秋桜と揺れる日々




 夏組旗揚げ公演が終われば、次は秋組の番だ。準備を進めてオーディションを開催し、五人の新入団員が寮へやってきた。
 どっと人が増えたことにくわえ、秋組メンバーもなかなか多彩な顔ぶれだ。寮内は一気ににぎやかになったし、春組も夏組も秋組公演成功のため尽力しようとやる気になっていた。
 当然一成も例外ではなく、フライヤーデザインのための勉強はもちろん、Web制作についても取り組み始めた。今後の劇団運営を考えると、専用のWebサイトを持っている方がいいだろうという判断だ。
 図書館やオンライン講座を駆使しながらWeb制作の技術を学び、デザインについての知識を深めていく。
 寮生活の手伝い以外では、部屋にこもって勉強する時間が増えていって、夏組は「むりしちゃだめだよ~」「ちゃんと寝てよね」なんて心配していたけれど、できることが増えていくのは純粋に嬉しかったのだ。

「――三好、少しいいか」

 いつものように202号室で、パソコンを前に唸っていると部屋を訪れる人がいる。返事をすると入ってきたのは左京で、一成は「フルーチェさんじゃん」と明るく笑う。当初は妙な呼び名に眉をひそめていた左京も、今はすでに諦めたのか何も言うことはない。
 左京は一成の隣に歩いてくると、淡々とした調子で告げた。

「この前言ってたオンラインでの講座だが、空きが出たらしい。お前の名前で申し込んでおいたぞ」
「マ!? デザイン添削もあるから、倍率すごかったんだよねん。フルーチェさんさすが~☆」
「たまたまだ」

 左京は肩をすくめると、Web制作の進捗について尋ねた。カンパニー専用のWebサイトの重要性は左京も充分理解している。一成が制作を手掛けてくれているのはありがたいと思っていることもあり、何かと顔を出しては気に掛けていた。

「階層構造はこんな感じかな~と思ってるんだけど。やっぱ、みんなビジュ強めだから、目で見て楽しい感じにするのが大事かなって思うし、団員紹介とかも充実させたいよねん。それぞれの組らしさも、もうちょっと出したいし!」

 わくわくした調子で言って、傍らに置いてあるスケッチブックを開いた。左京に向かってページを開きながら説明すれば、左京は「なるほどな」とうなずく。
 一成が見た目に反して頭の回転が速いことだとか、諸々の事務作業が得意であることやデザインに対して秀でていることは、左京もよく知っている。
 もともと、秋組に加入する前から借金を取り立てるという立場でカンパニーに出入りしていたのだ。
 一成が夏組の一員に加わった経緯にはいぶかしんだし、多少の警戒もしていた。しかし、夏組の一人としてそれぞれと親交を深めて、舞台の上で堂々と躍動する姿を見れば、何も言うことなんてなかった。間違いなく夏組の一員だと、とっくに認めている。

「技術的にこの辺どうやるんだろ?ってとこはあるから、その辺は今度の講座で聞いてくるね。あ、でも、デザイン用の素材はだいたいそろってるよん! この構成問題ナッシングなら、一応この方向で進めよっかなって感じ!」

 一通りの説明を終えた一成はそう言って、左京の言葉を待っている。いつでも明るい笑顔を浮かべて、誰彼構わず突っ込んでいくように見えて、案外人のことを気にする性質なのだ。突っ走ることはせず、左京や監督の意見を聞いてから進めるつもりなのだろう。

「監督さんにはあとで聞いておくが、問題はないだろう。この方向で進めていい。三好のセンスは監督さんも――俺も信用してるからな」

 率直な感想を口にすると、一成が一瞬黙った。ただ、すぐにぱっと笑みを浮かべると、軽やかな声で「フルーチェさんに褒められちった!」と喜んでいる。左京はふっと唇をゆるめた。

「実際助かってはいる。こういうものは外部に発注すると、それなりの額がかかるからな。内製化できるのはありがたい」
「フルーチェさんに投資してもらった分、ばっちり返すかんね!」

 左京の言葉に、一成ははっとした顔で言う。ぐっと拳を握りしめて「パソコン、新しいの買ってくれるとかマジでありがたかったもん!」と続けて、目の前のパソコンを示した。
 一成の机の上にはデスクトップパソコンが一台置かれている。
 左京は秋組加入後、より本格的にカンパニーの経理や事務に関わることになった。借金という現実は変わらないのだ。質素倹約に努めるのは当然の流れだったけれど、そんな中で一成が使うデスクトップパソコンがカンパニーに導入された。
 今後のことを考えれば、それなりにちゃんと作業のできるパソコンが必要と判断したからだ。

「型落ちの中古だぞ。それに、ツテで安く譲ってもらってるから、たいした額じゃねぇ」

 さすがにハイスペックな最新機種を購入することは難しかった。左京がツテを頼りに、かろうじてデザイン制作に使えそうなもの、という条件で入手した品物である。
 満足なスペックだとはとうてい言えないだろうし、もっといいパソコンが欲しいと思う場面もあるかもしれない。だから一成が気負う必要はないのだ、と左京は思っている。
 そもそも、別にこれは一成の趣味のために購入したわけではない。カンパニーに必要な機材なのだから、支給品といった扱いだ。
 しかし、現状自分しか使う人間がいないとわかっているからだろう。一成がいなければ、購入することはなかったかもしれない品物でもある。自分がいなければ支払わなくて済んだと思うからこそ、どこかで罪悪感めいたものを覚えているのだろう。
 一成は基本的に明るくて、いつでも笑顔を忘れない。人を喜ばせることが好きだし、からかうような言動をすることもある。
 ただ、どこかに妙な影を背負っていることは左京も感じていた。夏組へ加入する経緯からして明らかに訳ありだったし、過去のことを話さないのも気にかかった。
 決して悪人でないことは、夏組との関係性や舞台での様子から理解している。秋組としてカンパニーの一員になり、一成と関わることが増えてその思いは確信に変わった。
 人のことをよく見ていて気遣いもできる。誰かを傷つけることを恐れて、常にやさしさを忘れない。他人の気持ちを汲み取ってやわらかく受け止めてやれる。一成はそんな人間だ。
 ただ、同時に拭いきれない何かがあるのも感じていた。その一つが、自分にまつわることに対する罪悪感だ。
 恐らく本人以外は誰も思っていないのに、一成は無意識で「自分のせいで」と思うことが多い。だから、どうにかしてそれを払しょくしなければ、何かで返さなくてはと思うのだろう。そんなことをする必要はかけらもないのに。

「三好が気にするほどの値段じゃねぇってことは、お前も帳簿見てるからわかってるだろ」
「でも、オレ今お金掛けてもらってばっかだし……テンテンにもずっとお世話になってるし……」

 しょんぼりした空気で言われて、左京は「ああ、そういえばそうだったな」とつぶやく。一成が夏組に加入する経緯には天馬が深く関わっているようで、何くれと面倒を見ているのだ。
 日常を問題なく送れているか気にしているし、秋組とも仲良くやれているか、とそわそわしていた。生活費も天馬が全て出しているというので、よっぽど思い入れがあるんだな、と左京は思っている。

「――まあ、身分証明書なしのバイトも紹介できるが皇に止められそうだな」

 ぼそり、と左京はこぼす。現状、一成は身分を証明するものが一切ない。銀行口座だって持っていないし、スマートフォンの契約だってできないのだ。
 身分証がなくても働ける仕事場の一つや二つ、左京なら用意もできるけれど、あまり真っ当とは言えない世界と重なり合っていることは否めない。恐らく一成は「それでもいい」と言うけれど、天馬は首を縦に振らないだろう。
「そんなことさせるくらいなら、オレが金を出す」くらいは言いかねない。一成を連れてきたのが天馬だからなのか、面倒を見るのは自分の役目だと思っている節がある。

「ただ、身分証明書に関してはどうにかする必要があるだろ。どんな事情があるのかはわからねぇが、このままの生活は難しい」
「あー……そうなんだよねん……」

 左京の言葉に、一成はうなだれて答える。現状なら、一成自身がよくわかっている。身分証明書はもちろん持っていないし、そもそも戸籍自体が存在していないはずなのだ。きっちり確認したわけではないものの、別の世界からやってきたのだからそれも当然だろう。
 左京は一成の答えに、いささか険しい顔つきになる。何かを数秒考えたあと、重々しく口を開いた。

「三好についてある程度調べたが――お前に該当しそうな人間は見当たらなかった」

 落ち着いた声で、左京は告げる。事実だけを述べるような、淡々とした口調。しかし、どこかに労わるような響きが宿っていた。
 左京とは事務仕事の関係で、顔を合わせる機会が増えた。当初こそ一成のノリの軽さに戸惑っていた節はあったものの、仕事の話をするうちに考えをあらためたらしい。外見に似合わず真面目で、きっちり業務をこなす点を評価したのだろう。
 一成自身は誰相手でもコミュニケーションが取れるし、適切な距離を保ちながら親密になることも得意な性質だ。結果として、二人で何でもない雑談をすることも増えていった。
 そんな中で、ふと口にしたのが「もしかしたら、この世にはオレじゃない三好一成がいるかもしれないよねん」という言葉だった。
 身分証明書がない、という話の流れで、自分以外の「三好一成」がいるから、目の前にいる一成には身分を証明するものが作れないのかも、なんて。
 ちょっとした冗談で、単なる与太話だ。そう思えばよかったのに、何だかやけに気にかかったのは、声の響きがどこか真剣だったからだろう。だから左京は、一成の言葉に「気になるなら調べてやる」と言った。
 三好一成という存在のことが気になっていたのも事実だ。
 当初はうさんくさい人間として、劇団に害をもたらすのではないかという疑念。今は、カンパニーの大事な仲間として力になりたいという気持ちと、できることならしてやりたいという思い。
 そういう諸々で、左京は一成について調べることにしたのだ。本人は「大丈夫だって!」と慌てていたけれど、「俺が気になるだけだ」と言って押し切った。
 幸い、潤沢な情報網なら持っている。三好一成という名前を鍵にできうる限りの情報を集めた結果、同姓同名はそれなりに引っかかった。ただ、目の前の一成につながるような人間は誰もいなかったのだ。

「お前が気にしてたからな。芙蓉大学でも調べてみたが、三好一成という学生はいなかった。もちろん、日本中全ての戸籍を調べたわけじゃねぇが――」

 いささか歯切れの悪い調子で左京が告げるのは、左京が調べた限り「三好一成」という名前の二十歳くらいの青年で、絵の才能があり、美しい緑色の目を持っている、最近行方をくらました人物はどこにも存在しなかった、という事実だ。
 一成の様子から、恐らく名前は偽名ではなく、長い間その名前で過ごしてきたのだろうと推察できた。しかし、目の前の一成につながるような「三好一成」はどこにもいなかった。
 左京の情報網が完璧だということはできないから、漏れたところに存在している可能性もゼロではない。
 ただ、今の世の中において、あらゆる全てから引きこもって山奥で生活しているのでもない限り、何かしらの端緒が見つかってもおかしくはないのだ。そう左京が自負する程度に、情報網はしっかりしている。
 にもかかわらず、一成の情報はかけらも出てこなかった。この世界に生きているなら見られるはずの痕跡が、どこにもなかった。三好一成なんて存在、どこにもいないみたいに。
 その事実を告げることは、一成の存在そのものを否定するように思えてしまうのだろう。だから左京は、何だか申し訳なさそうに言うのだ。目の前に生きているのに、この世のどこにも存在しないのだと告げるようで。

「――そっか~」

 左京の気遣いを理解しているから、一成は極力明るい笑顔で答えた。事実として、左京が悪く思う必要はかけらもない。別の世界からやってきたのだから、痕跡がなくても当然なのだ。ある日突然、こちらの世界に降って湧いたのが今ここにいる一成なのだから。
 もしかしたら、こちらの世界に自分がいるのではないかと思った。「三好一成」という名前で、容姿も年齢も同じでちゃんと生きているのかもしれないなんて。だけど、その可能性は低いらしい。少なくとも、以前の自分のように芙蓉大学に三好一成はいない。

「てか、フルーチェさんそんなばっちり調べてくれてありがとねん!」

 左京が一体どんな情報網を持っているのかは定かではない。ただ、彼の職業から鑑みても精度の高い情報を得られる可能性が高い。
 左京が「見つからなかった」というなら、少なくとも単なる一般人に「三好一成」はいないのだろうし、そんな風にしっかりと調べてくれたことを素直にありがたいと思った。
 これはきっと、左京のやさしさに他ならないということも理解していた。だから感謝を向ければ、左京は「たいしたことじゃねぇ」と答える。

「ただ、こうなると本格的に対処した方がいい。情報があれば取っ掛かりにできたが、一切ないんだ。このままだと、できることが少なすぎるからな。ひとまず、戸籍はどうにかする」

 真剣なまなざしで言われて、一成は茶化した風情で「えっ、戸籍売買的な?」と笑った。なるべく空気を軽くしたかったのだ。左京は肩をすくめて言う。

「そんなわけあるか。合法だ」
「だよね~。就籍とかあるもんね」

 一成の言葉に左京は一瞬目を瞬かせてから、「そうだな」とうなずいた。
 戸籍がない人間に対して、戸籍を作るための措置は存在しないわけではないのだ。必要な手続きを踏めば、合法的に戸籍は手に入る。恐らくそういったものを利用するのだろう、と一成にも察しはついたのだ。

 それから一成と左京は、カンパニーの事務的な懸念事項や経理について話していたのだけれど。左京の電話に着信があり、今から出掛けなければいけないということで部屋を出て行った。
 左京を見送った一成は、再びパソコンに向き直った。Webページの制作を進めたかったのだ。大まかなアウトラインは決まっているのだから、ソースコードを構築する必要がある。
 ただ、画面を見つめたままで進捗ははかばかしくない。技術的な引っかかりというより、左京の言葉が頭の中をぐるぐる巡っていたからだ。
 三好一成という人間はいなかった、と左京は言う。日本の全てを調べたわけではないから、絶対にいないとは言い切れないのだろうけれど、少なくとも簡単に見つかるようなところに「三好一成」はいない。
 もしかしたら、芙蓉大学には同じ名前で同じ容姿の自分がいるかもしれない、なんて考えていたけれど、どうやらそんなことはないらしい。

 こちらの世界に自分がいるのかどうか、一成はずっと考えていた。
 もちろんWebで自分の名前は探したし、家族の名前も検索していた。両親はメディアに顔を出すこともあったし、姉も成績優秀者として教育関係のインタビューに出ていたこともある。
 華々しい経歴を持っているはずだから、検索すればヒットする可能性は高かったけれど、影も形も見当たらなかった。

(家もなかったからなぁ)

 何も変わらない画面を見つめながら、一成は胸中で言葉を落とす。
 寮での生活が落ち着いてからしばらくして、みんなには内緒にして、こっそりと住んでいた家を見に行ったことがあった。天馬のお金を使うことに申し訳なさを覚えつつも、電車代を握りしめて一成は自宅のあった場所に向かったのだ。
 最寄り駅の風景は変わらなくて、自分が別世界から来たなんて全部嘘なんじゃないかと思った。まるでいつもの帰宅風景のように、通い慣れた道を歩く。
 曲がり角のパン屋も、よく訪れていたコンビニも何一つ記憶と変わらない。家までの一本道へ入り、両脇に立ち並ぶ表札へ目を向ける。どれも記憶にあるものと同じで、天馬と出会ったことは夢なんじゃないかと思った。

 しかし、自宅があった場所に辿り着いた一成を出迎えたのは、小さな公園だった。

 両隣の家に見覚えはあったし、表札も記憶通りだった。それなのに、今まで一成が住んでいた自宅だけがきれいさっぱり何もなかった。ブランコとベンチがあるだけの小さな公園に取って代わられていたのだ。
 その事実に、この世界に自分はいないんだな、と一成は思った。感傷や戸惑いよりも、ただの事実として思った。
 きっとここには両親も姉も自分もいない。ここは自分が生きていた世界じゃないんだ。公園を前にした一成はすとんとそう思って、寮まで帰ってきた。
 左京の話を聞いて思い出したのは、あの時の記憶だ。
 自宅があるはずの場所には公園があって、家族の痕跡はかけらもないし、Webを探しても自分の名前はない。左京の報告は、ここに「三好一成」は生きていないのだ、という現実をあらためて思い知ったような気持ちだった。
 きっとそうなんだと思っていた。覚悟はしていたつもりだった。だから、ひどくショックを受けたわけではない。納得はできていたはずだ。それでも何だか落ち着かなくて、パソコンを前にしてもいまいち身が入らなかった。