夜明けまでのエトランゼ 06話




 よどみなく動くペン先が、机に広げたスケッチブックへ数式を書いていく。最後まで書き終えると、一成は隣に座る天馬へ視線を向けた。意図を察してこくりとうなずく。

「途中式はこれだねん。範囲的には数Ⅰでやったところかな~。分散にルートをかぶせると標準偏差が出るから、まずは分散を求めるんだよん」

 数式を示しつつの言葉を、天馬は九門に伝える。九門に一成の声は聞こえないから、天馬が代わりに伝える必要があるのだ。一成の正面に座る九門は「分散……?」という顔をしているので、一成は苦笑を浮かべると隣に公式を書き加えた。

「まずはそれぞれのデータから平均値を引いて二乗するっしょ。で、それを足したら全体で割る感じ!」

 朗らかな言葉を天馬が噛み砕いて伝えると、九門の顔がだんだん明るくなっていく。どうやら記憶の彼方から、該当箇所を引っ張り出してきたらしい。「平均はやった気がする! あと、二乗して足して割るのも聞いたかも!」と言って、きらきらした笑顔を浮かべている。

「気がする、とか聞いたかも、とか不安すぎる。大体、それ数Ⅰの範囲だし。数Ⅱの試験でしょ」
「あ、でも、わかるところがあるのは、いいことなんじゃないかな……!」

 九門の言動に対して幸が辛辣なコメントを残すと、椋が慌てたようにフォローする。幸は肩をすくめて「まあいいけど」と言ってから、斜め前に座る一成に視線を向けた。とはいっても、実際に見えるわけではないので、空っぽの椅子へ目をやっただけである。しかし、幸は当然といった顔だし、他の二人も同様だ。見えていなくても、そこに一成はいるのだと思って行動している。

「こっちも教えてほしいんだけど。英語の分詞構文」
「あ、それが終わったらボクもイオン結合のところ聞きたいな……」

 幸の言葉に椋も続いて、一成は明るい笑顔で「おけまる~!」とスケッチブックに記した。ただ、少しだけ考えてから「でもゆっきー、英語ならテンテンも教えられるんじゃね?」と続けた。小学生までアメリカで過ごしたことにくわえ、帰国後も勉強を欠かさなかったおかげで天馬の得意科目は英語である。

「できるのと教えられるのは別。そこのポンコツ、人に教えるの向いてなさすぎ」
「仕方ないだろ。誰かに教えたことなんてなかったんだ」

 呆れた表情の幸に、天馬はぼそぼそと答える。
 一成の心残りを解消するための作戦会議として、夜間に集まるようになった。ただ、自然と試験勉強が始まったのは、もうすぐ定期考査が始まるうえ、一成が教師役として秀でていたからだ。
 天馬や椋、幸は普段からコツコツ勉強しているので、あまり慌てる必要はない。しかし、部活動に熱心な九門は少々わけが違う。試験勉強しなきゃ……と言いつつ「ここがわからなくて」とぼやいたところ、一成があっさり教えてくれたのだ。
 そこで、椋ははっとした顔で「三好先輩は学年一位の常連だったって、先生たちが言ってた」と言うし、天馬もおおいに世話になった経験を口にする。実際一成は、誰の質問にも的確にわかりやすく答えてくれたので、ついでに勉強会が開催されている。片隅に机を寄せ合って、持ち込んだ問題集やノートを広げているのだ。
 一応立ち入り禁止の旧校舎なので人目を気にする必要はあるし、空調が効いているわけではないので多少の暑さはある。ただ、木々や柱の位置から見えない位置を選んでいるし、誰も人がいないので集中もできる。風が通るのと建物の陰になっているおかげで、暑さもそこまでではなかった。

「そっか、だからこの答えになるんだ! うわ、オレ初めてちゃんとわかったかも……!」

 一成の説明を天馬経由で聞き終えた九門は、晴れ晴れとした顔で言う。九門は頭の回転が悪いわけではないので、つまずきさえ克服すれば比較的するすると問題を解くことができるタイプだ。恐らく、試験でもそれなりの結果は出せるだろう。

「さすがくもぴ! こういう時は、ご褒美スイーツ的なもの用意できたらいいんだけどねん。てか、勉強会だしお菓子とか持ってきていいのに。オレのことは気にしなくていいからさ」

 スケッチブックに一成はそう記すけれど、他の四人は顔を見合わせるしかない。一成は物を食べたいという欲求がそもそもないし、試しに何かを食べようとしてもすり抜けてしまうことは確認済みだ。そんな一成の前で、自分たちだけお菓子なり何なりを口にするのはどうにも気が引けた。

「今ってコンビニスイーツ、新作何が出てるんだろ。アイス系とかゼリー系とか、この季節になるとあった気がするし、コンビニ行きたいよねん」

 しみじみとした調子で一成は言葉を書き連ねるし、「ファミレスで大きいパフェ食べたいし、今ならイチゴかき氷食べ比べしたい」だの「ドリンクバーで新しい味を開発したい」だの屈託がなかった。ただ、一見何でもないような話は一成にとって決して簡単でないことは全員理解していた。一成は旧校舎から出られないのだ。コンビニもファミレスも行くことはできない。

「――カズさんって、コンビニスイーツとかはちゃんと覚えてるの不思議だよね。全部忘れてるわけじゃないっていうか……あ、それとも天馬さんから聞いたとか?」

 しんみりしてしまいそうな空気を察して、九門が言った。幽霊となり記憶が曖昧になっていても、コンビニの季節商品だとか、ファミレスのメニューにあったかき氷だとかを覚えているのが不思議だったのだ。
 なお、九門は年上であることと全教科対応してくれることへの尊敬を込めて、一成を「カズさん」と呼んでいた。ちなみに、天馬も「天馬さん」呼びなのは、教えるのは下手でも、泣きついたらどうにかしてくれるからである。

「こういうのは、記憶じゃなくて知識なのかも。たぶん、オレこういうの興味あったから知識として知ってる感じ?」
「まあ、確かにな。オレはあんまり興味がないから、そもそも知識がない」

 一成がさらさらとスケッチブックに答えを記すので、天馬も同意を返した。それを読んだ幸は「好きだった食べ物とか思い出したりしないわけ」と聞くし、椋も控えめに「些細なことでも、カズくん自身のことで思い出したことはしない?」と尋ねる。
 姿も見えず、声も聞こえない。しかし、誰もが至って当然のようにこの状況を受け入れて、自然に一成と会話を交わしていた。気づけばそれぞれの呼び名も名字から名前になっているし、一成の存在はすっかりなじんでいた。
 二人きりで過ごした時間が遠くなってしまったようで、天馬は複雑な気持ちも感じている。しかし、一成が当然のように受け入れられているという事実は確かな喜びでもあった。たった一人で、誰からも認識されていなかった一成が、今ではきちんと人の輪の中にいる。それがどれだけ一成が望んだことなのかわかるから、天馬が嬉しいと思うのも事実だった。

「うーん、あんまりかなぁ……。あ、でも、持ち物で思い出したのあるよ。オレ結構字書くのも好きかな~って気はするし、こういう系の? 万年筆?」

 踊るようにペンが動いて文字を記したかと思うと、続けて一成は迷いなくスケッチブックに絵を描いた。現れたのはクラシックな雰囲気の万年筆とインク壺。万年筆の軸部分は木製のようで木目が描かれており、キャップには「Kazunari.M」という刻印。恐らく一成の持ち物なのだろう、と天馬たちは色めき立つものの、さすがに万年筆一本だけでは次の情報につながりようもなかった。

「でも、これ以外で特別オレのことで思い出したってことはないかなぁ。みんなの一個上って言われても、ピンと来ないんだよねん」

 ありのままの事実を記すと、「そうなんだね」と椋はうなずく。幸は「ま、簡単には行かないか」と言って、九門は「やっぱり、さんかくの友達と会わないとだね!」と続いた。
 当初から天馬が言っていた通り、曖昧な記憶の中でも唯一覚えていたのが「さんかくの友達」なのだ。確かな手がかりでもあるし、一成と会わせることが一番だろう。もっとも、友達探しは難航している。一成が一つ年上ということは、その友達も同学年なのではないかと、十座をはじめ思い当たる人間に尋ねた。しかし、四季崎学園に在籍する生徒は膨大だ。結果は思わしくなく、有益な情報は得られていない。

 そんな風に、今後の行動についての話や試験勉強を並行していればすぐに時間はやってくる。もうすぐ門限だという幸の言葉を合図に、ばたばたと帰り支度を始めた。
 忘れ物がないことを確認して、それぞれ身軽に窓から地面へ降り立った。旧校舎から出られない一成は、教室の中から四人を見送る。今までずっとそうしてきたように、窓の向こうから四人へ視線を向けた一成は、ぽつりと言葉を落とした。

「オレも一緒に帰れたらいいのに」

 冗談めかして、笑顔を浮かべて。何でもない軽い口調で告げられた言葉に、天馬の胸はぎゅっと詰まる。これがどれほどまでに切実な、一成の本心なのかわかったからだ。
 二人きりの時間から、五人で過ごす夜になった。にぎやかになったその分、いなくなってからの喪失を一成は感じるのだ。天馬たちがそろって寮へ帰っていく。その姿を見送る瞬間は、よけいに一成が一人きりであるという事実を際立たせる。

「――目が覚めたら、いくらでも寮に来られるだろ」

 何かを言いたくて、天馬は声を絞り出した。寂しい顔をさせたくなかった。慰めてやりたかった。一成の力になる言葉を伝えたくて、天馬は未来の話をした。「さんかくの友達」と再会して、心残りをなくしたらきっと一成は目覚める。そしたら、旧校舎を出てどこへだって行ける。寮を訪れることだってできるのだ。

「何の話してるわけ」

 不可解そうな顔の幸に問われて一成の言葉を伝えると、三人は一瞬沈黙を流す。しかし、すぐに笑顔を浮かべて言った。

「というか、一成も寮生だって、そっちの担任言ってなかった」
「あ、そうだよ。今は休学扱いだけど……一緒に寮生活できたら嬉しいな」
「うわ、めっちゃ楽しそう!」

 一成の寂しさも憂いも吹き飛ばすような力強さで、軽やかな空気で告げる言葉だ。無理をしているわけではないだろうけれど、一成のために暗い顔をしないでいようという気遣いは充分感じられた。
 だから天馬も同じ笑みを浮かべて言った。一成の寂しさを思えば胸は詰まる。それでも、これから訪れる未来を想像すれば、胸が弾むのも事実だ。

「よけいに、はやく起きないといけないって気になっただろ」

 いたずらめいた光を宿して言うと、一成は少しだけ考えるようなそぶりを見せたあと、ぱっと笑った。そこだけ花が咲くような、太陽が昇ったような。夜でも確かな明かりを放つ笑み。大きくうなずくと、楽しげに言葉を続ける。

「じゃあ、テンテンにはオレが目覚ました時には花束持ってきてもらおっかな! 王子様的にかっこよく登場してほしい!」
「なんで王子様が必要になるんだよ」
「え、目覚めのキスがよかった?」

 軽口を叩いて笑い合うけれど、会話が聞こえていない椋たちからすれば何のことかわからない。はてなマークを浮かべているのでかいつまんで説明してやると、予想外の反応が返ってきた。椋が「天馬くんの王子様!?」とやたらテンションを上げたのだ。

「四季崎学園の王子様として人気の天馬くんが、実際に王子様に……!?」
「待て、なんだそれは」
「テンテン、王子様なの!?」

 聞き捨てならない言葉に天馬が思わず反応すると、一成が顔を輝かせて叫ぶ。何それめちゃくちゃ面白い、と顔に書いてある。
 椋はきらきらした表情で、転入直後から天馬がイケメンとして評判で、孤高の姿が気品にあふれて王子様みたいだと人気なのだと教えてくれた。幸は「信じられない」という顔をしていた。

「もともと、同じ学年の碓氷真澄くんが王子様として有名だったから、今は天馬くんと人気を二分してる感じかな……。あ、でも真澄くんは、女子寮の寮監をしてる立花先生に片思いしてるって噂がずっとあるから、天馬くん派が結構増えたかも」

 まったく知らない話を語られて、天馬は何を言えばいいかわからなかった。喜ぶべきことなんだろうかこれは、と思っていると九門は明るい表情で「でも確かに天馬さんかっこいいし、王子様のかっこもきっと似合うよ!」と言う。

「それな~。テンテン絶対王子様の素質あるし、やっぱこれは花束持ってきてもらわないと! 約束だかんね!」

 嬉々とした表情で言われて、「いやなんでだよ」と天馬は突っ込むけれど。楽しそうに笑う一成の姿に「まあいいか」なんて思ってしまったのだ。寂しそうな顔ではなく笑ってくれるなら。一成が喜んでくれるなら。約束でも何でもしてやろうと、「欲しいなら持っていってやるよ」と答えた。