ゼラニウムの咲く庭で
他愛ない話をしながら星を見ていたら、ずいぶんと屋根の上で長居をしていた。三角は明日もアルバイトがあると言うし、紬も用事がある。名残惜しいけれど今日のところは解散しよう、ということで二人はそれぞれの部屋へと帰った。
三角が203号室へ戻るところを見届けて、紬は自室の扉を開いた。後ろ手で閉めるのと同時に、丞の声が響く。
「おい、大丈夫か。酷い顔してるぞ」
ストレッチを止めた丞が、眉を寄せてそう言う。紬は「ごめん」と謝るけれど、確かに自分が酷い顔をしている自覚はあった。三角を見送るまでは、いつも通りの朗らかな笑顔を浮かべられていたはずだ。だけれど、自分の部屋に戻ってしまえば、張りつめた糸が切れたようだった。
三角と過ごす時間が穏やかなものであることは間違いない。二人で交わすささやかな話が楽しかったことも、心がゆったりと満たされていったのも本当だ。だけれど、それとはまったく別次元でどうしたって思ってしまう。心が騒いで仕方ない。穏やかな時間を過ごせば過ごすほど、現実がのしかかってくる。
「別に怒ってるわけじゃない。具合でも悪いのか」
「ううん。体調が悪いわけじゃないよ」
「――なら、話くらい聞いてやる」
大きく息を吐き出して丞がきっぱりと言った。紬が酷い顔をしている理由。体調不良でないのなら心理的なものである、と見当をつけるのは難しくなかった。
紬は見た目に反して案外気が強い、ということを丞は長年の付き合いからよく知っている。劇団で再会した当初は見る影もなかったけれど、カンパニーで過ごす内に持ち前のしなやかさを取り戻していったし、むしろいっそう鍛えられている、というのが丞の見解だ。
そんな紬がここまでハッキリと顔に出しているということは、それほどまでに大きな負荷がかかったのだろうと推察した。だから話くらい聞いてやる、と水を向けた。
紬は丞の言葉の意図を正しく理解した。無愛想で誤解されがちなところも多々あるけれど、幼なじみの不器用なやさしさを、紬はよく知っていたのだ。だから、「ありがとう」と言って紬は口を開く。
かいつまんで話したのは、さっきまで三角と過ごした時間についてのあれこれだ。穏やかな時間だった。他愛ない話に浮かんだ笑みは心からのもので、無理をして笑っているわけではなかった。ゆっくりと過ごす時間は、あたたかく二人を包んでいてくれた。
だけれど、そうして過ごす時間の裏側に見え隠れするものがある。ここにはいない人。決して戻ることのない、たった一人。一成がここにいたら、どんな風に笑ってくれるだろうと思う瞬間が、何度だって訪れた。
「なんて残酷なんだろうって思ったんだ」
隣同士でソファに座る丞に向けて、紬は言う。
もしかしたらここには一成がいたかもしれない、と思うことが何度もあった。三角の隣に当たり前みたいに座って、明るい笑顔で「つむつむと一緒に天体観測、めっちゃ楽しみ~」なんて言ってくれる。
紬の些細な話にも楽しそうに相槌を打って「やっぱり、つむつむの話ってわかりやすいよねん」としみじみこぼす。目の前に広がる星を指して、「すみーから聞いたっしょ。一等星のフォーマルハウトって名前格好よくね?」なんて言う。
こんなにも簡単に、一成のいる風景を思い描くことができるのに。面影はあざやかに目の前へ現れるのに。一成はどこを探したっていないのだ。一成は二度と自分たちの前には戻ってきてくれないのだ。それをまざまざと思い知った。
だけれど、紬が言うのは一成がどこにもいないこと、それだけではなかった。なんて残酷なのかと思ったのは。三角との会話で思い知らされたのは。
「いずれこの日々が――もう二度と戻らないことが日常になっていくのは、なんて残酷なんだろう」
そこかしこに一成の気配を感じて、まるでどこからかひょいっと現れるように思えた。だけれど、現実のどこにも一成がいないことは揺らがない。一成の姿をいくらあざやかに思い描いても、何度だって不在を確かめるだけだ。
何度も何度も、一瞬の全てで一成がどこにもいないことを確かめる。一成がいない。もう二度と戻らない。その現実が、間違いのない事実であることを繰り返し思い知る。
「夏組の6人がそろった光景が好きだった。明るくてにぎやかで、見ているだけで笑顔になっちゃうんだ。ずっとあんな風に、6人そろって笑っていてくれるといいなって思ってたよ」
心を取り出す素振りで紬は告げる。年下だからといって過度に甘やかしたり、子ども扱いをしたりしたつもりはない。一人の人間として、心から尊敬もしている。
だけれど、年若い彼らのことを可愛いなと思って大事にしたいと思っていたことも本当だった。それなのに、紬たちの手から大切な人はこぼれ落ちてしまったのだ。二度と覚めない眠りついて、6人が共に過ごす光景は永遠に失われた。
「カズくんのいないことがいずれ日常になってしまう。俺たちはこれから、カズくんのいない毎日を日常にしなくちゃいけない」
一成が世界のどこにもいなくなった瞬間から、一成の時間は止まってしまった。これから先、それぞれが未来に向かって時間を刻んでいくのに、一成が同じように歩いてくれることはない。一つ一つ年を重ねていく自分たちは、時間を止めた一成を置いていく。
それはこれから先の全ての日々に言えることなのだと、紬は痛切に思い知った。三角との会話で、穏やかに過ごす時間で、一成がここにはないことの意味を、痛いくらいに感じ取ってしまった。
これから先も自分たちは寮での毎日を過ごし、舞台に立って、演劇を続けていくだろう。だけれどその中に一成はいなくて、不在のままに日々を過ごす。
その時間を重ねれば重なるほど、いずれ一成がいない毎日が当たり前になってしまう。今はまだその不在を、欠落を抱えているのに、いつの日か一成がいないことが日常になってしまうのだ。
「それは、なんて残酷なんだろう」
忘れるつもりもないし、大事だった日々はずっと心に残り続ける。過去のことにもなかったことにもする気はなかった。一成はこれから先もMANKAIカンパニーの大事な一人で、変わることのない仲間であり続ける。
それでも、自分たちは一成のいない毎日を生きていかなくてはならないし、それが日常になる日が来る。
永遠に不在を嘆き悲しんでほしい、なんて一成は望まないだろう。とてもやさしい人だからこそ、笑って毎日を過ごしてほしいと心から言ってくれる。だけれど、それはどうしたって一成を置いていってしまう。一成のいない時間が日常になるというのは、そういうことだ。
一成は笑って「そんなの当然っしょ」と言ってくれるだろう。それでも、一成と過ごした日々が少しずつ遠くなり、欠落が当たり前の日常になるという事実は、どうしたって残酷だった。
落とされた言葉を聞く丞は、唇を結んでじっとしている。紬の言葉にどんな答えを返せばいいのかわからなかった、ということもある。だけれど一番は、紬が自分の心を言葉にしながら、崩れ落ちそうな自分を支えて心を再構築しようとしていることを感じ取ったからだ。
月岡紬という人間は、穏やかでやさしい。それは純然たる事実ではあるけれど、同時に途方もない強さも持っている。幼い頃から傍にいた丞は、紬の頑固さも何度でも立ち上がる強さもよく知っている。
カンパニーに所属して過ごす日々はその強さにいっそう磨きをかけて、花開くようにしなやかな心を育んだ。だから、これからの未来に訪れる残酷な現実を知っても、そのままうずくまってしまうような人間ではないのだと丞は思っている。
一つ一つ、言葉をこぼしていく紬の瞳は次第に静かになっていく。部屋に戻ってきた時は、それこそ倒れてしまうんじゃないかというほど青白い顔をしていたけれど、今丞の前で唇を結ぶ紬からその面影は消えている。静かに、穏やかに、奥底に宿るのは苛烈なまでの強い決意だ。
「――俺たちは、先に日常を取り戻さないといけないね」
ぽつり、と紬は言った。どこまでも澄み切って、それなのに炎が揺らめくような声で。丞が真っ直ぐその顔を見つめると、紬が同じようにまなざしを返して続けた。
「俺たちはせめて、夏組みんなの心を守らなきゃ。カズくんのいない日々を日常にするのは、夏組が最後でいい。残酷な現実なら、俺たちが先に引き受ける」
これから先の未来で、何度でも夏組は一成の不在を思い知る。
ここにいてほしかった人がいないこと。未来まで共に歩むはずの約束が叶えられなかったこと。それら全てをまざまざと突きつける瞬間が何度だって訪れて、彼らの心を傷つけるだろう。
それは、あるはずだった日常が崩れ去って、一成のいない毎日が当たり前のようにやって来ることを意味する。残酷な現実は、否が応でも夏組の前に現れる。
だけれど、それでも、紬は願う。心から祈ることを叶えるのだと決意する。
「夏組のみんなには、カズくんと過ごした毎日が日常だと、ずっと言わせてあげたい」
何の意味もない努力かもしれないし、単なる現実逃避なのかもしれない。そんなことをしたって現実は変わらないし、一成が戻ってくることはない。
だけれど、夏組は6人そろって夏組だった。一人が欠けてしまってもきっと彼らは、その一人をずっと抱えていようとする。不在を日常にすまいとして、懸命にあがくだろう。それを守りたいと紬は思う。6人そろったあの光景を、紬だってずっと守りたい。
「夏組のみんなを支えられるように、俺たちはいつものように日々を過ごそう。何があっても、どんなことがあっても、すぐ力になれるように」
失ったものを引き留め続けることはできない。いずれ一成の不在を受け入れる日は来るかもしれない。だけれどきっとそれは遠い未来のことで、もしかしたら人生が終わる瞬間までそんな日は来ないかもしれない。
わからないけれど、夏組は途方もない道のりだって歩もうとするに違いなかった。だから、その支えになるためにはいつもの日常を送るのだ、と紬は決意する。
特別な力を持つわけではない自分たちには、魔法のように全てを救ってやることができない。それでも力になろうとするなら、一番地道な方法が最も効果があるのだと、経験から知っていた。
何度も繰り返した基礎練習がやがて大きな花を開く種になるように。毎日を、日常を、当たり前のように過ぎ去っていく日々を、丁寧に過ごして己の心を整える。自分自身を調整し、どんな場面でも、何があっても、揺るぎなくいられるように。
今度こそ何一つ失わず、大事なものを守れるように。今まで過ごした日常こそが、やがて確かな力になる。だからこそ、悲しみも苦しみも消え去ることはしないとしても、日常に戻るのだと決めた。
「ああ、そうだな」
紬の言葉を聞いた丞は、静かに返した。穏やかでありながら、芯に熱の灯った決意。それを確かに受け取ったのだと告げるような、真摯な響きをしていた。紬は一つ瞬きをしたあと、「うん」とうなずいてつぶやく。
「俺たちなら――冬組のみんななら、きっとできる」
一成がいなくなってから、カンパニーにはずっと重苦しい空気が立ち込めている。心やさしい人たちばかりが集う場所だ。簡単に傷が癒えることはないだろう。誰もが本調子とは言えず、常に暗い影を帯びている。
だからこそ、最初に日常を取り戻すのは自分たちの役目であり、冬組のみんなならそれができると、紬は信じている。
大人としての時間を重ねた組であり、人生の岐路に何度も立ちながら、ここにいることを選んだ人たちだからこそ。
やさしさの中に、抱えた傷の痛みと悲しみと、選び取る強さを持って歩いてきた。そんな彼らであれば。失くしたものも手に入らなかったかものも知りながら、手を伸ばしあうことを諦めずにいた冬組のみんなであれば。途方もない悲しみの中でも、日常を取り戻すことができるはずだと紬は信じたのだ。
その真っ直ぐの信頼を、丞は確かに受け取っている。同時に、冬組の彼らが紬の思いに答えるであろうことも、何一つ疑っていなかった。舞台の上で何度も心を分かちあったのだ。彼らが紬の信頼を裏切ることなんてないのは、丞にとって当然の事実でしかない。
紬はそんな丞の反応に、小さく笑みを浮かべた。紬から冬組、冬組から紬、双方へ向かう信頼を察したのだろう。丞は、紬が笑ったことにいくぶんほっとした表情を浮かべてから、思い出したように口を開いた。
「そろそろ寝るか。明日は出かけるんだ、寝不足は良くないだろ」
丞の言葉に時計を見れば、いつもの就寝時刻はとっくにすぎていた。紬は慌てたように「そうだね」と言って、決意を秘めたような顔でつぶやく。
「カズくんの話をするのに、寝不足の顔なんてしたくないな」
明日、冬組は一成の実家を訪れる予定だ。納骨前の自宅を訪ねることは迷惑になるのではないかと思ったけれど、一成の家族に是非にと請われた。一成はきっと皆さんが来てくれたほうが喜ぶでしょうから、と言って。一成の寮での様子を聞かせてほしいんです、と言って。
一成の家族は憔悴した様子ではあったけれど、ただ穏やかだった。決して取り乱すことはせず、カンパニーへの気遣いも忘れることはない。同じ寮に住んでいたのだ。もっとできることはあったはずだと、どうして守れなかったのかとなじられても仕方ないとさえ思ったのに、誰一人そんなことしなかった。
丁寧な声音で、自分たちの知らない一成のことをたくさん聞かせてほしい、と言うのだ。ついぞやさしさを忘れることのない様子は一成を思い出させて、誰もが彼の家族らしい、と思った。
そんな人たちに請われたのだ。いくらだって一成の話をしようと思った。だから、各組はそれぞれのタイミングで一成の自宅を訪れている。一成がどんな風に寮で過ごしていたか、どんなにみんなに愛されていたかを伝えるために。
冬組は明日、全員で一成の実家を訪れる。寝不足の顔をしているわけにはいかない、と紬も丞も早々にベッドへ入った。小さな豆電球が照らす室内で、紬は目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、これまで一成と過ごした日々だ。中でも自然と形になったのは、中庭で花の世話をしている時に駆け寄ってくる一成の姿だった。「つむつむとお花、めっちゃいい絵になる~」なんて笑ってスマートフォンを向けてくれた。
その様子を思い出す紬は、花を摘んでいこう、と思う。中庭で育てた花を、一成のために摘むのだ。一成は寮で過ごす日々が大好きだったから、寮の空気を感じられるように。一成の記憶を、思い出を彩るように。
どの花がいいだろうか。次々と花を咲かせるカラフルなジニアか、真っ赤な花があざやかなサルビアか。花壇に植えた花を思い浮かべた紬は、一成によく似合う、とびきり綺麗な花を選ぼう、と思って眠りにつく。