ゼラニウムの咲く庭で




 ふらふらと廊下を歩く三角を見かけて、紬は声を掛けた。夕飯も終わった時間帯だ。外出の予定は聞いていなかったけれど、どこかへ行くのなら付き合おうと思った。
 三角は不思議な言動が多いので子どものように思われがちだけれど、案外しっかりしている。だから、一人で外出しようとしても本来ならそこまで気にかける必要はないだろう。だけれど、今の状況ではそうも行かなかった。MANKAI寮から三角以外の夏組がいなくなった今となっては。

 一成の葬儀を終えてから、夏組のほとんどが寮を離れた。天馬は皇家の所有する別荘へ、それ以外は実家へ帰ったのだ。唯一残っているのは三角だけで、いつも明るい声が響いていた一角はしんとした静けさに包まれている。
 夏組がいない。それだけで、寮はまるで火が消えたように静かだった。単純に人数が減ったから、という理由だけではないことくらい、誰もがわかっている。
 6人がそろうと、それだけで何だか楽しいパーティーでも始まったような雰囲気を持っているのが夏組だ。盛り上がって大騒ぎして、左京に怒られて全員で謝って、それでもまた顔を見合わせて大笑いをしている。騒がしくてうるさくて、笑顔にあふれて、躍動するような輝きに満ちた夏組の6人。
 彼らがそろっている光景は、どんなにまばゆい光だって敵わないような輝きに満ちていた。
 それに、紬にとって夏組は、いつだってそこにいてくれる人たちだった。
 何もかもの始まりだった春組は、自分たちしかいない寮を知っている。だけれど、最後にこの場所へ集った紬たち冬組は、全員がそろった寮に迎え入れられた。春組も夏組も秋組もいてくれることが当然で、どこかの組がいないなんて、そんな光景はひどく不自然に思える。
 それなのに、夏組はいないのだ。一成は世界のどこを探したっていなくて、三角以外の夏組は寮からいなくなってしまった。
 彼らのいない日々なんて、紬は知らない。寮のどこを探したって、夏組の明るい笑い声が聞こえないなんて。玄関先で、談話室で、日常の些細な瞬間で。夏組の彼らが当たり前のようにいてくれた全てが、こんな風に消えてしまうなんて。
 慣れることのない現実を突きつけられるたび、どうしようもないほどの喪失感が紬を襲った。
 しかし、いくらその喪失に足をとられそうになっても、紬は懸命にこらえている。恐らく、カンパニーの人間は全員同じ気持ちで自分自身を奮い立たせている。
 なぜなら、自分たちにはまだやるべきことがあると知っているからだ。夏組はほとんどいなくなってしまった。だけれど、たった一人――三角だけが寮には残っている。

「あのね、お星さま見ようと思ったんだ~」

 どこかへ行くのか、と問いかけた紬に、ふわふわとした調子で三角は答える。外出ではなく、夜空を見るために部屋を出てきたらしい。紬は「そうなんだ」とうなずいてから、さらに言葉を継ぐ。やわらかく、丁寧に、三角の心をふんわりとあたためる声の調子で。

「もしも良ければ、俺も一緒に見てもいいかな」

 三角が一人でいたいというなら遠慮するつもりだった。だけれど、もしも、誰かと一緒にいたいと望んでいるのならば。寂しさが三角の心に巣食っているのならば。ささやかな時間だとしても、同じ時間を過ごすことで少しでも力になりたかった。
 一人残った三角のことを、カンパニーメンバーは誰もが気にかけている。寮を出る夏組が、三角だけ残してしまうことを申し訳なく思って罪悪感を抱えていることも知っていたから、それを和らげたい気持ちもあった。ただ、一番はたった一人になってしまった三角の心を、これ以上傷つけたくなかったからだ。
 目に見えてはっきりとわかるほど落ち込んでいたり、憔悴したりしているわけではない。いつも通りの調子で過ごしているように見えるし、実際日常生活に大きな支障が出ているといったこともなかった。日課のサンカク探しには出かけているし、アルバイトだってきちんとこなしている。
 だけれど、カンパニーメンバーは三角が芝居から抜けられなくなったことを知っているし、ふわふわとした調子で日常を営む三角が、ふとした時に浮かべる表情にも気づいていた。
 お気に入りのサンカクを見つけて帰ってきた時、動物たちと楽しい時間を過ごしたあと。明るい笑顔で誰かを探したあと、ハッとした顔をして無表情になる。きらきらとしたまなざしで口を開こうとして、何かに気づいたように黙り込む。
 それぞれの瞬間で、三角は思い知るのだ。話したい相手は、一緒に心を分かちあいたい人は、どこにもいない。ただ毎日を過ごしているだけで、三角はなくしてしまった現実を何度だって突きつけられ続けている。
 わかっていたから、誰もが三角の力になろうとした。
 三角の探す人の代わりにはなれなくても、お気に入りのサンカクの話や、動物たちとどんな話をしたのかを尋ねた。三角の話をたくさん聞いて、たくさん同じ時間を過ごした。
 団員たちは自然と、三角へのお土産になりそうなサンカクを探すようになったし、それはいつも三角のサンカク探しに奇異な目を向けていたメンバーも同様だ。
 心を全てすくいあげることはできないし、三角の望んだ人の代わりにはなれない。それでも三角は、カンパニーメンバーから向けられるものを、抱きしめるように受け止めてくれていた。強がりや嘘ではなく、渡されるやさしさをきちんと自分のものにしてくれたのだ。
 だから、紬の言葉に浮かんだ笑みは心からのものだ。嬉しそうに「うん! つむぎも一緒にお星さま見よう」と言うので、紬も穏やかに笑みを返した。




 三角の手を借りて、寮の屋根へ登った。二人一緒にお月見をする時はよくここへやって来るので、屋根に出るのは初めてではない。三角の手を借りるのも毎度のことなので、「ごめんね、三角くん……」と言えば、三角はほがらかに「大丈夫だよ~」と答えた。
 そのやり取りもいつものことで、二人は一瞬だけ痛みをこらえるような表情を浮かべる。恐らく同じことを思ったのだ。
 まるで、今までの日常と変わらないようなやり取りだ。屋根から降りて室内へ戻れば、そこには夏組がいてくれるような。ほんのひと月前までは当たり前だった日々が、今でも広がっているような。そんな錯覚を覚えてしまうほど以前と変わらないのに。

「――よく晴れてるから、星はよく見えそうだね」

 決定的に変わってしまった全てを知りながら、気づかない素振りで紬は言う。何を失ったかなんて、痛いほどに理解している。それなら、あらためて直視する必要はないと思ったのだ。屋根の上で体勢を整えると、紬の隣で体育座りをする三角はいくつかまばたきをしたあと、ゆっくり言った。

「うん。お星さま、いっぱい見えるねぇ。つむぎ、あの明るいのは火星なんだって。あと、あっちの星はフォーマルハウトって言うんだよ」

 夜空を見つめた三角は、静かな声で言う。指差した先にあるのは、一際明るく輝く星だ。火星だという星は強い光を放っていてよく目立つ。もう一つの星の名は、紬にはあまりなじみがない。三角はそれを察したのだろう。

「みなみのうお座っていう星座なんだよ。秋は明るいお星さまがあんまりないけど、フォーマルハウトはすごく明るいんだ~」

 秋の星座の中で、ただ一つの一等星なのだと三角は告げる。南の一つ星とも呼ばれていて、秋の夜空に明るく輝く星だ。三角の説明に、何となく聞いたことがあった気がするな、と紬は思う。ただ、そこまで詳しくは知らなかったので、「三角くんはすごいなぁ」とつぶやいた。心からの本音だった。
 すると、三角はゆっくり首を振った。穏やかに、やわらかな雰囲気で、まなざしに悲哀をたたえて。

「かずが教えてくれたんだよ」

 静かな声で三角は言った。落ち着いた丁寧な声で、記憶を紐解いていくように告げるのは、夏組みんなで星を見た時のことだ。一成は宇宙や天体が好きだから、夏組の中でも星には詳しい。元来頭のいい人間ということもあり、夜空を見上げる夏組に様々な星のことを教えてくれた。
 夏の大三角形はもちろん、てんびん座やさそり座、それぞれの星をつないだ形や言い伝えを、楽しそうに口にしていた。
 みんなで見ると、もっといっぱい楽しくなっちゃうよねん、ときらきら笑っていた姿を夏組はきっとずっと覚えているだろう。今になってはそれが永遠に失われてしまったなんて、とうてい信じられないくらい強く焼きついている。一成の表情も、声も、仕草も、夏の夜の温度も、何もかも。

「夏組みんなで星を見たんだよ。天の川で水遊びできたら楽しそうだよねってくもんが言って、むくは土星のわっかに座ってみたいって。星を見ながらいっぱい話して、すっごく楽しかった~」

 ほんの数か月前の出来事を、そっと取り出す丁寧さで三角は言う。
 夏の夜空を見上げた6人は心からの笑顔を浮かべていた。夜にも負けないまばゆさで、どんな影も落ちることのない、ただ幸せな空間だった。
 誰一人こんな未来が待っているなんて思わずに、これから先ずっと変わらず全員一緒にいられるのだと疑いもせずに。ただ喜びだけが胸を満たす時間だった。

「秋になったらみんなで彗星を見ようって、かずが言ってたんだ。大きな彗星が見えるから、夏じゃなくても天体観測しようって。かずが言ってたの、なんて彗星だったかなぁ」

 何かを考えるような調子で、三角はぽつりと言葉をこぼす。紬は思わず、ぐるりと周囲の空を見渡した。しかし、見える範囲に輝くのは至っていつも通りの星空で、彗星は見当たらないようだった。高度の関係か、それとも方角の問題なのかもしれない。

「夏組みんなで見る約束なんだ。オレ一人だけじゃだめなんだよ」

 屋根の上で体育座りをした三角は、ぼんやりとつぶやく。その横顔を見つめた紬は、内心で言葉をこぼす。ああ、三角くんは、積極的に彗星を探そうとしているわけじゃなかったんだ。
 屋根の上という条件であれば、見える範囲はだいぶ広くなる。だから、本気を出して探そうと思えば、彗星だって見つかるかもしれない。だけれど三角は、体育座りでうずくまったまま、ただ目の前の星を眺めているだけだ。
 三角は彗星を見たいと望んでいる。だけれど、それは自分だけで見ても意味がない。三角の希望は、この上もない願いは、夏組の6人がそろって彗星を見ることだ。一成がいつかそう望んだように。
 夏組が一緒にいた光景を、紬はよく覚えている。
 きらきらとして、まぶしくて、夏の光そのものみたいだった。その輝きを誰よりも強く理解しているのは、きっと夏組の彼らなのだ。
 三角の心には、決して衰えない光がいつまでだって降り積もっている。6人がそろって笑いあう、美しい光景。だけれど、同時にきっと理解しているのだ。
 今ここには三角しかいない。夏組はバラバラになって、たった一人でここに残っている。何よりも、寮を出ていった夏組が戻ってきたとしても、夏組は5人にしかなれない。最後の一人は、永遠に帰ってはこない。6人がそろった光景は、もう二度と戻らない。
 三角はきっとわかっている。だから、夏組6人で見ようと約束した彗星を探さなかった。夏組全員――誰一人欠けることのない6人で交わした約束だ。今ここで彗星を見てしまったら、それを破ってしまうような気がして。
 二度と戻らなくても。永遠に会えないとしても。それでも、6人の約束は今もまだ大切に、夏組の胸に残り続けているのだから。

「流れ星は毎晩流れてるんだよって、かず言ってた。流れ星が見えたら、オレいっぱいお願いするのになぁ」

 夜空に視線を投げた三角がぼんやりとつぶやいた。紬に向けた言葉ではなく、あくまでも三角の中からこぼれ落ちたのだろう。一成から聞いた話が目の前の夜空と結びついて声になったのだ。
 三角は言う。見慣れた風景の中に、流れる星の姿を探して。願いを叶えてくれるという言い伝えを持つ、夜空を走る光を探して。心からの願いが、三角の唇からこぼれ落ちる。願いを叶えてくれるなら、そんなの一つだけだ。

「かずに会いたいなぁ」

 穏やかで、やさしくて、今にも泣き出しそうな声だった。紬に告げられた言葉ではないだろう。わかっていても、紬の胸は苦しくてつぶれてしまいそうだった。
 一成に会いたい。それはどれほどまでに切実な、心からの言葉だろう。
 いなくなってしまった。もう二度と会えない。どれだけ祈ったって、願ったって、一成はもうこの世界のどこにもいない。
 生き生きとした緑色の目も、よく笑う大きな口も、光を集めたような金色の髪も、あざやかに世界を描き出した指先も。何もかもは炎に焼かれて、小さな骨になってしまった。いくら呼びかけても答えてくれなくて、笑った顔も見られない。これから先の未来には、どうしたって一成はいない。
 それでも、会いたいと願うのだ。大切で特別な、宝物みたいな人だった。たとえこの世界からその命が失われて、二度と抱きしめることができなくても。それでも、会いたくてたまらないと願う心は、どこまでだって真っ直ぐとただ一人に向かっていく。
 だけれど、どれだけ願ってもそれを叶えてあげることはできないのだと、紬はわかっている。だから、三角の言葉にどんな反応をすればいいのかわからない。
 ただ黙ってうなずけばいいのか、気の利いた言葉を口にすべきか、それとも聞かなかったフリをするべきか。ためらいを浮かべて戸惑っていると、微妙な空気を感じ取ったのだろう。ハッとした顔で三角が紬へ視線を向けると、申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。

「つむぎ、困っちゃったよね。ごめんね」

 眉を下げた三角は、紬を困らせてしまったことに気づいている。
 一体どうすればいいのか、と戸惑わせたいわけではなかったのだ、と言葉を続ける。ただ自分の心がこぼれ落ちてしまっただけで、紬が気に病むことは何一つないのに、困らせてごめんね、と謝罪を重ねるから、紬は慌てて首を振った。

「三角くんが謝ることじゃないよ」

 紬にしては強い声になったのは、三角に謝らせたくなかったからだ。他人の心を慮って自分の気持ちより優先させてしまう、やさしい人間だ。そんな三角に「ごめんね」なんて言わせたくなかった。

「流れ星を見つけたら、三角くんの願い事をたくさん聞かせてくれると嬉しいな。だから、また一緒に星を見てくれる?」

 こぼれ落ちた願い事を指して、三角は「ごめんね」と言った。叶えられない願いであることをわかっているから、紬を困らせてしまったと思ったのだ。確かに、紬には三角の願い事を叶えることができない。だけれど、それでも、願いを口にすることを謝る必要は一つだってなかった。
 叶うとか叶わないとかではなく、大事なのは三角の心からの願いであること、ただそれだけだ。
 紬はいくらだって、三角の願いを聞く。何を望んで、どんな未来を思い描いているのか、三角の心が告げる幸福は何か、いくらだって聞くのだ。叶えてあげられないことが苦しくても、三角が願う心を受け止めることならできるから。
 恐らく三角は、紬の決意を受け取ったのだろう。他人の心に寄り添うことができるからこそ、どこまでも真っ直ぐと三角を思う紬の心だってきっと理解してくれた。だから、三角はやわらかく笑って言った。
 無理をしているのでもなければ、泣き出しそうな表情でもない。ただ、やわやわとした光をにじませて、紬の心を真正面から受け取った笑顔で答える。

「うん。お団子も一緒に持ってきて、お星さまとお月さま見ようね」

 ふわふわとした言葉に、紬は「約束するね」と力強くうなずいた。決して違えない約束を、必ず果たす約束を、三角と交わした。