秋桜と揺れる日々




 お金を払うと、花を入れる袋や貸し出し用のハサミを渡される。エリアは特に決まっていないので、好きなところから花を摘んでいいという。

「そんじゃ、始める前の写真も撮って……テンテンの写真もばっちり~!」

 接写のコスモスとコスモス畑の天馬を手際よく撮った一成は「レッツゴー!」と言って、コスモス畑の遊歩道へ足を踏み入れる。天馬も後を追った。
 わくわくした面持ちで周囲を見渡した一成は、「いっぱいあるから迷っちゃうよねん」と言う。周囲には満開のコスモスが咲き乱れているので、どれを選ぶかと目移りしてしまうのもうなずけた。

「そうだな。どの花もきれいだし、あえてどれを選ぶかっていうと難しい気がする」

 天馬も同意の言葉を返して、あらためてといった調子でコスモス畑を見渡した。
 暮れていく空の下では、たくさんのコスモスがたおやかに風に揺れている。遠くを見れば一面ピンクが辺りを埋めて、間近に目を向ければ直立した茎の緑のみずみずしさや、頂上に咲く花のあざやかさが目を楽しませてくれる。
 一本一本は可憐な雰囲気をたたえているけれど、多くの花が集まるコスモス畑は圧倒的な迫力も感じさせる。日常生活では目にしない景色は、ドラマチックな雰囲気も感じさせる。
 不思議な魅力がある風景だからなのか、平日にもかかわらず案外人は多かった。コスモス畑のあちこちには、親子連れやカップル、友人同士で訪れた人たちが思い思いに花の海を楽しんでいた。
 天馬と一成の近くでは、学校帰りらしき女子高生たちの集団が楽しそうにはしゃいでいる。スマートフォンを向け合っては明るい声を響かせており、二人のもとにまで弾んだ空気が流れてくるようだった。

「楽しそうだねん」

 同じようにコスモス畑を見回していた一成が、女子高生たちの様子にそうつぶやく。瞳はやさしく細められていて、楽しい時間を過ごしていることを心からよかったと思っている風情だ。
 ただ、その瞳には懐かしさや慕わしさのようなものが含まれている気がして、天馬は一成を見つめる。
 学校は楽しかった、と一成は言っていた。特別仲のいい友人がいるわけではなかったけれど、いじめられているわけではなかったし、世間話程度の会話はできた。必要以上に踏み込むこともなく、基本的には放っておいてくれるのもありがたかった。
 家族といる間は呼吸の仕方にさえ気をつけていたけれど、学校では人目を気にせず息ができた。何てことのないように、一成が言っていたことを天馬は覚えている。
 きっと一成にとって、学校の思い出は心地のいい記憶に分類される。だから今、一成はやさしい目をして女子高生たちを見つめているのだろうと天馬は察する。
 それと同時に、不意に頭をもたげる質問があった。本当はもっと前から、薄々思ってはいたことに言葉が与えられたように、天馬は問いを口にする。

「一成は学校――大学に行きたいんじゃないか」

 あちらの世界で一成は大学に通っていたけれど、当然こちらでそんな実績はない。身元を保証するものもないし、入学のために必要なものも充分ではなく、学生という身分が与えられるはずもないのだ。
 一成は毎日楽しそうに寮の仕事や自分のなすべきことに取り組んでいるし、大学に行きたいなんて一度も言ったことはない。ただ、頭の回転は悪くないし、勉強自体は好きなのだと言っていた。
 追い詰められるように勉強を課されてきたけれど、学ぶことには意欲的なのだ。だからこその質問だった。

「そういう気持ちは確かにあるけど……。でも、もっとちゃんと、『やりたい』こと見つけてから勉強はしたいな~って感じ」

 天馬の真剣な問いかけに、一成は真面目な顔で答えた。
 勉強は好きだ。知らないことを知るのも、わからないことがはっきりしてわかるようになるのも好きだった。しかし、以前の進路に自分の意志なんて一切なかった。

「法律勉強するのも楽しかったんだけどねん。でも、それ以外選べなくてって理由の学部選択だったから……。ちゃんと向き合いきれてなかったっていうか、情熱持ってる人に比べたらオレなんて全然だめだったし」

 困ったような笑顔を浮かべる一成は、大学時代のことを思い出していた。
 あちらの世界で通っていた法学部は、一成が望んだものではない。家族や親戚からそうするのが当たり前だと幼い頃から刷り込まれた結果だ。決して情熱や意志があったわけではなく、ただ流されるままの進学だった。
 おろそかにしたり手を抜いたりはしなかったけれど、志を持って勉強に励む学生とはうっすら線が引かれているような感覚があった。
 だから今度は、きちんと自分の心に向き合って進む道を決めたかった。誰かに言われた結果ではなく、自分で答えを出したかったのだ。

「やりたいことをやるために勉強できたら、きっともっと楽しいよね。自分の持ってるもの、全部と向き合って、ちゃんと勉強してやり切りたい。そんな風に思えるなんて、あっちの世界じゃ考えられなかったよ」

 落ち着いた笑み浮かべて言う一成を、天馬はじっと見ている。
 一成が心から言っていることはわかっていた。しかし、そんな風に思えることは決して簡単ではないはずだ。天馬は直接見たわけではないけれど、一成がこぼす言葉から考えれば勉強が嫌いになってもおかしくはない環境で生きてきた。
 もう嫌だと、二度とこんなことはしたくないと勉強を遠ざける選択肢だってあったはずなのだ。それなのに、一成は決して学ぶことを捨てなかった。苦しい記憶や辛い思い出がよみがえっても、手放すことを選ばなかった。
 現に、今もカンパニーで一成はたくさんのことを学んでいる。感性に従うだけではなく、デザインを根本的に学んでいることもそうだし、Webサイトを作成するスキルも身に着けた。
 絵を描くことに関しても、今までの経験だけを頼りに気ままに作品を完成するのではなく、基礎から学び直して真剣に絵と向き合っている。
 そうやって勉強していくことを一成は選んだ。「怖い」と言っていた記憶と結びつくのに、学ぶことを諦めなかった。それが一成の途方もない強さであることを、天馬は理解している。

「ほんとにさ、テンテンはオレの恩人だよねん」

 天馬の視線を受け止めた一成は、楽しそうに言った。
 不思議なギャラリーがきっかけで、二人は出会った。互いの心を受け取り合って、特別な時間を過ごした。しかし、別々の世界で生きているのだとわかっていた。
 時間が来れば別れなければならない。自分の世界で生きていくのが当たり前で、束の間許された邂逅なのだと思っていた。天馬が「オレのところに来い」と一成に手を伸ばすまでは。
 天馬がそう言ったから、今一成はここにいるのだ。
 向日葵畑の出会いがなければ、そもそも二人は互いのことなんて知らないままだった。さらに、天馬が一歩踏み出さなければ、お互いの思い出を胸に抱きながら別々の世界で生きていくことを選んだだろう。
 今ここに二人がそろっていることは、たくさんの偶然と幸運が積み重なった結果だとわかっている。
 あちらの世界にいたなら、一成はこんな風にコスモス畑を訪れることも、花を摘もうとするなんてこともしなかったはずだ。
 フライヤーデザインを手掛けることも、Webサイトを制作することも、SNSを堂々と更新することも、役者として舞台に立つこともなかった。夏組をはじめとした大勢の前でスケッチブックを開くことだって、とうていできなかった。
 全ては今、ここにいるからこそ実現したことなのだ。

「めっちゃ感謝してるんだ。テンテン、ありがと」

 冗談めいた口調で、奥底には真摯な響きを乗せて一成は言う。天馬が言ってくれたことやしてくれたことがどれだけ一成の力になっているか。どれだけ一成の背中を押して、勇気になってくれたか。
 あちらの世界でも、こちらへ来てからの日々でも、一体何度実感したかわからない。感謝の気持ちはいつだって持っているから、こぼれていくように言葉になっていた。

「――別にたいしたことはしてない。全部一成が頑張ってるからだろ。一成の力だ」

 真正面からの感謝が照れくさくて、少しぶっきらぼうになりつつ天馬は答えた。ただ、言葉はまったくの本心だ。
 こちらへ来てから成し遂げたものは、一成の努力の賜物だ。たとえ天馬の何かが役に立っていたとしても、そんなものは取り立てて感謝されるようなものではなかった。
 一成のために行動するのは、天馬にとって全て当たり前のことで、感謝されるようなものは何一つないのだ。いつだって手助けしてやりたいと思っているし、できることなら何でもするのだと決めていた。
 だから、一成の力になるのは、息をすることやまばたきするのと同じくらい、自然なことでしかない。
 天馬の胸には、向日葵畑で誓った決意がずっと刻まれている。
 いつでも明るい笑顔を浮かべて、天馬の心に寄り添ってくれた。一成と過ごす時間が心地よかった。
 そんな一成が、天馬の前で大粒の涙をこぼした。贈るはずだった絵がだめになってしまったと謝って、自分の辛さに蓋をして。出来損ないなのだと、生まれてきちゃいけなかったなんて言うのだ。あの瞬間に芽生えた感情を、天馬はずっと忘れない。
 一成のいる世界が一成を大事にしないのなら、オレが代わりに大事にしてやるから一成を寄越せ。
 そう思ったあの瞬間から、天馬が一成を大事にするのは当たり前の結論でしかないし、その気持ちは一成がこちらで暮らすようになってからよけいに大きくなった。
 一成はいつだって笑顔を忘れないし、カンパニーメンバーとも順調に親交を深めている。自分にできることでカンパニーに貢献し、勉強も怠らない。努力家でひたむきな情熱を持ち、この世界で過ごすことを心から楽しんで、日々を生きているのだ。
 過去の傷がときおり顔を出すこともある。何もかが一足飛びに解決したわけではないから、過去の暗い影が完全に晴れたわけではないのだ。
 そんな顔を見るたび、天馬は向日葵畑の決意をあらたにする。
 一成を大事にするのだ。たくさん笑顔にして、呆れるくらい幸せを降らせてやる。今までの辛さや苦しみも忘れてしまえるくらい、これでもかというくらい一成を幸せにするのだ。
 こっちに来いと手を引いた時から、天馬にとってそれは当たり前の事実でしかない。だから、一成が感謝する必要なんてないと心から思っている。

「そうやって言ってくれるのもめっちゃ嬉しいし――ねね、摘んだコスモス、テンテンの部屋に飾ってもいい?」

 にこにこ天馬の言葉を受け取った一成は、目を輝かせてそんなことを言う。一成からのお願いだ。断るつもりはなかったけれど、ただ純粋に疑問に思って天馬は答える。

「自分の部屋に飾ればいいだろ。せっかく摘んだ花なんだから」
「そうだけど、テンテンにプレゼントしたいんだもん」

 天馬は心から、一成が感謝する必要はないと思っていてくれる。それは充分わかっていたけれど、天馬に対して「ありがとう」なんていくら言っても足りないと一成は思っているし、それを置いておいても一成は天馬にいつだってプレゼントを贈りたい。
 自分の気持ちを伝えるためという意味もあるものの、一番は純粋に天馬に喜んでほしいのだ。
 天馬は心根のやさしい人で、感受性も豊かだ。そばに花があれば、きっと元気をもらえるだろうし疲れている時も気持ちを和らげることができるはずだ。だから、天馬のそばに花を置きたくて「プレゼントしたい」と言ったのだ。その気持ちは天馬も感じたのだろう。

「まあ、一成がそうしたいなら構わないが……」
「マ!? じゃあ、めっちゃキレイなの選ぶかんね!」

 張り切った顔で言うと、天馬は面白そうに笑った。それから周囲のコスモスをぐるりと見渡したあと、一成に向かって力強い表情で答える。

「なら、お前のコスモスはオレが選んでやる」

 きっぱりと告げる言葉には、揺るぎない意志が宿っている。天馬の中ではすでに決定事項なのだろうと察しはついたし、一成だって嫌なわけではない。むしろ、天馬が選んでくれるなんて心が弾むのだ。浮き立つ気持ちが形になったような声で、一成は答える。

「最終的にコスモス飾るとこは一緒だねん」
「誰が選んだかが大事だからな」
「そだね~。花瓶あったかな。いい感じのガラス瓶とかでもいいかも」

 部屋にどうやって飾ろうか、なんて話をしながら二人はコスモス畑をゆっくり歩き始める。お互いに選ぶコスモスを探すのだ。妥協はできないと真剣なまなざしで一本ずつを見つめている。

「あ、でも、写真撮りたいし絵も描きたいんだよねん。この風景は絶対ちゃんと描きたいし」

 そういえば、という顔で一成がつぶやく。SNS投稿用の写真は複数枚必要だし、コスモス畑の揺れる様を絵にしたいと思った。天馬への花を選ぶことにくわえ、やりたいことがたくさんある、と一成が言うのが天馬には嬉しい。

「時間はあるし、スケッチしたらいいんじゃないか。ベンチも空いてるし、スケッチブックなら持ってるんだろ」

 コスモス畑には、休憩用なのかところどころにベンチが設置されていた。前方のやや開けた場所にちょうどよくベンチがあることに気づいて、天馬は言ったのだ。
 ただ、一成は「でも……」とためらいを流す。二人とも急ぎの用事はないからすぐに帰る必要はないし、確かに時間はある。
 とはいえ、スケッチをしている間は天馬を放っておくことになってしまう。いくら筆が速いとはいえ、さすがに瞬間的に出来上がるわけではないのだから。

「むしろ、描いてくれないか。一成が描いたコスモス畑の絵が見たいし、できればその絵が欲しい」

 一成のためらいや戸惑いを理解して、天馬は言う。悪いと思う必要なんてないし、むしろそれが天馬の望むことだと伝えたかった。一成は意外そうに目を瞬かせるので、天馬はさらに言葉を継ぐ。

「もちろん、一成が嫌なら無理強いはしないが――」
「嫌なわけないじゃん! ただ、ちょっとびっくりしちゃっただけで……」

 はっとした顔で勢いよく首を振る一成に、天馬は内心で笑みをこぼす。一成のことなので、「いやならいい」と言えば首を振るだろうと思っての言葉だったからだ。
 一成は絵を描くことが好きだし、天馬に対しても好意的なのだ。拒否することはないだろうと思っていたし、実際その通りだった。一成の口からはっきりそう言ってもらえれば充分だった。

「それなら描いてくれないか」

 真っ直ぐ一成を見つめて、天馬は言う。いささか強引すぎる気もしたけれど、こうでもしなければ一成は天馬に絵を渡すことは選ばないだろうとわかっていた。
 少しずつ緩和されてきたとは言え、一成にとって長い間、絵を描くということはタブーを犯すことと同義語だったのだから。
 案の定、一成は不安げに揺れるまなざしを浮かべている。おずおずといった調子で口を開いて、天馬に問いかけた。

「でも、本当にいいの? テンテンにあげるなら、もっといいものとかの方が良くね?」
「一成の絵がいいんだよ」

 きっぱり天馬は答える。一成はもっと価値のあるものの方がいいんじゃないか、なんて思っているけれど、天馬からすればこれ以上価値のあるものなんてないのだ。一成が描き出す世界。一成が心の全てを傾けた一枚こそ、天馬が欲してやまないのだから。

「言っただろ、オレはお前の絵が好きなんだって。一成の見てる世界を教えてもらえるみたいで嬉しいし、一成の描いた絵をもっと見たい。オレのために描いてくれたら、もっと嬉しいんだ」

 真剣な表情で告げると、一成は大きな目でじっと天馬を見つめる。思い詰めたようなこわばった顔は一瞬で崩れた。ふわりと笑みを浮かべると、「わかった」とうなずいた。天馬が心からそう思っていることを、一成は一つだって疑わないのだ。

「描いてるところ、隣で見ててもいいか。一成が嫌なら止めるが」
「全然! てか、むしろテンテンが嫌じゃない? 描いてるところとか、見てても暇っしょ?」
「そんなわけないだろ。一成がどんな風に絵を描くのか、ちゃんと見たいんだ」

 一成は少しずつ、寮でも人前で絵を描くようになった。
 特に夏組の前ではあまり気負わなくなってきているから、どんな風に絵が生み出されるのかは天馬も知っているけれど、鉛筆一本で何もない空間にあざやかにあらゆるものが描き出されていくのは、まるで魔法のようだったのだ。
 天馬の言葉に一成は「そっか~」と嬉しそうに笑った。ベンチに腰掛けると、椋からもらったスケッチブックを開く。ペンケースから鉛筆を取り出して、周囲に視線を向ける様子を隣に座った天馬は見つめる。どうやら、描くポイントを探しているらしい。

「どこ描いても絵になるから、困っちゃうよねん。この辺かな~」

 そう言いながら、一成は鉛筆をさらさらと動かす。天馬は静かに、その様子を見守っていた。
 真っ白だったスケッチブックの上で、鉛筆を持つ手が躍るように動く。一成は手を止めることなく、遠くに見える背の高い木々を写し取り、手前にはコスモス畑が広がっていく。
 レイアウトが描かれるだけなのに、ぼんやりとした景色が見えてくるようで、天馬は思わずつぶやく。

「いつ見ても不思議だな。何もないところから、どうやって絵が形になっていくのか全然想像がつかない」

 絵を描く機会がほとんどなかったこともあり、天馬はそもそもどうやって絵が生み出されていくのか、まるで見当がつかないのだ。心からといった響きの言葉に、一成はくすりと笑みを浮かべて口を開いた。

「まずはレイアウトだよねん。何を中心にするかとか、画面の中でどの位置に置くか、どれくらいの大きさにするかとか決める感じ」

 よどみなく鉛筆を動かして一成が言えば、天馬はぱちりと目を瞬かせる。独り言のつもりの言葉に返事があったからだろう。描いている最中の一成の邪魔になるのではないか、と一瞬心配げな表情を浮かべる。
 しかし、一成の楽しそうな声にそうでないことをすぐに理解して、「そうなんだな」とあいづちを返した。

「そそ。あと、目線をどこに持ってくるかとかねん。こういうのは、映画撮影のカメラとかに近いかも。どんな画が撮りたいかっていうのと、ちょっと似てるんじゃないかな~」

 広がるコスモス畑を描きながらの言葉に、天馬は「なるほど」とうなずく。言われてみればその通りだと思ったからだ。
 映画やドラマなどの撮影時、天馬はどんな風に自分が画面に映るかを意識している。映像作品では動きが付いているけれど、その中のワンシーンを切り取っているとも言えるだろう。

「主役がどこに立つかとか、相手役をどう配置するかとか、そういうのが作品作りに活きるからな。絵もそういうことなのか」
「かな~って思うよねん。特に絵は一瞬を切り取るから、空間のバランスとかも重視だし! あと、やっぱり光の差してる方向とか」

 同意を返す一成の言葉に「ああ、それは確かに大事だ」と重々しく言う。映像作りでも、照明が重要な意味を持つことはよくわかっていたのだ。
 一成はその言葉に嬉しそうにうなずいて、「絵ならではっていうと、線の強弱とか」「そもそも、画材で結構変わるしね~」だとか、あれこれと言葉を並べた。
 天馬はその一つ一つに、興味深くあいづちを打つ。「画を作る」という意味では映画やドラマと同じこともあれば、まるで違うこともある。一成から告げられる言葉によって、今まで見ていたものに新しい意味が与えられるように思えたし、知らない景色を教わるようにも思えたのだ。
 一成が話しているから、ということもあったけれど、純粋に「絵を描く」ということを面白いと思って聞いていると、一成が手を止めた。あまりにもずっと話をしすぎて、邪魔になったのだろうかと天馬は冷やりとする。しかし、次の言葉でそうではなかったのだと悟った。

「――ありがとねん、テンテン」

 目を細めて、やわらかな微笑を浮かべて一成は言った。心を丸ごと渡そうとするような、天馬をやさしく包み込むようなそんな表情。とっさに反応できなくてぐっと言葉に詰まっていると、一成はさらに続けた。

「こんな風に、絵の話できるのすげー嬉しい。どんな風に描いてるかとか、どんなこと考えて描いてるのとか、聞いてくれてありがとね」

 落ち着いた口調で告げるけれど、一成の瞳はわずかに潤んでいた。その様子に、天馬の胸は締めつけられる。
 一成は心から嬉しいと言っていてくれる。ほんの些細な話でしかないし、そんなに大げさなことをしているつもりは一切ない。実際、単なる雑談の一種と言っていいだろう。
 それなのに、一成はまるで何か特別なことをしてもらったように言うのだ。きっと、カンパニーメンバーなら誰だってこんな風に話を聞くのに。
 どうしてなのか、天馬は察している。
 今までの一成にとって、これはまるで当たり前のことではないのだ。絵の話をするなんて、それを聞く相手がいるなんて、一成にとっては信じられないような出来事なのだ。だって今までの一成は、絵を描くことを許されていなかった。だからこんな風に言うのだとわかっている。

「――当たり前だろ。オレは一成の絵が好きだし、それにこれはオレがもらう絵だろ。熱心に見たくもなる」

 冗談めいた口調も交えて、そう答えた。すると一成は「そだねん、テンテンにあげる絵だし張り切って描いちゃうよん!」と楽しそうに笑った。きらきらとやさしい光を放つような、そんな笑顔。思わず天馬はじっと見つめる。
 夕暮れのコスモス畑で、どんなものよりまばゆく輝いている。辺りを染め上げるオレンジ色よりも、周りにそよぐピンク色の海よりも、何よりきらきらとしている。目もくらみそうなまぶしさ。
 真正面から受け取った天馬は、この世界のどんなものも、この笑顔には敵わないんじゃないか、と思っていた。

「テンテンのために描く絵、テンテンの隣で描けるのもめっちゃ嬉しい」

 くすぐったそうに言って、一成は再びスケッチブックに鉛筆を走らせる。天馬のことを考えて絵を描くだけではなく、それを天馬が近くで見ていてくれるなんて、一成にとってはこの上もない贅沢だ。
 視線を向ければ天馬がそこにいてくれて、出来上がっていく絵をわくわくした表情で見つめていてくれる。想像の中の天馬ではなく、実際の天馬に絵を贈ることができる。別れ別れになっては決して叶えられなかった出来事だとわかっている。

「ああ、オレも一成の絵をこんなに近くで見てられて嬉しい」

 一成の言葉に天馬も照れくさそうにうなずいて、二人の間にはゆったりと沈黙が流れる。
 遠くから聞こえるのは軽やかな笑い声や鳥の鳴く声、風にそよぐ木々の音。二人の間に会話はなかった。ただ、それは当然気まずいものではなかったし、心地のいいおだやかさだ。
 言葉はなくても、同じことを考えているのだとわかっている。
 今ここでこうしていられることは、決して当たり前ではなかった。出来上がっていく絵を分かち合うことも、お互いの表情をこんなに近くで感じることも、言葉や心を直接受け取りあうことも。境界線を飛び越えて手を取り合わなければ、決して訪れない現実だった。
 だからただ二人は、今ここで隣同士、同じ場所で同じ空気を分かち合っていられる幸せを、噛みしめている。