夜明けまでのエトランゼ 08話
真夜中の寮で、天馬はふと目を覚ました。最近は本格的に夏へ向かい始めて、寝苦しくなってきたからなのか、気掛かりがあるせいか。一応部屋にクーラーはあるものの、質素倹約がモットーの寮監が鋭く監視の目を光らせているので、うかつにつけることはできない。
何度か寝がえりを打つものの、眠気は去ってしまったらしい。天馬はゆっくり体を起こした。本来は二人部屋ではあるものの、人数の関係で転入生の天馬は一人部屋だ。使われていないベッドや机はがらんとしているけれど、一人で気兼ねなく過ごせるのでありがたかった。
天馬は一つ息を吐き出すと、ベッドから起き出して部屋の窓を開けた。生ぬるい空気が入ってきて、特に涼しくはなかった。夏が来るんだな、と思いながら天馬は前方へ視線を投げる。窓の向こうには木々の間から見え隠れする校舎があった。
本校舎の姿も見えるけれど、その手前にあるのが旧校舎であると知っている。黒々とした影のような旧校舎に、天馬の胸はつぶれそうになる。
全容が見えるわけではないけれど、真っ暗な建物はありありと脳内に浮かんだ。近くにある外灯のおかげで教室内が照らされているとは言っても、明かりがあるわけではない。使われていない旧校舎には電気が通っているわけがないのだ。
あの教室に、一成は一人だ。食欲がないのと同じように睡眠を欲しないようで、夜は眠るということがない。朝日が昇れば姿とともに意識が消えてしまうと言っていたけれど、夜はずっと意識がはっきりしている。夜明けまで一成はただ、一人で夜を過ごしている。
いっぱい絵描けるよねん、と笑ってスケッチブックにたくさんの作品を生み出しているけれど。一人ぼっちで過ごす夜を寂しいと思うことを、天馬は知っている。寮へ帰る天馬たちを見送る時。天馬が訪れた瞬間の笑顔。一人の時間を過ごすことが上手いだけで、本当は誰かと一緒にいることが好きな寂しがり屋。
天馬は、自室に隠しているスニーカーを取り出した。寮の玄関に靴がないと、外出してるのわかっちゃうよね、という一成の言葉に従ってもう一足部屋に用意しているのだ。
慣れた調子で窓を乗り越え、スニーカーに足を通す。鍵は掛けられないものの、窓がちゃんと閉まっていることを確認して、天馬は旧校舎へ走った。
一成は旧校舎内なら自由に動ける。だから、いつもの教室にいるとは限らない。もしかしたらいないかもしれない、と思いながらいつもの窓辺に近寄った。教室の中ほどの椅子に腰掛けた一成の姿が目に入る。
机にスケッチブックを広げて一心に色鉛筆を動かしていた。真剣なまなざしで、ときおり唇に笑みを浮かべて。絵を描くことが楽しくてたまらない、といった様子はいつまでだって見ていられるような気はしたけれど、天馬はそっと窓に力を入れてからりと開ける。すぐに一成が気づいた。
「テンテン!?」
目を丸くして立ち上がる様子を見ながら、天馬は教室へ滑り込んだ。一成が近寄ってきて「どしたの」と尋ねる。こんな時間にやって来たことはないから、何かあったんじゃないかと思ったのだろう。心配そうな表情を浮かべていた。
「ちょっと目が覚めた。だから、ついでに来てみたんだ」
「めちゃめちゃ門限すぎてるよ。バレたらやばくね?」
「深夜の見回りはないから平気だろ」
静かな夜だ。誰もが寝静まった時間帯ということもあり、自然と声は小さくなる。内緒話でもしているような気持ちになって、天馬は何だかくすぐったい。最近は、いつも椋たちが一緒だった。騒がしく過ごす時間が楽しいのは事実だけれど、久しぶりに二人きりで話ができるという事実は天馬の胸を弾ませた。
「オレは嬉しいけど……でも、目覚めたなら試験勉強とかした方がよくね?」
夜中に目が覚めて眠れないのはわかるとして、部屋で勉強するなり何なりの手段はある。門限を破って寮を抜け出してくるより、試験に向けて勉強をした方がいいのではないか、というのはもっともな話だった。これは純粋に一成が天馬のことを心配しての言葉だ、とわかっているから天馬は軽口で答えた。
「問題ない。たぶん今までで一番いい点取れる」
「頼もしい~」
自信たっぷりの天馬の返答に、一成は楽しそうに笑った。それから「テンテン普段から勉強してるしね」と続ける。古典や国語が不得意とはいえ、できないわけではないことはわかっているし、得意分野の英語はほぼ勉強の必要がない。全体としては、比較的できる方と言えるだろう。
「テンテン、英語ぺらぺらだもんね~。オレは読み書きはできるんだけど、たぶん話すのはあんまり得意じゃないと思う」
「そこまでじゃないぞ。意思疎通を図るのに苦労しないってだけで――文法だって教えるのは向いてない」
「あはは、ゆっきーの言ったこと気にしてる」
楽しそうに笑ったあと、一成はやわらかいまなざしを向けた。「そんな風にできるようになったのは、テンテンががんばったからだよね」とほほえむ。小学校をアメリカで過ごし、何度か学校が変わったことは一成に話している。言葉も通じない文化も違う場所で暮らしていくため、必死で勉強したのは事実だ。ただ、必要なことだったからで、当然の行いだと思っている。特に褒められるようなことではないはずなのに、一成は天馬の努力を何かとても尊いことのように言うのだ。
以前の天馬だったら、お世辞やおためごかしの類だと思うだろう。しかし、今の天馬は一成がどれほどまで心から言っているのか理解している。天馬の心を抱きしめるように、真っ直ぐの親愛をあますところなく注いでくれる人なのだと、今まで共に過ごした時間が何より強く告げているのだ。じんわりと胸が温かくなり、思わず一成をじっと見つめる。
「オレもこの時間に英語の勉強とかしたら、ぺらぺらになるかな!?」
一転して明るい笑顔を浮かべた一成は言う。冗談めかした言葉に、天馬ははっと我に返って答えた。
「時間があるならすすめるが、他にもやることあるだろ一成は」
「まあねん。たまに他の教室探検したりもするけど、描きたい絵いっぱいあるんだよね」
そう言いながら、一成はさっきまで座っていた席を示す。窓から二列目、後ろから三番目。机にはスケッチブックと色鉛筆が広がっていて、描きかけであることを告げている。何の絵を描いていたのか、と机に近寄ってのぞきこむと黒猫と白猫が遊んでいるイラストだった。風景画のような写実さではなく、デフォルメされたかわいらしさがある。
こういう絵も描くんだな、と意外に思っていると「ゆっきーと話してたら、こういうのもいいかな~と思って」とはにかんだ。
「ここの机にも、落書き残ってるんだよねん。だから、オレ的にお気に入りの机!」
そう言って、一成はスケッチブックを閉じた。示したのは、机のふちに描かれた花のイラストだ。花壇に植えられた花とちょうちょが飛ぶ、のどかな絵だった。教室にはたくさんの机と椅子が残されている。その中で、一成は落書きの残った机を気に入って使っているらしい。
「ここに、テンテンからもらったスケッチブックとかペンとか入れてるよん。昼間見つかったら困るし」
そう言って、一成は机の引き出しを指した。一成の姿は見えなくても、スケッチブックやペンは見える。一成が消えている日が昇っている間、万が一見つかって片付けられないよう、きちんとしまっているらしい。
「あとね、むっくんがくれたしおりとか、ゆっきーのデザイン画とか、くもぴのミニテストとか入ってる!」
「なんで九門のテストがあるんだよ」
「満点取れた!って持ってきてたくれたんだよねん」
嬉しそうに言う一成は屈託がない。九門は部活の関係上、必ず夜に訪れることができるとは限らない。というわけで、昼間にこっそり机の中に見せたいものを置いていくことがあるらしい。天馬が「ポストみたいだな」と感想を漏らすと、「テンテン、手紙入れてくれていいよ」と一成が笑った。
それから天馬は、一成お気に入り机の隣の椅子に座った。一成はいつもの椅子に腰を下ろして、まるで放課後の教室のような空気で何でもない話をしていた。ただ、交わす言葉は静かでていねいだ。密やかな夜の空気を壊さないよう、ひっそりと声が紡がれる。
「……いつも一人の時間だから、テンテンがいて嬉しい」
ささやかな雑談の合間に、一成が言葉を落とした。夜に染みわたるような、静かで落ち着いた声。目を細めて、やわらかな表情で告げる。それがどれほど心からのものなのか、天馬はしかと理解している。
「絵描いてると時間もあっという間なんだけどさ。ふって我に返ると教室にはオレしかいなくて、一人だなって実感するんだよね。でも、今日はテンテンがいてくれて夢みたい」
はにかむ笑みを見つめる天馬は、胸が苦しい。一成が人と過ごすことが好きな性格であることを、天馬はよく知っている。だからこそ、たった一人で感じる夜の暗さは一成にこたえるだろう。天馬が眠っている時間を、一成は何度も一人で乗り越えてきたはずだ。
「あ、でもちゃんと寝ないとだからねん。無理してオレのとこ来ちゃだめだよ」
もっと積極的に、深夜も寮を抜け出すべきじゃないか、という天馬の考えを察したらしい。いささか厳しい調子で釘を刺されて天馬はたじろいだ。先手を打たれてしまうと、逆らうことも難しい。一成が悲しい顔をするだろうと予想できるだけに。
「むっくんたちが来てくれるようになって、楽しい時間も増えたしね。朝になったらオレは消えちゃうけど、また夜が来ればみんなに会えるって思うと、朝も悪くないなって思えるよ」
日の出とともに一成の意識も体も溶けるように消えるという。自分がなくなるようで怯む気持ちもあったけれど、今は夜に向かうための準備だと思えばすんなり受け止められるようになった、と一成は笑った。
「……あいつらがいてくれてよかったと思う。にぎやかに時間を過ごせるし、いろんな情報も集まった。斑鳩のことも、九門がいなければなかなか辿り着かなかっただろうな」
「そだね」
おだやかにうなずく一成には、「斑鳩三角」のことを話している。はっきりと覚えてはいなかったものの、何度も名前を繰り返したあと「すみー……?」とつぶやいたのだ。一成の口から初めて出てきた名前だ。強く心に残っているのは確実だろう、と天馬たちは判断している。
「少しずつ進んでる。きっとお前の目を覚まさせてやるから、待ってろ」
決意を込めてきっぱり言えば、一成は「うん」とうなずく。神妙な表情で、天馬の言葉を握りしめるような雰囲気だった。天馬の気持ちを受け取ったからだろうし、もう一つ別の理由もある。察する天馬は、大きく深呼吸をしてから努めて平静を装って言った。
「何か不思議だな。毎日顔見て話もしてるのに、生身の一成に会うのは明日が初めてなんて」
一成が生きていることを知ってから、いつか見舞いに行きたいとは思っていた。それを口にすれば、椋が「先生から聞いてきたよ」と言ってあれよあれよという間に日程を立ててくれたのだ。担任経由で家族に許可を取り、とんとん拍子に明日病室を訪れることになっている。
さらに、九門の言葉をきっかけに「斑鳩三角」についての調査も進めた結果、おおよそのことは判明している。年齢は十八歳で、本来であれば四季崎学園三年生だ。ただ、もともとあまり学校には来ていなかったうえ、去年の秋から一切学校に訪れていないことで出席日数が足りず留年している。基本的に自宅にいるということで、家を訪ねる算段になっていた。もっとも、こちらはちゃんと連絡を取ることはできなかった。
一成を目覚めさせるため、明日は本格的に行動するのだ。きっと何かが変わると思っているけれど、果たして手がかりになるだろうか。もしも何も見つからなかったら――と思うと、胸がざわついて仕方なかった。
「お見舞い行ってくれるのは嬉しいけど、あんまりまじまじ見ないでね」
天馬が落ち着かない様子であることを察したのか。一成は冗談めかして笑いかける。