夜明けまでのエトランゼ 18話
通い慣れた道を天馬は走り抜ける。息は苦しいし汗も噴き出しているのに、頭はやけに冴えていた。
何をするべきか、どう動くべきなのか。今までの行動を振り返った天馬は、もっとちゃんと何があったかを確認する必要があったんだ、と思っていた。
一成という当事者に話を聞いているから、それで事足りると思っていた。三角と会えば全てが解決すると簡単に考えていたけれど、そもそも一成の記憶は曖昧だった。三角に対して心残りがあったのは事実だろうけれど、その理由までは本人だってわかっていなかったのに。確かめもせず簡単な答えに飛びついたらいけなかった。もっときちんと、あの時何があったのかを知らなくてはいけない。
決意を握りしめながら、天馬は一成の病室に飛び込んだ。今日の見舞いは一成の母親で、息を切らす天馬に目を丸くしていた。天馬はどうにか呼吸を整えて一成の母親に挨拶すると、あらためて事故当時の状況を詳しく教えてほしいと頼んだ。
突然の申し出に、一成の母親は戸惑ったような表情を浮かべる。今まで何度も病室を訪れた天馬が、なぜ今になってそんな話を――と思ったのかもしれない。ただ、天馬が興味本位や冗談で口にしたのではないこともわかっているのだろう。「はっきりとしたことはわからないけれど」と前置きをしてから、知っていることを話してくれた。
「美術室で、一人で絵を描いていたみたい。他の部員は大体本校舎の美術室を使うから、いつも一成は一人だったらしくて、あの日もそうだったんでしょうね。他に何かやっていたなんてこともないみたい。美術室には描きかけの絵も残っていたから……」
「一成は、どんな絵を描いてたんですか」
どんな些細なことでもヒントが欲しくてそう尋ねた。美術室で絵を描いているのは当然だけれど、今まで特に言及したことはなかった。あまり重要視はしていなかったからだ。しかし、今はどんな些細な情報でも欲しい。残されていた絵は、幽霊になって描いた絵につながるのだろうか。だとしたら、そこには思い入れがあると考えられるかもしれない。
一成の母親は天馬の言葉に、わずかに言いよどんだ。それから、困惑を浮かべて口を開く。
「それがちょっと変わった絵なのよ。文化祭用に描いてる油絵だとか水彩画という感じじゃなくて……。スケッチブックに描いてあって、三角定規の絵なの」
飛び出した言葉に、天馬は目を瞬かせる。一成の家族が三角を知らないことは、今までの会話から理解している。三角定規が意味することを察していないことからも、三角にはつながっていないのだろう。だから、どうして三角定規を描いているのかと困惑している。モチーフとして一般的とは言えないのだから当然だろう。
ただ、天馬は三角定規の意味を理解している。十中八九、三角のために描かれた絵だ。一成は三角の三角定規を知っているから、モチーフとして選ぶことは納得できる。記憶を頼りに、なくしてしまった宝物が見つかるよう、願いを込めて描いたのかもしれない。
しかし、事故当時に描きかけだったというのが気にかかる。三角定規の絵を描いていた時に、猫が三角定規をくわえて現れるなんて、あまりにもタイミングが良すぎる。絶対にありえない話ではないものの、都合が良すぎるような気がした。まるで図ったようじゃないか、と思う天馬はいぶかしげな表情を浮かべるしかなかった。ただ、一成の母親は謎のモチーフを不思議がっていると思ったらしい。
「よくわからないでしょ。空の絵ならよく描いてたんだけど……だから、もしかして空の様子をよく見ようと思って身を乗り出したのかもしれない、とは思ったの」
天馬の困惑を肯定するような調子で、そう言った。恐らく一成の家族は、残された絵を前にして何度も問いかけた。一体あの時何があったのか。どうして一成は落下したのか。理由を知りたいと切望しているのは一成の家族が一番だろう。
三角のこと、三角定規や猫の話をするべきか、と一瞬天馬は考える。馬鹿げた話だと笑うことはないだろうと思ったけれど、あまりにも荒唐無稽だ。困惑させる可能性は充分考えられたし、確かな証拠と言えるものは何もない。上手く伝えることができなければ、三角のせいにもとられかねない。むやみやたらに人を疑うような人たちではないとは思っている。ただ、悪感情を持たれることは避けたかったし、ここは慎重にならなければならない。うかつに動くことで、事態を悪化させる恐れなら天馬は充分理解している。だから、今この瞬間の思いつきだけで話をするのは得策ではない、とひとまず天馬は何も言わないことにした。
「それなら描きかけの絵は空の風景だろうし、持っているのはスケッチブックやペンのはずでしょう。だけど、残っていたのは三角定規の絵だし、持っていたのも鞄だったのよね……」
独り言のように続いた言葉に、天馬ははっとする。事故の概要なら知っている。自殺ではなく事件だと判断された理由の一つに、一緒に鞄が落ちていたことが挙げられるのだ。これに関しても今までは気にしていなかったけれど、何かヒントになるかもしれない。
「――あの、鞄の中に何が入っていたかとかはわかりますか」
そう思って尋ねると、一成の母親は意図を察したらしい。「ごく普通のものばかりよ。明らかに怪しいものでもあれば、理由につながったでしょうけれど……」と静かに答えた。
天馬が考えることなんて、一成の家族だって当然考えている。持ち物ならすでに確認済みで、何かおかしいものがあればすでに調べているだろう。何もなかったということは、一成の所持品として妥当なものしか鞄には入っていなかった。
「もしも気になるなら、今度鞄を持ってくるわね。私たちが気づかなくても、天馬くんなら気づくこともあるかもしれないし」
そっと笑みを浮かべて、一成の母親は言った。おかしなものはなかったけれど、何か特別な意味を持つものがあるかもしれない。家族にはわからなくても、天馬であればわかるかもしれない、という可能性を考慮してくれたのだ。
天馬心底ありがたく思って、「お願いします」と頭を下げる。本当なら最初にこうするべきだった。集めるべき情報を集めることを怠ったのは自分のミスに他ならない。
「いいのよ。そうね、三角定規の絵も必要なら持ってきた方がいいのかしら。天馬くんに見てもらってわかることがあるなら、そうした方がいいわね」
思案気な表情でつぶやかれた言葉に、天馬は「よろしくお願いします。見てみたいです」と頼んだ。現場に残された絵だ。実際に見てみることで、何かのヒントになるかもしれない。
「いろいろお願いばっかりしてしまって、すみません」
一成の家は病院の近くというわけではない。荷物を持ってくるにしても他にも持ち物はあるだろうし、一苦労を掛けるのは間違いないのだ。だから申し訳なくてそう言うと、一成の母親は静かに笑みを浮かべた。
「気にしないで。長く時間が経つと、もしかしてずっとこのままなんじゃないかって思ってしまうの。だから、諦めないで行動しようとしてくれることに、私たち勇気づけられてるのよ」
しんとしておだやかな、凛とした言葉だった。心から言っているのだとわかった。お世辞や上辺だけの言葉ではなく、真っ直ぐ本心から思っているのだ。
そんなことを言ってもらえる資格があるのか、天馬にはわからない。一成が消えてしまったのは自分のせいなのだ。だけれどそれでも、天馬はもう決めている。間違えても失敗しても、もう一度走り出す。一成のいる未来をつかむために、やるべきことを果たすのだ。
◆
天馬は意を決して、三角に連絡を取った。三角と話がしたいという旨を告げれば、無視されるなんてことは当然なく、快く了承を伝えるメッセージが返ってきたのだ。
斑鳩家を訪れると、三角本人が出迎えてくれた。お土産としておにぎりとドーナツを渡すと嬉しそうに「ありがと~」と言って受け取り、そのまま三角の部屋に通される。道中で顔を合わせた円は再び警戒心をあらわにしていたものの、初めて会った両親は天馬を快く迎え入れてくれた。
長い廊下を進んで到着した三角の部屋は、いたるところが三角形で埋め尽くされていた。壁一面は三角形の壁紙だし、三角形のガーランドが張り巡らされている。さらに、巨大な三角型の本棚があり、三角形のランプや大きなおにぎりクッションが部屋には置かれていた。
三角形だらけの部屋に圧倒されながら、すすめられるまま畳の上の座布団に座る。ただ、今日三角に会いに来たのは、部屋を鑑賞するためではないと我に返った。天馬は深呼吸をすると、三角に向き直る。真剣なまなざしで「一成が落ちた時、何があったのか知りたいんだ」と告げた。
三角はじっと天馬を見つめ返す。驚きや恐れは浮かんでいなかった。ただ真摯に全てを受け止めようとするまなざしだ。天馬は目をそらさずに言葉を続けた。
「斑鳩には悪いことをしたと思ってる。一成が消えるなんて完全に予想外だったが、言い訳にはならない。会いに来てくれと言って、結局一成が消えてしまうなんて斑鳩にとってもショックだったと思う。悪かった」
深々頭を下げてそう言うと、三角は驚いたように目を瞬かせる。それから、慌てた様子で「てんまのせいじゃないよ」と言った。声の調子は心からのもので、天馬を責める響きは一切ない。本当に天馬のせいだと思っていないことは、声からも伝わった。
斑鳩三角というのはそういう人間なのだと、天馬は知っている。決して長い時間を共に過ごしたわけではないけれど、今日までの日々が伝えている。やさしい人間なのだ。一成と心を通わせて、互いを大切に思い合っていた。人の心に寄り添って、誰かのためにと行動できる。そういう人間だとわかっているから、三角は心の底から言ってくれている。
「斑鳩なら、そう言うと思ってた」
頭を上げた天馬が笑みを浮かべて言うと、三角はふにゃりと相好を崩した。天馬が自身の言葉を受け取ってくれたことを理解したのだろう。ほっと安堵したような空気を漂わせて「みすみでいいよ」と言って、やわらかく笑みをこぼす。その表情に、向けられるまなざしに、背中を押される気持ちで天馬は言う。
「何かオレたちずっと誰かのせいじゃないって言い合ってるよな。一成が落ちたことだってそうだ。オレは――三角のせいじゃないって思ってるし、一成のせいでもないって思ってる。きっと不幸な事故だったんだ。だけど、今のままじゃわからないことが多すぎる」
あの時何が起きたかをちゃんと知ろう、と天馬は思っている。それが一成の目を覚まさせるために必要なことだし、同時に三角と一成のためにもなるはずだ。心やさしい人たちは、何も知らないままではきっと自分のせいだと思い続けるから。
「三角のせいでも一成のせいでもないってことを確かめるためにも、あの時あったことが知りたい。そして、一成を目覚めさせるんだ」
凛とした決意を宿して言うと、三角はこくりとうなずいた。静かで落ち着いた表情に、確かな炎を瞳の奥底に宿していた。それを認めた天馬は、強いまなざしを浮かべて言葉を重ねる。
「ひとまず、現状わかってるのは一成が美術室に面したバルコニーから、中庭に落ちたってことだ。これが確かな事実だ。くわえて、三角の情報として、三角定規をなくしたことと一成も探してたってことが追加される」
一つ一つ、情報を整理するように天馬は言葉を並べる。三角は真剣な顔でうなずいて、天馬の理解が正しいことを肯定する。天馬は先を続ける。
「さらに、三角が猫から聞いた話だと、猫が三角定規を拾って、それを見つけた一成は猫を追いかけた。結果として、手すりに上がることになってバランスを崩して落下した」
淡々とした言葉に、三角は悲しそうにうなずいた。一成の事故を思い出して痛ましい気持ちになっているのだろうし、きっかけが自分だったことを痛切に感じているのだろう。天馬はそんな気持ちを払拭するように「ちなみに、一成の母親から聞いたんだが」と言ってさらに言葉を継いだ。
「一成はあの時、美術室で三角定規の絵を描いていたらしい」
事故そのものに関係はないかもしれない。ただ、あらためて判明した事実として三角へ伝えることにした。自責の念を全て消し去れなくても、一成の気持ちを伝えられるはずだと思ったのだ。案の定、三角は大きく目を瞬かせたあと笑みを浮かべた。泣きそうに眉を寄せて、それでもやわらかな表情で、こぼれだすような声で言った。
「かずは、いつかオレの宝物を絵に描いてくれるって言ったんだ」
いつだったかに交わした、ささやかな会話だ。美術室でイーゼルに向かう一成に向かって、何てことのない話をしていた。その中で、一成は「いつかすみーの宝物を、絵に描いてプレゼントするね」と約束してくれた。きっとそれは、三角の三角定規の絵のことだ。何の変哲もない三角定規が、三角にとってどれだけ大切なものかを知っている。一成は誰かの大事なものを、とても大切にしてくれる。まるで自分のもののように、心から大切に、丁寧に扱ってくれる。だから、三角定規の絵を形にしようとしたのだと、天馬も三角も思っていた。
「かずはサプライズも好きだから、オレのこと驚かせようと思って黙って描いてたのかも」
懐かしむようなまなざしを浮かべた三角が、軽やかな声で言った。なるほど、と天馬は納得する。どんな気持ちで三角定規をモチーフにしたのか、と思っていたけれどサプライズというのは考えられるな、と思ったのだ。何せ思い当たる節しかない。三角の知る一成はおとなしい外見をしていたはずだけれど、本質的な部分は変わっていないのだろう。
「あいつ、オレの誕生日だからって、内緒で絵描いてたしな。サプライズとして三角定規の絵を描いて三角にプレゼント、なんてやりそうだ」
なくしてしまったからこそ、三角のためのプレゼントとして三角定規を描いたのかもしれない、と思いながら、天馬はスマートフォンを取り出した。一成が描いてくれた苺が乗ったバースデーケーキの絵は、しっかり写真に収めていた。プレートには「てんまくん たんじょうびおめでとう」と書いてあるし、「1」と「7」のナンバーキャンドルにはしっかり炎が躍っている。
三角に画面を見せると、三角は目をきらきらさせて「かず、絵上手~!」と笑った。それから「てんま、誕生日だったんだねぇ。おめでと~!」と言ってごそごそと部屋を探す。幸に渡したものと同じらしい、三角形のぬいぐるみをプレゼントしてくれる。
「さんかくクンだよ~。かずにもあげたら、いっぱい喜んでくれたんだ」
にこにこしながら三角は言って、「かずは楽しいことが大好き。オレもいっぱい楽しかったから、いっぱいお礼したかったんだ」と続けた。三角形が好きな三角にとって、三角形のぬいぐるみは親愛の証なのだろう。自分の大好きなものをあげたい、という気持ちがくすぐったくて天馬は「ありがとな」と言ってから、照れ隠しも含めて言った。
「一成は確かにサプライズも好きだし、楽しいことも好きだよな。昔から変わらないんだなそういうところ」
「うん。かず、クラスだとおとなしいって思われてるみたいだけど、オレと話してる時はそうでもないかも~」
「写真で見る限り、どう考えてもおとなしいやつだろあれは……というか、あいつ今金髪だぞ。金髪にしたかったって気持ちがあったらしい」
「そういえば、かずそんなこと言ってたかも? ピアスも開けたいって言ってた!」
「言ってる。幽霊になっても言ってるぞあいつ」
しみじみとした調子で、二人は一成の話を口にする。ここにはいない。だけれど、確かに大事な人のことを語るのは不思議だけれど、何だか心地のいい時間だった。このまま、いくらでも一成のことを話していられるだろうと思ったものの、世間話をしにきたわけではないことも天馬はよく知っている。
だから、一段落ついたところであらためて話を切り出した。あの時何があったのかを知って、一成の目を覚まさせたい。二人の憂いをなくしたい。切実な気持ちを抱いて「これはオレの推測でしかないんだが」と前置きをしてから言う。
「スケッチブックに三角定規が描いてあったってこともあるし、猫を追いかけた理由も三角定規だ。それに――、一成が消える時三角に謝ってただろ。それもあわせて考えると、三角定規にまつわる何かが鍵になるような気がするんだ。だから当時のことについて、そこにいたっていう猫にもっと詳しい話を聞けないか」
事故のことを思い出させることにつながる行為だ。だから、三角に対しての負担になるんじゃないか、という懸念があった。しかし、猫の言葉がわかるのは三角だけだ。当時の状況を知る目撃者として、一番有力な手がかりになるだろう。三角定規を見つけた状況も含めて、再度目撃情報を詳しく知る必要があると考えたのだ。
三角は真剣な顔でうなずいて「聞いてみるね」と言ったあと、ふわりと笑った。嬉しそうに唇をほころばせて、天馬に言う。
「てんまは、ちゃんとオレの言うこと信じてくれるんだね」
猫の言葉がわかる、ということを前提として天馬は三角に頼んだ。しかし、大体の人は馬鹿げた話だと笑って終わりなのだと三角は今までの経験から知っている。三角の言葉を信じてくれたのは、三角の家族と一成だけだった。それに天馬もくわわったのだ。
「まあ……実際猫しか知らないことを三角は知ってたしな。大体、お前だって幽霊のこと信じただろ」
猫の言葉がわからなければ説明がつかない事態を目の当たりにした、ということもあるけれど。思えば幽霊の存在の方がよっぽど説明がつかない。そんな存在を信じている時点で、猫の言葉がわかるくらいどうってことはないように思えるのだ。
三角は天馬の言葉に「そうだねぇ」と楽しそうに笑った。常識ではありえないことだとしても、確かに存在するものを二人とも知っている。だからきっと、非現実的なことだって当たり前のように受け入れるのだ。
「それに、猫の言葉がわかるって点については、あと三人くらいは追加されると思うぞ」
そういえば、と思って天馬は言う。頭に浮かんでいるのは、当然椋・幸・九門である。幽霊の一成をごく自然に受け入れた三人だ。猫の言葉がわかるという話だって、ただの事実として受け取るだろう。