秋桜と揺れる日々




 そのまま、和気あいあいと雑談をしながら、三人は談話室へ顔を出す。帰宅したらそのまま部屋に戻っても構わないのだろうけれど、誰一人そうしようという人間はいない。何となく、カンパニーメンバーに挨拶しないと落ち着かないし、顔を見るとほっとするのだ。

「おかえりダヨ~」
「おかえりなさい。三人一緒だったんだね」

 明るい声で言ったのはシトロンで、監督も続いた。他のメンバーは、仕事や用事などで出払っているらしい。
 幸も三角も今日は用事があると言って出掛けているし、寮は何だかがらんとしている。部屋数に対して、まだ団員の数が少ないことも関係しているのだろう。
 監督とシトロンは談話室のテーブルに座って、何やら紙の束を広げていた。シトロンが「これはこっちネ? ジグザグパズルみたいネ~」と紙を指していて、監督は「ジグソーパズルだね」と明るく答える。
 一体何をしているのか、と三人は机の上へ視線を向ける。すると、気づいた監督が苦笑を浮かべて「経費精算とかの事務処理の書類が溜まっちゃって」とこぼす。
 現在MANKAIカンパニーは借金を抱えており、返済のためにも金銭管理は厳格に行わなくてはならない。ただ、監督はあれこれとやるべきことを多く抱えており、ついつい後回しになってしまったのだろう。理解すると、すぐに手を挙げたのは一成だ。

「ならオレも手伝うよん! 書類管理とかオレ結構得意だし!」

 そう言って、自然な動作でシトロンの隣に座る。天馬と椋も続きたいところだったけれど、力になれるかは疑わしい。なので、とりあえず今は静観に徹しようと目配せをしあう。
 一成は紙の束を手に取り、テキパキと「こういうのは、最初に分類しちゃった方がいいんだよね~」と言って、「日付順とか種類別とか、どれがいい感じ?」と監督に尋ねる。監督は少し考えてから口を開いた。

「こっちは日付順がいいんだけど、これは種類別の方がいいかも……!」
「おけまる~。種類はこの前整理したのと一緒にしとこっか」
「ありがとう、一成くん……!」

 心から、といった調子で監督が言えば、シトロンも「カズ、シソさんダヨ」と感心している。天馬が「シソさん?」とつぶやくと、椋が「秘書さんかな?」と答えた。
 一成は「たいしたことじゃないよん」と言うけれど、ときどき監督の手伝いをしていることは天馬たちも知っていた。
 本人の言う通り書類管理は得意なようで、溜まった書類に目を通してテキパキ片付ける様子は、金髪にピアスという出で立ちからはまるで想像がつかない。
 書類の整理以外にも、一成は何かと寮内の仕事に精を出している。寮にあったパソコンを使って、劇団運営と寮生活の支出表を作ったり、シトロンから聞いた商店街お得情報をまとめて団員に共有したり、その他様々な点で団員たちの寮生活をアシストしていた。
 一成は学校に通っていないので大いに時間があったし、元来器用な性質なのだろう。大体のことは何でもできたし、くわえて見かけによらず頭がいい。何かとよく気がつくこともあいまって、一成は寮内を忙しく立ち回って、順調な生活を送れるよう尽力していた。

「本当、一成くんにはいろいろお世話になっちゃってるね。フライヤーデザインも、一成くんのおかげですてきなものができたし……」

 ある程度書類に目途がついたのか、手を止めた監督がしみじみとこぼす。

 公演を宣伝するためには、フライヤーも重要なアイテムだ。今回の夏組公演はアラビアンナイトがモチーフであり、フライヤーも夜の砂漠を思わせる魅力的なものになっている。これをデザインしたのが一成だった。
 春組公演の時も、デザインについてはずいぶん悩んだという。そういった方面に詳しい人間がいなかったので、試行錯誤しながらどうにか完成させたのだ。
 幸の衣装のおかげで目を引くことはできただろうけれど、フライヤーデザインとしてはまだ改善の余地がある。これは今後の課題だと監督は考えていた。
 そんな時に新しく夏組に加入したのが一成だ。
 天馬が「一成は絵が上手い」と言っていたこともあり、デザイン案について尋ねてみたところ、あれこれとアイデアを出してくれた。それから、寮のパソコンを駆使して「こんな感じとか?」と披露してくれたのが、夏組旗揚げ公演のフライヤーデザインである。
 一目見て監督は気に入ったし、夏組も同様だ。意見を求めた春組からの評判もすこぶるよかったので、フライヤーとして使用することになった。これから行う秋組・冬組公演でも、ぜひ一成にデザインを任せたい、と監督は一成にも言っている。
 一成本人は、デザインすることも楽しかったし「監督がいいなら」と請け負ってはくれたのだけれど。

「え、そんなことないよん! もち、オレ的には一番よくできたデザインだし手抜いたとかじゃないけど……まだまだ全然っていうか!」

 勢いよく首を振る一成は、周囲からの評価に懐疑的だった。
 今後もデザインを任せたいという監督の言葉が本心からのものであることも、春組や夏組が手放しで褒めてくれていることはわかっていても、それはあくまでやさしさから来るものだという認識があるらしい。自分が作ったデザインはたいしたものではないと思っているのだ。

「フォントもこだわりたかったし、もっといい配色もあったかもだし、デザインの基本は調べたけど全然勉強足りないし、ソフトももうちょっと調べたらいいのあったかもだし……」

 真剣な顔で、一成は言葉を並べる。
 寮のパソコンを使っての制作ということもあり、道具には制限があった。そんな中でも一成はあれこれとアイデアを出して、見劣りしない作品として仕上げてくれたけれど、もっとできることがあったのではないか、と思っているのだろう。
 現状に満足せず、もっといいものを作りたい、という気持ちは表現者としての長所である。とはいえ、素直に今の評価を受け取ってほしい、と監督は思っているし、それは恐らく周囲の人間も同じだ。
 一成の手掛けたフライヤーは確かに魅力的だったし、公演を形作る大事な要素だったのだから。監督は一つ深呼吸をすると、真っ直ぐ一成を見つめて言った。

「一成くんのフライヤー、すごくすてきだったよ。評判もよくて、フライヤーから興味を持ってくれた人だって何人もいたんだから」
「そうネ! カズのフライヤー、飾りたいって言ってた人もいたヨ!」
「そうだよ、カズくん。フライヤーもそうだし、カズくんの描く絵もボクすごく好きだよ!」

 監督の言葉を皮切りに、シトロンや椋も熱心に言い添える。天馬も「そうだな」とうなずいて言葉を継いだ。

「デザインセンスももちろんあるし、オレも一成の絵が好きだ。もっと見たいと思う」

 きっぱり告げると、一成は大きく目を瞬かせる。予想していなかったような、戸惑うような空気が流れる。しかし、数秒してからじわじわと笑みが広がっていく。
 全員が心から言ってくれたことを理解して、「ちょっと照れちゃうかも~」と軽い口調で言うけれど、耳は赤く染まっている。その様子に目を細めた監督は、あらためて、といった調子で口を開いた。

「一成くんには、これからもカンパニーのデザイン担当として頑張ってほしいって思ってるんだよ。だから、何か必要なものあったら言ってね!」

 デザイン制作のためにはパソコンやソフトが必要である、ということは一成の言動から察していたのだ。決して予算が潤沢とは言えないけれど、公演の成功のために欠かすことができないなら投資することもやぶさかではない。
 ただ、言われた一成は勢いよく首を振った。何かと書類仕事をしている関係で、カンパニーの財政事情はよくわかっているのだ。なので、「今あるやつで頑張るし!」と力強く拳を握った。パソコンを新調する余裕はどう考えてもない。

「デザインとかなら、紙とペンがあればどうにかなるかんね。チラシの裏とかそういうのでおけまるだよん!」

 監督が気に病まないように、という意味を込めてそう言った。すると、その言葉に椋が「あ」と声を上げる。持っていた袋を開くと、「これ、カズくんにと思って」と中身を取り出した。

「もしかしたら、お気に入りのものとかがあるかもしれないんだけど……」

 おずおずとした調子で差し出したのは、一冊のスケッチブックだった。一成はぱちりと目を瞬かせて椋を見つめる。

「余計なことだったらごめんね……! でも、スケッチブックがいっぱいになってるみたいだったから……」

 遠慮がちに言う椋は、「盗み見したみたいになっちゃってごめんね」と心底申し訳なさそうにしている。
 曰く、ついこの前、椋が部屋に戻ってくると、一成がスケッチブックを閉じるところだった。最終ページまでびっしり埋まっていることに、その時気づいたのだという。
 一成は椋の言葉に慌てて「そんなことないよん!」と言ってから、恐る恐るといった調子で問いかける。椋のお金で購入したものなのに、という表情をありありと浮かべて。

「これ、オレがもらっちゃっていいの……?」
「もちろんだよ。カズくんのために買ったんだ。もらってくれると嬉しいな」

 ふわふわとおだやかな笑みで言われて、一成は少しだけ考えたあとこくりとうなずく。椋の言葉はいつだってやさしい。本心からだということは理解できたし、断れば椋が悲しむこともわかっていたのだろう。
 一成は差し出されたスケッチブックを手に取ると、嬉しそうに笑みを浮かべる。それから、明るい声で言った。

「もうすぐページなくなりそうだったんだよねん。どうしようって思ってたから、新しいスケッチブックめっちゃ嬉しい!」
「――なくなりそうなら買えばいいだろ」

 椋のプレゼントを喜んでくれることは、天馬とて嬉しい。しかし、聞き捨てならない言葉を聞いて、思わずぼそりと言葉を落とす。どうしようも何もさっさと買えばいいだろ、と思ったのだ。一成は天馬の言葉に、へにゃりと眉を下げる。

「そうだけど! でも、無駄使いしたくないじゃん!」
「お前が使うものなら無駄じゃない。好きに買え。他でもないオレが言ってるんだから、遠慮する必要ないだろ」

 堂々とした天馬の言葉に、一成は「そうだけど~!」と答えるしかなかった。何せ資金の提供者は、他でもない天馬なのだ。
 こちらの世界にやって来た一成は、ちょっとばかりの荷物しか持っていなかった。お金もほとんど所持しておらず、無一文に近い。そんな一成に対して、必要な金銭を用意したのは何を隠そう天馬である。
 売れっ子芸能人という肩書は伊達ではない。天馬がこれまでに稼いだ額は相当なもので、一成一人くらい養える、というのは嘘でも何でもなかった。一成が働かなくたっていいくらいの資産はある。だから、一成の生活に必要なお金は天馬が出している。
 本人はやたらと申し訳ないと思っているらしいけれど、こちらの世界に来いと手を引いたのは天馬なのだ。一成の面倒を見るのは当然のことだと思っている。
 だから、スケッチブックが必要ならいくらでも買え、と言ったのだ。もちろんそれ以外だって、一成が欲しいと思ったものなら何だって買ってほしいと天馬は思うし、そのためのお金だ。もっとも、一成のことなのでなかなか手をつけないのも納得はできる。

「必要そうなものは、お前連れて一緒に買いに行った方がいいかもな。それか、こっちで買ってプレゼントにするか――スケッチブックももっと買っておけばよかったな」

 入寮してから、当座の必要なものを買いそろえた時に、天馬はスケッチブック数冊を一成に渡していた。
 一成が絵を描く人間であると、よく知っている。きっとこちらでたくさん絵を描くだろうと思ってのことだ。その時一成は、こぼれるような笑みで「ありがとねん」と言って、スケッチブックをぎゅっと抱きしめていた。
 それなりのページ数があったし、すぐに使い切ることはないだろうと思っていたのだけれど。どうやら一成の筆は、天馬が想像するよりも速いらしい。あまり寮内で絵を描いている姿を見ないこともあり、まさかそんなにすぐなくなるとは思っていなかった。

「カズの絵は、あんまり見たことがないヨ。部屋で描いてることが多いネ?」

 そういえば、という顔でシトロンが口を開く。一成が絵を描く人間である、ということは夏組を通じて聞いていた。手掛けたデザインを見ても、芸術的才能があることはシトロンも理解している。ただ、一成が絵を描いているところはあまり見たことがなかったのだ。
 スケッチブックをすぐに使い切ってしまうということは、よく絵を描いているに違いない。にもかかわらず、シトロンは一成が絵を描いているところをほとんど見ていない。ということは、外でスケッチをするようなスタイルではないのだろう、という結論に落ち着いていた。
 一成はシトロンの言葉に、「ええと」と言葉を濁す。曖昧な表情を浮かべたあと、へらりと笑みを浮かべて言った。

「まあ、わりとそんな感じっていうか。外でスケッチするのも好きなんだけどねん!」
「おお、それならスケッチ大会するネ~! みんなでお絵かき大会ヨ!」

 嬉しそうにシトロンが言うと、一成は数秒沈黙を流した。ただ、すぐに「いいね、面白そう~」と笑ったのだけれど。明らかにぎこちなかったし、何かを隠しているのは明白だった。
 天馬は当然気づいたし、シトロンや椋、監督だってそこまで鈍感ではない。気づかれたことは一成だって理解している。
 だから天馬は、ゆっくり口を開く。嫌がることを無理に聞き出すつもりはなかったけれど、恐らくこれはちゃんと話した方がいい類のものだ、と察したこともある。

「一成。言いたいことがあるなら、ちゃんと言え。聞いてやる」

 強い目をして、真っ直ぐ一成を見つめて言った。どんな言葉だって、必ず受け止めてやると心からの誓い込めての言葉だ。一成がそれに気づかないはずもない。
 戸惑うような表情を浮かべて、周囲へ視線を走らせる。すると、目が合った椋や監督、シトロンがこくりとうなずくので。誰もが自分の言葉に耳を傾けようとしているのだと、一成はすぐに察した。
 本心を受け取ろうと待っていてくれる。どんな言葉だって受け入れてくれる。今までの経験から理解している一成は、天馬の強いまなざしに導かれるように、おずおず口を開く。

「――マジでみんなのせいじゃないんだけど、全然違うってわかってるんだけど、だけど、その、絵描いてるところ見られるのが苦手っていうか、隠さなきゃってなっちゃうんだよねん……」

 ぼそぼそと、一成は言う。
 たとえば誰も一成を知らない場所だとか、大学などの生活空間とは離れた場所なら問題ない。ただ、普段暮らしている場所で絵を描く時、どうしても周りが気になってしまう。
 202号室で絵を描く時も、椋が戻ってくるとそそくさスケッチブックを閉じるし、寮内のどこかで絵を描くということもできずにいる。理由なら、よくわかっている。

「みんなは違うってわかってるんだけど……。見つかったら怒られて、捨てられるって思っちゃって。家で絵描いたらだめだって、ずっと思ってたから……」

 申し訳なさそうに一成はつぶやいて、ぽとぽとと言葉を落とした。
 幼い頃から、一成にとって絵を描くというのは許されない行為だった。勉強に関係のないことを選んではいけない。勉強以外のものは全て無駄だ。テストの成績を上げることだけを考えなくてはいけない。
 そんな環境だったから、一成はずっと隠れて絵を描いてきた。見つかったらどうなるかはよくわかっていたのだ。結果も出せず絵を描くなんて、言語道断の行為だ。描いた絵が見つかれば、ゴミとして捨てられる。
 カンパニーメンバーがそんな人間ではないことは、充分わかっている。しかし、長年沁みついた感覚はなかなか消えなかった。衣食住を行う家という場所は、一成にとって絵を描いてはいけない空間だ。その法則は強固で、一成に強く根差していた。

 告げられた言葉に、談話室には沈痛な空気が流れる。
 一成がどんな境遇で生きていたのか、詳しい話を知る人間はほとんどいない。天馬は最も事情をよく把握しているとはいっても、具体的なことを理解しているわけではないのだ。
 ただ、家族の話がまったく出てこないことや、家の話題になると顔に暗い影が落ちることから、複雑な家庭事情を抱えていることは薄々察しているメンバーも多い。
 だから、今一成が口にした言葉の意味を、談話室のメンバーも理解した。
 一成は絵が上手い。描写力だけではなく色遣いやセンスが卓越していて、人を惹きつけるのだ。しかし、一成は今までずっと絵を描くことを否定されてきた。
 家という場所は、一成にとって心のままに過ごせる場所ではなかった。好きに絵を描くことを許されていなかった。見つかったら捨てられると、描いてはいけないのだと思い込むくらい。今ここに咎める相手がいないと知っていても、隠れて絵を描かなければと思うくらい。
 いつだって明るい笑顔を浮かべて、些細な変化にもよく気がつく。快い空気を持っていて、楽しいことを見つけるのも上手い。
 途中から夏組に加入したとは思えないくらいすんなりとなじんでいるのは、一成の持つコミュニケーション能力の高さや、他者の心に寄り添うことができる性格ゆえだろう。
 一成がやさしい人間であることは、カンパニーメンバーは全員知っている。他人を傷つけるようなことは絶対しないし、人を笑顔にすることにも長けているのだ。そんな一成が過ごしてきた日々の片鱗に、談話室の間には重苦しい沈黙が流れる。
 一成は笑顔のよく似合う人間だ。本人がいつでも明るいということもあるし、笑顔の種を見つけることが得意で他人を喜ばせることも上手い。一緒にいれば自然と笑顔になってしまうのが、一成という人間だ。
 だからこそ、笑顔と幸いにあふれた日常が一成にはよく似合うのに。そういう場所で生きている姿がふさわしいのに。恐らく一成は、そんな毎日を過ごしてはいなかった。

「あ、でも、今は全然違うのわかってるからねん! 見つかっても捨てられないし、スケッチブック隠さなくてもいいんだってことは、ばっちしわかってるよん!」

 空気が重くなったことを察して、一成は慌てて叫ぶ。実際、頭では理解しているのだから嘘ではない。ただ、理解はしても心は未だにうなずけなくて、とっさに絵を隠してしまう癖が抜けないのだ。
 それでも、昔と今は違うのだとフォローの意味を込めて一成は言ったのだけれど。言葉を重ねれば重ねるほど、それまでの生活が今とはかけ離れていることを知らしめる。
 自由に絵を描ける環境ではなかったこと。絵を描いているところが見つかれば叱責され、ゴミとして捨てられること。それが一成にとっての日常だったのだと、否応なく理解してしまう。
 一成のデザインセンスは目を見張るものがあるし、絵の才能に秀でていることは誰もが理解している。絵を描く姿を見たことはなくても、生み出されるものたちから、多くの時間を掛けてきたことがうかがえた。
 一成にとって、絵を描くということは息をするように自然で、人生の大半をともに過ごしてきたのだろうとうかがえる。それをずっと、否定されてきたのだ。許されざる行いなのだと、隠してやり過ごさなければいけないのだと、体中に沁み込んでしまうくらい。
 その事実を認識して、カンパニーメンバーは押し黙るしかできない。いつでも明るく笑ってくれる、心やさしい目の前の人が抱えた過去に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなかったのだ。
 しかし、そんな沈黙を破る声が響く。ゆったりと落ち着いた、凛とした意志の宿る声。

「――そうだな」

 静かに告げたのは天馬だった。強い目をして、真っ直ぐ一成を見つめてうなずく。

「もう隠す必要はない。オレたちは誰もお前の絵を捨てたりなんかしないし、絵を描いてることを咎めたりだってしない。自由に好きなだけ絵を描いていい」

 きっぱりと言った天馬は、一成の言葉を力強く肯定する。頭ではわかっている、と言うならあとは心が追いつけばいいだけだ。そのためにも、一成の言葉は正しいのだとことさら強くうなずくのだ。

「そもそも、一成の能力はカンパニーに欠かせないしこれからもっと役に立つだろ。隠すなんてことしてる暇はないぞ。むしろ、馬車馬のように働かされるかもしれない」

 肩をすくめていたずらっぽい表情で告げると、真っ先に反応したのは監督だった。「そんなことしないよ」と苦笑を浮かべてから、一成へ真っ直ぐ向き直る。

「でも、天馬くんの言う通り、一成くんにはこれからも助けてもらいたいな。本当に、一成くんの描くものはすてきだから」

 にこにこ笑みを浮かべて、監督は言う。一成が過ごしてきた日々を具体的理解しているわけではない。だ、これまでずっと絵を描くことを否定されてきたなら、代わりに今ここで肯定しようと思ったのだ。一成が心から、「ここでなら絵を描いていい」と思えるように。

「そうだよ、カズくん。ボクたちみんな、カズくんの絵をもっと見たいなって思ってるんだ」
「そうネ~。カズの絵はとってもすてき、寮にいっぱい飾りたいくらいダヨ!」

 監督の言葉に椋が答えて、シトロンも続く。二人とも、気持ちは天馬や監督と同じだ。一成の心が否定されることなく、伸び伸びと絵を描いていけることを祈っている。いつでも明るくてにこにこ笑う一成には、そんな世界がふさわしい。

「一成の気が向いたら、夏組に絵を教えてみたりするのもいいんじゃないか」

 ふっと唇をゆるめて、天馬が提案する。
 一足飛びに何もかもが解決しないとしても、少しずつ絵を描く姿を見せることができるようになったら。一成のわだかまりが、わずかでもほどけていくのなら。いつの日か、何の気負いもなくみんなの前で絵を描ける日も来るだろう。
 そのための一歩として、夏組相手に絵を教えるのもありなんじゃないか、と天馬は思う。
 きっと一成は楽しそうに、夏組それぞれに絵の描き方を教えてくれる。一成に比べればとうてい上手いとは言えない絵だって、心から「いいね」と笑って、もっといい絵にするにはどうしたらいいか伝えてくれるだろう。
 一成はきっとその時、楽しそうに笑うのだ。心からの喜びをたたえて、夏組と過ごす時間の大切さを抱きしめるように。そんな風に、一成にはいつだって笑っていてほしい。そのためにできることがあるなら、天馬は何だってしたいのだ。