第六章:ひかりのほうへ

夜明けまでのエトランゼ 20話




 一成の夢を見た。旧校舎ではなく、太陽が降りそそぐ森の中を二人で歩いていた。進んだ先には高台が広がっていて、青空と海に出迎えられる。一成の目がきらきらと輝く。そのまばゆさに目を奪われながら、何か声を掛けようとしたところで目が覚めた。
 一瞬頭が混乱するものの、すぐに今見ていたものが夢なのだと悟った。明るい青空。光で紡いだような一成の輪郭、唇、まつげ、大きな目。現実ではありえない。しかし、一成が目を覚ましたら叶えられる全てだ。
 夢の光景を思い浮かべた天馬は、ベッドから起き出す。起床時刻にはずいぶん早いとわかっていたけれど、天馬は簡単に身支度を整える。脳裏に浮かぶのは一成の顔だった。青空の下、光に照らされる一成の横顔が焼き付いている。
 この時間に旧校舎へ行っても一成はいない。わかっていても、天馬は窓から抜け出した。早朝という時間帯だ。部活動の朝練もあるし、夜間の外出とは違ってこの時間に外へ出ていても見咎められることはないだろう。
 一成と会えないことはわかっていた。ただ、一成の近くに行きたかった。目が覚めた瞬間、天馬の心に浮かんだのは「一成に会いたい」というそれだけだった。突き動かされるような気持ちのまま、天馬は旧校舎へと忍び込んだ。

「一成の夢を見たんだ」

 朝の光に照らされた教室を歩きながら、天馬は言う。一成はこの時間帯、意識を保っていられない。わかっていても一成に話をしたかった。
 天馬は一成へ聞かせるように、夢の中の出来事を語る。天馬の先導で森を歩いていた。道が合ってるのか不安だ、遭難しないよね、なんて一成は心配していて、だけれど開けた場所に出た瞬間息を飲んでいた。この景色を描きたい、と言っていてその隣に自分がいられることが嬉しかった。

「いつか行ってみたいな。あれがどこかはわからないが、一成の目が覚めたら行きたい場所はいくらでもあるんだ」

 一成が行きたいと言っていた場所はもちろん、いろんな景色を一成に見せてやりたかった。美しいものを、心震わせるものを、たくさん一成の目に映したい。その時隣にいるのは自分がいい、と天馬は願っている。

「絵の本は借りてきたこともあるが、写真集も持ってくればよかったな。一成ならきっと、ここに行きたいって選んだだろうし、絵にも描いただろ」

 一成お気に入りの机の椅子を引いて、座りながら天馬は言う。自然な動作で机の中を確認したのは、ほとんど癖のようなものだ。スケッチブックやペンがあることにほっとして、封が閉じたままの手紙にがっかりする。それがいつもの流れだったのに。机の中をのぞきこんだ天馬は、体をこわばらせた。
 机の中に入れていた。ポストのように、届くようにと願っていた。何通も書いた手紙の封筒が開いていた。
 勘違いかもしれない。都合のいい夢かもしれない。恐る恐るといった手つきで、天馬は封筒を取り出す。息を止めて、日の光の下で再度確認した封筒は確かに封が開いていた。
 どくどくと心臓の音があり得ない速さで鼓動を刻んでいた。一気に頭が沸騰したようだった。それでもまだ、偶然かもしれないという意識もあった。糊付けが弱くてたまたま封筒が開いてしまっただけかもしれない。思いながら、震える指先で封を開く。便せんを確認する。
 天馬は何通か手紙を残している。一枚で終わるものもあれば、二枚に及ぶものもあった。「一成へ」という書き出しから始めて、丁寧に封筒へしまった。そのはずなのに、二枚目が上になって封筒へ収まっているものがある。天馬は思わず息を吐いた。こんな入れ方はしていない。何度も確認したから間違いない。入れた順番が違う。誰かが目を通したことは明白だった。
 一成だ、と思った。一成はここにいた。この手紙を読んだ。他の誰かが入り込んだ可能性も完全に否定はできないけれど、旧校舎には一体どれほどの机と椅子が残っているというのか。偶然この机をのぞき込む可能性なんて、ゼロに近いだろう。工事関係者なら見つけ次第処分するだろうけれど、スケッチブックもペンもそのまま残っているのだ。
 だからこそ、目の前の現実が指し示す答えは一つだ、と天馬は確信する。
 これは一成だ。一成は手紙を読んでくれた。一成は消えてなんかいない。もしかしたら、どこにもいないんじゃないかと怖かった。だけど違う。一成は手紙を読んでくれた。消えていない。一成はここにいてくれたんだ。
 思った瞬間、天馬の胸にぶわりと広がったのは、震えるような歓喜だった。一成はここにいる。この手紙が確かな証拠だ。きっとまだいてくれると信じてはいたけれど、心細くてたまらなかった。本当はどこにもいないのに、盲目的に信じているだけかもしれないと不安がよぎったこともある。だけど、この手紙が教えてくれる。封を開いて読んでくれた。一成はここにいた。消えていないんだ。ここにいるんだ。
 その事実を握りしめる天馬の全身を、嵐のように喜びが駆け巡っていた。
 打ち震えるような、叫び出したくなるような、暴れ狂う衝動にも似た歓喜が体中に満ちあふれていた。ここにいる。消えていない。一成はちゃんとここにいてくれた。手紙を読んでくれた。消えていない。一成はここにいる!
 爆発するように思うのと同時に、天馬の目が潤む。ほっとして嬉しくて、声を上げて泣きそうだった。結んだ唇が震える。じわじわと涙が浮かび、視界がぼやけて天馬は戸惑う。
 今まで天馬は自分のことを理性的だと思ってきたし、こんなに心が動いて情緒が乱されることはなかった。一成がいるのだと、その事実だけで泣いてしまいそうになるなんて初めてだった。
 しかし、決して嫌な気持ちではなかった。天馬は大きく息を吐き出す。熱の塊のようだった。ぐい、と手の甲で涙をぬぐった天馬は、どこかで納得していた。だって一成なのだ。他の誰とも違っている。
 一成と出会ったことで、天馬の世界は大きく変わった。一緒にいれば、何もかもが輝いて見える。味気ない毎日が色づいていく理由。心を広げて受け止めてくれる。本音を話すことを恐れる必要はない。真っ直ぐ天馬を大事にしてくれる。同じくらい、大切にしたくてたまらない。一成のためにできることがあるなら、何だってしたかった。特別で、大切で、一緒にいるだけでどうしようもなく幸せだった。
 こんな人は初めてだった。この世界で天馬のたった一人が誰かと聞かれたら、迷わず一成と答えられる。そんな相手なのだから、初めて知る感情を抱くのだって当然だと思った。
 痕跡を見つけるだけで、胸が弾んでどこにだって飛んでいけそうだなんて。泣きたい気持ちで、一成がここにいることの喜びに打ち震えるなんて。一成がいてくれるだけで、こんなにも幸福な気持ちになるなんて。そんな相手に、天馬は今まで会ったことがなかった。
 一成だけだ、と天馬は思う。もしも今ここに一成がいたら、どれだけ一成が特別なのかと言いたかった。大切なのだと、世界で一人を選ぶならお前なんだ、と言いたかった。
 たとえ姿が見えないとしたって確かにここにいるなら。消えずにここにいてくれるなら。この胸にあふれる気持ちを、喜びをきっと伝えられるはずだ。震える胸で手紙を見つめて、天馬はあふれだす気持ちをただ感じている。


 高揚した気持ちのまま、天馬は寮へ帰ってきた。いくら早朝なら見咎められないとはいえ、朝食の時間に不在だったらさすがにまずい。そろそろ活動を始めた人間も増えてきただろうし、無難に入り口から戻った方がいいだろうか――と寮の正面に向かっていた時だ。

「皇くん?」

 声を掛けられて、反射的に振り返れば咲也が立っていた。ジャージ姿で、運動でもしてきた後のようだった。咲也は「朝早いんだね」とにこにこ笑いかける。

「……目覚めたんで、散歩してしました」

 素直に答えるわけにもいかなくて、嘘と本当をまじえながら答える。咲也は明るい表情で「朝はそんなに暑くないし、散歩にはちょうどいいよね」とうなずく。天馬はあいづちを返してから、質問を口にする。

「佐久間先輩も散歩ですか」

 咲也が運動をしているイメージはなかった。それなのにジャージ姿ということは、散歩でもしていたのかもしれないと思ったのだ。咲也は天馬の言葉に、おだやかな笑顔で「自主練かな」と答える。何のだ?と思ったことを察したのだろう。はにかむ笑みで、そっと教えてくれた。

「演劇部なんだ。うちの学校の演劇部は、今はあんまり人数が多くないから、目立たないんだけど……」

 曰く、昔は強豪だったものの今はすっかり弱小部である。少しずつ人数を集めて、どうにか最近になって公演ができるようになったところらしい。咲也はぱっと顔を輝かせて「九門くんと椋くんがよく公演を見に来てくれるよ」と言うので意外に思うけれど。何でも、十座も演劇部に所属しているので、二人はしっかり舞台を見に来ているらしい。天馬が最近、椋や九門と親しくしていることを察しての言葉だろう。

「……そうなんですね。でも、演劇部って自主練とかするイメージなかったので、ちょっと意外でした」

 純粋な感想である。舞台といえば、それこそ屋内の劇場で演じているイメージだし、何だか優雅な雰囲気がある。自主練やジャージ姿とはうまく結びつかなかったのだ。

「舞台は体力勝負だから体力作りは大事だし、それ以外にも好きな戯曲や台詞の発声練習をしたりとか……」

 天馬の感想に答える咲也は、一旦言葉を切る。それから、深呼吸をすると表情を変えて言った。

「『朝日と共に心に住まう人こそ、愛しさの証よ』」

 ろうろうと歌い上げるようなそれが台詞であることはわかった。口にした瞬間、咲也の雰囲気はがらりと変わる。それまでのふわふわとしたおだやかさは消えて、一気に力強く凛としたものになった。堂々とした所作も加わって、咲也の体が何倍も大きくなったように感じられた。
 目が離せない。吸い寄せられるようにじっと見つめていると、また咲也の雰囲気が変わった。ふっと空気が緩んで、今まで通りの咲也に戻って言う。

「今やってる芝居の一節で、主人公に恋心を気づかせるシーンなんだ。朝目が覚めた時に、一番に会いたいと思ったら恋だっていうのがすてきだなと思って、好きな台詞なんだ」

 嬉しそうな言葉に、天馬の心臓がドキリと大きく跳ねた。朝目覚めたら。一番に会いたい。真っ先に頭に浮かんだ。恋。特別だという気持ちに名前を付けるなら――これは恋というのか。
 あらためて指摘されたような事実に、天馬の心臓はドキドキと早鐘を打つ。しかし、決して意外ではなかった。ああそうなのか、とすんなり思えたし、相手が一成だという事実に胸が弾んだ。唇には勝手に笑みが浮かんで、天馬の高揚感に拍車をかける。

「――元気になったみたいでよかった」

 天馬の様子を見つめていた咲也が、ぽつりとつぶやく。はっとして視線を向けると、咲也はやさしい笑顔を浮かべて告げた。

「皇くん、ずっと落ち込んでたから……。何かあったのかなって心配してたんだ。でも、今はもう平気みたいだね」

 おだやかな笑顔に、やわらかなまなざし。真っ直ぐ手渡されるようなものたちに、天馬は理解する。ああ、この人は今までずっと見守っていてくれたんだ、と。
 思い返せば、転校してきた時からずっとそうだった。咲也はいつも天馬を気にして、声を掛けてくれていた。できることはないかと、手を差し出すタイミングを見計らっていてくれたのかもしれない。きっと本当にだめになりそうなったら、その前に助けを出すのだと決めて。

「――ありがとうございます」

 気づかなかっただけで、こんな風に見守っていてくれる人がいたんだ、と思いながら天馬は心からの感謝を口にした。それから、しみじみとした気持ちで咲也に言う。

「佐久間先輩って、寮長に向いてるって言われませんか」
「ええ、そうかな?」

 咲也は心底意外そうな顔をしているし、天馬もあんまり目立たないしぱっとしない人だなんて思っていたけれど。いつだって見守っていようとしてくれる人なのだと、きっとみんなわかっているから寮長なのだ。