夜明けまでのエトランゼ 16話
病室をあとにした天馬は、日没を待って旧校舎を訪れた。椋たちは部活の関係で、しばらくは夜間に時間が取れないことは幸いだった。天馬は一人、教室で一成を待っている。しかし、もうすぐ点呼だという時間まで粘ったものの、一成が現れることはなかった。
薄々予想はしていたけれど、はっきりと現実を突きつけられて天馬の胸は重苦しくふさがる。今まで一成と会えなかったのは、雨がひどくてとても旧校舎まで行けないだとか、夕食後に定期清掃が行われる日だとかの寮から出られない日だけだ。それ以外はほとんど毎日旧校舎を訪れたし、一成は必ず嬉しそうに出迎えてくれたのだ。
天馬が顔を見せれば、いつだって一成は光でいっぱいの笑顔を浮かべてくれた。いたずらで姿を消すことはあっても、「びっくりした?」と言って笑ってくれたのだ。それなのに、どれだけ待っても一成は現れなかった。夜に沈む旧校舎で、天馬はただじっと一成を待つしかできなかった。
こんなことは初めてだった。あらためて、何もかもが今までと変わってしまったのだと思い知る。一成は消えてしまった。夜になっても姿を見せてくれない。いくら名前を呼んでも返事はなくて、天馬の声は暗闇に吸い込まれていくだけだった。
ただ時間だけが過ぎていく。誰かに見つからないよう、隠れて座りながら天馬は暗闇へ目を凝らす。しかし、どこにも一成の姿は見つからないし、いつもと同じ旧校舎が何だかやけに暗くなったように思えた。一成がいれば、何もかもがきらきらと輝いて見えたのに。外の明かりだけでも、一成と過ごす時間はあんなにまばゆかったのに。今ここに一人で、使われない教室に座り込んでいると、暗闇が牙を剝いてくるように思えた。
ぞくり、と背中が粟立つ。一成がいない、という現実があらためて浮き彫りになった気がした。
「一成」
もう一度、天馬は名前をつぶやいた。どこかにいるなら答えてほしかった。しかし、どこからも声が返ってくることはない。その事実に、あらためて天馬は打ちひしがれる。一成はいない。消えてしまった。昨晩の恐慌を来した様子が思い浮かぶ。目を覚ますはずだと三角との再会を果たした。結果として、一成は悲痛な声で「ごめん」と言って消えてしまった。自分の行いのせいで、何か取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
まざまざと思い知らされる天馬は、うなだれながらただ暗闇に身を浸していた。
できることなら、このまま朝まで一成を待っていたかった。しかし、門限までに帰らなければもっと事態がおおごとになることも理解していた。だから天馬は、後ろ髪を引かれる思いで旧校舎を後にする。門限の点呼を受けたら、また旧校舎へ戻るつもりだった。
点呼は食堂で行われる。部屋ごとに並んで、寮生がそろっているか体調不良者などはいないか確認するのだ。幸や椋、九門たちとは部屋が離れているので、点呼の位置も遠い。時間ギリギリに滑り込んだおかげで、話しかけられる暇もない。点呼が終わればすぐに帰ろう、と天馬は終了を待っていた。
しかし、全員の点呼が終わってもすぐに解散とはならなかった。寮監である古市左京から連絡があると言う。全員の前に進み出た左京は、よく通る声で旧校舎の解体工事が、七月中に始まることを告げた。
「開始自体は再来週だが、準備はその前に始まる予定だ。旧校舎にも業者が入るし、資材を運び込む予定になっている。旧校舎と一番近いのはうちの寮だからな。工事関係者を見掛けることも増えるだろう。挨拶はしっかりするように」
淡々とした調子で述べられる注意事項に、寮生たちからは承諾の答えが返る。ただ、天馬は気が気ではなかった。解体工事の開始が決定したのだ。夏休み中とは言っても幅があるし、もしかしたら八月に入ってからという可能性もあると思った。しかし、七月中に開始ということはもう猶予がない。本格的に取り壊される前に、一成の目を覚まさなければいけない。
一体どうしたらいいのか、まるで見当はついていないけれど、どうにかしなくてはならないことだけはわかっていた。焦燥が募る。もっと夜遅くまで粘ってみるくらいしか、もはや選択肢が思いつかない。
「工事関係の資材は旧校舎の敷地内に運び込む予定だが、諸々管理する必要がある。建物は施錠していても、敷地内に出入りすることはできるからな。いたずらするような人間はいないだろうが、念のため夜間の見回りを実施することが決定した」
一通りの連絡を伝えたあと、さらりと左京は言った。旧校舎は学校内の敷地にあり、フェンスなどで囲われているわけではない。建物は使用禁止ということで施錠されているし、立ち入り禁止になっているものの、敷地そのものを閉鎖しているわけではないのだ。近道として使用している生徒もいるし、学校側もそれは黙認していた。
ただ、解体工事を始めるにあたって敷地内に資材を運び込むことになった。そうなると、資材の管理が必要だという結論になったらしい。そのものに対するいたずらという懸念もあるし、万が一積まれた資材が崩壊するなどして生徒に被害でも出れば一大事である。
生徒が一斉に下校するのであれば、夜の見回りは必要ないかもしれない。日が出ている間注意していればいいのだ。しかし、四季崎学園は生徒の大半が寮に入っている。夜間でも旧校舎に近づくことはできるのだ。万が一の可能性を考えて、異常事態が行っていないことを確認するため、夜間の見回りが決定したのだと左京は告げる。
「見回り中は、担当教師が寮の空き部屋を利用することになっている。簡単な荷物は運び込んでいるから、見掛けた人間もいるかもしれねぇが」
そう言った左京は、担当教師の名前を挙げる。左京はもちろん該当しているし、それ以外に体育科教諭の高遠丞と御影密、それから物理教諭で空手部顧問の柑子木涯が担当するという。寮生はひそひそと「だから高遠先生がいたんだ」「御影先生、給湯室でマシュマロ食べてたよ」「柑子木先生に課題教えてもらった」とささやき合う。
「ひとまず、試験運用も兼ねて今日から見回りを開始する。時間は不定期だが、心しておくように」
突然の左京の宣言に、寮生からはどよめきが漏れた。見回りの是非はともかくとして、いきなり今日からというのは聞いていない、という意味だろう。それは天馬も同様だった。見回りが開始されたら、夜中に行動を起こす難易度が一気に上がる。どんなルートで何時頃、教師が現れるかわからなければ見つかる可能性が高いからだ。
「事前の通告なしっつーのは、ちょっと横暴なんじゃないですか」
寮生の不服を代弁するように声を挙げたのは、副寮長である摂津万里だった。ふてぶてしさを隠しもせず、「自主自律を重んじるうちの学校なら、まずは寮会議を通すべきだろ」と言う。左京は面白そうな笑みを浮かべた。
「そういう意見が出るのはもっともだな。確かに急を要しすぎたのは間違いないし、その点は悪かった。ただ、本番前の試用期間を経た上で会議に諮る方がベターだと判断した。改善点があれば、寮会議で検討もできるからな」
もしも不満や不服があるならその時に聞く、と言って寮会議の開催を約束したことで、寮生の間では「それならまあ」といった空気が流れる。左京は校内で一番厳しいと評判であるけれど、生徒相手だろうと約束したことは必ず叶えることでも有名だったからだ。その左京が「約束する」と言ったなら必ず寮会議は開催されるだろうし、妥当性があると判断されれば改善も実施される。
見回りについてはおおむね納得が得られたことを確認して、左京は雰囲気を変えた。笑みを消すとぴりりとした空気を漂わせて、寮生たちを見回す。
「ただし、最近寮から夜中に抜け出してるやつがいるという情報が入っている。ルール違反に対する抜き打ち検査に関しては、事前通告なしは妥当だろう。思い当たるやつらがいるんじゃねぇか」
すごみを漂わせた言葉に、寮生たちに緊張感が走る。天馬の心臓も大きく脈打った。事実として思い当たる節しかないからだ。もしかして、誰かに目撃されていたのだろうか、と思うと気が気ではない。もしも見つかったら、反省文や外出禁止の処分が待っているだろう。そうなったら、一成のために動く時間が取れなくなってしまう。それだけは避けなければならない。
「言うまでもないが、門限後の外出は禁止だ。寮から出ることはもちろん、校外へ出るなんざ言語道断だ」
そう言って、左京はじろりと視線を向けた。その先にいたのは万里や一年生の泉田莇だった。二人とも平然としているものの、左京の視線から察するに恐らく学校外へ抜け出した疑惑が持たれているのはこの二人なのだろう。
少なくとも、左京は天馬のことは眼中にないようだった。ひとまず安堵してもいいのかもしれないけれど、とうていそんな気にはならなかった。自分が置かれている現状を、ひしひしと実感してしまったからだ。
夜間の見回りが開始されたことで、旧校舎へ近づくことが難しくなった。立入禁止なので、出入りしていれば見とがめられるだろう。さらに、門限後に寮から外出しないよう、教師が目を光らせるというのだ。夜間に窓から出るのは論外だ。その事実に、天馬の顔から血の気が引いていく。心臓がどくどくと脈打つのに、手足は冷たい。
旧校舎の解体まで時間はない。再来週には本格的に工事が始まってしまうから、それまでに一成の目を覚まさなければいけないのに、夜の旧校舎へ行くことは難しくなってしまった。消えてしまった一成を取り戻すための手掛かりは、夜の校舎にあるはずなのに。一成と会うことができるとすれば、あの場所しかないのに。近づくことすら難しくなって、夜間に動き回ることも制限される。一成につながるための道が一つずつ塞がれていく。
点呼後に部屋へ戻ってしばらくしてから、左京の言葉通り見回りが始まった。懐中電灯の光が、寮の周りをうろうろしている様子が窓からでも見て取れた。最初の日ということで、ルートや場所をチェックしているのだろうか。何度も光が行き来するので、窓から抜け出すタイミングが見つけられない。いつもなら、就寝時刻の二十三時を過ぎた頃になれば見つからずに旧校舎まで行けたけれど、さすがに今日は難しそうだった。
しかし、簡単に諦めることはしたくなかった。時間がないのはわかっているのだ。今日という夜さえ貴重だった。
だから天馬は、真夜中に起き出して旧校舎へ向かった。夜間の見回りとは言っても、さすがに深夜は睡眠を取るだろうと判断したのだ。予想通り、窓から周囲を見渡しても懐中電灯の光はなかった。このタイミングだ、と天馬は旧校舎まで走った。
いつもの通り教室に入る。この時間なら会えるかもしれない、という淡い期待は裏切られて教室はただがらんとしている。「一成」と呼んでも答える声はなくて、どこからか一成が現れる気配もなかった。
ついこの前まで、ここで二人一緒に時間を過ごした。何でもない話をして、一成に勉強を教わる。絵を描く姿を見ていた。天馬が訪れれば、それだけで心底嬉しそうに笑ってくれた。きらきらと、何もかもが輝いていた時間だった。
天馬はいてもたってもいられず、ぐるぐると教室を歩き回った。ここに一成はいた。触れられなくても、手を取り合えなくても、確かに天馬は一成と同じ時間を生きていたのに。教室の後ろで二人、手を取って踊った。ダンスとも言えないめちゃくちゃなもので、もう一度同じように踊れと言われてもきっと無理だろう。それでも、あの時間は言いようもないほどにまぶしかった。夜の中でも確かな光を放つ時間だった。
一成の笑顔を、楽しそうな声を、確かに隣にいた人を覚えているのに。今ここに広がっているのは、ただ色濃い暗闇でしかない。まるで初めから何もなかったようだ。一成も、一成と過ごした日々も、今までの全てが嘘で、自分はずっと夢を見ていたんじゃないか。そんなことを考えてしまって、天馬は慌てて首を振る。そんなわけがない。一成と過ごした時間は夢じゃない。確かにここにあったんだ。
思いながら、天馬は一成お気に入りの机に目を向けた。机の中には、一成のスケッチブックがあるはずだ。もしも存在しなかったら――と想像してしまって背筋が冷える。全てが幻で、何もかもが自分の作り上げた都合のいい夢だったら。一成が本当はいなかったら。そう思うと、とても机の中を確かめられなかった。
「一成」
かぼそい声で名前を呼んでも、答える声はない。一成は消えてしまったのだから当然だ。天馬は暗闇に身を浸しながら、ただじっと一成が現れるのを待っていた。しかし、一向にそんな気配はないのだ。今までだって待ち続けていたけれど、結局一成が姿を見せなかったことはよく知っている。
このままここにいても、何も変わらないんじゃないか。ただ待っているだけじゃ、きっとだめなんだ。
思った天馬は、ごくりとつばを飲んだ。一体何をどうしたらいいかわからない。しかし、何もしないままではいけないのだ、という気持ちだけが天馬を突き動かしていた。ふらふらと歩き出した天馬は、教室の扉の前に立つ。大きく深呼吸をして、力を入れて引き戸を開けた。
多少引っ掛かりながら、扉が開く。目の前には暗い廊下が続いていた。思わず足がすくんだし、天馬の心臓はあり得ないほどの速さで鼓動を刻んでいる。暗闇のそこかしこに何かが潜んでいる気がする。このまま扉を閉じてしまいたい。
確かに思ったけれど、何かをしなくてはいけない、という気持ちだけが確かだった。天馬は大きく深呼吸をすると、暗い廊下に足を踏み出した。スマートフォンを懐中電灯代わりにしながら、天馬は三階を目指す。場所なら以前調べたから知っている。美術室に行きたかった。
いつもの教室は階段の近くにあったので、移動距離は短い。それに、本校舎側からの外灯の明かりが入るおかげで、階段は思ったよりも明るい。去年までは使っていた校舎ということで、そこまでボロボロでなかったのも幸いだったのだろう。そうでなかったら、とても理性を残したまま移動はできなかった、と天馬は思う。
思ったよりも校舎はきれいだったし、明かりもある。とはいえ、暗い校舎を一人で歩くなんて、とうてい歓迎したい事態ではない。物音一つでもしたら、確実に飛び上がって叫ぶに違いない、と確信しながら天馬は美術室に辿り着いた。
鍵が掛かっている可能性も考えたけれど、そんなことはなかった。意外に思ったものの、中に入って理解する。美術室として使われていたことが嘘のように、中はがらんとしていた。机と椅子だけが数組ずつ残っているだけで、石膏像やイーゼルなど美術室らしいアイテムは一つもない。旧校舎が使用禁止になったことで、必要なものは全て運び出したのだろう。
「……一成」
ぽつり、と天馬は名前を呼んだ。この場所で三角と一緒に時間を過ごしていた。大好きな絵を描いていた。ここで一成は生きていたのだ。天馬は何一つ知らない。家族に大切に愛されて、三角という友達とゆるやかにつながりを結んでいた一成は、この場所に確かにいいた。
「どこにいるんだ。頼む、聞こえてるなら答えてくれ」
懇願するように、天馬は言った。消えてしまった一成は、もしかしたらここにいるかもしれない。いつもの教室ではなく、関わりの深い美術室へ居場所を移したのかもしれない。天馬はそう思ったのだ。だから美術室までやってきたけれど、反応は何一つなかった。
声は暗闇に吸い込まれて、何だか夏なのにやけに寒々としているような気がした。冷房もなく、じっとりとした蒸し暑さが漂っているはずなのに。いつもの教室より、机も椅子も少なくてやけにがらんとして見えるからだろうか。窓が大きくて、夜の濃さが一段と迫って来るからだろうか。
天馬は何の気なしに窓へ視線を向ける。同時に、背筋がぞくりと粟立った。話には聞いていた。ただ、今あらためて実感してしまった。中庭に面した窓。ここから一成は落ちたのだ。一歩間違えれば命を落としかねなかった。この場所で、天馬が今立っているこの美術室で、一成の命は失われかけた。
その事実を認識した天馬の心臓は、どっどっ、と早鐘を打つ。冷や汗が流れる。一成がいなくなる。死んでしまうかもしれない。世界のどこからも一成がいなくなってしまう、という恐怖が一気に身近に迫ってくる。この場所は、あまりにも死に近い匂いがしていた。真っ暗な闇が口を開けて、一成を飲み込もうとしているような。死の世界へ一成を引きずっていこうとするような。そんな気がして、これ以上ここにいたらおかしくなってしまいそうで、天馬は慌てて美術室を出た。
足早に廊下を戻り階段をくだって、天馬はいつもの教室に戻ってくる。祈るような気持ちで扉を開いた。もしもどこかで、今の様子を一成が見ていたら「テンテン、めっちゃ怖がってたじゃん」なんて笑ってくれるだろうか、と思ったのだ。しかし、もちろんそんなことはなくて、教室はただがらんとしていた。
「一成、どこにいるんだ」
泣き出す寸前の震える声で、天馬は言った。もはや懇願ではなかった。ただ、心の内があふれてこぼれていく。声は止まらなかった。
「オレがよけいなことをしたせいで、いなくなったんだよな。悪かった。オレのせいだ。頼むから、出てきてくれないか」
一成に会いたかった。顔が見たかった。声が聞きたかった。いなくなってなんかいないのだと思いたかった。あれで終わりだなんて思いたくなかった。反応がない事実が苦しくて、天馬はどうしたらいいかわからない。もはや言葉は懇願ではなく懺悔の響きをしている。
「頼む、一成。オレのせいだって、オレのことを怒ってくれよ」
どんな形でもいいから、出てきてほしかった。笑ってくれなくてもいい。怒ってくれていい。どんな一成でもいいから、顔を見せてほしくてそう言ったけれど。一成がそんなことをしないなんて、天馬が何よりよくわかっている。