夜明けまでのエトランゼ 15話
昼休みの食堂は騒がしい。多くの生徒がこぞって利用するのだから当然だろう。ただ、第一・第二食堂が用意されているし、座席数も多い。一人であればどうにか席を確保することはできたので、天馬は食堂の片隅にひっそりと座っていた。友人たちと楽しげに食事している人間ばかりで、誰も天馬のことなど視界に入っていないのでかえって落ち着くことができた。
天馬はスプーンを握って、目の前のカレーを口に運ぶ。本格派と名高いらしいけれど、味わう気にもなれず、ほとんど機械的にカレーを減らしていく。
普段、天馬は学食を利用することがない。基本的に買ってきたものを教室で食べている。しかし、今日は学食を利用しているのは、教室にいると幸や椋、九門に話が聞きたいと言われるからだ。
昨日は結局、いくら待っても一成は姿を見せないままだった。残された三人には起きたことをありのまま伝えるとひどくショックを受けていたし、それは天馬も同じだった。二人が再会すれば何もかもが上手く行くと思っていたのに、結果は予想外のもので一成は消えてしまった。
ただ、全員を自分が呼んだ手前、何もしないわけにはいかないと天馬は行動した。ショックを受けている三角に代わって円と連絡を取って迎えに来てもらって、椋と幸、練習から戻った九門には上手く行かなかったことを謝った。
一夜明ければ、詳しい話を聞きたがることはわかっていた。しかし、返す言葉なんて天馬は持ってない。何より、今までたくさんの時間を掛けて協力してもらった手前、顔を合わせるのは気まずかった。だから、話す時間が取れないよう朝食も登校も時間ギリギリで行動することにした。昼休みはそうも行かないので、三人から逃げるようにしてこうして一人で食事をしている。
スプーンを動かす手は重い。ただ栄養を取るだけの作業を繰り返す天馬の胸には、焼けつくような悔恨が広がっている。
泣きそうな顔をして、悲痛な声で「ごめん、ごめんねすみー」と言って消えた一成。あんな顔をさせたかったわけじゃない。晴れ晴れと笑って、目を覚ましてほしかった。だから、椋たちに協力してほしいと声を掛けて、三角を説得した。一成の目を覚まさせてやるなんて言って行動したのに、結果はこのざまだ。
何も得られないどころか、事態はもっと悪くなった。椋も、幸も、九門も、三角も、きっと失望している。こんなことなら、協力なんてしなければよかったと思っているに違いない。一成は目覚めるどころか消えてしまった。何が一成の目を覚まさせてやるだ。勝手に首を突っ込んで引っ搔き回しただけじゃないか。空回っただけで、結果はこのざまだ。みっともないし、かっこ悪い。役に立つどころか、よけいなことをしただけだ。何も行動しなければ、少なくとも一成は消えなかったのに。
天馬の頭には、いくらでも自分を苛む言葉が浮かんだ。今日までの決意と行動が、何の意味もなかったどころか、いっそう最悪な事態を招いているのだ。突きつけられた現実に天馬の胸は苦しくなる。
椋たちには謝ったし、三角にも「悪かった」とメッセージを送った。天馬の説得に応えて一成に会いにきてくれたのに、「ごめん」という言葉を残して一成は消えてしまったのだ。恨み言を言われたって天馬は甘んじで受け入れるしかない。一体どんなメッセージが返ってくるのか怖くて、結局スマートフォンは確認していなかった。連絡を取る相手なんて特にいないから、問題はなかった。
天馬が今日まで親しく言葉を交わしていたのは、ほとんど一成だけだった。最近になって椋たちが加わっただけで、転入以降最も親密に時間を過ごしたのは一成だ。
一成は当然スマートフォンを持っていないから、メッセージを交わしたことはない。直接顔を合わせることでしか、二人の時間を過ごすことはできない。だからずっと、二人だけの夜を大事にしてきた。一成も同じに違いない。天馬が現れると、光を集めたように笑ってくれる。天馬がいてよかったと、心からの言葉を掛けてくれて天馬のことを喜びと共に迎え入れてくれた。それなのに、その一成はいない。
こんなことは初めてだった。冗談で姿を消すことはあっても、すぐに現れて「驚いた?」なんていたずらっぽく笑っていたのに。昨晩の出来事は、明らかに異常事態だった。恐らく一成に何かが起きた。引き金はどう考えても天馬の行動だ。
オレは間違ったのだ、と天馬は否応なく突きつけられる。正しいと思って行動した。こうすれば目は覚めると思っていた。しかし、きっと全部間違っていた。何かを失敗したから、一成は消えてしまった。きっとオレはしちゃいけないことをしてしまったんだ。思えば思うほど、天馬の胸は重苦しくなっていく。
もしも一成の体に異変があれば、何かしら連絡はあるはずだった。だから容態に変化はないのだろうと思っているけれど、幽霊の一成が消えてしまったという事実は変わらない。
スプーンを動かす手が止まった。胸に広がる悔恨はじわじわと天馬の全身を蝕んで、もはや何もかもを飲み込もうとしていた。指先一つ動かすことさえ億劫だった。突きつけられた現実が、宿した悔恨が重すぎて、体が動かなくなっていく気がした。
そうだ、何もしなければよかったんだ、と天馬は思う。変に行動を起こさないで、ただじっとしれいれば。オレが動かなければ、一成は消えずに済んだのに。オレがうかつに行動したせいで、間違えた選択をしたせいで、こんなことになってしまった。
三角も椋も幸も九門もやさしい人間だから、きっと無駄に傷つけてしまった。みんなを巻き込むだけ巻き込んで、結果はこうだ。一成だって、オレが行動しなければあんな顔しなくて済んだ。この世の終わりみたいな絶望的な表情が焼きついて離れない。オレのせいだ。オレが何もしなければ、誰も傷つけなくて済んだのに。
さわがしい食堂で、天馬は身動きも取れずに座っているしかできなかった。
放課後になった瞬間、天馬は教室を飛び出した。幸に話しかけられることを避けるためという意味もあったし、一刻も早く一成の病院に行きたかったのだ。連絡がないから大丈夫だと思ってはいるけれど、一成の無事を自分の目で確認したかった。
学校から病院までは、歩いて三十分ほどだ。時間があれば訪れているから、すっかり慣れた道だった。最初は迷っていたものの、今ではスムーズに一成の病室まで辿り着ける。
いつものように顔を出すと、出迎えたのは一成の父親だった。広告代理店の企画職ということで多忙を極めているものの、時間を見つけては見舞いに訪れていた。初めて会った時から、気さくに話しかけてくれる。
挨拶を交わして一成の様子を尋ねると、特に何も変わらないという。いつもなら残念に思うけれど、今日ばかりは内心で安堵する。一成が消えてしまったことで、体の方にも異変が起きたら――と心配していたのだ。何も変わらず眠ったままというのは、今もちゃんと生きていてくれる、ということの証左でもあるのだ。
「天馬くんは、もうすぐ夏休みかな」
「そうですね。試験も終わったし、授業も短縮になりました」
おだやかに尋ねられて、天馬はうなずく。最初こそやり取りもぎこちなかったものの、何度も顔を合わせている内に、気負うことなく話ができるようになっていた。一成の家族である、という事実も大きかったのかもしれない。あの一成を形作った人たちだと思えば、緊張を感じる必要はない気がしたのだ。
「夏休みの予定もいろいろあるんだろうね。実家には帰るのかな」
「いえ、両親も戻ってこないので寮に残る予定です。だから、病院にも今より来られると思うんですが、迷惑じゃないですか」
夏休みの予定は特になかった。それに、寮に残ることも決まっていたから、今まで以上に一成の見舞いに来るつもりだった。ただ、遠慮してほしいと思われる可能性もあるので尋ねると、一成の父親は目を丸くした。
「迷惑だなんてことはないよ。ただ、天馬くんの負担になるんじゃないか心配だけど」
「それはないです」
きっぱり答えると、一成の父親はやさしく笑った。やわらかく目を細めて、そっとこぼされる笑み。一成が浮かべるものに似ている気がして、天馬はドキリとする。
「本当に天馬くんが来てくれて嬉しいんだ。椋くんたちも顔を見せてくれるし、一成も早く目を覚ますといいんだけどね」
そう言って、ベッドに眠る一成を見つめた。まぶたを閉じて、規則正しく呼吸を続ける姿はただ眠っているだけにしか見えないし、実際その通りだ。ただ、目覚めることだけがない。
「一成を連れていきたいところも、たくさんあるんだ。今年も夏の大型展覧会がいろいろあるし、一成の好きな絵も来日するんじゃなかったかな」
聞こえないとわかっていても、一成の父親はそっと声を掛ける。やわらかなまなざしで息子を見つめたあと、視線が動いたのはベッドサイドのキャビネットだった。いつもスケッチブックや万年筆が置かれた場所で、今はそこに何枚ものチラシが入ったクリアファイルが加わっていた。
「美術館のフライヤーだよ。一成が好きそうだと思ったら、つい集めてしまうんだ」
天馬の視線の意味を察して、一成の父親は答える。一成は絵を描くことはもちろん、見ることも好きだった。大きな美術館からマイナーな美術館も知っていて、ふらりと出掛けることもあったという。だから、家族は美術館の情報を知れば一成へ教えていたし、それは一成が事故に遭って以降も変わらない。
一成の父親は懐かしそうな顔をして、思い出を口にした。美術館という言葉からつながった記憶なのだろう。小さい頃の一成は勉強にしか興味がなかった。そんな一成をたまたま美術館に連れて行ったら、絵に興味を持つようになり今では暇さえあれば絵を描くようになったのだ。
それを聞く天馬は、幼い一成に触れられたような気持ちになる。昔のことを一成は覚えていなかったから、話題にしたこともなかったのだ。知らない一成知ることができたようで、胸がほんのりと温かくなる。
「目が覚めたら、行ってみたいって言うんじゃないかと思ってね。一成はこっちが好きだ、いやいやこっちだ、なんてふたばも一緒になって話をしてるんだ」
一成の家族は一成の絵が好きだった。完成すれば一緒に喜ぶし、作品は一枚ずつ大事に保管している。これからもずっと絵を描いていくだろう一成のことを、心から応援して力になりたいと思っているのだ。だから、一成の目が覚めたらどの美術館に行きたいと言うか、なんて話で盛り上がる。いつか必ず目が覚める。いつかまた、美術館を訪れる日は来る。真っ直ぐそう信じての言葉だ。
わかっているから、天馬の胸は騒ぐ。一成の様子に変化はない。しかし、昨晩一成は消えてしまった。今はまだ影響が出ていないとしても、今後何かが起きる可能性はゼロではないのだ。もしかしたら、一成が消えてしまったことが重大な事態を引き起こすかもしれない。かろうじて一成をつなぎとめていたものが、昨晩断ち切られてしまったかもしれない。
そう思うと、天馬の心臓はドクドクと早鐘を打った。急速に頭が冷えていくような気がした。目を覚まして美術館を訪れる未来。家族が思い描く姿を、未来の光景を、オレが奪ってしまったのかもしれない、と思ったのだ。オレのせいで一成が消えてしまったなら。目覚めるはずの一成の未来をオレは奪ってしまったんじゃないか。
目の前が真っ暗になるような気持ちでいると、一成の父親が立ち上がった。スマートフォンを手にして「少し連絡をする必要があるんだ」と言って、病室を出ていく。「天馬くんはゆっくりしていってほしい」という言葉に、天馬はぎこちなくうなずいた。
一成と二人で部屋に残されて、天馬は少しだけ考えたあと、空いた椅子に座った。ベッドで眠る一成を見つめる。天馬のよく知る一成とはまるで雰囲気が違う。ただ、目鼻立ちが大きく変わっているわけではないし、一成の面影はある。大きな口を開けて笑う姿を知っている。明るい笑顔で、とびきりやさしく、天馬を見つめて一緒の時間を過ごした。たとえ見た目が違っていたとして、一成は一成のままだ。
わかっているから、一成は眠る姿を見つめて心の中でそっと言葉をこぼす。
なあ、一成。お前はどこにいるんだ。今日校舎に行ったら出迎えてくれるだろうか。ちょっと取り乱しちゃって、と照れて笑ってくれるだろうか。そうだったらいい。それならいい。
祈るように思うけれど、天馬は理解している。昨日の夜の一成は、明らかに今までと様子が違っていた。あんな風にパニックになるところなんて、見たことがなかった。何かがきっと一成の心を傷つけたのだと、天馬は否応なく思い知らされた。今までとは違うことが起こってしまったのだ。今まで通りに何もかもが戻るとは、とうてい思えなかった。
それでも、懇願するような気持ちで、目の前の一成にすがりつくように、天馬は震える声で言った。
「あんな顔をさせたいわけじゃなかった。きっと一成が目覚めると思ってたんだ。だけど現実はこうだ。オレは何かを間違えた。なあ、どうすればお前は目を覚ましてくれるんだ?」
どれだけ必死に言ったところで、一成の反応はない。自分にできることは全部したはずなのに、一成は今も眠ったままで目の前に横たわっている。
幽霊の一成に出会って、言葉を交わした。同じ夜を何度も過ごして、共に時間を分かち合って一成のことを知っていた。心残りを解消すれば目が覚めるはずだと信じた。できることはたくさんあったはずだったのに、結局自分がなしたことは一成を混乱させて姿を消してしまっただけ。目覚めることを心待ちにしている家族に、一成を帰してやることもできない。自分の無力さを天馬は嫌というほど思い知る。