秋桜と揺れる日々
騙し騙し作業をしていたものの、どうにもエンジンが掛からない。このままパソコンの前に座っていても埒が明かない、と踏んだ一成は部屋を出る。気分転換という名目で訪れたのは、201号室だった。
学生組はすでに帰宅している。もしかしたら顔が見られるかも、と思って部屋をノックした。すると天馬の声がして、一成の心は浮き立った。
「――テンテン?」
扉から室内をのぞくと、天馬は一人だけだった。同室の幸はいなくて、椋とちょっと商店街へ行くと言っていたな、と思い出す。天馬は椅子に座っており、台本を読んでいる。仕事へ向かうといった様子はなく、リラックスした姿だ。
「なんだ、一成か。どうした?」
「ううん、何でもないよん。ちょっと顔見たかっただけ!」
特別用事があったわけではない。天馬の顔を見られればそれでよかった。
いつだって真っ直ぐ一成を見つめてくれる。一つだってとりこぼすまいとするような、力強いまなざし。何もかもを照らし出すようなまばゆさで、ここにいてくれる。それを確認できれば充分だ、と思ったのだけれど。
「何かあったんだろ。来い、話くらい聞いてやる」
きっぱり言った天馬は、一成を部屋へと手招きする。そのあまりの力強さに、有無を言わさない調子に、一成はふらふらと足を踏み入れる。
きっと天馬には見抜かれてしまうから、隠しても意味がないというのが一つ。何より、顔を見られればいいというのも嘘ではないけれど、傍にいられたらもっと嬉しいのだ。
一成は少し考えて、天馬の隣に座った。台本を読んでいたし、時間は大丈夫かと尋ねると特別急ぎの要件ではないらしい。あくまで確認のために目を通していただけだという。
天馬は「困ったことはないか」と尋ねて、一成がつつがなく日常を送れているか心配している。
テンテンはやさしいなぁ、と思いながら「大丈夫だよん!」と言って、今度デザイン系のオンライン講座を受けることや制作中のWeb制作について話をする。天馬は興味深そうに聞いてくれて、一成は嬉しくなって一生懸命報告した。
「それで、何があったんだ?」
話が一段落したあたりで、天馬は問う。
一成は大概のことを笑顔に隠してしまうのが上手い。ただ、ギャラリーで絵画越しに話をしていた時から、互いの心を受け取り合っていた。取り繕う必要はなく、ただ素直に想いを吐露していいいのだとお互いに理解している。
だから、一成は比較的素直に天馬へは心情を見せてくれることが多い。
一成が顔を出した時もそうだ。何でもない顔をしていたけれど、天馬を見つけてほっとしたように笑った。その笑顔に、恐らく何か気がかりがあったのだろうと察したからこそ、話を聞いてやりたいと天馬は思っていた。
ただ、素直に心配を口にしても一成のことだ。天馬の心を煩わせてしまうのではないか、と一成がためらうことはわかっていた。だから、これはあくまでも自分の意志なのだという意味を込めて、天馬は言葉を重ねる。
「オレが聞きたいんだ。話してくれないか?」
真剣なまなざしでそう言えば、一成はわずかな逡巡を流す。ただ、聞いてほしくないわけではなかったし、そもそも一成は天馬に頼まれたら首を振れないのだ。いくらかの沈黙を流したあと、ぽつぽつと口にするのは左京から聞いた話だった。
どうやらこの世界に、三好一成という存在はいないらしい。同じ名前で同じ容姿で同じ年齢。芙蓉大学法学部に通い、絵を描くことが好きで、両親と姉の四人家族。そんな人間はどうやら存在していない。
一成は、「実はこっそり、住んでた家に行ったことあるんだよねん」と言って、自宅だった場所が公園になっていた旨を告げた。一成にまつわる全てが最初からなかったように、自分につながる何もかもは消えてなくなっていたのだ、と。
その言葉に、天馬の表情が曇る。過去が跡形もなくなくなっていた、という現実を思い知って一成が心を痛めのだと思ったのだろう。天馬の気持ちを察した一成は、深呼吸をしてからゆっくり言った。
「――悲しいわけじゃないんだ。薄情だなって思うけど、むしろ家族に会わなくてよかったってほっとしちゃった」
ぎゅっと拳を握って、一成はつぶやく。天馬はやさしい人だから、今までの何もかもを失くした一成のことを心配してくれたことはわかっている。しかし、一成の気持ちは少し違う。
みんなに内緒で自宅へ向かった時、一成はあくまで遠くから様子をうかがうつもりだった。平日の昼間を選んだのは、誰も在宅していない可能性が一番高いと思ったからだ。
家族と対面することは、初めから望んでいなかった。実際は、自宅なんて跡形もなかったから時間帯を考慮する意味はなかったけれど、最初から会うつもりなんてなかった。もしも顔を見たら、きっと取り乱してしまうとわかっていたからだ。
家族との思い出といって一成の頭に浮かぶのは、勉強机で課題と向き合っている姿だ。常に母親がそばにいて様子を見ていたし、仕事を終えた父親も必ず進捗を確認して結果を評価していた。
遊び道具の代わりにドリルが与えられるような家で、物心ついた時には常に課題に追われていた。母親は満点を取ればやさしかったし、父親も「よくできた」と褒めてくれた。それが嬉しくて、一成は一生懸命勉強に励んでいた。
満点のテストを持ち帰れば両親は機嫌がよくて、姉と一緒におしゃれなお店に連れて行ってもらうこともよくあった。フルーツのたくさん乗ったパフェや、繊細なチョコレート細工の乗ったケーキを食べさせてもらって、「おいしいね」と笑い合っていた。
思えば、あの頃が一成にとって一番幸せな時期だったのかもしれない。
ただ、小学校に入ってから次第に様子が変わっていく。一成は決して頭の回転が悪いわけではないけれど、規格外とも言える姉にはとうてい及ばなかった。
常に一位を取ることが難しくなったことにくわえ、一成の興味が勉強以外に向き始めたこともあったのだろう。連日の塾通いが始まり、ほとんど毎日勉強机の前で過ごす生活が日常になる。
「オレにはもう期待してないってことはわかってるんだ。だけど、顔を合わせたらいろんなことを思い出しそうで怖い」
視線を落としたまま、一成はぽつぽつ言葉を落とした。
小学校の時から始まった生活は、一成の人生の大半を占める。塾通いに忙しくて自由時間はほとんどなかったし、唯一息を吐けるのは学校くらい。だから一成は学校が好きだったし、美術の時間も大好きだった。
ただ、両親は当然そんな一成を快く思わない。塾だけではとても足りないと家庭教師が付くようになり、大量の課題に囲まれることになった。
全て終わらなければ就寝も許されないし、たとえ前回より成績が上がったとしても姉の足元にも及ばないのだ。「お姉ちゃんならもっとできた」と言われて、さらに課題が溜まっていく。
「一生懸命なだけだったってわかってる。オレをちゃんとさせたくて、東大に入れなきゃって思ってただけなんだ」
両親が一成に対して、多大なる投資をしたことは間違いない。途方もない金額を掛けて、最高の教育を与えてくれたのだ。それは純然たる事実だったし、両親の情熱だったのだ。少なくとも姉はその期待に完全に応えた。しかし、一成には難しかった。
「姉さんは本当にすごい人だった。オレなんかと比べ物にならないくらい頭が良くて、オレの自慢だったんだ。でも、オレは全然ダメだった。姉さんにはなれなかった」
全ての課題を軽々と乗り越えていく姉に比べれば、一成は出来損ないに違いなかった。満点が取れないことに憤り、叱責によって時間が削られ、さらに課題が溜まっていく悪循環。
学校の時間だけは唯一の息抜きだったし、些細な時間を見つけて絵を描くことでどうにか日々を乗り越えてきた。
「別に殴られたとか酷いことをされたわけじゃない。食事だって抜きにされたことはないし、必要なものはちゃんと買ってくれた。だから、きっとオレが薄情なだけなんだ」
握った手に力を込めて、一成はつぶやく。自宅のあった場所を訪れた時、一成の胸にあったのは決して期待ではなかった。もしかしたら家があるかもしれない。家族が住んでいるかもしれない。そんな風に思って向かったわけではなかった。
「――いなくてよかったって思った。家がなくてよかったって、ここには家族の誰もいないんだって確かめたかったんだ」
罪を告白するような口調で、一成は言葉をこぼした。
目の前に公園が現れた時。戸惑いや感傷ではなく、ただの事実としてこの世界に家族はいないのだと理解した。本当なら、血のつながった家族が存在しないことを悲しむ場面だと思った。家族の誰もいないんだとショックを受けて泣くのが正しいはずだ。
しかし、ただの公園を目にした一成の胸に芽生えたのは安堵だった。
よかった。ここには誰もいない。それを確かめたくて自宅を訪れたのだということも、一成は薄々理解していた。
慕わしい記憶も楽しい思い出も、決してゼロではなかった。しかし、人生の大半以上を塗りつぶすのは暗く重苦しい光景だった。
山のように積み上げられる課題に、自由を奪われて拘束される日々。やさしい言葉を掛けられることはなく、常に一挙一動を採点され、意にそぐわない行動を取れば存在を丸ごと否定される。
家族の望む姿を与えられなければ、生きている意味などないのだと日々思い知らされる。
膨大な記憶は、一成にとって苦しみと結びついていた。家族との思い出は、温かい記憶ではなく痛みを伴うものばかりだ。
両親は一成にとって庇護してくれる存在ではなく、恐怖の対象だった。姉のことはすごいと思うし尊敬もしていた。ただ、親愛の情は湧かなかったし、思い出したところで苦しくなるだけだった。
だからこそ、一成は確かめたかった。いくら検索しても名前は見当たらなかった。もしかしたら、家族はこの世界にはいないのかもしれない。ここにはいないのだと確認したかった。そうしたら、きっと安心できるはずだと思って一成は一人自宅へ向かったのだ。
「薄情なんだ。オレはすごく心が冷たい人間なんだ。だって、未練なんか一個もない。こっちに来られてよかったって思ってる。こっちの世界の毎日が、信じられないくらい幸せなんだ」
苦しそうな表情で言った一成は、そっと天馬を見つめた。大きな瞳はゆらゆら揺れて、今にも泣き出しそうだった。
天馬はやさしい人間だ。それに比べて、自分はどれだけ薄情なのかと一成は思い知る。だって会いたかっただとか、あっちの世界に戻りたいだとかなんて気持ちは、ついぞ生まれなかった。
「家族に顔を合わせたらって思ったら怖くて仕方なかった。誰にも見つからないようにって思いながら、家まで行ったんだ」
一成はあえぐように、ぽつぽつ言葉を落とす。それは確かに懺悔だった。
公園になった自宅を前にして、一成はどうしようもなく理解してしまったのだ。ここには何もない。一成の家も家族も、何もかもがきれいに拭い去られている。両親と姉。一成にとっての家族はどこを探しても見当たらない。この世界に彼らはいない。
そう思った一成の心に、未練は一つも浮かばなかった。それどころか、会わなくてよかったと安堵してしまった。
「家族はあっちの世界だけの存在で、こっちにはいない。ここにいれば会わなくていい、安心なんだって思った。それなのに、フルーチェさんにあらためて『三好一成はどこにもいない』って言われたら、何か落ち着かなくてさ。勝手だよね」
自嘲の笑みを浮かべて、一成は言う。未練はないと、こちらの世界に家族がいないことに安堵していたのに、いざこの世界に自分の存在がないとわかったら、ひとりきりなのだと突きつけられたように思ったのだ。
「オレが確かにここまで生きてきたことを知ってる人間は、本当にいないんだなって思っちゃった」
少なくとも両親や家族は、幼い頃の一成を知っている。たとえ幸福な時間は短かったとしても、苦しかった記憶が大半を占めていたとしても、生まれ落ちてから今ここに至るまでの軌跡を知っていることは事実だ。
しかし、その家族はどこにもいない。左京が言った通り、三好一成という存在を示す痕跡も何もない。薄々察してはいたし、覚悟もしていたつもりだった。だけれど、いざあらためて告げられた一成は、今まで歩いてきた足跡が全てなくなってしまったのだと理解した。
今の自分には、過去が何もない。幼い頃に好きだったものや、確かに重ねたはずの時間、体験したイベント。全てはみんな、あちらの世界に置いてきたのだから。
「自分で選んだことだし、後悔してるわけじゃないんだけど。でも、何かちょっとだけ、心細くなっちゃったのかも」
困ったような笑みで一成は言う。過去は全て断ち切ってきた。だから今の一成には、積み重ねてきたものが何もない。
足元をしっかり固めていたはずの軌跡や足跡が消えて、ぐらぐらと土台が揺らいでいるように思える。取り残されて、足元がおぼつかなくて不安定だ。今まで立っていた地面が抜けてしまったような感覚に、一成の胸は落ち着かなかった。
「――だから、テンテンの顔が見たくなったんだよねん」
そう言った一成は、ふわふわと笑った。困ったような笑みでもないし、何かを隠すためのものではない。ただ一心に、天馬に向けられる慕わしさが形になったものだ。
真正面から受け取る天馬は、ぐっと拳を握った。一成が天馬の部屋を訪れたこと。顔を見たいと言ったこと。これはきっと、天馬がかろうじて一成の過去につながっているからだ。
絵を通ってこちらの世界に来たことを知っているのは、天馬と監督だけ。監督も、あくまで二人から話を聞いただけで、実際に何かを体験しているわけではない。唯一天馬だけが、不思議な絵を通して一成の過去に触れている。
だからこそ、一成は天馬の顔が見たかった。天馬に会いたいと思った。何もかもが消えてしまった、生きてきた痕跡のない世界で。過去を知る天馬に、「オレの過去は確かにあったよね?」と確かめたかったのだ。
「大丈夫だ」
理解した天馬は、真正面から一成を見つめてきっぱり言った。一成が不安に思うなら、いくらだって言ってやりたかった。大丈夫なんだと安心させてやりたかった。その気持ちで、天馬は続ける。
「お前がどんな風に生きてきたかは、オレが知ってる。お前の過去ながら、オレがちゃんと覚えててやる」
絵を通してでしかないけれど、天馬は一成がどんな風に生きてきたのかを聞いている。
何もかも全てを知っているわけではないし、実際の場面に遭遇したわけでもない。それでも、少なくとも一成の過去の一部なら知っているのだ。だから、一成が不安に思うならきちんと覚えていてやろうと思った。
「え、テンテンが気にしなくていいんだよ? 別にこれはオレ個人の話だし――」
天馬の言葉に、一成は慌てて言い募る。あくまで一成は天馬の顔が見たかっただけで、何かしらの行動を期待していたわけではないのだ。しかし、天馬は一成の戸惑いなどどこ吹く風で答える。
「まあ、これもオレの責任だしな」
唇の端を持ち上げた天馬は、心底楽しそうな表情を浮かべている。一成は、天馬が余計な荷物を背負うのではないかと心配しているのだろうけれど、これは天馬がしたくてしていることなのだ。こっちに来いと手を引いたのが自分だから、というのが理由ではある。責任を負わなくては、と思っているのも事実だ。ただ、それは単なる義務感とは違っていた。どこか心が浮き立つようなそういう種類のものだった。
「過去の話ならいくらでもしてくれ。一成だけが知ってるんじゃなくて、オレも知ってるなら消えてなくなったりしないだろ」
一成が置いてきた過去は、誰も知らない。一成の頭の中にしか存在しないのだ。しかし、それを口に出して話をすれば少なくとも共有できる。一成だけの過去が、天馬にとっての記憶になる。
だから話せ、と言う天馬の態度は強引とも取れる。自分の意志を押し通して、一成の気持ちを無視するような傲慢さにも似ていた。
しかし、一成は天馬がどれほどやさしいのかを知っているし、これが一成のためを思ってのことだとわかっている。だから、くすりと笑みを浮かべてつぶやく。
「テンテンはかっこいいなぁ」
当たり前の顔をして一成の憂いを掬い上げて、自然に光を当ててしまう。抱えた暗闇すら、きっと天馬の前では意味がない。何もかもを明るく照らし出すのが天馬なのだ。向日葵畑で初めて会った時のように、どこまでもまばゆい太陽が似合う。
一成のつぶやきはほとんど口の中に溶けていったから、天馬の耳には届かなかったのだろう。「どうした?」と問われるので、一成は「何でもないよん」と首を振る。それから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「過去の話を聞いてくれるって、すごく嬉しいなって思って。……って言っても、あらためて考えるとそんなに話すことないんだけど」
「そうか? 別にたいした話じゃなくていいんだぞ。一成の昔の話なら何でも聞きたいからな」
「うーん……何かあんまり楽しい話じゃないっていうか……?」
頭をひねりながら、それでも一成は何かを話そうとエピソードを取り出したのだけれど。一成の記憶はほとんど勉強に染められているので、課題に追われていた記憶ばかり出てくる。かろうじて時間を見つけて絵を描いてはいたものの、全ては隠れて行っていた。
「昔のオレが今のオレ見たらびっくりしちゃうよねん。夏組お絵描き教室、すげー楽しかったよん。見つかったら捨てられちゃってたからさ」
天馬が提案した通り、この前ついにお絵描き教室が開催されたのだ。一成は緊張しながら夏組の前で絵を描いていたけれど、当然誰一人捨てる人間なんていない。
一成はほっとしたようにその事実を噛みしめており、あの日以降少しずつ人前で絵を描く姿が見られるようになっている。
「一緒に食事できるのも嬉しいんだよねん。課題終わらないとオレだけ遅くなってたし、大学受験失敗したあとはずっとオレだけ別室だったし」
にこにこ嬉しそうに言うのは、カンパニーメンバーと共に食卓を囲むことだ。天馬は「確かに、全員で食べるのは新鮮だった」と答えるけれど、一成と境遇が違っている自覚はある。
天馬は純粋に家族がそろわないので基本的に一人だっただけで、恐らく一成は家族がいても一人だけ疎外されていたのだと察しがついた。期待通りの結果が残せないから、同じ食卓に着く権利はないという意味で。
一成も一応それは理解しているので、困ったような笑みを浮かべて言葉をこぼす。
「楽しくない話ばっかりになっちゃうなー。うーん……あ、うちに画集があってさ。それ見るの好きだったんだよねん。青がテーマの風景画でまとめられてるやつだったんだけど」
幼い頃に初めて見た時から、一成はその画集に心を奪われた。多彩な青がどのページにも描かれていて、「青」一つ取っても同じではないのだと、豊かに広がる無限の色彩が強く印象に残っていたのだ。
「もともとこそこそ見てたんだけど、東大入れなかったから美術館行くの禁止されてた時にも、よく見てたな~。えらい人にもらったとかで捨てられなくてラッキーだったよねん」
苦笑を浮かべた一成は、遠いまなざしでぽつぽつと思い出を語る。
その画集はあくまで両親のもらいものだったので、居間の本棚にしまい込まれていたという。両親にとって内容に思い入れはないものの、紙製のケースに入っている立派な装丁ということもあり、一種のインテリアとしては機能していた。
だから、動かせば気づかれてしまうだろうと、一成はいつも家族がいない隙にこっそり眺めては、本棚に戻していたのだ。
「こっちにもあるかなって思ったら、全然見つからなくてさ。そもそも出版されてないのかも。絶版本が普通に売ってるってことは、その逆もあるか~って思ったもん。もっといっぱい見とけばよかったな」
天馬から「こっちに来い」と言われて、必要なものを取りに一度家に帰った時も、持ち出そうかとは思ったのだ。ただ、動かしてしまえばきっと気づかれる。
それに、本来の持ち主が自分でないことはわかっていたから、勝手に持っていくことはできないと判断した。あちらの世界でまた買えばいいとも思ったのだ。しかし、こちらでは見つけることができないままで、その希望は結局叶っていない。
一成は思い出の画集の話から、好きだった本や絵の話をした。
学校は好きだったけれど、一成に友達らしい友達はいなかった。自由時間が少なすぎて遊ぶこともできなくて、親しくなる機会がなかったのだ。クラスメイトと衝突するようなことはなかったけれど、友達と呼べる相手はいなかった。だから、本や絵の話をする相手なんて誰もいなかった。
「むっくんとかゆっきーと、本とかデザインの話できるめっちゃ嬉しいんだよねん。すみーはインスピレーションわきまくりだし! テンテンもおすすめ教えてくれるし!」
心底嬉しそうに言うのは、あちらの世界ではとうていできなかった話を今なら思う存分口にできるからだ。好きなものの話がいくらでもできる。みんなで同じ食卓につく。隠すことなく絵を描いていい。
今この瞬間の喜びを口にすればするほど、一成の過去に与えられなかったものが浮き彫りになっていく。一成もそれは自覚しているし、天馬だって同様だ。
「――オレ、こっちに来られてよかった。あのギャラリーがどうして現れたかとか、全然わからないけど。すごくラッキーだったなって思う」
しみじみとした調子で、一成はつぶやいた。あらためて思い返しても、過去の思い出はほとんど苦しいものばかりだ。戻りたいかと聞かれても、一成は首を振る。だからこそ、今この場所にいられる幸福を噛みしめて言うのだ。
「ほんとにさ、あのギャラリー何だったんだろ。神様とかかな」
「……まあ、普通の店じゃないことだけは確かだが……。オレはギャラリーに行ったわけじゃないからわからないが、神秘的な雰囲気なのか」
「そうでもないかな~。重厚な雰囲気はあるしギャラリーっぽくはないけど、神様祀ってそうとかそういう感じじゃなかったし」
そう言って、一成はギャラリーについて天馬に話した。思い返せばそこまで詳細に話したことがなかったな、と気づいたからだ。
表には「A GALLERY」と書かれた立看板。目立たない扉から一歩踏み入ると、広がるのは重厚な空間だ。
ダークブラウンの板張りの床は落ち着いた輝きを放ち、ワインレッドの壁紙は図案化された植物の刺繍が施されている。部屋の中ほどには、アンティーク調の椅子と机が一組。その奥には、扉が三つほど並ぶ。入ってすぐの右手にはカウンターがあり、大体いつもオーナーの老人が座っていた。
ずいぶんと小柄で、子供のようにも見えるけれど頭髪は真っ白で、顔には深い皺が刻まれている。オールバックの髪はおかっぱで、声は低すぎることもなければ高すぎることもない。男性にも女性にも見えた。
「不思議な人だったな~。人じゃないって言われたら信じちゃうかも」
ギャラリーやオーナーについて一通り話したあと、一成はぽつりと言う。こちらの世界へやって来る直前、言葉を交わしたオーナーは全てを知っているような口ぶりだった。あちらの世界とこちらの世界。二つがつながる理由には、このオーナーが深く関わっているのだろう。
天馬もその話は聞いていたから、超常的な存在だと言われたら納得するしかない。
普段の天馬なら決して信じなかっただろうけれど。実際に絵画が動き出し、絵画越しに言葉を交わして今こうして共に生きている一成が目の前にいるのだ。どんな荒唐無稽な話だって信じるに決まっている。
「全然わかんないことばっかりだけどさ。どんな理由だって、ここにいられてよかったと思う。あの時、テンテンが来いって言ってくれてよかった。テンテンの手を取ってよかった」
真っ直ぐ天馬を見つめて、一成は告げる。
天馬が一成に「オレのところに来い」と言ってくれた。手を伸ばしてくれた。強い力で、こちらの世界まで手を引いてくれた。だから今、一成はここにいる。
ギャラリーがあるだけではきっとだめだった。天馬が「来い」と言って、手を差し伸べてくれたから今一成は、この場所にいられる。過去には与えられなかったものを受け取り、心躍る瞬間や胸が弾む出来事をいくつも知った。
天馬との出会いがもたらしたものは、どれだけたくさんあって、どれほどまでに光り輝いているか。カンパニーでの生活で何度も感じていた一成は、心からの言葉を天馬に伝える。
「テンテンと会えてよかった。テンテンはオレの恩人だよ」
はにかむように告げられたのは、揺るぎない一成の本心なのだと天馬は理解している。恩人という言葉は、一成にとっていかに天馬が力になれたかということの証左でもある。
ちゃんと一成の役に立てたこと。恩人なのだとあらためて言われたこと。全てが無性に天馬の心をくすぐって、思わず笑みがこぼれた。