第五章:Heartbeat runner
夜明けまでのエトランゼ 17話
放課後になると、天馬はすぐに教室からいなくなる。学校や寮にいると、幸や椋に話しかけられそうだからだ。九門はもうすぐ初戦が迫っているので、練習に忙しい。天馬との時間はあまり取れないのは幸運だった。
三角はあれから、学校には来ていない。恐る恐る確認した三角からのメッセージは、当然天馬を責めるようなものではなかった。ただ、何を言えばいいのかわからないのは、お互い同じなのだろう。連絡は取っていないし、三角からメッセージが来ることもなかった。
ひとまず、今の天馬は椋と幸を避けるのが先決だった。今日も天馬は、逃げるように学校から出てきた。市内の外れにある学校から駅に向かう中心地へ進んでいけば、次第に人出が増えていく。
ぼんやり歩いていると、金髪姿の人間がやけに目につく気がした。実際に増えたわけではないことくらい、天馬もわかっている。ずっと一成のことを気にしているから、金髪の青年にどきりとしてしまうのだ。
寮周辺の見回りは、初日以降だんだん強化されているようだった。思いのほか運び込まれた資材が多かったことと、寮から抜け出そうと画策する人間が何人か見つかったからかもしれない。深夜の時間帯も懐中電灯の明かりが見えるようになって、旧校舎へ行くことが難しくなっていた。
次の一手を考えなくては、と頭をひねった天馬は手紙を残すことにした。一成お気に入りの机はポストのような役目も果たしている。手紙を残してメッセージを伝えたこともあるのだ。夜に抜け出すことが難しいなら、動ける時間帯に旧校舎を訪れて手紙を入れておけば読んでくれるかもしれない。
深夜の教室では確認することができなかった机の中も、太陽の光に背中を押されて見ることができた。スケッチブックはそのままで、確かに一成はここにいたのだと安堵する。その事実に勇気づけられるように、天馬は手紙を残した。ただ、翌日以降に確認しても手紙は封がされたままで、読まれたような形跡はなかった。何度か手紙を机に入れたものの、結局一度も封は開けられていない。落胆したまま日中を過ごして、放課後になればこうして学校の外に出ているのだ。
駅前で遊ぶようなタイプでもないし、時間があるなら一成の顔を見に行くつもりだった。ほとんど毎日訪れているので、一成の家族も慣れたものだ。人見知りだという妹のふたばも、最近では天馬を前にしても隠れる頻度は減ってきた。気軽に会話するまでは行かなくても、多少警戒心は解けてきたのかもしれない。
そんなふたばに、何かお菓子でも買っていこうかと天馬は思っている。見舞いの品としてお菓子はだめだと聞いているけれど、家に持ち帰る分には問題がないはずだ。
いつもは真っ直ぐ病院に向かう道を、今日は駅前へと歩いている。お菓子を買うからという目的があるからだけれど、天馬は薄々感づいている。今までなら、寄り道もせず病室へ向かっていた。しかし今日初めて、天馬は病院ではない場所へ向かっている。
病室に行けば、眠る一成と会うことができる。一成はちゃんと生きているのだ、ということを確認して天馬はほっと安堵する。しかし同時に、このまま目が覚めなかったら――と考えてしまうのだ。三角との再会を果たせば、一成は目を覚ますと思っていた。だから、眠ったままの一成を前にしても「あともう少しの辛抱だ」と思っていた。しかし、事態は予想通りに進まなかった。
ついこの前までは、一成と確かに言葉を交わして会話ができたのに、今ではもうそんなことはできない。眠ったままの一成につながる糸は、ぷつりと途絶えた。そのきっかけは間違いなく自分だった。自分が何かを失敗したせいで、このまま目が覚めないんじゃないか、とベッドに横たわる一成を見るたび天馬は思っていた。
一成は消えてしまった。どこを探しても姿はなくて、名前を呼んでも答えが返ることはない。一成がいないという現実は、天馬の間違いを否応なく突きつける。一成をこの世につなぎとめていたものを自分が断ち切ってしまったんじゃないかと、眠る一成は己自身の失敗を何度も思い知らせるのだ。
一成に会いたいという気持ちと同時に、逃げ出したくてたまらなかった。自分自身の間違いを、目の前の現実は嫌というほど突きつける。自分のせいで一成を失ってしまうのかもしれない、という事実を直視したくなくて天馬の足は真っ直ぐ病院に向かえなかった。
胸が苦しくて、塞いだ気分のまま天馬は街を歩く。にぎやかな喧噪も全ては遠い。雑踏にまぎれた天馬は、ぐるぐると終わらない思考を繰り返す。
一人で何だってできると思っていた。今まで自分の力でどうにかしてきたから、今回だってそうできると思っていたのだ。しかし、現実はそんなことはなくて、椋や幸、九門や三角に協力してもらった。それで一成が目覚めるならいいと思っていたのに。人を頼って巻き込んで、得られたのは一成が消えたという結果だった。
何かを間違えたのだと認めるしかなかった。結局自分は何も満足に成し遂げられなかった。それどころか、一成は消えてしまったのだ。今はもう、言葉を交わすこともできない。笑顔を見ることもできない。自分のせいで失ったものたちは、あまりにも大きすぎる。自分の無力さを嫌というほど突きつけられるし、いくら名前を呼んだって答えてくれないという現実は、毎秒天馬を責める。
間違えてしまった。失敗してしまった。ベッドで眠ったままの一成や、いくら探しても呼び掛けても一成とは会えないこと。今天馬の前に横たわる現実は、広がっていたはずの未来や叶えられるはずの希望が零れ落ちてしまったのだと、容赦なく突きつけるように思えた。オレのせいだ、と何度も繰り返した言葉が再び頭を埋める。オレがよけいなことをしなければ、少なくとも一成は今も旧校舎にいてくれたのに。オレは自分で一成を消してしまったのだ。
鬱屈とした表情で機械的に足を動かしていると、大通りに合流した。南に曲がれば病院に通じていて、このまま真っ直ぐ進めば駅前に辿り着く。いつもなら南に折れる道を曲がらずに、天馬はそのまま進んだ。
遠出することもないので、駅に向かうのは久しぶりだった。駅前へ遊びに行く友達もいないし、実家へ帰る用事もないのだ。転入してきて降り立った時以来の駅前かもしれない。
駅が近づくにつれ、行き交う人や店がさらに増えてきた。にぎわいの中を歩きながら、ぼんやりと周囲を見渡す。お菓子を買うという目的は覚えていた。手土産になるような菓子というと、どんなものがいいのか。普段菓子を買う機会はほとんどないし、あってもせいぜいコンビニを利用するくらいだ。どんなものがいいのか思いつかない。
周囲に目を走らせていると、見慣れたコンビニの看板が目に入ってくる。自然と知ったものを認識してしまうのだろう。バカンスめいたスイーツの特集や、アイスクリームの新作を知らせる横断幕が出ていて、すっかり夏の装いだ。学校の近くにあるコンビニも、そういえば夏のカレー特集だか何だか出ていたな、と思う。
ふいによみがえるのは、一成の言葉だった。「今ってコンビニスイーツ、新作何が出てるんだろ」「コンビニ寄り道したいよねん」とスケッチブックに記された文字が、ありありと脳内に浮かんだ。
夜の校舎で一成を目覚めさせるための作戦会議をしていたら、自然と試験勉強が始まった。一成は、こんな時は甘いものがあったらいい、なんて話をしていた。その流れで一成は言葉を連ねたのだ。「ファミレスで大きいパフェ食べたいし、今ならイチゴかき氷食べ比べしたい」「ドリンクバーで新しい味を開発したい」なんて。
駅前にはファミレスの看板もある。大手チェーン店で、メニューにはしっかりパフェもあるだろうし、かき氷だって今の季節なら取り扱っているはずだ。ドリンクバーだって、設置されているだろう。どれも法外な値段というわけでもないから、高校生だってたやすく叶えられる願いだ。しかし、旧校舎から出られない一成にとっては、文字通り夢のような話だった。
試験勉強をしながら交わした言葉を思い出す。楽しそうに笑って、九門に数式を教えていた。幸や椋と他愛ない話をしながら、心底嬉しそうな顔をしていた。今まで過ごした光景を脳裏に映しながら、天馬は機械的に足を動かす。駅前へ向かうにつれて、人通りが増えていく。店の看板もにぎやかで、まるでお祭りみたいだ。お祭り、と天馬は思う。そうだ、夏祭りに行きたいと言っていた。
天馬の頭に浮かぶのは、きらきらとまばゆいばかりの夜の記憶だ。辺りはすっかり暗闇に覆われて、明かりは窓の近くの外灯一つだけ。それでも、二人が一緒ならどこまでも輝いているように思えた夜。
些細な話から、二人ででたらめなダンスを踊った。触れられない手を取り合って、音楽に合わせて二人で不確かなステップを踏んだ。どんなにめちゃくちゃだって構わなかった。二人で向かい合って、一緒に踊っている。ただそれだけが楽しくて、嬉しくて、胸がいっぱいで仕方なかった。
あの夜の光景は、空気は、胸を満たした感情は、一成の言葉は、天馬に強く刻み込まれている。だから、あの夜の願いだって覚えていた。朝になったら消えてしまう一成は、夜を超えた世界の話をしていた。
駅へ向かう天馬の脳裏には、これまで一成と過ごした時間や交わした言葉が思い浮かんでいる。まるで現実世界と二重写しになったように、天馬の目に飛び込んでくるものたちは一成の言葉につながっていった。
大通りから路地へ向かう道を見れば、三角に買ったおにぎりの店はこの先だったんじゃないか、と思う。さんざん迷って黒猫の先導で大通りに出て、そこからどうにか辿り着いた。一成は、「テンテンがすみーに持って行ったおにぎり、オレも食べてみたいな」と言っていた。種類がたくさんあるから選ぶのも楽しそうだと笑って、そのままおにぎりを持ってピクニックに行きたいのだと告げたのだ。
道を歩く天馬の目に、旅行会社の看板が飛び込んでくる。思い浮かぶのは一成が描いた絵で、生きていることを知らせた時だ。
世界的に有名な名画の模写、海やナイトプールの絵、それから青空の下の向日葵畑。今まで描いた絵を示しながら、一成は言っていた。昏睡状態だとしても確かに体は生きている。目覚めさえすればどこへだって行けるのだと、顔を輝かせて。「ヨーロッパ行ってギャラリー巡りして本物の絵も見られるし、海だって行けちゃうじゃん!」という言葉を覚えている。ナイトプールが気になっているとも言っていたし、一成がモチーフとして好む向日葵畑だって、確かに自分の目で見ることができる。あの時の華やぐ笑みが、噛みしめるような声が、天馬の頭にリフレインする。
人手がますます増えていく。駅前に辿り着いて、天馬はバスのロータリーを横目に足を進める。駅には商業施設が入っており、夏のセールを告げる広告が躍っていた。
ああ、きっと一成は嬉々として服を選ぶんだろうな、と天馬は思った。だって頭に浮かぶのだ。「テンテンと出かけるならばっちりおしゃれしたい!」なんて言っていた姿。さらに、天馬に服を選びたいのだと意気込んでいたのを知っている。「オレが選んだ服試着してほしいし、絶対なんだって似合うっしょ」と、瞳を輝かせて言ってくれた。
同じ学校に通って、ごく自然にクラスメイトとして仲良くなっていたら。きっと放課後、連れ立って駅までやって来た。二人で服を見て「これがいい」「こっちはどうか」なんて言い合っていたかもしれない。そんな未来を一成は思い描いたのだ。
目が覚めたら、旧校舎から出られたら、肉体を持っていたら。やりたいことはたくさんあるのだと、一成はいくつだって教えてくれた。コンビニの新作スイーツ。ファミレスのパフェにかき氷にドリンクバー。夏祭りに、おにぎりを持ってピクニックへ。行きたいところは、ヨーロッパのギャラリー、海やナイトプール、広い広い向日葵畑。お互いに服を選んで、おしゃれをして出かけたい。
そうだ、一成とこんな話をしていた。やりたいことはこんなにあるのだと、一緒にやりたいことがあるのだと言っていた。目が覚めた先の未来の話を、一成と二人でしていた。
未来を描いたのは、一成だけではなかった。一成の家族は、目を覚ます時を待って美術館の情報を集めている。三角は花火がしたいと言っていた。椋たちは一成の姿をきちんと見たいと言っていた。
思い出す。よみがえる。ほんの些細なきっかけ一つで、今までの記憶が紐解かれて、今日まで過ごした日々がこれでもかというほど天馬に降り注いでくるようだった。
きらきらとまばゆい、あの夜を覚えている。二人で一緒にいれば、何もかもが輝いて見えた。宝物のような時間だったからこそ、同時に強く思っていた。一成も天馬も同じ気持ちだったと疑いなく言える。この夜を抱えて、もっともっとこの先の朝までずっと、一緒にいたかった。夜だけで消えてしまうのではなく、朝までだってずっと一緒にいたかった。
同じ未来を描いていたのだ。目が覚めた先の世界を、広がっていく未来を描いていたのは、一成だけではない。一成の家族も、三角も椋たちも、何よりも天馬自身が一成といる未来を願っていた。
夜の中、二人で何度も時間を過ごした。些細な瞬間から、いくつだって思い出せる。こんなにも、オレの中は一成でいっぱいだったのだと、天馬はどうしようもなく思い知る。ただ道を歩くだけで、一成との記憶がこんなにもよみがえる。祈りを知っている。願いに触れた。一緒に朝までいたいと思っていた。夜だけじゃない。もっと先の未来まで、続いてほしいと願っていた。
その一成は、消えてしまった。今はもうどこにもいない。悲痛な言葉を残して、一成はいなくなってしまった。自分はきっと間違えたのだと天馬は知っている。失敗して、何もかもをなくしてしまった。だって一成はどこにもいない。呼び掛けても答えてくれず、姿を現すことはしない。いくら探しても、一成を見つけることはできなかった。いつもの教室を訪れても天馬の名前を呼んでくれないし、笑顔を向けてくれることはない。夜に溶けてしまったように、一成は天馬の目の前から消えてしまった。間違いようのない事実で、決して覆らない現実だ。わかっていても、それでも。今この瞬間に思い出すものが、一成がいない風景に重なるものたちが、何よりも教えている。
過ごした日々は、一成といた時間は、二人で交わした言葉や願いは、何一つ消えてなんかいない。
はっきりそう思うのと同時に、天馬の足は止まった。漫然と駅へ向かっていた足は、その場に縫い付けられたように動かない。後ろを歩いていた大学生くらいの青年や会社員らしき女性が、天馬を追い越していく。
道の真ん中で立ち止まっていたら邪魔になる、とわかっていたのに天馬は動けなかった。だって、どうしようもなく理解してしまったのだ。
自分が間違ってしまったから、一成は消えてしまったと天馬は知っている。よけいなことをしなければ、一成は今日も笑っていてくれた。何もしなければよかった。オレは失敗したのだと、天馬は思っている。事実として、天馬が起こした行動のせいで一成は消えてしまった。それは確かで、二度と取り返しがつかないことをしたのかもしれない。
――だけど、一成は生きている。
雷に打たれたように、今まで閉じていた目を無理やり開かれたように、天馬は思った。一成が消えてしまったのは確かだ。現実として、いつもいてくれた場所に一成はいないし、いくら探したって姿は見つけられなかった。目覚めない一成は自分の間違いを突きつけるようで、逃げ出したくてたまらなかった。そうやって目をそらし続けていたから、一番大事なものを見落としていた。
たとえ目が覚めなくても、呼びかけに反応しなくても、一成は生きている。体は確かに生きていて、鼓動を刻んでいるのなら、まだ終わりじゃない。
消えてなんかいないのだ。たとえ目の前から、一成の姿がなくなっても。いくら探してもどこにもいなくても。答える声も向けられる笑顔もなくても。一成と過ごした時間は、記憶は、二人で描いた未来は、三好一成という人間は、何一つ消えてなんかいない。
それなら、と天馬は思う。無意識に足が動いた。一歩踏み出す。熱に浮かされるような頭で、続きの言葉が形になる。一成は消えていない。オレと同じ世界にいてくれる。まだここに、この現実に、生きていてくれる。それなら、このまま何もできずに終わりが来るのを待っているなんて嫌だ。
はっきり思った天馬の胸には、次々と想いがあふれて形になっていく。
オレは何かを間違えた。失敗してしまったから、一成は悲痛な言葉を残していなくなった。それは確かで覆りようもない事実だ。だけど、一成が生きているなら、全てが終わったわけじゃない。それなら、オレにはまだできることがあるはずだ。一成がいないことを日々突きつけられるとしたって、オレは自分にできることを探すんだ。
足を踏み出した天馬は、くるりときびすを返した。駅へ向かうのではなく、元来た道を引き返す。最初はゆっくりだった歩みが次第に速くなり、最終的には駆け出した。いてもたってもいられなかった。
ふつふつと、燃えたぎるような炎が天馬の胸には宿っていた。後悔はまだ残っている。一成の悲痛な言葉や絶望的な表情は頭から消えない。それは確かに天馬の間違いの記憶で、望み通りの結果でなかったことは確かだ。オレは間違ったのだ、と事実として天馬は理解している。同時に、胸には新しい決意が宿っている。
一度間違えたなら、次は間違えない。失敗したって、ここで終わりじゃないならまだできることはある。一成はまだ生きてる。ここで終わらせてたまるか。お前と過ごす未来は、まだ消えていないんだ。
突き動かされるような気持ちのまま、天馬は病院へと一直線に走っていく。