夜明けまでのエトランゼ 09話
市内にある大きな総合病院に、一成は入院していた。教えられた病室を訪ねると、一成の母親と妹に出迎えられる。ピアノ講師をしている母親は落ち着いた雰囲気を身にまとっており、妹は小学生くらいだろうか。黒髪を二つに結び、一成によく似た緑色の目をしている。母親の後ろにかくれて、天馬たちの様子をうかがっていた。
一通り挨拶を交わしたあと、ベッドに眠る一成と対面する。髪は黒く、目は閉じられており緑の瞳は見えない。それでも、引き結ばれた唇やあごのライン、形作る要素のあちこちに一成の面影があって、「一成がいる」と天馬はすとんと理解した。
同時に、あの活き活きとした表情が一つもないという事実に胸が騒ぐ。ずっと昏睡状態であることは聞いていたから、覚悟はしていた。それでも、はつらつとした表情や軽やかな笑顔を知っているからこそ、全てが拭い去られた目の前の一成に戸惑いが隠せない。
ベッドに横たわる一成は、天馬の知る姿とは一切結びつかない。本来なら、こんな風にただ静かに横たわるしかできないのが現実だ。幽霊の姿が特異なだけであって、ここに生きている一成からは何もかもが失われている。あらためて認識した天馬は、何も言えずに黙り込むしかなかった。
「あの、今日はありがとうございます。ボクは、カズくんの絵がすごく好きで……」
そっと口を開いたのは椋で、一成の母親に自分たちがここに来た理由を説明している。クラスメイトとはいえ、なぜいきなりお見舞いに来たのか不審に思うだろう、という配慮だ。幸は幸で、一成の妹に「そのスカートかわいい。どこで買ったの」と話しかけている。
「カズくんの絵はとってもすてきな作品ばっかりですよね。小さな絵も好きだし、スケッチも見ているだけでわくわくします」
「あの子はどこにいても、絵を描いていたから……。今も、いつ起きてもいいように描くものは用意してるんです」
そっと笑みを浮かべて、一成の母親はベッドサイドのキャビネットを示した。そこには年季の入ったスケッチブックや、数種類のペン、万年筆が置かれている。天馬をはじめとした全員目が吸い寄せられたのは、明らかに見覚えのあるものがあったからだ。
万年筆の軸部分は木製のようで木目が描かれており、キャップには「Kazunari.M」という刻印。以前、一成がスケッチブックに描いたものと同じだった。こういうものを持っていた気がする、と言っていた。まさしくあの万年筆だった。幽霊の一成と目の前の一成は、確かに同じなのだ。二つの姿がつながったことに、はっとした空気が流れる。
一成の母親はそれを敏感に察したのだろう。不思議そうな顔をしたことに気づいた九門が「カズさんには、勉強教えてもらったりしてました!」と告げる。一成との関係を説明する方向へ話を持っていこうとしているのだ。
「オレも一成にはすごく世話になってます」
慌てた様子で天馬も続いた。万年筆に反応した理由を告げるわけにはいかないし、本当の出会いだって素直に言えるはずがない。幽霊の一成と毎晩ともに過ごしているだなんて、悪い冗談と思われるのが関の山だ。
「その、来るのが遅くなってすみません」
あらためて、天馬は一成の母親に向かって頭を下げる。事故が起きてから半年以上経っているのだ。知らなかったからとはいえ、今まで一度も見舞いに訪れていないのは事実なので、謝るしかない。ただ、母親は意外そうな表情を浮かべたあと「いいえ」と首を振る。それどころか、やさしい表情で言うのだ。
こうしてお見舞い来てくれることが嬉しいし、時間が経っても覚えていてくれてありがとう、なんて。
心からの言葉だとわかった。半年以上目を覚まさない一成。時間が経つにつれ、忘れられていくのは仕方ないと思っているのだろう。それは一成の家族のやさしさなのかもしれない、と思ったのだけれど。
「忘れません。絶対そんなことはしない」
思わず天馬は言った。一成は天馬にとって大事な相手だ。一成がいたから、天馬の毎日は変わった。いつも一緒にいてくれた。共に過ごした時間がどれだけ大切で輝いているのか、天馬の心にはしかと刻み込まれている。
そうだ、と天馬は思う。ベッドで眠る一成。明るい笑顔も輝く瞳も、天馬の知る姿はどこにもなかった。しかし、一成は生きているのだ。幽霊だと思っていたし、この世のどこにももう一成はいないと思っていたけれど、そうじゃない。きらきら輝く瞳も大きく口を開けて笑う姿も、軽やかな響きで「テンテン」と呼ぶ声も知っている。今ここでは何一つ見えなくても、確かに知っている。
ベッドの一成を見つめた天馬は、本当に生きてるんだ、とあらためて実感する。同時に、心の奥底から「よかった」と思う。たとえ今は目覚めていなくても、確かにここで心臓を動かしていてくれるのだ。それならこれから先、いくらだって未来はある。
「一成を忘れるもんか。ずっとずっと覚えてる」
聞かせるための言葉というより、天馬にとっての誓いだった。きっぱりとした力強い宣言に、一成の母親は大きく目を瞬かせた。ただ、すぐに笑みを浮かべるとぽつりと言った。
「確か二年生の――あの子の一つ下と聞きました。あんまり後輩に慕われるタイプだとは思わなかったけれど、そんなことはないのね」
その言葉に、四人は口々に肯定を返す。一成を指していい先輩だ、教えるのが上手い、聞き上手だ、たくさん世話になったのだ、とあれこれと言葉を並べる。母親は嬉しそうに笑った。
「こんなかわいい後輩がいたなんて、教えてくれてもよかったのに」
そう言って、一成へ視線を向ける。独り言のように続いたのは、一成の現状だ。幸い事故による外傷はそれほどひどくなかった。今も検査では異常がないことがわかっている。いつ目覚めてもおかしくはないはずなのに、一成はずっと目を覚まさない。
「本当にただ寝ているだけみたいなのに……いつになったら起きてくれるのかしら」
つぶやきと共に、母親は一成の手をそっと握った。すると、今まで黙っていた一成の妹も、耐えかねたように「お兄ちゃん……」と言葉をこぼす。
どれほどまでに、一成の目が覚めることを望んでいるのか。一成が心から大切にされているのか。痛いほど理解した四人は、一成を目覚めさせなくては、とよりいっそう決意を確かにする。
だからこそ、やるべきことは決まっていた。手がかりである「さんかくの友達」――あらため、斑鳩三角へ会いにいくのだ。