桜の下でいつかきみと




 昼下がりのMANKAI寮で、天馬と一成は中庭のベンチに並んで腰掛けている。空はよく晴れており太陽が出ているとはいえ、冬の寒さは厳しい。風邪を引いてはいけないと、二人とも防寒はばっちりだ。
 室内でも話はできるけれど、年末年始は実家に戻っていたメンバーも寮に帰ってきた。それぞれの部屋も、ルームメイトへの客人がちらほら訪れている。にぎやかな様子は嬉しいものの、二人きりになるのはいささか難しかった。寮内でゆっくりできる場所を探した結果、誰もいない中庭に落ち着いたのだ。

「テンテンの仕事も落ち着いたし、ようやくゆっくりできんね」
「年末年始は特に仕事が多いからな。ただ、今年は一人じゃなくてみんながいたし――特に、一成が出迎えてくれると疲れも吹き飛んだ」

 しみじみとした調子で、天馬は答える。年末年始だからといって、海外を飛び回っている両親がわざわざ帰国することはない。それならば実家に戻る必要もないので、天馬は寮で過ごすことにした。
 天馬以外にも、年末年始を寮で過ごすメンバーはいる。なので、仕事を終えて帰ってくればいつものように出迎えてくれるのだ。いつもよりハードなスケジュールの中、いつものように温かく迎えてくれるメンバーに、天馬はほっと息を吐けた。
 中でも、一成が嬉しそうに駆け寄ってくれると、天馬の体には瞬く間に力がみなぎっていくようだった。
 年末年始はテレビ番組の出演依頼が増えるし、学校のない長期休みにはスケジュールがびっしりと詰め込まれる。必然的に多忙を極めることになり、いくら体力がある天馬と言えどくたくたになってしまうことが多かった。
 しかし、一成が笑顔で「おかえり!」と出迎えてくれると、疲れが全て吹き飛んでしまうように思えた。きらきらと顔を輝かせて、目元をうっすら赤く染めて。「今日の夕飯は、すみーと作ったんだよん!」なんて言って、一日の出来事を一生懸命教えてくれる。その様子がかわいかったし、若干結婚生活みたいだな、と思って天馬はひそかに浮かれていた。
 一成は天馬の言葉に、嬉しそうな笑顔を浮かべた。天馬の力になれた、という事実が胸を弾ませたのだ。そのままの調子で、一成は口を開く。

「オレも、テレビでいろんなテンテン見られて嬉しかったよん」

 多忙である、ということはメディアへの露出が増えるということでもある。一成は当然嬉々として全てのテレビ番組を把握して、録画を駆使して視聴していたし、雑誌などの媒体もチェックしている。
 アルバイト代を手に、発売日には書店へ向かう姿に、天馬は「事務所に言えばもらってこられるぞ」と言ったのだけれど。「公式にはちゃんとお金払わないとだから!」と力強く答えられて、「そういうものなのか」と納得するしかなかった。

「でも、せっかくゆっくりできるようになったし、どっか行きたいかも」

 はにかむような笑みで告げられた言葉の意味を、天馬はきちんと理解している。天馬のスケジュールが空いたからどこかに行きたい、ということだけれど、これは一成からのデートの誘いだ。
 夏組みんなで出掛けたい、という気持ちもあるだろうし、実際あれこれと計画は立てている。ただ、それならもっと一成ははつらつと告げるだろう。ぴかぴか明るい笑顔で「行きたいとこ、ピックアップしたよん!」だとか「スケジュール案はこんな感じ!」と言って、嬉々としてプレゼンテーションを開始する。
 しかし、今の一成はそうではない。照れくさそうに、恥ずかしそうに、うっすら頬を薔薇色に染めて、うかがうように言うのだ。常よりもっとひそやかな声で、甘い響きを忍ばせて。
 夏組やカンパニーの誰かとではなく、天馬と二人きりで出掛けたい、という意味であることくらい、ちゃんとわかっている。
 だから天馬は、同じ響きで答えた。愛おしさを隠す必要はなかった。一成の願いを叶えたい。目いっぱい甘やかしたい。全ての気持ちを込めた、普段よりもやわらかな声でそっと言葉を紡ぐ。

「ああ、そうだな。オレも一成と出掛けたいって思ってた。一成が最近気になるって言ってた美術館あっただろ。そことかはどうだ?」
「テンテンと一緒に行けたらめちゃ嬉しい! あ、なら近くに美味しい洋食屋さんがあるんだよねん。ハンバーグが評判でさ、夕食に行きたいかも!」

 天馬の言葉に顔を輝かせた一成は、すぐに具体的なルートを提案する。天馬と出掛ける、という事態を何度もシミュレートしたんだろうな、という事実がうかがえて天馬の唇はほころんだ。
 きっと一成は「テンテンとここに行きたいな」「こっちの店の方がいいかも?」なんて、あれこれ考えてくれたのだろうと想像できる。もちろん天馬は、一成がいればどこだって嬉しくなってしまうのだけれど。

「――あ、でも、その前に絵完成させたいな」

 出掛ける先について楽しげに話していた一成は、途中でぽつりとつぶやいた。一体何のことを指しているのかは、天馬もわかっている。
 一成はここ最近、一つの作品に取り掛かっている。公開講座の課題はすでに提出済みだし、練習のための絵とも違っていて、完全なプライベートだ。カンパニーメンバーは、一成が再び新しい作品を描き始めたんだな、としか思っていないけれど天馬だけは知っている。
 一成が今描いているのは、あのギャラリーのオーナーへ贈るための絵だった。

 一成が元いた世界から、タイムリミットぎりぎりでどうにか戻ってきたあと。ギャラリーの小部屋で、互いの思いを告げ合った天馬と一成は、晴れて恋人同士という関係を結んだ。
 二人ともふわふわと浮かれた気持ちになっていたけれど、少しして気づく。ここはギャラリーの一室であり、長居できる場所ではないのだ。
 慌てて部屋を出ると、オーナーはほっとした様子で二人を出迎えた。問題なく戻ってきたという事実を確認できたからだろう。何かルールでもあるのか、オーナーが小部屋に入ってくることはなかった。なかなか出てこない二人にやきもきしていたかもしれない、とそろって謝罪をしたものの、そこはあまり気にしていないようだった。オーナーは、どうやら時間の感じ方も常人とは違うらしい。
 とはいえ、世話になったことも無理を言ったことも事実だ。何より、一成は約束をしている。世界を渡るための対価として、オーナーの望んだ絵を描くと言っているのだ。だからあの時、部屋から出てきた一成は、あらためてリクエストを尋ねた。結果として、一成が今描いているのはあのギャラリーだった。
 ダークブラウンの板張りの床は落ち着いた輝きを放ち、ワインレッドの壁紙は図案化された植物の刺繍が施されている。入ってすぐの右手にはカウンターがあり、部屋の中ほどには、アンティーク調の椅子と机が一組。その奥には、扉が三つほど並ぶ。重厚な空間を、一成は絵の世界に描き出している。

「そろそろ完成できそうなんだけど、どうやって渡すんだろうね?」
「――まあ、どうにかするだろ。たぶん不思議な力とかで」

 首をかしげる一成に、天馬は複雑そうな顔で答える。渡してしまったしおりのことを思い出したのだ。あのあと、一成は「また作るよん」と言ってくれたし、実際すぐに新作も含めて作ってはくれたのだけれど、手元から離れてしまったことは事実だ。
 あの時、天馬は絵のことなんて何も言わなかった。それなのにオーナーは、どういうわけか天馬が一成の絵を持っていることを察知したのだ。一成の絵のファンであることはわかっているし、何らかの不思議な嗅覚が働いているんじゃないか、と天馬は思っている。
 一成の様子も熟知していたし、恐らく絵が完成すればあちらから接触があるだろう、と予想していた。そう思わせるほどの説得力なら、充分あるのだ。

「――うん、そだね。不思議なギャラリーだもんね」

 天馬の言葉にうなずいた一成は、遠いまなざしを浮かべて言う。思い出しているのは、あのギャラリーであり、そこから連なる数々の出来事だろう。

「店から出て振り返ったら、何もなくて驚いた。自分が出てきたんじゃなかったら、夢でも見てたんだろって思うだろうな」

 同意を込めて、天馬もつぶやく。
 あの日、オーナーとの約束を交わしてから二人はギャラリーを出た。扉を出れば遊園地の建物の裏手で、来た時と同じ景色が広がっている。とんでもないところに出たらどうしようか、という一抹の不安も消えて、二人でほっとしていた。
 それから、何の気なしに振り返れば、目の前にはのっぺりとした壁が広がるだけだった。
 地味な扉は目立たないし、まるで壁と同化するようだった。しかし、よく見れば確かに扉はあったし取っ手だってついていた。しかし、今二人の前に広がるのは無機質なコンクリートの壁だけ。思わず叩いたり触ったりしてみたけれど、どこにも扉はなかった。出てきたはずの場所は、堂々とした壁でしかない。
 立看板も消え失せていたし、念のため建物の表に回ってみてもゲームコーナーの一角に位置するようで、当然ギャラリーは影も形もなかった。
 本来ならば、あり得るはずのない場所に開かれたのがあのギャラリーなのだと、二人とも理解していた。
 馬鹿げたことを言っているし、常識で考えればとても信じられない。しかし、嘘のような話が現実なのだと、天馬も一成も知っている。だから、まるで夢のように店が消えてしまったという事実を、ただ受け止めるしかなかった。
 いくら探しても、きっともうギャラリーはないのだろうと思ったし、あまり長居できる状況でもなかった。行方不明扱いになっていることを思い出したのだ。
 二人はただちに、井川やカンパニーと連絡を取った。すると、井川は「すぐ迎えに行きます!」と言って矢のように飛んできたのだ。すっかり憔悴した様子に天馬は心からの謝罪を向けたし、反省もした。ちゃんと戻ってくるつもりはあったけれど、連絡が取れない時間帯が存在していたことは事実なのだから。
 幸いなことに、天馬が行方不明になってからそう時間は経っていなかった。あちらとこちらでは時間の流れが違う、なんて浦島太郎現象は起きなかったのだろう。向日葵畑で出会った二人の場合、双方で不思議な時間経過を辿っていたことを考えれば、幸運な話である。
 おかげで、対外的にはまったくおおごとにならずに済んだ。もっとも井川は胃を痛めていたし、カンパニーにも心配は掛けたので、天馬はおおいに反省していた。

「夢じゃなくてよかったよねん。そうじゃなかったら、テンテンと今こんな風にいられなかったもん」

 そう言った一成は、隣に座る天馬にそっと体を寄せた。温もりと重みが伝わって、天馬の胸はドキドキと高鳴る。少し考えてから、天馬は一成の手を握った。すると一成は嬉しそうに握り返してくれて、二人の間にやわらかな沈黙が流れる。
 一成は手のひらから伝わる温もりを噛みしめながら、ここに至るまでの日々を思い出している。
 不思議なギャラリーに巡り会い、向日葵畑の絵を通して天馬と出会った。言葉を交わして、心を近づけて、大事な時間を共に過ごした。そして、一成は天馬が伸ばした手を取って、こちらの世界にやってきた。
 あのギャラリーがなければ、一成は今ここにいない。天馬とも出会えなかったし、舞台に立つこともなかっただろう。カンパニーに所属することだってないし、こんなにも心を震わせるものが絵以外にあるなんて知らなかった。
 一成の世界が豊かに広がっていったのは、天馬と出会ってカンパニーという居場所ができたからだ。あのギャラリーがなければ、天馬がいなければ、今の一成は存在していない。
 くわえて、天馬と思いを交わし合って恋人同士になれたのも、あのギャラリーがあったからこそだろう。
 もしかしたら、もっと長い年月をかけて互いの気持ちを知ることはあったかもしれない。ただ、今の自分たちが恋人同士という関係を結ぶきっかけは、天馬がギャラリーからあちらの世界に渡ったことだ。それがあったからこそ、二人は互いの本音を告げることになり、今こうして特別な関係になっている。

「――みんなにも報告できてよかった」

 しみじみした調子で天馬がつぶやくのは、ギャラリーから帰ってきてからの出来事だ。
 晴れて恋人同士になったことを、二人はカンパニーメンバーに報告した。共同生活をしている手前ちゃんと知らせておいた方がいいだろう、ということもあるし、何より大事な人たちに隠し事をしたくなかった。
 同性ではあるけれど、そんなことで眉をひそめるような人ではないことは、二人とも当然わかっていた。だから、照れくさかったけれどためらう必要はなかったのだ。
 案の定、カンパニーメンバーは誰もが盛大に祝ってくれた。特に夏組の喜びようは見事で、恐らく薄々察してはいたのだろう。
 椋は感激のあまりほとんど泣いていたし、三角は「お祝いのさんかく!」と言って、大量の三角で二人を埋め尽くした。幸は変わらずクールに見えたけれど、喜んでいることは見て取れたし、「お祝いしてやるか」なんて言って、あれこれ新作小物を作ってくれたのだ。

「うん。お祝いしてくれて、喜んでくれて嬉しかったよねん」

 夏組以外も何かとプレゼントをくれたし、ペアチケットがあるだとかデートにここはどうだろうかとか、恋人同士の二人を応援してくれていた。誰もがほほえましそうに、初々しい恋人たちを見守っているのだ。

「ああ、そうだな。本当にありがたい。……左京さんはちょっと意外だったが」

 やさしく目を細めてうなずいた天馬は、ぽつりと一言付け加える。一成は面白そうに「テンテンの次くらいにお世話になってたかんね~」と同意を示した。
 二人からの交際報告に、カンパニーメンバーはおおいに盛り上がった。ただ、その中で左京だけは若干テイストが違っていたのだ。
 若い恋人たちを見守るというより、何だかやたらと感慨深そうだったし、天馬に向かって「ちゃんと幸せにしてやれ」なんて言っていたので、周囲から「親か」「保護者?」と突っ込まれていた。
 一成は楽しそうに笑っていたけれど、心を打たれていたことは天馬も気づいていた。
 一成に対して親身になってくれているからこその言葉だと、理解していたからだろう。恐らく一成は、年長者にこんな風に扱われたことがない。両親は、勉強のサポートはしても一成自身を気遣うことはなかっただろう。
 しかし、左京は違うのだ。一成は寮内の仕事をあれこれ手伝っていたこともあって、左京と過ごす時間も多かった。戸籍取得に関しても左京が面倒を見ていたし、諸々の講座への手続きだとかWeb制作やSNS運営についての相談もしていた。
 もともと、左京は面倒見がいい人間だ。いつも明るくふるまっているとはいえ、家族もいなければ学校にも通っておらず、何か事情のある一成のことは気にしていた。接する時間が長くなるにつれ、面倒を見てやらなくては、と思うのもうなずける。左京にとっては、被保護者の対象に入っているのだろう。ちなみに、左京の保護者センサーが働く相手は、他にも複数人存在する。

「ほんとにさ、フルーチェさんにはめっちゃお世話になってるよねん。進路相談ってか、どうすれば美大受験できるかとかもいろいろシミュレーションしてくれたもん」

 あらためて、といった調子で一成が言うのは、今後の進路についての話だ。
 公開講座を終えたあと、一成は体験として画塾へ赴いた。そこで過ごした時間は、一成に大きな刺激を与えて、「本格的に日本画を学びたい」という気持ちをあらたにしたのだ。
 ただ、そんなことを望んでもいいのだろうか、と一成はためらったけれど。天馬は背中を押してくれたし、カンパニーで過ごした日々は一成が望むものを選んでいいと教えてくれた。
 だから、日本画を本格的に学ぶためには美大受験が一番のルートだ、と考えて一成は左京を中心とした大人たちへ相談した。
 結果として一成は、来年の美大受験を目指すことにした。一年間、合格を目指して日々を過ごすのだ。
 そのためにするべきことは何か、と現状を確認した結果、画塾へ入る必要があったし、そもそも高卒認定も受けなければならない。さらに、画塾をはじめとした資金も稼いで、利用できる奨学金制度を調べることも必要だ。時間はいくらあっても足りないから、一成はすでに行動を開始している。
 幸い画塾の講師はずいぶん理解があるし、カンパニーの誰もが一成への協力を惜しむつもりはない。
 とはいえ、やるべきことは山積みで目が回るような忙しさになることは確実だろう。当然天馬は一成を支えるつもりだったし、息抜きとしてどこかへ出掛ける時間も取ろうと考えている。

「やりたいこともやることもいっぱいあってさ。めっちゃ充実した年になるよねん」

 瞳を輝かせた一成は、心からといった調子で言う。事実だけを並べるなら、尻込みしてしまいそうなほど予定が詰まっているのだ。無事に全てをやりきれるだろうか、と心配してもおかしくはないし、一成だってその気持ちがないわけではない。
 しかし、今の一成は不安よりも期待が上回っている。心配な気持ちはあるけれど、楽しいと思う出来事だって確かに待っていると知っているのだ。一成はいつだって、きれいなものを見つけることが上手い。困難な道に潜む楽しみだって、ちゃんと理解しているのだ。
 そんな一成が天馬は好きだと思うし、誇らしい気持ちにもなった。とはいえ、念のため釘を刺しておくことも忘れていない。

「でも、あんまり無理はするなよ。体を壊したら元も子もないんだ」

 多少の無理ならしてしまうタイプであることは、天馬も気づいている。だからこその忠告だ。一成は少しだけ黙ったあと、いたずらっぽい笑みで答えた。

「大丈夫だよん! どこまで行くとやばいかって、限界ならばっちり把握してるかんね!」

 軽口めいた言葉だけれど、何を指しているか天馬は察する。だから、思わず苦い顔になってしまった。
 一成が言っているのは、東大受験のために費やした日々のことだ。眠る時間を削るのは当然として、生活のあらゆる全てを捧げていたと聞いている。恐らく、一成は限界だというところまで日々自分を酷使し続けたのだ。
 だから、どこまで睡眠を取らなければ倒れるか、食事を抜ける限界は、ギリギリ摂取しなければならない水分量は、といったことを把握しているのだと、口ぶりから理解していた。

「あ、マジで限界に挑戦はしないよ!?」
「わかってる。ただ、一成のことだから集中するとうっかりやりそうだなと思って、心配してるだけだ」

 天馬の表情をすぐ察知した一成が慌てた調子で言うので、天馬は鷹揚にうなずいた。一成がいたずらに体を酷使するような人間だとは思っていない。とはいえ、集中力のある人間だということも知っているので、意図せず無理をする場面はあるかもしれない。

「まあ、でもその辺りはオレたちが上手く調整してやれるからな。椋は同室だし、特に気に掛けてくれるだろ」
「マジそれな~。みんなオレに息抜きさせるの上手いけど、むっくんはタイミングめっちゃばっちりだもん」

 今日までの日々でも、一成が根を詰めていると椋がそっと気遣って休憩を取らせてくれていた。
 あちらの世界では、休憩なんて与えられていなかった。ただ課題をこなすことだけが重大で、それが叶わないなら何もかもを犠牲にするしかなかった。しかし、今は違うのだ。カンパニーの誰もが一成を支えようとしていてくれる。だからきっと大丈夫だ、と一成は思っている。

「オレさ、あらためて受験するって思ったらちょっとびびっちゃったんだよねん。大学受験だし、いろいろ思い出しちゃうかもって」

 きゅ、と天馬の手を握りしめながら一成はこぼす。
 一成にとって、東大受験にまつわる記憶は痛みと結びついている。伴わない結果に、両親からの𠮟責と日々重くなるプレッシャー。受験が近づくにつれ精神的に不安定になっていたし、思い出したい記憶ではない。奥底に封じ込めておきたいとすら思っていた。
 だから、あらためて「受験する」と決めた時、あの記憶が呼び起されて立ちすくんでしまうんじゃないか、と一成は恐れていたのだけれど。

「完全に忘れたわけじゃないけど――でも、カンパニーのみんなは真っ直ぐ応援してくれてさ。受験するって、怖いことじゃないかもって思えるんだ。勉強することは楽しいんだって、受かるためじゃなくて、大学で勉強したいから受験するんだって。そんな風に思えるようになったよ」

 何だか泣きたい気持ちになりながら言うけれど、これは悲しみではなかった。胸の奥に満ちていくのは、カンパニーメンバーから受け取る温かい気持ちだ。
 たとえば、紬や至は必要があれば勉強を教えると申し出てくれた。天美に出願している万里は、きっちり受かって先輩としていろいろ教えてやるよ、と笑っていた。現役大学生である臣や綴は、受験へのモチベーションになるかもしれない、と大学生活の楽しい話をしてくれた。
 そして、天馬をはじめとした夏組は、新しい世界へ踏み出そうとする一成の背中を押すのだ。時に力強く、時にやさしく見守って。一成ならできると真っ直ぐの信頼とともに。
 カンパニーからの気持ちを受け取った一成は、受験に対する呪縛が解けていくことを感じていた。
 一成にとって東大受験とは、自分が生きていていい理由を勝ち取るためのものだった。両親に言われた通りのルートを辿ることだけが重要で、それ以外の意味なんてなかった。しかし、あらためて受験を決めた一成は、目が覚めるような気持ちで思ったのだ。
 勉強がしたい。もっと学びたい。知らないことを知って、もっとたくさんこの世界に触れていく。絵を通してもっと世界を知っていく。もっともっと、勉強がしたい。
 東大受験の意味もわかっていなかった、まだ幼い頃。両親が喜んでくれることが嬉しい、と思うそれより手前。学ぶことは、知らないことを解き明かしていくことは、なんて楽しくて面白いんだろう、と思った原初の気持ちを思い出したのだ。

「だからね、オレ頑張るよ。美大で日本画めっちゃ勉強して、もっともっといい絵描きたいからさ。オレ合格するよ」

 そう言って、一成は天馬を見つめてほほえんだ。どこまでもやわらかな、春の日差しにも似ている。だけれど、奥底に漂うのは凛とした意志で、一成の決意が宿っていた。
 強く揺るぎない意志で一成は未来を見据えているのだと、天馬は察する。だから、触発されるように言葉が口をついて出ていた。

「――オレも、本格的に進路を決めないといけないな」

 もともと天馬は、高校卒業後は役者に専念するつもりだった。大学で学ぶよりも、役者として本格的に活動したいと思っていたからだ。
 しかし、カンパニーで過ごす内に少しずつ考えが変わってきていた。
 現役大学生や大学卒業者の話を聞く内に、大学生活に興味が出てきたし、大学で学ぶことにも意味があるんじゃないか、と思うようになったのだ。
 さらに、一成との話を通して「学ぶ」ということについて深く考えるようになった。役者としての活動はもちろん大事だ。ただ、すぐに一本化してしまうより、別のアプローチで学んでいくことも芝居に活かせるんじゃないか、と思うようになっていた。
 ただ、役者に専念したいという気持ちも強い。自分の時間の全てを使って芝居に没頭できれば、今以上の演技ができるだろうし、見たこともない景色が待っているはずだ。
 幸い天馬には今までのキャリアがある。向こう見ずに芸能界へ飛び込むのとはわけが違うのだ。役者に専念するというのは現実的なルートと言える。多くの時間を芝居に費やせる、というのは天馬にとって魅力的な選択だ。進学はせず役者一本で活動したい、というのも紛れもない天馬の望みだった。
 両親は天馬の決断に任せる、と言っていてくれている。だからまだ悩む余地はあるけれど、いずれ進路を決めなくてはならないのだ。カンパニーに入る前の天馬なら、役者に専念する道を即決していただろうけれど、今の天馬はおおいに迷っている状況だった。

「もしテンテンが受験することになったら、来年入学じゃん? ってことは、二人とも合格したら同学年だね」

 面白そうな表情で一成が言って、天馬はぱちぱちと目を瞬かせる。
 天馬と一成には年齢差があるので、当然学年は違う。天馬が高校生の時点で一成はすでに大学へ入っていたのだ。しかし、こちらに来た時点で一成は諸々がリセットされている。結果として今年受験生になるので、春から高校三年生の天馬と立場は同じだった。

「……そういえばそうだな。一成と同学年っていうのは、何か新鮮だ」
「だよねん。テンテンは年下だな~って感じなのに!」
「子ども扱いするなよ」

 茶化したような物言いに、天馬がふてくされた顔で答える。一成が好意で言っていることはわかっているけれど、天馬としては頼れる男でいたいのだ。
 一成はその反応に「めんご~」と軽やかに笑った。その様子が心底楽しそうで、結局天馬もつられるように笑ってしまう。一成が笑うなら、天馬だって嬉しいのだ。二人は顔を見合わせて、しばらくけらけら笑っていた。
 それがようやく落ち着いたところで、一成は口を開く。笑みの気配を残したまま、弾んだ心を形にしたような声で言う。

「やることいっぱいあるし、やりたいこともいっぱいで、毎日楽しいことばっかだよねん。次は春組公演っしょ。それが終わったら、次は夏組だし!」
「ああ。次はどんな舞台になるか楽しみだし――そういえば、新劇団員加入の話も出てるよな」

 現時点では各組五人ずつの構成になっている。ただ、綴の脚本を存分に活かすためには六人程度が最適なのではないか、という意見があるのだ。よりいっそうカンパニー運営に力を入れていく一環として、新劇団員の加入は魅力的な案と言えるだろう。

「どんな人が入ってくるのかな~って思うとわくわくするよねん」
「まだ決定ではないらしいが……人数が増えるとできることが増えるからな」

 一成の言葉に、わくわくした表情で天馬がうなずく。夏組の五人で最高の芝居をしてきた、という自負はある。ただ、一人が増えればこれまでとは違った芝居もできるし、表現の幅はぐっと広がるのだ。
 夏組の芝居がもっとよくなる。最高の景色が見られる。そう思って天馬が心を弾ませていることは、一成にも伝わってくる。芝居に対していつだって真剣で、演じることが血肉になっている天馬なのだ。そんな天馬が心躍らせる景色を一緒に見られる、という事実は一成の胸も高鳴らせる。

「うん。まだ見たことないものいっぱい見られると思うし――楽しみなことばっかりで嬉しい」

 にこにこ一成が言って、天馬も「そうだな」と白い歯をこぼした。新しい劇団員が加入すれば、夏組の芝居はまた一段高いステージへ行ける。
 それ以外でも一成は本格的な受験が待っているし、天馬だってもしかしたら大学への進学を決めるかもしれない。見たこともない景色は、きっといくらでも二人を待っている。
 何もかもが順風満帆ではないかもしれない。立ちすくんでしまうことも、戸惑ってしまうこともあるだろう。しかし、大丈夫なのだと知っている。
 一成の居場所はいつだって天馬の隣だ。どんな世界だって天馬がいれば平気だったし、天馬だってそうだ。真っ直ぐと心の全てで天馬を信頼して、天馬を選ぶと言った一成がいてくれるなら。どんな世界だって怯む必要はない。一成と一緒なら、何だって乗り越えていけるのだ。

「いろいろやりたいことあるけど、ここでお花見もしたいよねん」

 はっとした顔で一成が言って、ベンチのそばにある桜を見上げる。葉も落ちてすっかり冬の出で立ちをしているけれど、春には満開の花が咲くのだ。ここでお花見をしたことはまだなかったからこその言葉だろう。

「お弁当作ってさ、花の下で食べたらめっちゃおいしそう! デコとか頑張っちゃおうかな。お花見デコ弁ってどんなだろ」

 きらきらとした表情で、未来の楽しみを口にする一成の様子を天馬は見つめる。
 今隣に一成がいてくれること。手のひらで体温を分かち合っていること。これから先の未来に思いを馳せること。それをこんなに近くで見ていられること。
 何一つ、当たり前じゃなかった。だって本当は、自分たちは別々の世界で生きていた。お互いのことなんて何一つ知らないまま、一生を終えるはずだった。
 しかし、奇跡のような出来事が起きて自分たちは巡り会った。別れ別れになる選択もあったし、お互いをたった一人と思い定めることを諦めようとしたこともある。しかし、全てを乗り越えて今ここに自分たちはいる。
 その事実を噛みしめながら、天馬はそっと口を開いた。つないだ手を握って、やわらかな体温を抱きしめる気持ちで。

「満開の桜を見て、夏になったらまた向日葵畑に行かないか。秋にはコスモス畑に行って、また一成に絵を描いてほしい。冬はそうだな、移動遊園地の水仙が良かったから、もっとたくさん咲いてるところを見に行きたい」

 今日までの日々を思い浮かべながら、天馬は言う。真っ直ぐ一成を見つめて、やわらかな笑みにまばゆいまでの光を宿らせて。
 一成はじっと天馬を見つめ返す。いつだって、心の全てで受け止めてくれる。誰より特別な、大事な人だ、とあらためて思いながら。
 天馬はやさしく一成のまなざしを受け止めると、凛とした声で告げる。

「これからの約束をたくさんしよう。春も、夏も、秋も、冬も一成と一緒にいろんな景色が見たいんだ」

 何かが違えば出会わなかった自分たちだ。今ここで一緒にいられることは、何一つ当たり前じゃなかった。だからこそ、共に過ごす一瞬を抱きしめながら、これからの日々を生きるのだ。
 これが天馬の決意で誓いであることは、一成もわかっていた。だから、つないだ手をぎゅっと握りしめると、やわやわとにじむ光をこぼして答える。

「そうだね、テンテン。たくさんの季節も未来もこれからの全部、二人で一緒にいよう」

 二人の思いは同じだった。言葉にしなくたってわかった。
 違う世界で生きていた二人は、何の因果が巡り会って互いの手を取り合った。たった一人の特別が相手だと知っている。今ここで、同じ場所で生きていられることの幸運と喜びを知っている。だからこそ、二人は誓うのだ。
 巡っていく季節を二人で共に過ごそう。この世界で離れることなく、同じ未来を見つめて、一緒に生きていこう。








「桜の下でいつかきみと」END