楽園プレゼンテーション




 202号室には何とも言えない沈黙が流れている。万里がとんでもない発言をしてくれたおかげで、二人ともどんな反応をしたらいいかわからないのだ。
 ただ、立ったままなのも変だし、というわけで一応ラグに座っている。普段であれば隣同士で座るところだけれど、万里の発言にぎくしゃくしてしまって距離を空けて真正面から向き合っていた。

「――椋は今日、遅いんだったか」
「夕飯までには帰るって言ってたかな~?」

 ぎこちなく視線をさまよわせた天馬が、どうにか声を絞り出す。一成も何だか妙に焦ったような声で答えてしまうけれど、天馬はそんなことを気にしている余裕もない。

「そうか。漫画出しっぱなしとか珍しいな」

 視線の先は、傍らのローテーブルだ。キラキラとした表紙の少女漫画が積み上げられていて、ちょっとした塔のようになっている。いつも整理整頓を欠かさず、漫画は本棚にきちんと仕舞う椋にしては確かに珍しかった。

「時間がちょっと押してて、慌てて出かけてったからねん」

 出がけの様子を思い返してそう言えば、天馬は「そういえば、九門も慌てて出かけてったな」なんて答えていて、その声は段々と普段の調子を取り戻しつつある。
 それに気づいた一成は、同時に察していた。恐らく天馬は、このまま話題を逸らそうとしている。具体的には、万里の発言をなかったことにしようとしている。
 気づいた一成は、動揺やためらいをすぐさま打ち消した。ここまで万里が全てを整えてくれたのだ。今がチャンスに違いない。ここまで来たら、もう覚悟するしかない。

「――テンテン、さっきの話ってマジ?」

 深呼吸をしたあと、真っ直ぐと天馬を見つめて言葉を放った。いつもの軽やかさは微塵もなかったけれど、そんなことに構っていられる余裕は一成にない。ここを逃せば、二度と天馬の本音を聞けないかもしれない、といういっそ強迫観念めいた気持ちが一成を決心させていた。
 天馬は明らかにうろたえた様子で、「何のことだ」なんて言い出しそうだったので、一成は素早く言葉を継いだ。

「オレとえっちしたいって、今も思ってるってほんと?」

 部屋に乗り込んできた万里は、天馬を放り込んだあと言ったのだ。「天馬は、今でもお前とセックスしたいと思ってる」と。

 ついこの前、万里を誘ってカフェへ赴いた時一成は一通りの相談をしている。天馬のストッパーが強すぎるという話ではあったけれど、一抹の不安は別のところにあった。
 天馬は一成を心から大切にしてくれているし、一片たりとも気持ちを疑ったことはない。だけれど、そういう雰囲気になっても全く手を出してこない現実に、さすがに一成も考えてしまったのだ。
 天馬は自分のことが大好きだけど、もしかしたらもう、えっちなことをしたいとは思っていないのかもしれない。
 抱きたいと思っている、とは言われていた。押し倒してしまったらどうしようというためらいで、なかなかキスに至らなかったことも知っている。
 それは一成にとって天馬への愛おしさを募らせる話でしかなかったし、今も具体的な行為に及ばないのはそういうことだろう、とは思っていた。だけれど、天馬への信頼とは別方向で心配だったのだ。
 軽いキスだけではなく、互いの熱を高め合うような口づけを交わし合ったあとでも、天馬は穏やかに「何もしないから安心しろ」と告げる。あまりにもそれが何度も繰り返されるので、天馬の中では性欲云々とは折り合いをつけてしまったのではないか、とついつい考えてしまった。
 まあ、その辺りもひとまずはストッパーを外してから詳しく聞こう、とは思っていたのだけれど。万里は諸々をすっ飛ばして回答を用意してくれたわけで、ここは全力で感謝して本人に聞くしかない、と一成は決めたのだ。
 天馬は、一成の決意を敏感に察した。
 一成の柔軟性の高さは目を見張るものがあるし、混乱はしても状況はすぐに把握したのだろう。その上で尋ねられた言葉はまったくの一成の本心で、恐らくずっと確認したいと思っていたに違いない。だからこそ、まなじりを赤く染めて、羞恥を残しながらもきっぱりと尋ねたのだ。
 万里の言葉。天馬は自分と、性行為に及びたいと望んでいるのかどうか。
 顔を赤くしながら、真剣なまなざしで告げられた問いに、天馬は唇を結んだ。
 この話の行き着く先は当然予想できた。「イエス」と答えれば、その先についての話になるだろう。恋人として交際を始めてからもうすぐ一年になるのだ。キスまで長かったけれど、それ以降はゆるやかながらステップアップしているし、流れとしては体を重ねることになってもおかしくはない。
 だから、天馬がそれを良しとしないのであれば「ノー」と答えればいいのだということはわかっていた。
 だけれど、天馬の脳裏に浮かぶのは初めて一成とキスをした時の記憶だった。
 大学の入学式を終えてから少し経って、201号室で一成の唇に初めて触れた。やわらかな感触に眩暈のするような幸福を覚えたことは、この前のことのように思い出せる。ただ、今脳裏に浮かんでいるのは、そのほんの少し前の光景だ。
 天馬は一成を大切にしたくて、傷つけたくない。だから、キスの先を望んでしまう自分の理性が信用できなくて、キスをするのにいい雰囲気になっても全力で回避していた。結果として一成は、天馬は自分のことが好きではなくなった、と解釈したのだ。
 あの時浮かべた微笑みは、天馬の胸に未だに突き刺さっている。傷ついた心を隠して、全てを美しい笑顔に閉じ込めるような表情。
 よくできた笑顔を浮かべることに慣れた人間だとは知っている。だけれど、自分の前でだけは心のままの表情を浮かべてほしかった。それなのに、よりによって天馬自身が、心を押し殺した笑顔を浮かべさせてしまった。ちゃんと友達に戻るから、なんて言わせてしまった。
 もしも今、天馬が「ノー」と答えたなら一成は同じ笑顔を浮かべる。わかっていたから、嘘なんて吐けるはずがなかった。
 何よりも、一成が覚悟をして心からの言葉を告げたのに、自分は誤魔化して答えるなんてことをしたくなかった。だから、天馬はただ真摯に告げるしかないのだとわかっていた。
 たとえ嘘でも、一成に触れたくないなんて言葉を口にできるはずもない。天馬は大きく深呼吸をしたあと、真剣なまなざしで口を開く。

「――お前を抱きたいって、ずっと思ってる。キスしたいって思った時からずっとだ。でも、一成の負担になることをしたくない。お前を傷つけたくない」

 一成が具体的な行為まで把握しているかはわからなかったけれど、自分が望んでいることは一成の負担がどうしても大きいのだ、と告げる。
 体を重ねたいと望んではいる。ただ、どうしたって本来の機能としては不自然な行為なのだ。天馬が一成に望むのはそういうことで、つまりは一成が苦しい思いをすることになる。それは純粋に人体構造の話なので、二人が互いを大切に思い合っていることとは別の話なのだ。
 天馬から告げられる言葉を、一成はただじっと聞いていた。
 思いの外きちんと具体的なことを把握している事実に驚きはしたものの、つまりそれほど真剣に自分との行為を考えていてくれたんだな、とわかって一成の胸は温かな喜びに満たされる。
 さらに、天馬が言うのはつまるところ「一成を大事にしたい」という一点に集約されるのだ。「一成を傷つけたくない」――その言葉が、どれほどの切実さと決意でもたらされているのか、一成は一片たりとも疑わない。
 大事にしたい。一つだって苦しい思いをさせたくない。痛いことも、辛いことも、何一つ知らないでいてほしい。降り注ぐように愛されているからこその言葉だとわかっている一成は、静かにうなずいた。
 天馬の言葉をきちんと受け取ったのだと。その心を、望みを、あますところなく理解したのだ、という意味で「わかったよん」と告げれば、天馬は明らかにほっとした表情を浮かべた。一成がわかってくれた、ちゃんと伝わった、という安堵だろう。
 ただ、一成はここで終わりにするつもりなんて微塵もなかった。
 天馬の気持ちはよくわかった。大事にしてくれることが嬉しい。だけれど、一成は自分の望みを知っている。そうでなければ、万里に相談なんてしていないし、天馬のストッパーを外す方法についてここまで本気で考えていない。

「おけまる。テンテンの気持ちは、めっちゃよくわかったよん」

 心からの言葉とともに、一成は笑顔を浮かべる。何かに挑むような、揺るぎない決意を宿した笑顔だ。天馬がぱちり、とまばたきをするのを見つめた一成は、伝えたいこと、言いたいことを頭に並べて、力強く言った。

「次はオレの気持ち聞いてくれる?」

 天馬は何だか「方向性が違うぞ」みたいな顔をしていて、戸惑いを浮かべているけれど。一成はもう、止まらないことを決めたのだ。