ゼラニウムの咲く庭で




 談話室に残っているのは、寮内にいる冬組と監督、春組の至とシトロンだ。他のメンバーはひとまず今日は自室へ戻って休むよう伝えた。部屋に戻っても眠れるわけがないし、この状況で休んでいられないとは言われたけれど、そこは紬の意志を察した冬組の協力もあり、どうにか部屋へ戻ってもらった。
 ただ、夏組はどうしても首を縦に振らなかったので、少しだけ談話室を借りたいと言って、この場を離れてもらう了承を得た。3人は今、201号室で一緒に天馬たちの帰りを待っている。
 談話室に残った顔ぶれを、紬は改めて見渡した。これから残酷な事実を伝えなければならない相手だ。心やさしい人たちだから、ひどく傷つくことになるだろう。それでも、紬はこの人たちなら、と信じている。左京が紬を信用してくれたように。傷ついても、苦しくても、それでも。

「椅子に座って――なるべく落ち着ける体勢で聞いてください」

 静かな調子で、ゆっくりと紬は言った。酷い話を告げなくてはならない。紛うことなく心を傷つける。わかっていても言わなくてはならない。これは俺の役目だから。だけれど、それでもせめて、どうか少しでもその痛みがやわらぎますように、と紬は願う。
 紬の言葉に、談話室へ集った面々は戸惑ったように椅子へ腰を下ろした。スマートフォンを握り締めるものもいれば、自分の拳を握るもの、隣同士で寄り添うように座るものもいた。
 左京からの電話を受けた紬の様子で、恐らく大よそのことを察しているだろう。良い知らせであれば、すぐにでも口にするはずなのに、何も言わずにこうして人を選んで談話室へ集めている。その事実だけで、きっと何が起きたのか予想することは難しくない。
 それでも、誰も決定的なことを言わなければまだ事実にはならなくて済んでいた。だけれど、紬は言わなくてはならない。
 静かに深呼吸をすると、紬は口を開いた。なるべく丁寧に、静かに、落ち着いた声で。

「カズくんの遺体が見つかったと、連絡がありました」

 言葉が形になった瞬間、談話室には痛いほどの静寂が訪れた。誰も何も言わない。身じろぎする音も、呼吸する音すらしなかった。何もかもが動きを止める。世界がみんな、一旦壊れてしまったみたいに。
 誰も何も言えなかった。薄々予感はしていたのだ。左京からの電話。受け取った紬の様子。誰がどう見ても悪い知らせだとしか思えなかった。
 それでもどこかで願っていた。
 一成は帰ってくる。いつもみたいな明るい笑顔で、ちょっとだけ困ったように。「心配かけてめんご~」なんて言って。左京に叱られて、夏組からも怒られて、罰掃除なんかをさせられて。それすらも何だか楽しそうなゲームみたいにして。笑って帰ってきてくれるんじゃないかと、思っていたのに。

「そんな――嘘だろう、紬くん! 嘘だと言ってくれ」

 横たわる静寂に響いたのは、痛切な誉の声だった。揺らいだ目をして紬を見つめている。しかし、紬は首を振るしかできない。この事実は覆らない。一成は死んでしまった。遺体で発見された。
 誉はただ呆然とした調子で「そんな……」と言葉をこぼした。遺体が見つかった、だなんて。そんなこと、信じられるわけがない。だってそれは、つまり、一成が世界のどこにもいないということだ。
 同じように動揺を浮かべているのはガイだった。明らかな困惑を宿していて、何かの間違いではないかといった表情を浮かべている。
 一成という人間のことは、誰もがみんなよく知っている。
 明るくてやさしくて、誰かを傷つけることを厭う人間だ。暴力とはまるで縁のない世界で生きていて、命の危険なんて微塵も感じず過ごしているはずだった。血も暴力も、薄暗い世界なんて何一つ知らないまま生きていてくれるはずなのに。それなのに、どうして。あんなにもまぶしく笑う彼が、命を奪われるなんて。

「――くそ」

 押し殺したような声とともに、鈍い音がした。丞が握った拳を机に叩きつけていた。
 一成の遺体が見つかった。死んでしまった。その酷い現実が、何も力になれなかった自分が、どうしたって許せないのだ。できることはきっともっとあったはずなのに。一成を守るはずだったのに、結局そんなことはできなくて、一成は死んでしまった。
 紬はぐっと唇を噛んで、談話室に残ったメンバーへ視線を向けた。
 監督は今にも泣きそうな表情を浮かべているけれど、気丈に唇を結んでいる。きっと、今ここで泣き出すわけにはいかないと思っているのだろう。
 その隣、寄り添うように座っている東は無表情とも言える顔でじっと前を見つめていた。いっそ作り物めいたその顔からは、一切の感情がそぎ落とされてしまったようだった。
 ずっとスマートフォンを握りしめていた至は、血の気の引いた顔をしていた。元々白い顔がいっそう白くなり、瞳が不安定に揺れている。「うそでしょ……」とつぶやく声は震えていて、そのまま倒れてしまいそうだった。

「カズ……」

 ぽつりとつぶやいたのはシトロンだった。怖いくらいに粛然とした響きに、紬はとっさに視線を動かす。シトロンはゆっくりと目を閉じていた。何かを祈るみたいに、大事な人を思い浮かべるように。心の全てをたった一人へ向かわせるように、静かに静かに目を閉じる。
 それぞれから伝わるのは、どうしようもないほどの悲しみであり、混乱や憤り、傷ついた心の欠片だ。一成が死んでしまった。その事実はあまりにも残酷で、彼らの反応は痛いほどよくわかる。だけれど。

「いずれ知ることになると思うのでお伝えします。カズくんは、通り魔事件の犯人によって殺された可能性が高いそうです」

 紬の言葉に、談話室のメンバーは弾かれたように視線を向けた。恐怖さえ感じるようなまなざしに、紬の心は激しく揺れる。
 本当は、今ここで一緒に一成の死を悲しみたかった。酷い現実に憤って、泣いて、どうしてと苦しい思いを共有したかった。だけれど、今ここにいる自分たちがすべきことは、共に嘆くことではない。
 紬は淡々と、左京から伝えられた言葉を口にした。全身を刺されて血まみれで事切れていたこと。事故の類ではなく、明らかに人の手によって命を奪われたこと。
 一つ一つを伝えるたび、談話室の空気は重苦しく沈痛になっていく。
 一成が死んでしまった。その事実だけで打ちのめされてしまいそうなのに、告げられる言葉はさらに残酷な現実を突きつける。
 やさしくて、誰の心も傷つけまいとする強さを持っていた。そんな彼が暴力によって命を奪われた。一成の罪なんて一つもなかったのに。ただ偶然その場に居合わせた。それだけで巻き込まれて、命を落とした。理不尽な現実がのしかかって、心も体もバラバラになってしまいそうだった。
 打ちひしがれたような談話室のメンバーを、紬は見つめる。
 悲しみを、苦しみを抱えた彼らにこれ以上の言葉を告げるのは、追い打ちをかけるだけなのかもしれない。あまりの重さに抱えきれず、悲鳴を上げて崩れ落ちてしまうかもしれない。その可能性は決してゼロではないとわかっている。だけれど、同じくらいに紬は思っていた。

「今、この話を知っているのは左京さんたちと、俺たちだけです。でも、いずれみんなにも伝えなくてはいけない」

 みんな、というのは一旦部屋に帰したカンパニーのメンバーだ。大切なMANKAIカンパニーの一員である一成のことを、このまま黙っておくわけにはいかない。いくら辛い現実だと言っても、いずれきちんと話をしなくてはならない。その事実に、談話室のメンバーの顔色が変わった。
 恐らく、紬がどうしてこの顔ぶれをここへ残したのか理解したからだ。今はまだ限られた人間にしか知らされていない事実を、いずれ話す時が来る。その時に取るべき行動は、自分たちがすべきことは。

「大切なカンパニーの一員です。きっと受け止めてくれるとは思います。だけど、みんなの心を守るのは俺たちの役目です」

 年下の団員たちだからといって、彼らが弱いとは誰も思っていない。時には大人の自分たちよりもよっぽど強くて、しなやかに壁を乗り越えていく姿を知っている。
 それでも、彼らは学生や未成年で、自分たちが守る対象だ。これから先の未来に向かって健やかに成長していく彼らの心を、子どもとしての領分を守るのは、間違いなく大人である自分たちの為すべきことだ。

「やるべきことがあります。だから、今みんなに伝えました」

 きっぱりと紬は言う。
 心やさしい、目の前の人たち。彼らを傷つけることは、決して紬の本意ではない。それでも言わなくてはいけなかったし、紬はずっと信じている。たとえ傷ついて心が悲鳴を上げても。辛くて苦しくて、泣き出してしまいたくなっても。それでも、ここにいるあなたたちなら立っていられると信じている。

「第一発見者は密くんで、千景さんと左京さんも遺体を目にしているそうです。3人とも何も言わないと思うので、俺たちで気を配る必要があります」

 あまり表には出さないけれど、3人ともカンパニーのことを大切に思っていることはわかっている。そんな彼らが、一成の遺体を目にしてショックを受けていないはずがなかった。
 しかし、恐らく誰もそれを口にはしないだろうから、自分たちが目を配るのだ。だってもう、カンパニーの誰一人、傷ついてほしくない。心を押し殺して苦しい思いをしてほしくない。
 紬の言葉にそれぞれがうなずき返し、特に同室である誉と至が決意を秘めた目で答えた。東が左京のことは任せてほしいと言い、監督も凛とした瞳できちんとみんなに気を配る、と告げるので紬は肯定を返す。それから、静かに続けた。

「――何より、俺たちは夏組の支えにならないといけませんね」

 夏組、と言葉にすると胸が騒いだ。6人がそろった光景を、誰もが強く覚えている。
 各組はそれぞれが特別なつながりを結んでいるけれど、6人でいることを殊の外大事にするのが夏組だった。天馬がいて、幸がいて、椋がいて、三角がいて、一成がいて、九門がいる。
 夏組はしょっちゅう一緒にいるから気づけばセット扱いで、すぐにやんやと大騒ぎをするから、どこにいたって「ああ、夏組がそろっているんだな」とわかった。6人が一緒にいれば、いつだって笑顔になってしまう。そんな彼らなのに、一成はいない。世界中どこを探したって、一成はいないのだ。
 その事実を、いずれ夏組は知ることになる。一人は欠けて、永遠に5人になってしまった。その苦しみは、悲しみは、与えられるショックは、とうてい想像もできない。だけれど、だからこそ、自分たちが支えにならなくてはいけない。その決意は、談話室に集った大人たち共通の思いだった。

「天馬くんと三角くんは、早めに帰ってくるそうです。直接遺体を目にはしていないようですが、事情は理解しています」

 二人に遺体を見せなかったと言っても、一成の死という事実を隠したわけではない。だからきっと、何が起きて自分たちが何を失ったのかを、聡い二人は理解しているだろう。
 紬の言葉に、談話室のメンバーの顔は大人のそれへと変わっていく。
 悲しみも痛みも、苦しみもどうしようもない後悔も、決して消え去ったわけではない。今でも心に渦巻いて、全てを飲み込もうと口を開けて待っている。だけれど、ここにいる自分たちはそれに屈するわけにはいかなかった。頑是なく泣いて、駄々をこねるよりも先にすべきことがある。
 これから帰ってくる、年下の彼ら。夏組を誰より大切にして宝物みたいに思っていた。それなのに、理不尽な現実はいともたやすく、大切な一人を奪っていった。彼らの強さを紬は信じているけれど、やわらかな心を守ることは、年若い彼らをきちんと守ってやることは、大人としての義務だ。
 それに、一成は夏組と一緒にいる時、驚くほどにやわらかい笑顔を浮かべるのだと知っている。心の全てで抱きしめて、何よりも大事にしていこうと、あふれるほどの愛おしさを隠しもせずに笑ってくれる。
 だから、と紬は思う。脳裏に浮かぶ一成に向けて、抱えきれないほどの後悔と、同じくらいの決意を込めて、そっと告げる。

 カズくん、俺たちはきみを守れなかった。だからせめて、今度こそ。きみの大事な人たちのことを守るよ。