星の数ほどキスをして
―Calling you―
『悪い。今日は帰れなくなった』
スマートフォンの着信に出れば、開口一番天馬はそう言った。一成は少しだけ沈黙を流してから、「おけまる~」答えを返す。思いの外残念そうな声が自分から漏れたので、一成は努めて明るい調子で言葉を重ねた。
「だいじょぶだよん。オレ今、下絵描かなきゃだし!」
だから一人でも寂しくないよ、という意味で告げた。
馴染みの画廊から、新しく日本画制作の依頼があったことは天馬にも伝えてある。納期を逆算すれば、天馬との期間限定の同居生活が終わるころに自宅へ戻って作業を始めれば間に合うだろう、という計算だ。それまでは天馬の家でできることをやると告げているし、つまりそれこそが下絵の制作だった。
下準備は合間に家へ帰ってもできる。下絵さえ完成すれば、あとは自宅で転写や彩色に入れるのだから、納期には間に合うはずだった。
『本当なら帰れるはずだったんだけどな。機材トラブルがあって待たされたと思ったら、どうしても今日中に撮影するつもりらしい』
「マジか~。もしかして徹夜?」
『かもしれない』
天馬の自宅から見える夜景をスケッチしていた手を止めて、一成は天馬とやり取りを交わす。
ロケなどで遠出しているだとかで、天馬が帰ってこない日は当然あった。ただ、それは事前にわかっていることだったので、あくまで予定の一つとしてとらえていた。
だけれど、こんな風に突然「帰れない」と言われると、知らない場所にいきなり放り出されたような心もとなさを覚えてしまう。もちろん一成はそれを表に出しはしないけれど。
「てか、テンテン今どこ? スタジオ?」
『いや。急きょ取ったホテルだ。機材トラブルが解消するまで待機中ってことだけど、どうせ今日は遅くなるから仮眠でもしとけってことだろ』
「え、じゃあ、オレと話してる場合じゃなくね?」
睡眠にあてるべき時間ならそうするべきでは、と素直に思って言った。しかし、天馬からは重々しい声で否の答えが返る。
『寝るよりお前と話してるほうが疲れは取れる』
「寝たほうがいいと思うけどな~?」
真面目な調子で言われた言葉に、一成は笑いながら答えを返す。だけれど、天馬の気持ちは充分伝わっていたし、それは弾んだ声で天馬も理解していただろう。実際のところは置いておいて、そんな風に言われることが嬉しいのだ。一成は浮き立つ心そのままに言葉を重ねた。
「それじゃ、テンテン横にはなっててよ。寝るまで話しよ」
横になるだけでも疲れは取れるし、電話しながら寝落ちしてくれてもよかった。天馬は数秒考えたあと「そうする」と答えたので、一成はしみじみと「本当、テンテン素直になったなぁ」と感慨深い気持ちになっていた。
『でも、お前こそ大丈夫なのか。絵描いてる最中なんだろ』
「だいじょぶだよん。まだモチーフ何にしよっかな~って段階だし、オレ一回エンジンかかっちゃうと早いから!」
すでにいくつか案はできていた。あとは、どれを選ぶかの段階だったし、ここまで来れば第一段階はほとんどクリアしていると言ってもいいくらいなのだ。天馬は一成の言葉に「それならいい」と答えた。電話越しでも伝わるほど、やさしい声をしていた。
一成の胸がきゅうっと締めつけられる。会いたいな、と思う。きっとやさしく目を細めて笑ってくれる。その顔を見たいな、と思う。叶わないとわかっていても。
「――本当だったら、寝る前のちゅーもしたいところなんだけどねん」
心から思って言った。天馬出演の映画を見て以降、一成は積極的にキスをするようになった。元々スキンシップ過多の人間ではあったけれど、映画でのキスシーンに触発されたのだ。
たとえば、いってらっしゃいだとかおやすみだとか、そういうキスは特にしてこなかったことに気づいて「してもいい?」と尋ねた。もちろん天馬が断るわけもないので、挨拶代わりのキスが追加された。
なので、眠る前の天馬にキスをしたかったな、と一成は思う。
天馬の帰りは遅くなることがほとんどだ。できるだけ起きて待っていたいところだけれど、あまり夜更かしをすると天馬が一成の体調を心配するので適度なところでベッドには入る。
夜遅くに天馬はベッドに潜り込んでいるらしいけれど、一成を起こさないよう気をつけているようで、その場面に遭遇したことはほとんどない。なので、大体は起きると隣に天馬がいるわけで、おやすみのキスができる機会はそんなに多くなかった。
「テンテンにおやすみのちゅーするの、難易度高すぎじゃね?」
『お前のほうが先に寝てるから仕方ないだろ』
「そーなんだけど! おやすみのちゅーだけ、回数少ないの気になるじゃん」
『そうでもないだろ』
ブツブツとこぼせば、天馬が面白そうに言った。ん?と思ったのは、その声が何だか楽しそうで、イタズラを仕掛けるみたいな響きをしていたからだ。加えて、おやすみのキスだけ回数が少ないことを否定するということは、どこかで実行しているという推測が成り立つ。
一成は数秒考えたものの、持ち前の察しの良さを発揮して、一つの選択肢に辿り着く。
「……テンテン、もしかしてオレが寝てる間におやすみのちゅーしてる?」
『全然起きないから、安心してるんだなって思うと嬉しい』
しれっと返ってきた答えに、一成は思わず手のひらに顔を埋めた。耳が赤いのは自覚している。寝ている間に行われていることを知った上、天馬が当然のように言ってのけるので羞恥が襲ってきたのだ。一成はどうにか声を絞り出す。
「テンテンばっかりずるい。オレだっておやすみってちゅーしたい」
『それ以外はしてるからいいだろ。寝顔見ながらキスするくらい許せよ』
若干不服そうな響きで天馬が言う。それは恐らく、一成が端々で不意打ちのキスを仕掛けているからだ。
朝の日課として、起きれば「おはよう」の挨拶とともに額や頬に唇を寄せる。それ以外では、「いってらっしゃい」や「おかえり」など、定番のキスシーンが日常には追加された。それ自体はすんなりとなじんだので、至って自然な触れ合いが発生しているのだけれど。
たとえば天馬が一成にコーヒーを淹れてくれた時、受け取りながら「ありがとねん」と言って頬にキスをする。
デザインが行き詰まって唸る一成が、筋トレ中の天馬のところへ近寄ってくると、無言で唇にキスをして去っていく。
着替え中の天馬をぼんやり眺めていたと思ったら、「テンテンってかっこいいよねん」とつぶやいて指先に口づけて笑う。
それ以外にも、電話を終えたと思ったら嬉しそうに近づいてきて唇を奪われるわ、明日の夕食について話していたらいきなり額にキスをするわと、不意打ちの例は枚挙にいとまがなかった。
最初こそ天馬は驚いて固まっていたものの、最近ではすぐにキスに応えられるようになったし、天馬も不意打ちを狙ってはいる。ただ、サプライズに関しては一成のほうがどうも上手なのだ。大体はしてやられている自覚はあった。だから、寝ている間にそっとキスをするくらいはいいだろうと天馬は思っている。
それに、こうやって触れ合いの時間が増えている理由を、天馬は薄々察していた。
一ヶ月の約束で始まった生活だ。叶うことならば延長することだって考えていたし、一成だって拒否はしないだろう。ただ、それは一成の仕事の都合だとかそういう諸々がクリアできればの話でしかない。どうしたって、天馬の家でできないことがある限り、いつか一成は家に戻らなければならない。
結局、一成に日本画制作の依頼があったことで当初の予定通り一ヶ月でこの生活は終わる見込みになった。仕方ないことだと、二人とも理解している。
その頃には、再開された天馬の映画撮影もクランクアップ予定だったし、ねじ込まれた慣れない会合もピークは過ぎるはずだ。いつも通りの忙しさに戻るだけだから、どうにか天馬も一人で生活していける。
わかっているからこそ、触れ合う時間がほしい。もうすぐ終わってしまうなら。いつでもそこにいてくれた人がいなくなってしまうなら。せめて今、ここにいる間はたくさん触れていたい。それは当然一成だけではなく、天馬だって同じ気持ちだ。だから、天馬は続きの言葉を口にする。
『それに、難易度高いからレアでいいだろ。たぶん、今日徹夜だったら明日はそこそこ早く帰れるから、おやすみのキスでも何でもしろ』
「マジで!? 約束だかんね! 絶対ちゅーするからねん!」
勢い込んで一成が言えば、電話の向こうで天馬は不敵に笑ったらしい。力強い声で「ああ、待ってる」と答えるので、一成は思わずしみじみとした声を漏らす。
「はあ、テンテン、マジで成長したね……」
昔の天馬なら、「帰ってきたらキスする」なんて言われたら顔を赤くしてうろたえていたに違いない。そんな天馬もかわいくて一成は大好きだったけれど、今の余裕な天馬もかっこよくて一成は大好きだった。
『お前、何か変なこと考えてないか』
昔の恥ずかしい自分を思い出しているのでは、という気配を敏感に察知した天馬が言う。一成は面白そうな口調で答えた。
「んー、テンテン全然恥ずかしがらなくなったなぁとか、キス上手くなったなぁとか考えてたよん」
過去の天馬を思い出すとともに、一成は天馬とのキスのあれこれも思い出していた。最近やたらとキスをしているので、その影響もあるのかもしれない。
「テンテン、初めてキスした時のこと覚えてる?」
『忘れるわけないだろ』
きっぱりと返ってきた答えに、一成は小さな笑みを漏らす。一成だって当然覚えているし、忘れるはずがなかった。傾いた太陽の光だとか、埃っぽい匂いだとか、遠くで響く誰かの声だとか。聞こえてしまうんじゃないかってくらいにうるさく鳴っていた心臓の音だとか、欲をたたえる天馬の瞳の美しさだとか。
『――ムードも何にもなかったけどな』
呆れるような面白がるような声で、天馬は言う。
二人が初めてキスをしたのは、MANKAI寮の倉庫だった。片付けを頼まれてあっちこっちに物を移動させたり、掃除をしたりしていた。
最初は特に意識をしていなかったはずだ。だけれど、「これはどこに持っていくんだ?」「ええとねん、ちょっと見せて」なんて、互いの距離が近くなった時、唐突に気づいた。今ここにいるのは、自分たち二人きりだと。
付き合い始めてからそれなりに時間は経っていた。キスがしたいという気持ちはあったけれど、中々実現はしていなかった。
寮暮らしということから二人きりになれる瞬間がほとんどないということもあったし、天馬は初めてできた恋人だったのでどういう手順を踏めばいいかわからなかったということもある。
一成は、天馬が自分とキスをしたいと思っているのか、思っていたとしてもいざキスをして幻滅するかもしれないし、と考えて尻込みしていた。
結果として、中々キスに辿り着かなかった二人である。
しかし、夕暮れの太陽の光が差し込む倉庫で、互いの瞳が混じり合った瞬間、唐突に理解した。今、この瞬間なのだ、と。言葉でも理性でもなく、ただ突き動かされる欲求に従って二人の唇はそっと重なった。
「オレららしくてぴったりじゃん? 倉庫には結構世話になってるし」
朗らかな口調で一成は言う。寮で何かと人目を忍んでいた二人にとって、倉庫というのはかなりありがたい場所だったのだ。基本的にあまり人が寄りつかないので、支配人の居場所さえ把握していれば人目を避けることができた。
「でも、本当テンテンもキス上手くなったよねん。最初はマジで触れるだけって感じだったのに、今はめっちゃえっちなキスできるし」
しみじみとした口調でこぼすと、電話の向こうで天馬が固まった気配がした。思わず一成が噴き出すと、上ずった声が返ってくる。
『――お前が原因だろ』
恥ずかしそうな声に、一成は心から答えた。こぼれていく喜びを隠しもしない声で、あふれ出る愛おしさを乗せて。
「うん。そだね」
一成とて理解している。天馬のキスが少しずつ変わっていったのは、自分と何度もキスを交わしたからだ。
最初は触れるだけのキスだった。何度も繰り返していくうちに、それだけじゃ足りなくなった。もっと深く感じたい。もっと別の顔が見たい。もっと気持ちよくなりたい。その一心で、二人のキスは少しずつ形を変えて行った。
「ぎこちないキスも知ってるし、今のテンテンの気持ちいいキスも知ってるの、すげー嬉しい」
戸惑うようにキスをしていた天馬が、次第にキスの仕方を覚えていった過程を一成は身を持って知っているし、それがたまらなく嬉しかった。
元々天馬は相手の反応を見ながら、自分の所作に反映させていくことが得意だ。それはキスにおいても遺憾なく発揮されて、一成の様子を注意深く観察しながら、何が気持ちいいのかどんなことをすれば喜ぶのかを理解して実践していった。
「テンテンとたくさんキスできんの、めっちゃ幸せだなって思うよん」
心から思って言った。今までのキスを知っているから、どんな風に変わっていったのかもわかる。拙かったキスも大切だし、今送られる情熱的なキスも大好きだと言えることが嬉しい。今、ここで天馬のキスを受け取れる自分でよかったと、一成は心から思っている。
『――そんなの、オレだって思ってる。お前にキスできるのが当たり前だなんて思ったことないし、正直いつでも一成に触りたいし……くそ』
最後の言葉は、どうやら独り言のようだった。一成ではなく自分自身に向けられていることはわかったけれど、どうしたのか、と一成は質問を投げる。天馬は悔しそうに答えた。
『こんな話してたらキスしたくなるだけだろ。寝られるか』
「あー、めんご~。えっと、それじゃ何か興味ない話しよっか? 胡粉の溶き方とかレクチャーする?」
『一成が話してる時点で興味が出るからだめだ』
「ええー……テンテン、オレのこと大好きじゃん……」
『そうだよ』
さらりと告げられた言葉に、一成は黙る。本当にテンテンは変わったな、と思ったのだ。
天馬は自分の好きという気持ちを隠すことなく告げるようになった。照れることなく、当然だという顔をしてくれる。それが嬉しくて、たまらなく幸せで、くすぐったくて一成のほうが照れてしまう。
「――めっちゃテンテンに会いたいから、早く帰ってきてねん」
どうにか、それだけ告げると電話の向こうで天馬が笑ったようだ。やさしい声で「ああ、すぐに帰る」と答えてくれる。
会いたいと、二人そろって思っている。一人で眠る夜でも、同じ気持ちでいてくれるなら、きっと朝を待てるのだ。