星の数ほどキスをして
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映画館から少し歩いたところにあるパン屋で、一成は食パンの焼き上がりを待っている。外はさくさく、中はふわふわもっちりの食パンは、トーストするとバターとよく合う。一成はもちろん、天馬もお気に入りの一品である。
最近買ってなかったな~というわけで、帰りに寄ってみれば食パンはちょうど品切れだった。ただ、次の焼き上がり時間は決まっていたし、そう長く待つわけではないようだったので、一成は店内で待つことにした。
久しぶりに訪れた店だったので、食パン以外も購入しようとトングを持つ。朝食は食パンだから、ちょっとした軽食用にしようか、それともおやつがいいかな、なんて考える一成は、一つのパンに手を伸ばした。チョコレート入りの、丸みを帯びた四角形。パン・オ・ショコラだ。
以前、この店を訪れた時に何種類かパンを買って帰った。どれが好き?と天馬に色々試食させた結果、特にお気に入りだったのがこのパン・オ・ショコラだったのだ。天馬が喜ぶだろうと真っ先にトレーに乗せる一成の唇には笑みが浮かぶ。
成長するにつれて、多少は天馬の味覚も変わったし、一応ニンジンが食べられるようになったことは知っている。(その辺りは恐らく臣と誉の功績だ)
ただ、大好きというわけではないし、基本的な嗜好はあまり変わっていないのだろう。野菜全般よりもハンバーグや唐揚げ、エビフライなんかが好きなのはよく知っている。
体調管理も仕事の内ととらえている天馬なので、好きなものだけを食べることもないし、ちゃんと栄養バランスを考えて野菜も食べている。ただ、本質的にはお子様ランチみたいなメニューが好きなのだ。
一成はそれを心底かわいいなぁと思っているけれど、本人に言うと微妙な顔をするので言ってはいない。バレている気はするけれど。
その延長線上というわけではないとは思うものの、天馬はわりとお菓子系のパンが好きだった。クリームたっぷりの甘いパン、というよりチョコレートやジャムの入ったパンを好むのだ。なので、一成はリンゴのデニッシュもトレーに乗せる。これも中々高評価だった。
惣菜系のパンはどうしようかな、と思ったのは、家には作り置きの惣菜が常備されているからだ。もちろん、一成が作ったものではない。
天馬の家は、基本的にハウスキーパーによって維持管理されている。一人で住むにはやたらと広い家だし、多忙を極める天馬が毎日自分で家事を行うほうがよっぽど非現実的だ。そもそも、天馬は幼少期から家に家政婦がいる生活をしてきたので、ハウスキーパーを頼むことも当然という認識なのだ。
そういうわけで、天馬の家には月に二度から四度ほど、昔から皇家と縁のあるハウスキーパーが出入りしている。部屋全般から水回りなどの掃除、基本的な洗濯物や、料理の作り置き、クリーニングの受け渡しや備品の管理など、内容は多岐に渡る。
昼間しか訪れないとは言え、天馬の自宅に出入りしているという関係上、一成はもちろん夏組とも当然顔見知りである。むしろ、一成に至っては持ち前のコミュニケーション能力を発揮してずいぶん親しくなった。
天馬宅でのホームパーティーでは、料理の献立アイディアや実際の調理においてちょっとお世話になったくらいだ。
もっとも、天馬も家の全てを任せきりにしているわけではない。プライベート空間として寝室は出入りしないよう契約しているし、リビングも対象外にしているはずだ。なので、この辺りは通っていた時から一成が掃除をしていた。
今回、一ヶ月間一成が一緒に暮らす、ということは伝えてある。仲の良い友達という範囲の付き合いしか見せていないので、ルームシェアの一環だと思われているらしい。
もっとも、たとえ恋人同士だと思っていたとしても、その辺りを詮索するようなことはしない、というのは天馬の弁である。まあ、そうでなければ長く付き合うことはできないだろうなと一成も思っているので、口の堅さは信用していた。出入りしているハウスキーパーの人となりも知っているため、なおさら。
ただ、本当なら掃除も洗濯も料理もオレができたらよかったんだけど、と一成は思っていた。
せっかく一ヶ月間天馬の家で暮らすのだから、ハウスキーパーではなく一成が家のことを引き受けたほうがいいのではないか、と天馬に言った時のことを思い出す。
ソファで何でもない話をしていた時に、一成はおずおずと切り出した。しかし、天馬はあっさり言った。
――家事をさせたくて呼んだわけじゃない。それに、お前だって忙しいだろ。
何当たり前のことを言ってるんだ、という口調だった。もしも一成が、家事だけに時間を割ける人間で、家事の類も大好きだとかそういう場合は頼んでたかもしれない、と天馬は言っていた。
しかし、現実問題一成は一成の仕事がある。
日本画の制作に取り掛かっていないだけで個展の打ち合わせはあるし、グラフィックデザインの仕事は通常通り。舞台稽古もそろそろ始まるし、合間にはテレビの収録も入っていた。
移動時間が減ったという利点はあるし、自宅でできる仕事もあるため比較的時間が取れるとは言え、やたらと広い天馬の家を一成一人で管理するには確かに無理があった。
――お前の料理が食べられるのは嬉しいけどな。でも、無理をさせたいわけじゃないから、頼れるものはちゃんと頼る。
天馬が喜んでくれるので、時々一成はキッチンに立つ。ただ、それはあくまで簡単なものを一品作る程度で、あとは作り置きを取り出してあたためるくらいだ。ちゃんと料理できなくて悪いなぁ、と一成は思っていたのだけれど、それを見透かすような言葉を天馬は告げたのだ。
――家のことをやりたいって思ってくれるのは嬉しい。だけど、できないことを悪いって思うな。一成が忙しいのは充分わかってる。
そう言う天馬は真摯なまなざしを一成に向けていた。心から言っているのだと、わからないわけがない。一成は、せっかく家にいるのに大したことができないことを申し訳ないと思っていたけれど、天馬はそれを否定するのだ。
――お前の時間を全部オレのために使ってくれなんて言えないだろ。一成には一成のやるべきこととかやりたいことがある。お前に我慢させたいわけじゃないからな。
そのための手段を天馬は持っていたし、幸い利用できるほどの財力は充分あった。それなら、当然一成に無理をさせない選択をする、と天馬は言うのだ。どちらか一方が無理をして成り立つ関係なんて望んでいないのだから、と。
それは、一成の気持ちを尊重してくれるからこその言葉だ。家にいるんだからやって当たり前、なんてことは言わない。一成には一成の仕事があってそれは一成だけの世界であり、重んじられるべきものだと思っているからこそ。
――それに、全然やってないわけじゃないだろ。掃除とか洗濯もしてくれるし、料理だって作ってくれる。感謝してる。
――それくらい全然。寝室入れるのってオレたちだけだし、洗濯もまあ、自分の洗うついでだし。料理とかめっちゃ簡単なやつだけだし。
あまりにも真剣な顔で感謝されるので、思わず一成は言った。
実際、一成は大したことをしているつもりはない。寝室は比較的恋人同士としての語らいの場になるので、他人を入れるのは抵抗があった。恋人としての写真を飾っていることもあるので、実際入られると困るという現実的な理由もある。
ただ、一成としてもこの場所は自分たちのテリトリーという意識があるので、掃除くらい当然だった。リビングもわりとその延長線上だ。
洗濯物に関しては、天馬の分ならいざ知らず自分の洋服を頼むのは気が引けた。なので、通いの段階からずっと自分で洗濯しているので、ついでに天馬の下着なんかは洗っている。洗濯表示が謎すぎる天馬の私服は、潔くハウスキーパーに頼んでいるけれど。
料理に関しては、メインや副菜は大体作り置きされているし、冷凍の宅配食も利用しているので、作るのはスープだとか味噌汁だとかそれくらいだ。ただ、天馬はそれだけでも一成が意外に思うくらい喜んでくれる。なので、簡単にできる料理はもう少しちゃんと覚えたいなぁとは思っている。
――大体、オレは何もしてくれなくてもいいくらいなんだよ。家事一切やらなくても、ただお前がいてくれればいい。
そう言った天馬は、一成に腕を伸ばして肩を抱く。そのまま引き寄せられて、天馬の肩口に顔を埋めた一成は笑い声を弾けさせた。
――テンテンはオレのこと甘やかしすぎじゃない?
――甘やかしたいんだよ。
言いながら、ぎゅう、と腕に力を込める。一成は天馬の背中に腕を回して、同じように抱きしめ返した。合わさった胸から心臓の音が伝わって、同じリズムを刻んでいることを知らせた。
――何もしなくたっていい。ただ一成がいればいい。帰ってきて、お前がいてくれたらそれだけでいい。
静かに告げられる言葉は、しかしはっとするほどの熱を宿していた。天馬は心から思っているのだ。家の仕事をするとかしないとか、そんなことは大した話ではない。大事なのは、家に一成がいてくれること、それだけだ。
一緒に暮らしてほしい、というその意味。
天馬が何より求めていることは、もちろん一成の能力ではなくて、そこにいてくれることなのだ。ただ一成の存在を求めている。その欲求が一成には嬉しいし、素直にそう言って手を伸ばしてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。
――でも、お前はできることならやりたいってやつだしな。だから好きにやってくれていい。実際オレも助かってるし、ちょっと嬉しいのも事実だ。
腕をゆるめた天馬が体を離して、二人の間に距離ができる。天馬は手を伸ばして一成の髪の毛に触れた。指先で愛おしそうにそっと撫でてから、こぼれだしそうな笑みで言葉を続けた。
――何か結婚してるって感じがするだろ。
そう言った天馬は、頬に手を添えて鼻先に軽くキスをした。それから、頬やこめかみにキスをされるので、一成はくすぐったそうに身をよじった。
――にゃはは、テンテン、待って待って。
――待たない。
きっぱり言うと、言葉の通り天馬はキスの雨を降らせる。それを受け入れる一成は、嬉しいやら恥ずかしいやらでどういう顔をしたらいいのかわからない。
プロポーズを受けて以降、天馬とのスキンシップは格段に増えた。しかし、最近――一緒に暮らし始めてからその比ではないくらいに触れ合う時間が多くなった。恐らくそれは、天馬の疲労度とも比例しているのだろうと一成は思っているし、たぶんこれは天馬の甘えの形なのだ。
それを真っ直ぐ向けてくれることが嬉しくて仕方ないし、幸せな気持ちで胸が満たされる。触れる指先が、唇が、合わさった胸が、どれほどまでに一成のことが大好きなのかを伝えてくれるのだから。
ただ、あまりにも愛情がストレートすぎて、赤面してしまうのも事実だった。天馬はそれが楽しいらしく、恥ずかしがって逃げようとするといっそうスキンシップ過多になる傾向はあるけれど。
(テンテン、マジでかっこよすぎるよねん……)
天馬とのあれこれを思い出した一成は、トングを持ったまま内心でそうこぼした。今日見たばかりの映画もあいまって、至るところにキスを送る天馬の姿がそれはもう鮮明によみがえっている。複雑な気持ちも戻ってきてはいるけれど、それを上回る別の衝動も感じていた。
ただ素直に、一成は思っている。映画で見た天馬や記憶の中の天馬を思い出した一成は、脳裏に浮かぶ大好きな人に対して沸き立つ衝動を自覚した。今オレ、めっちゃテンテンに触りたい。
そう思った一成は、うずうずするような衝動に駆られている。何か行動を起こしたいような、そんな気持ちになっていると、食パンの焼き上がりを知らせる声が響いた。はっと我に返る。一成は一つ息を吐き、そうだった、目的はこれだった、と焼き上がった食パンのもとへ向かったのだけれど。
一成は、自分の内に湧き上がった衝動をしっかりと認識していた。目を逸らすことなく見つめれば、素直すぎる欲望はきちんと言葉になっている。今の自分が望むこと、したいこと。簡単だ。今オレ、めっちゃテンテンとちゅーがしたい。天馬のことを思い浮かべた一成は、心から思っている。