桜の下でいつかきみと




 一成は大きな目で天馬を見つめて、天馬の言葉をゆっくり飲み込んでいるようだった。視線を逸らすことなく、何もかもを受け止めて理解しようとしている。その様子に、天馬は今までの強い雰囲気を崩す。困ったような笑顔を浮かべて言った。

「いきなりこんなこと言われても困るよな。オレが言うのもずるいっていうのもわかってるんだ」

 他の誰かではなく、天馬に頼ってほしい。一成の力になって幸せにするのは、自分の役目がいい。そんなことは単なるワガママでしかないし、一成に受け入れる義務はない。
 しかし、天馬は一成にとって恩人という立場なのだ。一度だって天馬は一成との間に上下関係を持ち込んだことはないし、一成だってそのつもりだとわかっている。それでも、後ろ盾であることは事実だ。

「一成のことだから、いろいろ感謝してくれてるだろ。そんなオレがこうしてほしい、なんて望むのは立場を乱用してるのと変わらない」

 何もかもを捨てて、一成はこちらの世界にやって来た。だからこそ、どうしたって天馬の助けが必要になるし、そもそもこちらへ来るきっかけが天馬なのだ。一成にとっての自分の存在の大きさを天馬は自覚していた。

「一成の世界はこれからも広がっていくはずだ。そのうえで選ぶならまだしも、今の状況でこんなことを言うのはオレの勝手にすぎない。だから、忘れてくれていい」

 こちらへ来たばかりの一成にとって、カンパニーだけが全ての世界だった。中でも夏組との関係が一番深かったし、筆頭は天馬だった。
 事情をよく知っているのが天馬ということもあり、一成が最も親しいのは間違いなく天馬だ。カンパニーという一つきりの世界だからこそ、天馬の比重は否応なく重くなる。
 そんな状況で、天馬からの望みを告げるのは決してフェアとは言えない、と天馬は思っている。狭い世界でこんなことを言うなんて、一成の選択肢がほとんどないのと同じだろう。
 だからこれは自分勝手な言葉で、一成からの答えを求めるものではない。何かの返事を期待して言ったものではないのだ。

「ただ、お前を大事にしたいって思ってることだけ伝えさせてくれ」

 一成の過去を知った。理不尽に心を傷つけられて、存在を踏みにじられてきたのだと否応なく理解した。
 だから天馬は言いたかった。負担になるのだとマイナスにしかなれないのだと言う一成に、どれだけ一成が大切なのかと、大事に思っているのかと伝えたかったのだ。
 負担になんかならない。マイナスだなんて思わない。頼られることは、一成のためにできることがあるのは天馬の喜びなのだ。
 嘘偽りない本心を、天馬が心から思っていることを、ただ一成に伝えたかった。答えはなくていいから、一成という存在を心から大切にしてしいることだけ、受け取ってほしかった。
 だからこその言葉であり、何かしらの反応を欲しているわけではない。今の状況ではフェアではないとわかっているから、一成からの答えを求めるものではないのだ。
 そう告げると、一成がはっとした表情を浮かべた。唇を震わせて、ほとんど反射のように答える。

「オレの世界は、ちゃんと広がったよ」

 紫色の瞳を見つめて、一成は言う。天馬は一成の世界がカンパニーだけに限定されていることを指して、狭い世界だと言っている。それは確かに間違ってはいないのだろうけれど、それでも。フェアじゃないなんて、天馬が何かを後ろ暗いと思う必要なんて、一つもないと言いたかった。

「こっちに来て、カンパニーで過ごして、びっくりするくらいオレの世界は広がった。知らなかったものをたくさん知った。家族と塾と学校しかなかった世界が、どんどん広くなって、カラフルになっていった」

 カンパニーで過ごす日々は、毎日が新鮮だった。だって何も知らなかったのだ。
 キッチンに立ったこともなければ、スーパーマーケットも商店街もほとんど行ったことがなかった。生活をするだけで多くの仕事が必要なことも、共同生活のためにやるべきことがどれだけ多いかも、カンパニーで過ごすようになって初めて知った。
 舞台に立つことは、それこそ何もかもが初めての経験だった。
 幕が開くまでにすべきことも山積みだったし、舞台袖で感じる緊張感もスポットライトの熱さも、観客からの反応も、心を受け取り合う舞台上の高揚感も。全員で駆け抜けた舞台から知る最高の瞬間も、一成はこちらの世界に来て初めて知った。
 カンパニーで過ごす毎日は、一成の世界を更新し続ける。閉じられた世界が、外へ外へと広がっていく。
 単色で描かれるだけの毎日が、同じ日々を繰り返すだけの時間が動き出す。知らない色が毎日くわわって、一成の世界は見違えるようにあざやかになっていったのだ。

「もっとやりたいことができて、いろんなところに行くようになって。たくさんの人と出会ったし、できなかったこともできるようになった。オレの世界は、これからもっともっと広がるよね」

 カンパニーで過ごすようになり、さらにもっと別のことにも目を向けるようになった。デザインを学んでWeb制作に精を出すようになった。SNSを駆使することを覚えて、何より本格的に絵を学ぼうと思った。美大に通って講座を受けて、一成の世界は広く豊かになっていく。
 これから先、もっとたくさんの人と出会って新しい世界に飛び立っていくのだ。それは確かな予感だったし、一成が思い描く未来の姿だ。理解するのと同時に確信していることもあった。

「オレがそうやって世界を広げていけるのはさ、テンテンがいるからだよ」

 新しい世界は、一成の前にいつだって開けている。しかし、すぐさま飛び込んでいけるわけではなかった。人と波風を立てないのは得意だし、好奇心も旺盛な方だ。だから、新しい世界への興味は確かにあるし、どうにかなるだろうとも思う。
 それでも、立ちすくんでしまいそうなことは何度だってある。だって、新しい世界は未知のものばかりだ。必ずしも楽しいことばかりが待っているわけではないし、困難や苦しみもあるかもしれない。ためらってしまうことも、怖いと思うことだってある。
 それでも足が進むのは、一歩踏み込んでいけるのは、天馬の存在があるからだと知っている。

「テンテンがいてくれるから、絶対オレの味方でいてくれるって思えるから、オレは前に踏み出せる。テンテンがいるなら平気なんだ。テンテンがいてくれたら、オレはどこにだって行ける」

 自分の心を握りしめるように、一成は言う。怖いことならある。無敵になったわけじゃない。
 世界が諸手を挙げて歓迎してくれるわけじゃないことは、これまで過ごしてきた日々からよくわかっている。一成が生まれ育った場所は、決して一成にとってやさしいものではなかったから。
 それでも今、一成は新しい世界に踏み出せる。怖くても立ちすくんでも前に進める。だってここには天馬がいる。
 こちらの世界に来た時だってそうだった。天馬に出会うため、その手を取るため、今までの人生があったのだと思った。天馬のいる世界を選ぶと決めたから、一成は絵の中に飛び込んだ。
 あの時から、天馬のいる場所が自分の居場所だと知っていた。どんな世界だって、天馬がいてくれるなら平気だ。
 疑いなく一成は思っているし、理由だって知っている。一成は深呼吸すると、天馬を見つめて言った。誓いを懸ける真摯さで、心からの言葉を紡ぐ。

「恩人だからじゃない。テンテンがテンテンだからだよ」

 恩人であることは否定しないし、心から感謝しているのも本当だ。しかし、一成は確信している。たとえ天馬が恩人じゃなくたって、オレは同じことを思う。テンテンがテンテンだから、どんな世界にだって飛び込んでいける。

「もちろんめっちゃ感謝してるし、テンテンがいてくれたから出会えたものとかいっぱいあるんだけどさ。テンテンがいろいろしてくれるからとか、テンテンのお世話になってるからとかじゃなくて。テンテンがテンテンだから、テンテンのいる場所を選ぶんだよ」

 一成は自分の気持ちを自覚している。カンパニーのみんなも大好きだし、大事に思っている。ただ、天馬はその中でもどうしたって特別だった。恩人だからという側面はもちろんあるだろうけれど、それだけではない。
 感謝しているだけなら、尊敬しているだけなら、望まないことを知っている。一成は天馬に、自分を特別にしてほしかった。他の誰も知らない顔を見たい。芸能人でもなければ仲のいい仲間へ向けるものではない、自分だけの天馬が欲しかった。
 何度もドラマや映画で見てきたように、真剣な表情で愛の言葉を告げられたら、と想像するだけで胸が高鳴った。世界中でたった一人の特別だと、自分を選んでほしかった。天馬にとっての唯一無二だと言ってほしくて、愛の言葉をささやいてほしかった。
 それは恩人だから、という理由だけではないのだ。一成はただ、皇天馬という人間が好きだった。
 天馬の持つ誠実さやひたむきさ。いつだって芝居に真剣で、揺るぎない信念がある。人の言うことをすぐに信じるピュアなところ。案外子どもっぽくて、寂しがりや。どんな時も最高を目指して、力強く駆けていく向上心。相手の心を受け止めて力になってくれる、誰より強くてやさしい人。
 天馬の好きなところなんて、数え上げればきりがない。心を分かち合って深く知っていけばいくほど、一成の中で天馬は特別になっていった。
 天馬に笑ってほしかったし、自分を見て笑ってくれることが嬉しかった。気に掛けてもらえることに喜びを抱いて、他の人と違う扱いをしてもらえれば胸が弾んだ。自分だけの顔を見せてほしかった。他の人の知らない天馬を知りたかった。天馬が自分だけの特別になったら、と何度だって思った。天馬はずっと一成の特別で、他の誰とも違っていた。
 恩人だからとかきっかけになったとか、世話になったからなんて理由だけでは片付かないのだ。深く知っていくにつれて、好きなところが増えていく。天馬のいろんな顔を知るたび、大事にしたくて愛おしさは更新されていった。
 恩人であることは間違いないし、ずっと感謝している。しかし、そうじゃなくたって結論は変わらない。一成はただ純粋に、皇天馬のことが特別で大好きだった。これは絶対に変わらない事実だ。

「オレの世界はちゃんと広がった。カンパニー以外の人だって、物だって知ってる。いろんなものを見て、たくさんのことに触れた。だけど、やっぱりテンテンは特別だったよ」

 天馬は一成にとって、自分が恩人だという自覚がある。だから、その立場をかさに着て望みを押しつけているだけだ、と思っているのはわかっていた。
 もしかしたらそれは正しいのかもしれないし、もっと広い世界を知ったら答えは変わるのかもしれない。可能性だけの話ならゼロではないけれど。
 たくさんの世界を、選択肢を知ったことで、よけいに一成は自分の気持ちに確信を深めていた。
 家族と塾と学校しか知らなかった一成は、芝居と出会ってカンパニーで過ごして、デザイン仲間や絵を描く人たちと親交を深めた。一成の世界は広がって、知らないものとたくさん出会った。そうやって一つずつ、世界が更新されていっても一成の気持ちは変わらなかった。
 それどころか、もっともっと揺るぎなく思うのだ。特別なのだと、大好きなのだと、たった一人はこの人なのだと、確信していく。だからこれは、一成の揺るぎない答えだ。

「恩人じゃなくたって、オレはテンテンを選ぶよ。どんなに世界が広がったって、オレの居場所はテンテンの隣がいい。テンテンの所に帰ってきたいんだ」

 これから先、未来はいくらでも広がっていくだろう。一成は大きな世界で、自由に飛び回って思う存分羽ばたいていくのだ。そうやって、広がる未来へ飛び込んで行ける理由を一成は知っている。
 いつだって、帰りたい場所は一つだ。天馬がいる。天馬がいてくれるから、どんな所だって飛んで行ける。天馬のいる場所が自分の場所だと知っている。
 特別な人を選ぶなら、天馬なのだと一成はとっくにわかっている。たとえ恩人じゃなくたって、そう言う。
 いつだってきらきらとまばゆい光を放つ。やさしくて誠実で、ときどき子供っぽくてかわいい、どんな時も高い空を目指す強い意志を持つ。いつだって幸せでいてほしい。ただ明るく笑って、この世の喜びを全部受け取っていてほしい。天馬のためにできることがあるなら、何だってすると決めている。この世界の誰よりも大好きな、特別な人。
 一成にとってのたった一人は天馬なのだと、紫色の瞳を真っ直ぐ見つめて、心からの言葉を伝える。

 告げられた天馬は、ぽかんとした顔をしていた。予想外の言葉に、上手く反応できなかった。もちろん、一成からの好意を疑っていたわけではない。好かれている自信はあったし、大事に思ってくれていることも実感していた。
 ただ、それはあくまで友人や友達としての範疇なのだと思っていた。「夏組として」「友人として」「世話になっているから」、そういう種類の好意なのだと。だから、こんな風にはっきりと、特別なたった一人は天馬なのだと、言われると思っていなかったのだ。
 しかし、驚きながらも言葉の意味はしっかり伝わった。考えてもいなかった答えではあるけれど、天馬の気持ちを拒絶しているわけではない。それどころか、正反対の言葉が返ってきたのだ。その事実は、じわじわと天馬の中に染み込んでいく。一成の出した答え、告げた言葉、その意味。
 恩人だからこそ、自分の気持ちを伝えてはいけないと思っていた。やさしい一成は首を振れないから、断れない状況で思いを告げるのはアンフェアだと。しかし、他でもない一成が言うのだ。自分の世界はちゃんと広がった。たくさんの人や物と出会って、それでも答えは変わらなかった。
 恩人だからという理由ではなく、ただ天馬という人間を一成は選ぶのだと。世話になっているから、こちらへ来るきっかけだとか、そういうことではなく、ただ皇天馬という人間のことが好きなのだと。
 天馬がいるから、どこへだって行ける。帰りたい場所なら知っている。自分の居場所は天馬の隣がいいと、心から言ってくれる。
 その言葉を理解した天馬は、そうか、と思う。肩の力が抜けるような気がした。今までずっと、恩人だからと線を引いていたのは自分の方で、一成はとっくに広い世界へ飛び出していたんだ、と悟った。
 一成の強さなら、天馬はよく知っている。柔軟な心で、しなやかに、新しい世界を受け入れられる。それは、こちらの世界で過ごす一成の様子から充分わかっていた。
 MANKAIカンパニーへ入団し、団員たちと親交を深めた。講座やアルバイト先でも多くの人と関わっている。周りの何もかもに対して心を広げて受け止めて、一成はこの世界を生きている。
 そんな一成が出した答えなのだ。世界を知って、多くのものに触れて、そうして告げられた言葉。しなやかな心で、たくさんのものを見つめて、一成の心が出した答え。それに首を振るのは、一成の気持ちを蔑ろにするのと同じだ。
 だからこの言葉は、真っ直ぐ受け取っていい。狭い世界で、何も見えない中から選んだ答えじゃない。やさしいから首を振れないわけでも、恩人だからと気を遣った結果でもない。
 これは一成の本心だ。変わらない気持ちだ。世界を知って、新しい景色を見て、それでも天馬を選ぶと言ってくれたのだ。
 理解するとともに、天馬の胸に自然と言葉が浮かぶ。――それならもうオレは、伝えることをためらわなくていい。
 あとからあとから湧き出るような喜びが胸の奥からあふれて、天馬の唇は自然と笑みを浮かべていた。一成の目を見つめ返して、天馬は口を開く。
 ずっと言いたかった。伝えたかった。世界で一番かわいくてきれいなのは、一成の笑顔だと知っている。一成が笑っていると、世界はまばゆい輝きを放つのだ。
 それを伝えてもいい。いくらでも言っていい。心を丸ごと差し出すように、一成のことが大切なのだと、宝物なのだと伝えていいのだ。
 笑顔を浮かべて、天馬は言う。胸を満たす喜びが形になったような声で、どこまでもまばゆい輝きと、あふれるような愛おしさを込めて。

「一成が好きだ。夏組の仲間としてはもちろん、それだけじゃない。お前を誰より特別にしたい。一成のことが好きなんだ」

 真剣なまなざしで告げられる言葉を、一成は受け取った。心臓はドキドキと高鳴っていたし、夢に見たような言葉にふわふわと気持ちが舞い上がる。
 だって、こんな風に特別だと言われたかった。愛の言葉ささやいてほしいと、ずっと夢想していた。都合のいい妄想なんじゃないか、と思ってしまいそうな現実だ。
 一成は早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、天馬へ言葉を返そうとする。答えなんてとっくに決まっている。天馬に告げられる前から、自分の気持ちは知っている。
 しかし、一成は開きかけた口をつぐんだ。
 すっと心に影が忍び寄る。それは、二十年近くかけられた呪いに等しい。望みを叶え続けなければ、欲したものを与え続けなければ、プラスでい続けなければ、存在することを許されない環境で生きていた。だから、はたと思ってしまった。
 天馬は確かに恩人で、自分を救ってくれた人で、同時に恋する相手だ。自分の心を広げて見せたら、天馬への気持ちはあまりに大きすぎる。まるで心を全部ぶつけるみたいで、こんなものを向けられるのは重すぎるんじゃないか。何度も考えていた言葉が、じわじわと胸に広がる。
 この気持ちを伝えることは、きっと天馬の負担になる。面倒になって、迷惑を掛ける。自分の心を告げることは、天馬にとってのマイナスになってしまう。だから、答えてはいけないんじゃないか、なんて。
 思ったけれど、一成は目の前の天馬を見つめてはっと我に返る。紫色の瞳。きらきらとまばゆく輝いて、どんな宝石よりも美しい。この光を知っている。ずっとこんな風に天馬は一成を見つめて、その輝きで照らしていてくれた。導かれるように、一成は思う。
 天馬の負担になりたくない。迷惑を掛けたくない。その気持ちは今もまだ一成の中にあるし、そう考えれば重すぎる気持ちは確かに考えものだ。
 ただ、天馬の言葉を一成は知っている。嘘やごまかしではなく、はっきりと言ってくれた。「オレは一成に負担を掛けてほしいんだよ」「負担だって面倒だって迷惑だって、掛けるならオレにしてくれ」と。
 ためらう気持ちが完全に消えたわけではない。それでも、天馬の言葉が心からのものだということはわかっている。
 天馬は本気で言ってくれているし、負担や迷惑を理由にするのは天馬に対する逃げでしかない。一成は天馬に対して誠実でいたかったし、天馬のことならずっとずっと信じているのだ。
 絵の中の天馬と言葉を交わして、心を分かち合った。お互いの気持ちを、本音を受け取り合った時から一成は天馬のことを信じている。
 天馬の前でなら、いつだって心を広げて見せていい。素直な気持ちを口にして、伝えていい。わかっているから、一成は心からの笑みで言った。まばゆく輝く、何もかもを抱きしめるような表情で。

「オレもテンテンが好き。大好き」