夜明けまでのエトランゼ 21話
すでに授業は短縮になっている。定期考査も終わり、あとは夏休みが始まるのを待つだけなのだ。おかげで時間があるのは幸運だった。解体が開始されるまで猶予はない。できることは全て試さなくてはならない。
昼食を済ませたあと、天馬は一成の病室を訪れた。日によっては椋や幸と共に見舞いへ行っているけれど、今日は二人とも用事があるということで一人だけだった。
今日は一成の父親とふたばがいて、天馬は買ってきたクッキーをふたばに渡した。かわいらしい缶に入っているもので、ぱっと顔を輝かせる。喜び方が一成と同じでほほえましく思っていると「ありがとうございます」と真っ直ぐ天馬を見てはにかんでくれた。もっとも、すぐに父親の後ろに隠れてしまったけれど。
一成の父親は天馬に礼を言ったあと、現状を報告する。とはいっても、特に何かが変わったところはなかった。残念に思う気持ちはあるものの、悪化していないことは朗報だ、と思い直す。些細なことでもいいから、もしも何かあったら連絡してほしいと再度頼めば、一成の父親は「もちろんそうするよ」とうなずいてくれた。連絡先なら交換しているし、毎日のように訪れる天馬の熱意を受け取ってくれているのだろう。
「今度、また新しく友達が来てくれると聞いたよ。一成の友達がたくさん訪ねてきてくれるようになって、一成も喜んでると思う」
一成をやさしく見つめて、ぽつりと言葉を落とす。新しい友達、とは三角のことだ。意を決して三角と対面したあと、天馬は一成の見舞いに三角を誘った。自責の念は消えないとしても、三角が一成に会えない理由はないのだ。ただ、三角はなかなか決心がつかないようで、しばらく悩んでいた。無理強いはしたくなくて見守っていると、つい先日「お見舞いに行きたい」と言ってくれたので、一成の家族へは事前に打診していた。今度、三角と共に見舞いに訪れる予定になっている。
「本当に天馬くんにはお世話になっているね。いつも気にしてくれているし、毎日のようにお見舞いに来てくれる。負担になってないといいんだけど……」
心配そうな表情で言われて、天馬は目を瞬かせた。負担になんて思ったことは、一度もなかった。ただ、家族からすれば不思議に感じるのはもっともかもしれない、と思い直す。世話になっていたのだとは言っているし、仲が良かったのは察しているだろうけれど、はっきりと言葉にしたことはないのだから。
天馬は深呼吸をすると、あらためてといった調子で一成の父親に向き直る。
「一成にはいくら感謝しても足りません。一成がいなかったら、オレの毎日は無味乾燥だった。一成がいたから、どんな些細なことだって特別なことのように思えました。本音で話せる初めての相手が一成だった。二人でいたら、何だってきらきら輝いてた」
思い出すのは、今日まで過ごした二人の日々だ。旧校舎で偶然出会った。幽霊と知らず仲良くなり、幽霊だとわかってからも何も変わらなかった。だって一成はいつだって天馬の気持ちを受け止めてくれて、天馬の心を抱きしめてくれていた。
「一成はいつだってオレに寄り添ってくれた。オレのことを、心から大事にしてくれる。大切なんだと真っ直ぐ思ってくれた。一成がいてくれてよかったって、何度も思いました。一成はずっとオレにとって大切で――特別な相手です」
一成が消えてなんかいないのだと、見つけた時の震えるような喜びを天馬は覚えている。ただ一成がここにいる、その事実だけで泣き出したくなるほど嬉しかった。そんな風に心を動かす人は、天馬にとって一人きりだ。あらためて思い知ったからこそ、一成の家族にはきちんと言いたかった。一成に連なる、同じように一成を大事にしている人たちだからこそ。
「一成のためにできることは、何だってしたい。オレはもう一度一成に会いたい。負担になんか思うわけがありません。全部オレがしたくてやってることです」
きっぱり告げると、一成の父親は笑みを深めて「ありがとう」と告げた。わずかに震えていたけれど、その声はどこまでもやさしかった。ふたばも大きな目で真っ直ぐ天馬を見つめていて、受け取ってくれたんだ、と思うには充分だった。
それから、少しばかりの沈黙を流したあと、一成の父親ははっとした表情を浮かべる。キャビネットの下にあった大きな袋から取り出したのは、スケッチブックとスクールバッグだった。
「この前天馬くんに渡すと言っていただろう。これは当日一成が描いていたスケッチブックで、こっちはいつも持っていた鞄なんだ。中身は大体そのままになってる。スマートフォンや飴なんかの食べ物は抜いてあるけど」
そう言って渡してくれるので、受け取った天馬は「ありがとうございます」と頭を下げた。空いた椅子に座り、まずスケッチブックを開く。何かヒントが欲しかった。
一枚ずつめくっていくと、一成の描く世界が現れる。美術室から見える中庭や、学校のグラウンド、寮の一室。空の広い公園や煉瓦作りの図書館、読んだ本の表紙。駅前の風景やバス停、手のひらや鉛筆を持った手のデッサン。ケーキと紅茶のセットにカフェの外観、おしゃれなお店のウィンドウ。海辺の景色に、青空を背景にした夏の山、宇宙に浮かぶ青い地球。実際目にしたものから空想で思い描いたものまで、一成の触れた世界が、あざやかに描き出される。
色がついていたり白黒だったりは様々だけれど、一つ一つ丁寧に描かれていることはわかった。一成はこんな風に、何に対しても心を分け与えるように寄り添っているんだろう、と天馬は思う。一成はいつだって、どんな時も何に対しても、やさしいまなざしを送っている。それを表すように、スケッチブックの世界は細やかに丁寧に描き出されて、美しい。
一成の見ている世界を感じられるようで嬉しく思いながら、天馬はスケッチブックをめくった。中盤を過ぎた辺りで現れたのは三角形定規で、これ以降は空白になっている。
三角形定規はまだデッサンの段階で、完成というわけではないらしい。それでも、しっかり写実的に描かれているし線は丁寧だ。手慰みに描いたわけではなく、本気で取り組んだことはうかがえる。ただ、今までの絵から見ると確かに異質だった。一成の絵は風景が多いし、そうでないものも自分の活動を記録するようなものが主流だった。突然現れた三角形定規というのは、確かに目を引く。
まじまじと天馬は絵を見つめる。二等辺三角形の三角定規。底辺には目盛りがあり、中央にはくりぬいたような三角形の穴が開いている。てっぺん近くにはロゴマークのようなものがあるらしいけれど、まだ下書き段階ではっきりとはわからない。
描きかけということで、これを完成させていないことが心残りなのか?と一瞬思うものの、すぐに否定する。それだけであんなに悲痛な声をして、恐慌を来したような表情を浮かべるとは思えない。
しばらく見つめても答えは出ない。空白のページに何かが残っているということもなく、天馬はスケッチブックを閉じた。
それから鞄の中身を確認するものの、一成の父親が言う通り取り立てておかしなものはなかった。ペンケースやノートなどの文房具に、参考書や電子辞書の勉強道具、財布やハンカチなどの類。スマートフォンは別途保管してあると言っていたし、食べ物に関しても同様だ。荷物を確認する天馬に、飴はわかるけどにぼしを持ってたのは驚いたな、と一成の父親は言っていたけれど恐らく猫用だろう。
三角定規をくわえた猫を追いかけて、にぼしで気を引こうと鞄を持って手すりを足場にした、と天馬は予想している。恐らくそう外れてはいない予想のはずだった。
特に何かおかしなものはないな、と思いつつ天馬はペンケースを手に取る。革製でシンプルなデザインのものだった。ただ、端の方にはインクが漏れたのか染みになっていてドキリとする。血の跡のようにも思えた。
制止されることもなかったので、ペンケースのファスナーを開く。中身を確認すると、消しゴム、接着剤、修正テープ、シャープペンシル、ボールペン、鉛筆、マーカー、替え芯などが入っていた。一見すると何の変哲もないようだけれど、よく見れば違和感がある。鉛筆は芯が折れているし、シャープペンシルのペン先は曲がっている。替え芯は割れて、ボールペンからはインクが漏れた形跡があった。
これは単なるペンケースではないのだ。一成と一緒に落ちた鞄に入っていたのだから、三階から地面に叩きつけられている。その時の衝撃によって壊れてしまったのだろう。三階から落ちるなんて、一体どれほどの負荷がかかったのか。一成の体に起きたことを思って、天馬は痛ましい気持ちになる。
想像以上の衝撃があったに違いない。ペンケースの中身が全て無事なわけがないのだ。よく見れば、割れたプラスチック片のようなものがあって、衝撃の強さを物語っているように思えた。プラスチックには目盛りがあるので、定規が何かだろう、と天馬は手に取る。ただ、そこで思わず眉を寄せた。
割れたとはいえ、定規であるなら直線であり、長方形だろうと思っていた。しかし、天馬の手にあるプラスチックは細長い台形のような形をしている。長い辺である下底には目盛りがあり十二センチまでが刻まれ、上底部分で割れているようでいびつに波打っていた。
変わった形の定規だろうか、としげしげ眺めていると一成の父親が気づいたらしい。同じく不思議に思っていたのだろう。鞄が開いていたせいか、事故現場には一成の持ち物が散乱していた。できる範囲で回収はしたものの、全てを拾えたかはわからない。だから、もしかしたら本来の形とは違うものなのかもしれない、と言ってから静かに続けた。
「でも、一成は不思議なものも好きだったからね。変わった形の文房具を持っていただけかもしれない」
そっと落ちた言葉に、天馬もうなずいた。確かに一成なら変わったアイテムを嬉々として持っていそうだから、台形の定規である可能性も否定はできなかった。ただ、上部が割れていることが気にかかる。落下の衝撃でこんな形になっただけで、本来はもっと別の形なのかもしれない。
それにしたって、欠けた部分を補っても一般的な直線定規にはなりそうになかった。割れているのは上部一辺だけで、他はきれいなままだ。欠けているのは上部だけと考えるのが妥当だけれど、ここを補っても長方形になるとは思えない。もっと不思議な形をしている定規だろうか。何の変哲もない持ち物の中に現れた、不思議なアイテムだ。何かヒントになるんじゃないか、と角度を変えて眺めていた。
元の形は一体何か。四角形にしては埋める箇所が少なすぎる。まさか丸ってことはないだろうし、それなら――と思ったところで、天馬ははっとした表情を浮かべる。
天馬の膝の上に乗っている、閉じたばかりのスケッチブック。中に描かれたものが頭によぎった。描きかけの、突然現れた不思議なもの。四角でもなければ丸でもないのなら、もしかして。
割れた部分に小さな三角形をあてがえば。台形の上に三角形が乗ったなら。もしかしてこのプラスチックは、三角定規になるんじゃないか。
「――あの、これ、少し借りてもいいですか」
思いついた選択肢に、天馬は上ずった声で尋ねる。一成の父親は意外そうな表情をしたものの、すぐにうなずいてくれた。