星の数ほどキスをして
―Romance kiss―
――ってわけで、ちゅーしていい?
ソファに座る天馬の上に、真正面から向き合う形で一成がまたがる。それから告げられた言葉に、「は?」という一言だけで済んだのは上出来だ、と天馬は思う。
今日は比較的余裕のあるスケジュールだったので、いつもよりは早い時間に帰宅できた。玄関まで出迎えてくれる一成に心底嬉しくなりつつ夕食を取り、今日の話を聞けたことも天馬に満足感を与えてくれた。
天馬の映画を見たこと(どこのシーンが良かった、と細かく感想をくれる)、一成のファンに会ったこと(一成が嬉しそうで天馬も喜ばしい気持ちになる)、二人が好きなパン屋でパンを買ってきたこと(天馬が好きなパンを覚えていてくれたことが嬉しい)。
一つ一つを楽しそうに報告してくれるので、天馬の疲れもゆるやかに溶けていく気持ちだった。
風呂にも入って、すっかりリラックスしながら台本を広げていた。すると、風呂上がりの一成が隣に座ると、「忙しい?」と尋ねてきた。確認程度で台本を読んでいただけだったので「いや」と首を振れば、一成がにっこりと笑った。何か用があるのだろう、と台本をローテーブルに置く。
その様子を確認した一成はいそいそとにじりよってくると、ソファに座る天馬の上にまたがった。ふわりと香るシャンプーがオレと同じ匂いだな、と場違いなことを思ったのも一瞬だ。正面の高い位置にある一成の顔を、天馬はぽかんとした表情で見つめる。
一成は淡々とした調子で「今日、テンテンの映画見たって言ったじゃん?」と言ったあと、冒頭の台詞を続けたのだ。――ってわけで、ちゅーしていい?
「なんでそうなるんだよ」
一声発して固まったあと、我に返った天馬が言葉を吐き出す。映画を見た、はわかる。しかし、そこからどういう理由で「ってわけで」につながるのかが理解できなかったのだ。一成は真顔で答えた。
「テンテンめっちゃちゅーしてたから、ちょっと嫉妬しちった。だから、その分オレがいっぱいテンテンにちゅーしようかなと思って」
天馬は思わず黙った。不意打ちで嫉妬宣言されたこと自体、天馬の心を浮き立たせるには充分だったのに、その上で「だからいっぱいキスしようと思って」と言われて、何らかのメーターを振り切りそうだった。
「唇のキスなら結構よく見てるから、いつものだーって思うんだけど。今回のはちょっと違うじゃん? 唇以外にも色々キスしてるから、そういうのはオレだけがいいなって」
若干恥ずかしそうな空気を流すものの、一成の言葉は強い。隠すつもりはないらしく、きっぱりと言葉を続けた。
「それに、テンテン普段いろんなところにキスしてくれるっしょ。だから、映画見たらテンテンのキスいっぱい思い出しちゃって、今日ずっとめっちゃテンテンにちゅーしたいなって思ってたんだよねん」
何かとんでもない爆弾発言をされている、と天馬は思った。一成からの愛を疑ったことはないけれど、あまり直球でこういったことを言われた経験はない。なので、突然の一成の言葉に天馬は心底戸惑っていた。嫌とかではなく、あふれ出てくる喜びをどうしたらいいかという意味で。
「映画でいっぱいキスしてたから、それよりもっとたくさんテンテンにちゅーしたいなって思って。だめ?」
天馬の戸惑いを敏感に感じ取ったらしい一成が、心細げな空気を流してそう尋ねる。もしかして嫌なのかもしれない、と思っていそうな雰囲気に、天馬は勢いよく答えた。
「だめなわけあるか。というか、お前は許可取る必要ないだろ」
むしろ、こうやって一応尋ねてくるのが一成の奥ゆかしさなのかもしれない。人生を共にすると決めた相手だ。互いの心を確かめ合った、唯一無二の存在。許可がなくても触れることを許し合っていると知っている。それでも、ちゃんと確かめようとするいじらしさが天馬には愛おしい。
一成は天馬の言葉に、ほっとしたように笑った。心からよかった、と思っているらしいけれど、そんな不安なんて要らないのだと、どうすれば伝えられるのだろうと天馬は思う。
しかし、そんな天馬の思案などよそに、一成はすぐに表情を一変させて言った。「そかそか、じゃ、テンテンは何もしないでねん!」という言葉は力強い。
「何もしないでって、どういう意味だ」
純粋に疑問だったので尋ねると、一成が笑みを浮かべた。さきほどまでのほっとしたものでもなければ、明るい笑顔でもない。普段の彼からは想像もできない、しかし天馬はよく知っている艶めいた微笑。
「映画でしてたキス、オレがするからって意味」
そう言うと、一成はするりと天馬の右手を撫でた。そのまますくい取り、自分の手のひらを合わせる。そこまで大きさは変わらないけれど、指先の形や厚みは少しずつ違っている。
何より、天馬はどんな装飾品も身につけていないけれど、一成の左手には指輪が光っていた。薬指に光る指輪を嬉しそうに見つめたあと、一成はささやくように言った。
「テンテンの手、かっこいいよねん。男らしくて好き」
骨ばった手と厚い手のひらを指して一成は言う。さらに、嬉しそうに「この手で触ってもらうの好き」と続けるので、本格的に天馬はどうしたらいいかわからなくなってきた。
何もするなとは言われているけれど、果たして自分はそれをどこまで守ればいいのか。抱きしめることは許されるのか。律儀に守る必要はないのかもしれないけれど、一成がそうしてほしいというなら、できるだけ天馬は叶えてやりたいのだ。
そんなことを思っていると、一成は天馬の右手を自分のほうへ引き寄せる。それから、人さし指に音を立ててキスをした。
「最初は指先にキスだよねん」
まなじりを赤く染めた一成の言葉に、そういえば映画の話をしていた、と天馬は思い出す。すっかり抜け落ちていたけれど、そういえばそういう話だった。
「次は手の甲……にゃはは、これなんか照れんね」
言いながらも、一成は天馬の手を恭しく掲げて手の甲へ唇を落とす。天馬自身は、演技はもちろん一成相手にこういうとはしているけれど、自分がされるのは初めてだった。伏せられたまつげや、そっと近づく唇は何だかとても綺麗で絵のようだ、と見惚れる。
思わずその様子を見つめていると、一成は何だか困ったような雰囲気を流してつぶやく。
「髪……ってこの場合、どうすんだろね」
映画では、相手役の女優がロングヘアだったので一房すくい取ってそれに口づけている。ただ、天馬の髪は短髪なのだ。一成はしばし考え込んだあと、おずおずとした調子で前髪のあたりにキスをした。肩に置かれた手が熱い。
覆いかぶさるような影が離れていく様を目で追えば、一成とばちりと目があった。若草色の瞳が揺らめいて、「あんまり見ないでよ、テンテン」なんて言うけれど、無理な相談だった。
だって、今天馬に口づけを送る一成の様子は、あまりにも綺麗で艶めいていて、一瞬たりとも目が離せない。この瞬間の全てを焼きつけておきたいと思うくらい、天馬の胸を高鳴らせるのだ。だから、強い視線を送り返せば一成は意味を理解したらしい。
困ったような、それでいて花がほころぶような笑みを浮かべた一成は、天馬の額へ手を伸ばす。絵筆を握り、軽やかにスマートフォンを操作する指先が、繊細な宝物に触れるような雰囲気で天馬の髪を掻き分ける。あらわになった額へ、そっと口づけを落とした。
「――おでこが次」
ささやくように言ったあと、天馬へちらりと視線を寄越すのは見られていることを自覚しているからだ。一つだって見逃すものか、という天馬の意志をすでに理解した一成は、行動で答えた。いいよ。恥ずかしいけど、全部見ててね。声ではなく伝えられた言葉を受け取った天馬の胸は、言いようもなく乱される。
「……次はほっぺにちゅーだねん」
顔に朱をのぼらせた一成が、ゆっくりと頬に唇を寄せた。やわらかな感触が触れて、音を立ててから離れていく。耳のそばで響いたリップ音に、天馬の心臓がどくりと脈打った。
抱きしめたい。与えられるキスだけではなく、自分からその唇を奪いたい。しかし、一成はきっと順番通りにキスをしたがっている。それならまだ、待ってやりたい。ぎゅっと拳を握った天馬はただ自分に言い聞かせる。
そんな天馬の様子を知ってか知らずか、一成は改めて天馬と向き合って、嬉しそうに笑う。頬を赤く染めたまま、光がこぼれるような微笑を浮かべて言う。
「テンテンにいっぱいちゅーできて嬉しい」
言いながら、そっと顔を近づけると鼻先をすり寄せてくる。心からあふれた愛情が形になったような仕草に、天馬は思わず手を伸ばしかけてどうにか思いとどまる。ただ、抱きしめることはできなくても、と腰に手を回した。一成はびくりと体を震わせたけれど何も言わなかったのでこれはオッケーらしいと判断した。
「――次は鼻だね」
熱を宿したままの若草色の瞳で、一成は天馬を見つめて言った。こぼれていった言葉もきっと、同じ熱を宿している。真っ直ぐと見つめ返す天馬の瞳に点るものも一成と一緒だ。一成は熱っぽい唇で小さく笑って、天馬の鼻先にキスをした。
一つ、一つ、映画と同じように一成はキスを辿る。指先から始まり、手の甲、髪、額、頬へと続いて、今の鼻先で六箇所目だ。映画では21歳から27歳までの思い出とともに口づけを送ったので、全部で七つのキスが登場する。だから、次が最後のキスになると天馬も理解している。
「――最後は唇」
吐息を紡ぐような声でそう言った一成は、両腕を天馬の首に回した。潤んだ目で天馬を見つめると、ゆっくりとアメジストの瞳へと降りていく。
一成は天馬の下唇を吸い上げるようにして、唇を重ねた。じっくりと、丹念に交わされる口づけに天馬は腰を抱く手に力を込める。わずかに身じろぎをしたものの、唇は重なったままだ。
少しずつ角度を変えながら、輪郭を確かめるような長いキスをして、一成はようやく唇を離した。
至近距離でこぼされる熱い吐息。若草色の瞳は熱に浮かされるようだ。天馬は自分も同じ目をしていることを知っている。一成はそれに吸い寄せられるように、もう一度唇を重ねた。わずかに開いた天馬の唇へ舌を侵入させると、天馬の舌が待ち望んでいたように応えた。
最後、という言葉を天馬はしかと認識していた。もう我慢しなくていい。互いの舌をからめあいながら、天馬は一成の背中に腕を回した。強く抱きしめると口づけが深くなる。隔てる距離はいらない。わずかな隙間も許したくない。何もかもが溶けあってしまいたい。
天馬が口内を探るように舌を動かせば、次は自分の番だというように一成が応えた。舌を舐めて、歯列をなぞり、歯茎に触れてキスを交わす。飲み込めなかった唾液があふれて唇から垂れていくけれど、どちらのものなのかもわからないし、どうでもよかった。
「っ、はぁ、テンテン」
呼吸の合間に唇が離れた瞬間にこぼれた声。切羽詰まるような響きに、天馬の体は無意識に動く。強く一成を抱きしめたあと、ソファに押し倒した。
「一成」
落ちた声は、冗談のように熱かった。それを感じ取った一成が、びくりと震える。しかし、恐れではなく期待であることを天馬は知っているし、名前一つで全ては伝わっていると確信した。これからすること、したいこと。全てを込めて紡いだ名前だ。
一成は同じ熱を宿したまなざしで天馬を見つめた。それから、両腕を広げて天馬を迎え入れる仕草が何よりの答えだ。