星の数ほどキスをして




―Counting kiss:prologue―

 クランクアップでもらった花束を抱えて、家に帰った。黄色のフリージアを中心にしてアレンジされた花束は、それだけで明かりを灯すような華やかさがある。一成は「テンテンにぴったりだねん」と嬉しそうに笑っていた。

「どうどう? めっちゃ綺麗じゃない?」

 部屋着に着替えた天馬が戻ってくると、花瓶を抱えた一成が誇らしそうに言う。
 花束をもらう機会は多いので、天馬の家には色々なサイズの花瓶がある。一成はそれをきちんと把握しているようで、丁度いいサイズの花瓶に花束を活けていた。
 さすがは一成と言うべきか、バランスを考えて活けられた花はやけに様になっていた。このまま写真を撮れば、某かのポストカードにでもなりそうだ。素直にそう告げると、一成は笑みを深くして言葉を重ねた。

「ちゃんと水替えれば一週間くらい持つみたいだし、テンテン、ちゃんとお水替えてねん!」
「オレをいくつだと思ってるんだよ」
「27歳だね~」

 からからと明るく笑った一成だけれど、その奥にはどこか憂いが潜んでいる。天馬が察したことにも気づいているのだろう。一成は、少し目を伏せてつぶやいた。

「オレがお世話できたらよかったんだけど――ちょっと難しそうだから、テンテンお願いねん」

 一時中止になっていた映画の撮影が再開され、無事にクランクアップを迎えた。それはつまり、一成が自宅に戻る日はもうすぐということを意味している。
 一成は、天馬の家でできることは進めていたし、暇を見つけては自宅に戻って下準備を行っていた。ただ、そろそろ本格的な作業が必要になってきた。一成はギリギリまで引き延ばしてくれたようだけれど、納期の関係もある。今週中には一旦家に戻ることになっていた。
 そうなれば、しばらくは製作活動へ没頭することになし、天馬の家を訪れることはできないだろう。戻る日はもうすぐだ。今日もらった花が枯れる前に、一成はいなくなる。
 仕方ないことだと、天馬も一成もわかっている。今生の別れというわけではないし、落ち着けばまた顔を見られることだって理解している。一人の部屋に帰ることだって、何も初めてのことではないのだ。一成が頻繁に通っているとは言え、毎日寝泊まりするわけではなかったから、少し昔に戻るだけだ。
 しかし、天馬も一成もすでに互いのいる日常を知ってしまった。「ただいま」と言えば、「おかえり」と声が返ること。直接顔を見て一日の話ができること。手を伸ばせばすぐに触れ合えること。一日の始まりと終わりに隣にいてくれること。それらすべての、たとえようもない幸せを知ってしまった。
 だからこそ余計に、ぽっかりと空いてしまう穴の大きさを理解していた。

「――花瓶はこの辺でいっかな~。んん、こっち向きのがいいかも?」

 何かを振り切るような明るさで口を開いた一成は、サイドボードに花瓶を置いて、角度を調節している。ソファに座った天馬は、その様子を見つめていた。
 花瓶を置く位置はどこがいいか、と考える横顔。難しい顔をしたと思ったらぱっと笑って、花瓶の角度を変える。そんな風に変わっていく表情を見ていられることが嬉しかった。何でもない一瞬を、近くで見ていることが許されている。その事実が胸をひたひたと満たしていく。
 大層な出来事があるわけではない。ささやかな日常にはどんなドラマもなくて、何でもない日々が過ぎていく。それを共に過ごせることが喜びなのだと、この一ヶ月で天馬は痛いほどに理解していた。
 朝起きて夜眠るまで。意識せずとも勝手に体が動いて、単なるルーティンでしかなかった毎日の行動も、一成がいるだけで途端に意味を変えていくような日々だった。

「やっぱり、花があると部屋が明るくなっていいよねん! シンプルなのも好きだけど!」

 嬉しそうに笑って告げられた言葉に、天馬は「そうだな」と返しながら、戻る前に花を贈ろう、と思う。
 一成は好きなものが多い人間で、その中には花も含まれている。元々日本画ではよく画題になるということもあるし、MANKAIカンパニーにおいて花は特別な意味を持っているから、一成はよく花の絵を描いていた。だからきっと、花を贈れば一成は喜ぶだろうと思ったのだ。
 それに、胸にあふれる気持ちを表すならきっと色とりどりの花がふさわしい。
 大事だ。愛おしい。そばにいてほしい。好きだ。胸にうずまく感情に形を与えて差し出すなら、世界中の美しい色を集めたみたいな花がいい。一成がここにいてくれてどれだけ嬉しかったか、言葉だけではきっと足りないから。足りない分の代わりなら、心を形にした花を贈るのだ。
 サイドボードに置いた花瓶を眺める一成は、満足そうにうなずいている。その様子を見つめていると、一成がふいと視線を動かす。ぱちり、と天馬と目が合った。瞬間、目じりを優しく下げて笑う。ふわふわと、何かとても大切なものを見つけたみたいに笑うので、天馬は反射的に名前を呼ぶ。

「一成」
「なになに?」

 軽やかな足取りで歩いてくる様子に、名前を呼んだら駆け寄ってくる犬みたいだな、と天馬は思う。浮かんだ笑みをそのままに、天馬は自分の隣を示した。一成は素直にソファに座る。天馬の左腕に一成の右腕がわずかに触れる距離だ。

「お前、夕食は食べたんだよな」
「うん。テンテン要らないっていうから食べちゃったけど、もしかしてお腹空いてるとか?」
「いや、軽く腹に入れてるから平気だ。ただ、お前下手するとオレのことずっと待ってるだろ」
「にゃはは、最初の内だけだって」

 軽い口調で言う一成は、一緒に暮らし始めた当初、遅く帰ってきた天馬に「オレも夕飯食べてないんだよね~」と言って説教されたことがあった。
 本人曰く、集中して食事を忘れただけらしいけれど、天馬の帰りを待っていた節もあったのだ。一成にはそういうところがあって、遅くなる天馬のことを寝ないで待ちたいと本気で言い出すタイプだった。
 重くてごめん、と謝られたけれど、そういう問題でもない。気持ちは嬉しいけれど、純粋に一成の体調が心配だ、という旨を懇々と説明すれば納得はしてくれたようで、食事はちゃんと取るし夜は寝てくれるようになったけれど。

「お前、家戻ってもちゃんと食事と睡眠取れよ」
「テンテンが保護者みたいなこと言ってる」

 からからと、楽しそうに言うけれど天馬からすれば笑いごとではない。そういう意味でもやっぱり帰したくないな、と思っていると一成は明るい笑顔で口を開く。

「だいじょぶだって! ちゃんと健康気をつけないと、テンテンの活躍も見られないじゃん。今日クランクアップの映画もアクション映画っしょ、めっちゃ楽しみ~! 公開っていつ頃になる感じ?」

 テンテンのアクション絶対カッコイイじゃん!という言葉は真実心からのものだろう。くすぐったいような気持ちになりつつ、「来年の秋くらいじゃないか」と答える。

「本来なら夏に公開予定だったけどな。あんまり延ばしたくないはずだから、秋頃目標だろ」
「なる~。それまでテンテンのアクションシーンはお預けか~」
「オレはそこまでないぞ。むしろ、バディ役の主演のほうがアクションシーンは多い」
「でも、全然ないわけじゃないっしょ。テンテンのアクション映画とか久々だし、絶対ヒットするよん」

 キラキラとしたまなざしで一成は言い切る。確かに、最近では恋愛ものやヒューマンドラマ系の映画の出演が多かったので、純粋なアクション映画は久しぶりだった。

「恋愛映画は今めっちゃヒットしてるもんね、テンテン!」

 嬉しそうに言う一成が指しているのは、「キス」をテーマにしたあの映画だった。
 天馬の予想通り、観覧車内の最後のキスシーン――恋人と出会った年から一年ずつの思い出を数えながらのキスは、大きな話題になっていた。映画とはまったく関係のない囲み取材やインタビューでも話が出るのだから、相当なものだろう。

「らしいな。ただ、オレもそこまで詳しくは知らない。流行ってるとは聞いたけど」
「そそ。何かね、カップルで実際にやってみました!って報告がいっぱいなんだよねん」

 一成は流行に敏感だし、SNSを初めとしたWebの活用が得意だ。なので、「流行っている」というのがどういうことなのかをきちんと把握していた。
 どうやら、映画に出てきたように、出会った年から現在までの数だけキスをして、それをSNSなり何なりに報告する恋人が多い、ということらしい。顔を隠した写真や動画などもアップされていて、ずいぶんな盛り上がりを見せているようだ。
 おかげで、映画のほうもかなりの大ヒットになっているので、出演者である天馬も純粋に嬉しかった。

「一年経ってないカップルとかは、一ヶ月とかでカウントしてるっぽいねん。この時はこういうことがあったよねって、数かぞえながらキスするのってめちゃくちゃ盛り上がっちゃうらしいよ?」

 イタズラっぽい表情を浮かべた一成の言葉に、天馬は黙る。
 映画のキスを実際の恋人に再現されることの威力に関しては、天馬が身を持って知っているからだ。他でもない一成に、このソファの上で映画の通りに一つ一つ口づけを贈られた。鮮烈な光景は、天馬の記憶に強く焼きついている。
 もっとも、あの時の再現はキスの場所だけで、思い出はカウントしていないけれど。そう思ったのは、どうやら天馬だけではなかったらしい。

「――オレたちはちょっと違うけどねん」

 小さく笑みを浮かべる一成の頬は、ほんの少し赤味が差している。恐らく思い出しているのは同じものなんだろうな、と思えば天馬の体温もわずかに上昇したような気がした。隣に座る一成も、それを察したのかもしれない。

「ね、テンテン。今度はちゃんと、映画通りのことやってみる?」

 袖を引くと、ささやくような声がこぼれた。いつもの一成のものとは違う。普段ならば奥底に仕舞われている、あざやかな色をにじませた声だ。
 まるで誘うような――と思って、天馬は内心で首を振る。まるでじゃない。一成に誘われているのだ、オレは。それならば、返す答えなんて、最初から決まっている。

「なら今度は、オレからさせろ」

 きっぱり言うと、袖をつかむ一成の右手を取った。熱い手のひらは、一成の体温なのか天馬の熱なのか。ソファの上で向き合う形になると、若草色の瞳が揺らめいていた。それを見つめながら、天馬は言う。

「今度はオレがお前にキスしたい」

 この前は、一成からのキスをただ受ける形だった。それが嫌なわけではないし、贈られる愛情を全身で受け取れることが嬉しかった。だからこそ、今度は一成に自分の心を余すところなく受け取ってほしかったのだ。
 一成は潤んだ瞳を二度、三度またたかせる。それから、ゆっくりと笑みを広げるとこくり、とうなずいた。天馬はそれに嬉しそうに笑ってから、握った右手を自分のほうへ引き寄せる。人さし指にキスを落とすと「一つ目だな」とつぶやいてから、一成に尋ねた。

「1歳の時の一成ってどんな子どもだったんだ?」
「へ?」

 突然の質問に、一成が気の抜けた声を発して天馬を見つめる。1歳?なんで?と書いてありそうな表情に、天馬は苦笑を浮かべて答えた。

「一つ目のキスだからな。なら、1歳から始めるのが妥当だろ」
「マジで!? そこから!? 出会いからじゃなくて!?」

 目を丸くして、すっとんきょうな声で叫ぶ。どうやら本気で驚いているしいけれど、天馬からすれば当然の結論だったのだ。なので、素直に自分の考えを口にした。

「出会いからのキスだけじゃ、数が少なくてオレが物足りない。それに、一成の人生は別にオレと出会ってから始まったわけじゃないだろ。オレはお前の人生全部大事にしたい。なら、最初から始めたいに決まってる」

 きっぱり告げると、一成が顔を赤くしたままうめく。笑おうとして泣きそうな、潤んだ瞳のまま呆然とした調子でつぶやいた。

「どこでそういう殺し文句覚えてくるのテンテン……」
「ただの本心だ」

 その言葉に、一成が左手で顔を覆った。拒否されているとは微塵も思わないけれど、一成の心情的に何か引っかかりがあるなら無理強いをするつもりもない。嫌がることをしたいわけではないのだ。だから、天馬は重々しい口調で告げる。

「嫌なら止める」

 きっぱりと言えば、一成は覆っていた左手をゆっくりとどけた。現れるのは、顔を赤く染めたまま、困ったように笑う顔。眉を下げて一体どうしたらいいのか、と途方に暮れるような表情に見える。
 だけれど、天馬は知っている。こんな風に笑う一成は、心の奥の一番やわらかい場所を見せてくれている。

「嫌じゃないよん。――いいよ、テンテン」

 やわやわと、光がにじみだすような笑顔とともにそう言う。天馬はこの笑顔が好きだ。
 一成の一番繊細な場所からやって来るようなそれを受け取れることの喜び。自分という存在を、心の全部で抱きしめようとしてくれているのだと知る。やわらかい場所も、もろい場所も、天馬なら見せても大丈夫だと思ってくれているからこその笑みだ。
 天馬は、受け取ったのだ、と伝えるようにこくりとうなずいた。