END