秋桜と揺れる日々
◆ ◆ ◆ ◆
デザイン会社のアルバイトに採用が決まった。カンパニーメンバーは自分のことのように喜んでくれたし、一成も初出勤を楽しみにしていた。
雑務がメインとはいえ、デザイン的な作業もゼロではないという。少しでもカンパニーのために何かを持ち帰れるかな、と思いながらWebサイトを更新していると、202号室の扉がノックされた。
まだ帰ってきていない椋だろうかと思いつつ返事をすると、入ってきたのは天馬だった。
「テンテン!」
ぱっと顔を輝かせて、一成は椅子から立ち上がる。小走りに駆けていくと「今時間あるか」と聞かれるので、「全然だいじょぶだよん!」と答える。
天馬はほっとしたように笑って、手に持っていた紙袋を差し出した。何だろうこれ、と思いつつ受け取る。天馬は照れくさそうに言った。
「一成が食べたいって言ってたケーキだ。季節限定だって言ってただろ」
つい先日、何てことのない話の一環で、全国チェーンの喫茶店で発売される季節限定スイーツを話題にしていた。どうやら天馬は、一成が「食べてみたいよねん」と言っていたことを覚えていたらしい。
袋の中には、ミックスベリーのケーキが一つ、ちょこんと入っている。このケーキのために店を訪れてくれたのだろうことは察しがついた。
「ありがと、テンテン! めっちゃ嬉しい」
唇をほころばせて、心からの感謝を伝える。天馬は「いや」と首を振って、落ち着いた調子で言った。
「アルバイト決まったって言ってただろ。その祝いだ。たいしたものじゃなくて悪いが」
真っ直ぐ見つめて告げられた言葉に、一成は目を瞬かせる。天馬が一成の言ったことを覚えていて実際に買ってきてくれた。それだけで一成には充分だったのに。このケーキは、祝いのために買ってきたのだと伝えられて一成の胸は喜びではちきれそうだった。
笑みが浮かんで、じわじわと顔いっぱいに広がっていく。天馬はずっと一成のことを気にしていてくれて、今もこうして新しい出発を祝ってくれるのだ。
そうやって寄り添っていてくれたことに、どれだけ勇気づけられただろうかと一成は思う。だから、言葉は自然と声になっていた。
「すごく嬉しい。ありがとう、テンテン」
天馬はたいしたものじゃない、なんて言うけれど。アルバイトが決まったことを祝いたいと思って、一成が食べたいと言っていたケーキを買ってきてくれたなんて、とびきりすてきなプレゼントだ。
「テンテンにはずっとお世話になっちゃってるよね。今までめっちゃ助けられてるし、テンテンのおかげで今回もアルバイト無事決まったな~って思ってるし!」
「オレは何もしてないだろ。左京さんとかの方が役に立ってたし、一番は一成が頑張ったからだ」
「うん。フルーチェさんにもめちゃくちゃ感謝してるし、いっぱいお礼する予定だよん! でも、ずっとテンテンが見守ってくれたこととかさ、カンパニーでいろんな体験できたことが大事だったなって思うし――そういうのって、テンテンがいたからじゃん?」
軽やかな声は冗談のようにも聞こえるけれど、至って純粋な一成の本心だ。重すぎないよう、それでいて真剣に天馬に伝えたかった。
天馬がいてくれたこと、天馬がいたから体験できたこと。そういう諸々は、勉強だけだった一成では決して知りえなかったことだ。アルバイトだってデザインに興味を持たなければ選ばなかった職種だったし、「こんなことがやってみたい」なんて希望すら抱かなかった。
面接でも自分の目指すものを語れたのは、カンパニーでの日々があったからだ。きちんと本音が言えたのも、天馬をはじめとした夏組が何度も一成の心を受け取ってくれたからなのだと思う。天馬がいなければ、きっとこの結果は成しえなかったと一成は思っている。
「そうやって感謝してくれるのは嬉しい。でも、オレがやりたくてやってることだから、特別なことじゃない」
一成の言葉に、天馬ははにかんで答える。実際たいしたことはしていない、と思っていることは一成だってわかった。それでも伝えたいと思うくらい、一成にとって天馬の存在は大きい。だから、笑みを浮かべて一成は言う。
「でも、テンテンがいっぱいオレの話聞いてくれて、オレのこと一緒に考えてくれて嬉しかった。テンテンはほんと、オレの恩人だよ」
心からの言葉を告げると、天馬は大きく目を瞬かせた。紫色の瞳が、射るような強さで一成を貫く。何か変なこと言っちゃったかも、と思わず一成がたじろいでいると、天馬が重々しく口を開いた。
「そう言われるのはオレも嬉しい。――ただ、しばらく忙しくなるから一成とあまり話はできないかもしれない」
真剣なまなざしで言うのは、これからドラマの撮影が本格的に始まるという話だった。
天馬は芸能人として忙しく活躍しているし、ドラマの撮影も珍しいことではない。今回は連続ドラマということで、長時間の拘束が発生することもある。そうなれば、寮にいられる時間は格段に減るだろう。
天馬が多忙なのは、それほどまでに求められているということであり、喜ばしい出来事だ。だから一成は「テンテン、売れっ子だもんね」とうなずいた。
話ができる時間が減るのは残念だけれど、天馬が仕事に誇りを抱いていることは知っている。ちゃんと応援しなくちゃ、という気持ちだった。
一成が何を思ってそう言ったのか、天馬とて理解している。しかし、一成の言葉を聞く天馬は眉間にしわを刻んで、厳しい表情を浮かべた。険しい雰囲気が漂って、一体どうしたのか、と一成は思う。
心配そうに様子をうかがうと、天馬は大きく息を吐いた。苦渋に満ちたような、重苦しい溜め息が部屋に落ちる。
天馬はじっと一成を見つめると、重々しく口を開いた。
「――前から思ってたんだが、しばらく一成と距離を取ろうと思う」
絞り出すような声が落ちた瞬間、一成の顔からさーっと血の気が引いた。浮かんでいた笑顔は消えて、大きな目が激しく揺れる。明らかな動揺と混乱に、何かひどい罪を犯したような表情を浮かべて、一成はあえぐように唇を動かす。
何かを言わなくては、と一成は思った。天馬がこんなことを言うなんて、きっと自分が何かをしてしまったからだ。テンテンに迷惑を掛けすぎた。謝らなくちゃ。謝るから、嫌いにならないで。泣きそうになりながら、「ごめん」と言おうとした。
「違う! 一成を嫌いになったんじゃない!」
顔面蒼白と言っていい一成の表情に、天馬は強く否定の言葉を叫んだ。一体どんな結論を導き出したのか、すぐに察したのだ。
それに、自分の言い方が誤解を生むものであることもわかっていたから、なおさら素早く否定しなければいけなかった。一成が自分自身に非があると思わせてはいけない。謝らせたいわけでもないし、傷ついた顔をさせたいわけではないのだ。
「一成と話すのは楽しい。どんなことがあったのかって、教えてもらえるのもそうだし、一成が楽しそうだとオレも嬉しい」
真っ直ぐ一成を見つめて、天馬は心からの言葉を紡ぐ。
あまりにも切実で真摯な響きは、混乱していた一成の耳にも確かに届く。波立つ心がどうにか落ち着きを取り戻し始めて、天馬の言葉を少しずつ飲み込んだ。
一言ずつに込められた真剣さ。一成との時間を心から喜んでいてくれているのだと、声の響きが教えてくれる。少なくとも「距離を取る」という言葉は単なる拒絶ではないらしい、と一成は思う。
「今日はこんなことがあったって、一成は教えてくれるだろ。オレを見つけて走ってきて、どんなことがあって何を思ったのかって、小さなことまで教えてくれるのが嬉しい。疲れて帰ってきても、全部吹き飛ぶんじゃないかって思う」
はにかむ笑みで天馬は言う。
撮影が遅くまで立て込んだ時や、神経を使う現場に長時間拘束された時。へとへとになって寮へ帰ってくると、カンパニーメンバーに出迎えられる。
「おかえり」と掛けられる言葉に天馬の気持ちは上向くし、中でも天馬の姿を見つけた一成が、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきてくれると、疲弊した気持ちがゆるゆるほどけていくのだ。
今まではこんなことを思っているなんて、知られるのは照れくさかったけれど。一成を誤解させるくらいなら、きちんと言葉にしたかった。一成は大きな目をぱちぱち瞬かせており、さっきまでの傷ついた表情が消えていることに天馬はほっとする。
「紛らわしい言い方して悪かった。一成が何かをしたってわけじゃない。むしろいつも一成には笑顔をもらってるし、オレの方が感謝したいくらいだ。一成がいてよかったって、何回だって思った」
一成は天馬に感謝していると言ってくれたけれど、そんなのは天馬だって同じなのだ。今ではもう、一成のいない夏組なんて想像できない。一成がいなければ自分たちの今は存在しないし、未来だってずっと一成と一緒にいたいと心から思っている。
だからこそ、言わなくてはならない。
「今まで通りに過ごしていくこともできる。わざわざ距離を取るなんてこと、しなくてもいいのかもしれない。だけど、一成はこれからもっとできることが増えていくだろ。アルバイトも決まったし、カンパニー以外にも居場所ができる。そんな風に、一成の世界はもっと広がっていく」
天美の公開講座でできた知り合いとも、楽しく時間を過ごしていることを天馬は知っている。日本画の講師からも絵の話をたくさん聞いて、一つ一つ学んでいるところだ。アルバイト先でも、仕事を通じていろいろな人と仲良くなっていくに違いない。
人懐こく、相手の心に飛び込んで行って、そっと寄り添ってくれる。一成の魅力なら何よりよく知っているから、たくさんの人に迎え入れられるのは当然のことだと天馬は思う。
その中で一番は自分でありたい、という望みはあるけれど、自分の気持ちなんて今は二の次でよかった。
この世界で一成は生きていくのだ。今までの世界を捨てて、こちらで生きていくと決めてくれた。そんな一成の力になることを第一に考えるのだと、天馬は決めた。
「一成がオレに感謝してくれてるのはわかってる。恩人だって思ってくれてるし、何かあったらすぐ教えに来てくれるのも正直嬉しい。一成に何かあったら、大体みんなオレに報告するのもくすぐったいけど、ちょっと嬉しいって思う」
苦笑を浮かべて告げられた言葉に、一成は困ったような照れくさそうな表情を浮かべた。普段、自分がどれだけ天馬と話をしたがっているのか理解したからだ。
日常の些細な瞬間で「テンテンに話したいな」と思うことは何度もある。今日はこんなことがあったのだと、拾い集めるようにして一つ一つを胸に留めて、天馬に伝えたいと思うのだ。いつだって一成の心を大切にして受け止めてくれた天馬だからこそ。
気持ちが動いた瞬間を、胸に響いた出来事を、贈り物でもするように天馬に差し出したいと思っている。だから一成は毎日天馬に話しかけたいし、ほとんど習慣のようにもなっている。
恐らく、そんな姿勢があるからこそ、カンパニーメンバーの間でも天馬の保護者的な側面がより強化されているのだろう。現実的に天馬が一成の生活を援助していることもあるし、そもそも一成がカンパニーに所属するきっかけが天馬なのだ。
一成にとっての天馬の存在の大きさは、誰もが知っている。だから、一成の保護者的な扱いをされることが多々ある現実を天馬は理解している。
たとえば、今日の夕食は一成が作ったとか、ストリートACTで一成の芝居の評判がよかったなんてささやかな話を、カンパニーメンバーは天馬に報告する。
何でもない話だけれど、自分の知らない瞬間の一成を知ることは天馬の胸を弾ませたし、喜びの一つと言ってよかった。だけれど、だからこそ。
「一成にとってのオレの割合は、結構大きいだろ。うぬぼれとかじゃなくて、そうなんだと思う」
真剣な顔で天馬は言う。ともすれば思い上がりもはなはだしい発言だけれど、間違ってはいないはずだ。一成はこくりとうなずくし、今までの日々がこれは事実なのだと伝えている。天馬はゆっくり深呼吸をしてから、一成を見つめて言った。
「だから、一成にはオレ以外との接点を多く持ってほしい」
こちらに来てからの一成の日々。カンパニーの団員たちとも仲良くなり、特に夏組とは深いつながりを結んだ。
たくさんの関係を結んでいることは知っているけれど、天馬の存在が一番大きな割合であることは間違いない。嬉しくて誇らしかったけれど、このままではだめなのだと天馬は思っている。
一成は心から天馬に親愛を向けていてくれるとわかっていたし、恩人としてずっと慕ってくれるのだろう。嬉しいし胸が弾むけれど、このままではきっと一成の世界は内側に閉じてしまう。
だって天馬は一成の恩人で特別な人間で、この世界にやって来るきっかけだ。比喩ではなく文字通り、今この場所で生きている理由を作ったのが天馬だと言っていい。そんな天馬が、一成の世界の割合の多くを占めてはいけない。
「一成には、もっと広い世界を見てほしい。大きな世界で、思う存分自由に羽ばたいてほしいんだ。一成の未来は、もっとずっと開けてるはずだからな」
力強く告げる天馬は、確信し切った顔をしていた。
一成と多くの時間を共に過ごすにつれ、類まれな芸術のセンスをひしひしと感じたし、何よりも他人とのコミュニケーション能力の高さは群を抜いている。それは一成にとって両親の気持ちを読み取ることが、日々を生き延びる術だったからこそ磨かれたスキルなのだろう。
ただ、一成は他人と関わることを決して拒絶していなかったし、自分から積極的に親交を深めていようとしていた。恐らく、本質的に一成は人が好きなのだ。
だからこそ、一成の世界を閉ざしてはいけないのだと天馬は思っている。天馬を特別にして、一成の世界の割合の大半を占めるのではなく。もっと他者と関わって、多くの人と接点を結んで、もっともっと広い世界を知ってほしい。
天馬がそんなことを言わなくたって、一成は人と関わることを止めたりはしないだろうと思うけれど。天馬のことを恩人だと、特別な相手だと考えてくれる限り、どうしたって天馬の存在が大きくなってしまう。一成の世界の割合が天馬によって占められてしまう。
傲慢だろうと思い上がりだろうと、一成の持つ愛情深さを知っているからこそ天馬はそれを危惧していたのだ。
「一成を突き放したいわけじゃない。お前の力になれるのは、オレだって嬉しい。でも一成には、オレ以外ともっと関わりを深めてたくさんのことを知ってほしいと思う」
そう言う天馬は、やさしい目をして一成を見つめていた。一つだって嫌悪や拒絶の感情はなかった。「距離を取る」なんて言葉から想像されるマイナスな要素は、何一つない。まなざしに宿るのは、ただ真っ直ぐな慕わしさだ。
受け取る一成は、すんなり思った。心から理解した。ああ、テンテンはどこまでもオレのことを想って言ってくれてるんだ。
何かあったらすぐに天馬に話したくなるし、天馬は恩人で特別な人だ。他の誰かとは違う存在であることは間違いない。もちろん他の人を拒絶しているわけではないけれど、天馬がいれば満足してしまう瞬間だってゼロではない。
天馬が危惧しているのはそういうことだ。一成の世界が天馬だけになってしまわないように。一成の世界が閉じられてしまわないように。天馬ではないもっと別の誰かと親交を深めてほしいと望んでいる。
「一成はもっと広い世界に飛び立てるだろ?」
一つだって疑問のない声をしていた。天馬は当然のように信じているのだ。
一成の世界はもっと広くなる。狭いままで終わるわけがない。一成の未来はどこまでも明るくて広いのだと確信しているのは、一成への信頼に他ならない。一成にはそれだけの力があるのだと、天馬は思っている。
だからこそ「距離を取る」という選択をした。このまま天馬だけに占められてしまわないよう、行動で示すのが天馬という人間だ。正直な話をすれば、天馬とあまり話ができないのは寂しいし、距離なんか取らなくたっていいじゃないか、と言うことはできる。
ただ、それくらいの荒療治をしなければきっと自分はテンテンのところに行っちゃうんだろうな、という予感はあった。それに、天馬が一成を想って言ってくれたことは間違いないのだ。寂しくても、一成を大事にしたいと思って告げて決断してくれたことは、痛いほどに伝わった。
それなら、オレもワガママばっかり言えないよね。
思った一成は、深呼吸をすると「うん、わかったよん」とうなずいたのだ。