ゼラニウムの咲く庭で




 ゆっくりと意識が浮上する。眠りから覚めていく意識の中で、紬は「花を」と思う。今日は一成の家へ冬組みんなで向かうのだ。一成のための花を摘みにいかなくては。
 出かける前に用意を済ませる必要がある、と紬はベッドから起き出した。目覚ましよりも早くの起床だけれど、早い分には問題なかった。丞の姿はすでになく、恐らく朝の走り込みにでも出かけているのだろうと思った。
 簡単に身支度を整えた紬は、窓から入る光に目を細める。何だかひどくやわらかくて、やけにきらきらとまぶしいような気がした。穏やかさの中に、踊る光が散るような。まるで、これから訪れる夏を知って、何もかもをみずみずしく輝かせる春みたいな。
 そう思った紬の胸はずきりと痛んだ。秋で時間を止めてしまった一成のことを自然と思い浮かべたからだ。全ての命が躍動する春を一成は迎えられない。冬に時間も進まないし、夏に辿り着くこともない。もう二度と一成の季節は巡らない。
 それならせめて、これから何度も花を用意しようと紬は思った。止まってしまった時間の代わりに、季節の花で何度だって彼を彩るのだ。
 思った紬は、重い息を吐き出して部屋の扉に手を掛ける。この部屋を出たなら、いつも通りの顔をしていなくては。日常を取り戻すと決めたのだから、陰鬱な顔をしているわけにはいかないのだ。たとえ、一成のいない現実がどれだけ辛くて苦しくても。

 決意しながら扉を開いて、廊下へ踏み出した紬は人影に気づいて息を呑んだ。

 204号室の右手。夏組の部屋へ通じる廊下の先。201号室の前、手すりに寄りかかるようにして立っているのは。
 白いTシャツに青いジャケットをひっかけて、細身のジーンズを身につけている。あまり焼けない白い肌に、緑色の大きな目、綺麗な金髪。見慣れたスマートフォンを操る彼は。

「カズくん!」

 叫んだ紬は、思わずといった調子で駆け寄るとその腕を掴む。細いけれど、しなやなか筋肉と確かな体温が伝わって間違いなくここにいるのだと紬は思う。幻覚でもなければ幽霊でもなく、確かに触れる。今ここに生きている。どうして、と混乱していると、慌てたような声が響く。

「え、なになに、つむつむどしたん?」

 目を丸くしながらも、笑みを絶やすことなく一成が問いかける。いきなり腕を掴まれたのだ。一体どうしたのか、と思うのは道理だろう。そう思った紬は「ごめん」と言うけれど、腕を掴む手は離せなかった。

「全然平気だよん! てか、つむつむもしかして具合悪い系とか? めっちゃ顔色悪いし、無理しちゃだめだよん」

 笑顔を浮かべつつも、明らかな気遣いの乗った声で問われて紬は首を振った。混乱はしているけれど、具合が悪いわけではないのは本当だったからだ。ただ、ひどく戸惑っていることも事実だから一成も心配しているのだろう。

「大丈夫だよ。心配かけてごめんね、カズくん」

 その名前を口にして真っ直ぐと視線を向ければ、一成は同じように紬を見つめ返した。光が入って、きらきらと輝く緑色の瞳。心の奥まで届くようなまなざしに、紬の思考は次第に明瞭さを取り戻していく。
 一成が生きている。どうして、と思ったし、一体何が起きたのかわからなかった。だけれど、今ここで確かな肉体を持って、あざやかな瞳で、穏やかな声で、やわらかく笑ってくれる一成を前にして、ようやく現実を取り戻した。

 カズくんは生きている。当たり前だ。だって、さっきまでの記憶はみんな、俺が見た夢だ。

 あまりもリアルで、まるで現実に起きたようだった。左京からの電話を受けた時の世界が崩れ落ちるような感覚も、空虚な天馬の表情も、三角と交わした言葉も、一成がいなくなっても回り続ける日々の残酷さも、何もかもが紬の胸には強く残っている。だけれど、全ては現実に起きた出来事ではない。
 落ち着きを取り戻した紬は、事態を正しく理解していた。夢の中で眠りに落ちて、そのまま目覚めたことで境界があいまいになった。まるで夢の続きのように目を覚まして、さっきまで見ていたものが現実なのだと思ってしまった。だけれど、記憶はちゃんとあった。
 昨日は家庭教師のアルバイト用に、朝から書店を回って必要な書籍を見繕った。帰ってきてから現在受け持っている生徒の勉強の状況をまとめて、合間に今度見る演劇について一通りのことを調べた。
 それから、帰宅したガイとともに花壇の手入れをしたのだ。チューリップとフリージアが満開の寄せ植えは、見事な色彩にあふれていて、間違いなく今の季節が春だと告げている。秋の日に時間を止めてしまうこともなく、一成は今、この春を生きている。
 紬はあの秋の日のことも覚えていた。
 天馬からの電話で、一成が襲われたことを知らされた。病院に運ばれたものの、出血量が多く緊急手術が必要だと聞かされて、カンパニーの誰もが青い顔をしていた。だけれど、一成の手術は無事に成功したのだ。入院は余儀なくされたけれど、一成は無事に寮へと帰ってきてくれたことを、紬はちゃんと覚えている。

「ごめんね、酷い夢を見たんだ。カズくんが死んじゃうなんて、縁起の悪い夢だったから……」

 どうにか混乱は収まってきたけれど、掴んだ腕は離せなくて言い訳のように告げる。夢だとわかっている。それなのに、あまりにもリアルでまるで本当に一成が死んでしまったんじゃないかと思えて仕方ない。ここにいるのだと確かめたくて、紬はぎゅっと指先に力を込めた。
 すると、そのタイミングで201号室の扉が開いた。出てきた天馬は、目の前の光景にぎょっとした表情を浮かべる。それもそうだろう。紬は青白い顔で、しがみつく強さで一成の腕を握っているのだから。

「どうした? 何かあったのか」

 尋常ならざる気配を感じた天馬が口を開く。強い声ではあったけれど、問い詰める類ではなく純粋に心配を浮かべているようだった。

「ごめん、天馬くん。おかしな夢を見ちゃって……。カズくんが殺される夢なんて――ちゃんと助かったのに、変だよね」

 言いながら、紬は一成の腕を掴んでいた指を一本ずつ引きはがした。天馬の登場に、このままずっと一成を拘束するわけにはいかない、と気づいたからだ。201号室の前にいたということは、恐らく天馬に用があるのだろうと思い至ったこともあり、紬はもう一度「ごめんね」と謝った。
 一成はその言葉に、気遣う笑みを浮かべたまま「平気だよん」と首を振った。それから、何かをためらうような沈黙を流したあと、ゆっくりと口を開く。唇に笑みを浮かべて、何かを決意するような雰囲気をたたえて。

「ね、つむつむ。もしかして、その夢ってオレが通り魔に殺される夢?」

 静かに尋ねられた言葉に、紬はびくりと肩を震わせる。思わず表情が陰るのは、あまりにもリアルな夢の内容を思い出したからだ。その反応に、自分の言葉が的を射ていたことを察したのだろう。一成は穏やかな笑みを浮かべて、言葉を続けた。

「あのね、夏組でも時々その夢見たりするんだよねん」

 軽やかな、世間話めいた雰囲気で言うけれど、それは場の空気を重くさせないための気遣いだろう。一成は言う。通り魔事件のあと、夏組は時折夢を見る。一成は助からなかった。犯人に襲われて世界のどこにもいなくなってしまった。そんな夢を見るのだと。

「――ああ。特定の誰かってわけじゃなくて、夏組の人間は大体その夢を見てる。オレだってそうだ」

 一成の言葉を引き取ったのは天馬だった。
 曰く、夏組は今でも時々夢を見る。一成が助かってここに生きていることは充分にわかっていても、夢の中で何度も夏組は一成を失うのだ。
 以前の一成ほどひどい悪夢にうなされているわけではないけれど、夏組の誰もが同じ夢を見ている。助からなかった。死んでしまった。永遠に失ってしまった。ショックを引きずって目覚めるような夢だ。
 紬が見たのもそんな夢なのだろう、と言う天馬の言葉に、紬は思わずうなずく。天馬の言う通りだ。酷い夢だった。あまりにもリアルでまるで現実の出来事みたいな、酷い夢だ。

「カズくんが大学に課題を提出に行ったまま帰らなくて、連絡も取れなくなった。俺たちはみんなでカズくんを探すんだけど見つからなくて。どこにいるかわからなくて、街中を探し回ったんだ」

 呆然としたような調子で、紬の唇から言葉がこぼれ落ちる。天馬に答えるというより、ほとんど無意識に声になっていたのは、さっき見たものは夢なのだと自分に言い聞かせたかったからだ。天馬が言う通り、酷い夢なのだと。現実に起きたのではなく、確かな夢なのだと言いたくて、紬は言葉をこぼす。

「電話が鳴ったんだ。カズくんを探しに行ってた左京さんからで、ここから少し離れた公園にいるって。俺たちの全然知らない公園なんだ。天鵞絨駅から電車で行くような所だし、カズくんも用事があるなんて場所じゃない。それなのに、そこにカズくんはいたって。カズくんを見つけたって言ったんだ」

 夢で見た記憶をなぞるように、紬は言葉を並べた。あの時のショックがまざまざと思い浮かんで、何もかもが暗く塗りつぶされていくような気がした。
 だから気がつかなかったのだ。
 目の前の天馬と一成が、ハッとしたような表情を浮かべていることに。それからすぐに、二人が目を合わせて何かを確かめるような素振りをしたことに。うなずきあった天馬と一成が、自分たちのすべきことを決意したまなざしに。

「つむつむ、今日は一日オレとデートしよ!」

 ぱっと華やぐ声が響いた、と思えば一成が満面の笑みを浮かべていた。言葉の意味がよくわからず紬が首をかしげると、やわらかな雰囲気をまとわせて一成は続ける。

「つむつむが見たのは、みんなただの夢だよ。悪い夢なんか、現実で上書きしちゃお」

 一成はにっこり笑うと、強い声で「だからオレと一日デートだねん!」と告げる。決定事項なのだと言いたげな様子に紬は「そんな、大丈夫だよ」と首を振る。
 そもそも、一成は天馬に用事があったから部屋の前にいたのでは、ということを思い出したからでもあるし、単純に自分が見た夢のせいで時間を取らせてしまうのが申し訳なかった。しかし、一成は朗らかに口を開く。

「もしかして何か用事ある感じ?」
「特にはないけど……」
「それじゃ問題ナッシングじゃん! それとも、オレとデートしたくない系?」
「そんなことないよ。でも、カズくんは天馬くんと用事があるんじゃないかなって」
「もともと、テンテンと一緒に中庭で朝ごはん食べよって言ってただけだから平気だよん」

 力強い笑みで言われるけれど、紬はますます首を振るしかない。きっと用事があるのだろうと思っていたけれど、一成の口から語られるのは要するに天馬と二人きりで過ごす予定だ。
 天馬と一成が恋人同士であることは、カンパニーメンバーならば全員が知っている。あらたまって報告してくれたからだし、そうでなくても紬は早々に気づいていた。
 天馬がどれほど一成を大切に思っているのかは言動の端々から感じ取れたし、一成も天馬からの愛を一心に受け取り、同じように返していた。夏組の仲間としてだけではなく、たった一人の特別な相手なのだということは、二人に接していればすぐにわかった。
 だからこそ、天馬と一成が二人きりで過ごすということの意味も理解している。何かと忙しそうだった天馬も、最近は大学生活にも慣れたようでようやく落ち着き始めたのだ。今日はこれから、恋人としての時間を共にする予定だったのだろう。

「二人の邪魔になるのは申し訳ないよ」

 心から紬は言った。天馬は顔の知られた有名人でもあるので、気軽に外でデートすることはできない。ただ、寮内であれば全員関係性は知っている。恋人同士であることを隠す必要もなく、語らうことができるだろう。
 それなのに、紬と一日を過ごすとしたら二人きりの時間がなくなってしまう。だから、心底申し訳なくてそう言ったのだけれど。天馬は苦笑を浮かべて口を開く。

「オレはそこまで心狭くないぞ。それに、紬さんに安心してもらいたいしな」

 一成と過ごす時間が大切であることは間違いないけれど、紬の受けたショックを知りながらなかったことにできるはずもない、と天馬は言い切る。
 ただの夢じゃないか、なんて天馬も一成も言わないのだ。顔面を蒼白にしてすがりつくみたいに一成の腕を掴んでいた。そんな紬の心をやわらげるためにできることがあるなら、当然それを選ぶのが二人だった。

「そそ。つむつむがずっと悲しい顔してるほうが嫌だし、夏組の誰かが夢を見た時も一日デートしてるかんね!」

 これはいつものことだから紬が気にする必要はないのだと、軽やかな笑顔で一成は告げる。
 一成が死んでしまった夢を見たなら、その日は一成と行動を共にする。それはいつの頃からか自然と決まった、夏組の約束事だ。もちろん、お互いの予定が合わないこともあるので、四六時中一緒にいられるとは限らない。
 それでも、時間の許す限り近くでその鼓動を確かめ続けることで、夏組は「一成が生きている」という事実を胸に刻むのだ。

「全部はすぐに忘れられないかもしれないけどな。その夢を見た時は、一成が生きてるんだなって、何度だって確認するのが一番なんだ」

 一成の言葉を肯定するように、天馬も続けた。真っ直ぐと力強いまなざしで紬を見つめて、揺るぎのない真実を語る口調で。恐らく天馬も、悪い夢を見たあとに何度も一成との時間を過ごしているのだろう。そうして、全ては夢で、一成が生きていることを確認している。

「夏組全員のお墨付きだからな。紬さんにも効果はあるはずだ」

 強いまなざしに、どこか切なさを含んで天馬は言う。隣の一成も目を細めて、天馬のまなざしに似た雰囲気でうなずいている。その二つを受け取る紬は、ただの事実として理解する。
 この申し出は、天馬と一成からの純粋な好意で、どこまでも真っ直ぐな親愛の証だ。夏組の彼らにそそがれるもののように、カンパニー全員へ向かっていく心のように。
 天馬と一成の邪魔をしたくない、というのは紬の本心だ。だけれど、それを上回る気持ちがあった。
 二人がこんな風に向けてくれる親愛を、大切だと思ってくれる気持ちを、なかったことにはしたくない。差し出してくれたものを、断ることなんてしたくない。思ってしまえば答えは簡単だった。

「だからさ、今日は一日オレとデートしよ?」

 あらためて、といった調子で口にされた言葉に。紬は心からの笑みを浮かべて「うん。俺からもお願いしたいな」と答えた。