水仙の咲く頃に





 絵を通って降り立った先は、夏の住宅街だった。じりじりとした暑さに、焼けるような太陽の光。異なる世界へ渡るというオーナーの言葉が本当だったのだと、天馬はあらためて実感するしかなかった。
 さっきまでの天馬は、まぎれもなく冬の遊園地にいたのだ。冬組公演も差し迫り、寒さが増していく季節でスイセンも咲いていた。しかし、ここにはどこにも冬の気配はない。立っているだけで汗が噴き出してくる暑さだった。
 コートを脱いで袖をまくった天馬は、一成が自分の世界にやって来た時のことを思い出した。
 あの時の一成も冬から夏へやって来た。今の自分も同じ境遇なんだな、と思いながらオーナーの言葉通り一本道を進んだ。すると、言われた通りの場所に「三好」という表札を掲げた家が現れた。
 天馬の実家に比べればそうでもないけれど、一般的な住宅よりはずいぶん大きい。ここで一成が育ったのか、と天馬は素直に思った。
 実際に目の前の家が一成の実家であるという確証はない。オーナーの証言しか根拠はないのだから、表札が同じだけの別の家ということも考えらえる。ただ、あのオーナーの口ぶりからして、一成と無関係の絵を持っているとは思えなかった。あの場所に存在するのは、一成に連なるものだけ。それならきっと、この家は一成の実家なのだろう。
 天馬はあらためて、目の前の家を見つめた。今回の天馬の目的は、一成の過去を知ることだ。そのためには、生まれ育った家を訪れるのが一番確実だろう。もしも家族がいれば、話を聞けるかもしれない。
 たとえ、一成にとって家族の思い出が快いものではなかったとしても、天馬は一成の家族に会いたかった。一成の過去に連なる人たちだから、ということもあるし、自分たちのところへ来いと一成に言ったのが自分だ、という自覚もあったからだ。
 一成が自分たちの世界に来たということは、こちらの世界から一成は消えてしまった。家族から一成を奪ったのは自分だとわかっていたから、現実を直視するのはオレの役目だ、と天馬は思っていた。
 こことは違う別の世界で暮らしているなんて、荒唐無稽な話だ。信じてもらえるとは思えないし、いたずらに心を乱すだけだから黙っているつもりではあるけれど。自分の言葉で、行動で、一成との別れを余儀なくされた人たちのことを、見なかったふりはできない。
 天馬は大きく深呼吸してから、インターホンに手を伸ばす。一成の家族がいなければ話にはならないけれど、一人でもいれば問題はない。父親か母親か、姉か。誰が出てきても問題はなかった。
 一成やオーナーの言葉から考えるに、きっとこの世界に役者皇天馬はいない。それなら芸能人として認識されていることもないはずだから、好きにふるまえる。芝居ならお手のものだ。全てを話すことはできなくても、それらしい人物を演じればいい。役者としての顔に切り替わった天馬は、インターホンを押した。




 結論から言えば、オーナーの言葉は正しかった。「三好」家はちゃんと一成の家だったし、幸いなことに、一成の家族は全員在宅していた。
 長年海外に行っていた一成の友人、という体で天馬は一成の家族と相対した。久しぶりの帰国で一成に会いに来た、という設定だ。
 インターホン越しに何も知らない友人の顔で来訪を告げると、「あの子は事故で死にました」と言われたので、「お線香をあげたい」と頼んで家に上がらせてもらった。通された居間では、両親そろって「わざわざご足労を……」と天馬に頭を下げる。
 その様子は、一成の話に聞いていたような人物像とはまるで結びつかない。いかにも善良な人たちといった雰囲気で、息子の描いた絵を破り捨てたり、あらゆる全てを勉強に捧げるよう強要したりする人には思えなかった。
 ただ、引っかかるものはあった。そもそも、天馬は一成が死んだわけではないことを知っている。失踪したのは事実だから、ここに一成がいないことも当然だ。ただ、「死んだ」と明言されるような状況ではない。
 遺体があるわけでもないし、どこかで生きているかもしれない、という可能性はある。一成は書き置きを残してきたと聞いているし、家出したと考えるのが妥当だろう。それなのに、両親ははっきり「死んだ」と言うのだ。
 まるでもう用はないとでも言うように。もしかしたら生きているんじゃないか、と望みを掛けることすらしないで。
 一成が家を出てそんなに長い年月が経ったのだろうか、という可能性だって考えた。だから、待ち続けることに疲弊して、区切りとして死んだと思おうとしているのかもしれない、と。
 しかし、居間に掛けられたカレンダーを確認した天馬は、その可能性を否定する。サイドボードには姉らしき人物が写った写真が数枚。その上に掛けられたカレンダーは、一成が失踪してから半年程度の日付を示していた。
 あちらとこちらは季節がずれていても、西暦は同じだったから間違えるはずもない。半年。一成がいなくなってから六ヵ月。決して短くはないけれど、死んだのだと断言するには早すぎるように思えた。
 人の気持ちは千差万別で、想いの表し方だって一通りではない。だから、こうして「死んだ」と区切りをつけることが二人の愛情という可能性は否定できない。わかっていたけれど、両親の様子からも違和感がぬぐえなかった。
 神妙な顔をしているし、口数も少なく沈痛な面持ちといった風情である。しかし、両親の態度はやけに事務的だった。
 淡々と天馬に対して受け答えする様子は、まるで必要な手続きをこなしていくようだった。ここは悲しむ場面だと知っているから、悲しい表情を貼り付けているような。亡くなった息子の友達にどう接したらいいのか、と悩むのとは違って、ただ通り一遍の言葉をなぞっているような。機械的に体を動かして言葉を吐き出すだけの、心情を伴わない芝居を見ているような気分だった。
 長年芝居をしてきた天馬は、細やかな感情だって拾い上げて演技に乗せてきた。奥底に宿った感情を見つけることにかけては自負もある。だからこそ、両親の言動や挙動の端々から、否応なく感じ取ってしまう。
 一成を悼みたいという天馬に向けられる感情は、何もなかった。悲哀の類はもちろん、天馬に対する興味や関心も存在しない。奥底に宿るものは、ただまっさらな無関心だ。

 決定的だったのは、仏壇に案内された時だった。母親は「仏壇でしたらここに」と言って和室に天馬を案内したあと、そそくさといなくなってしまった。
 家の隅にある仏間は、北側にあるのか何となく薄暗い。一歩部屋に入ると、夏にもかかわらず冷やりとした空気が満ちているような気がした。普段は使用していないのかがらんとしており、他とは隔離されたような場所だった。
 いざ向き合った仏壇は黒檀で作られており、重厚感がある。施された細工も丁寧で、つやつやと光っていた。相当の金額がかかっていることはわかったけれど、それだけだった。仏壇には一般的な仏具が飾られているものの、花や写真、お供えの類は一つもない。店の展示品をそのままここへ置いているだけのようだった。
 もしも、一成が亡くなっているのが本当なら。少なくともそう思っているなら。故人を供養するための某かがあってもおかしくはないのに、ここにはそんなものは一つもない。
 花もなければ、一成の写真もなく、弔いのために供えるものもない。死後のことを想い、せめてあちらでは穏やかに過ごせるようにという願いのかけらは一つも見つけられなかった。
 掃除はされていても、細部まで行き届いていることはなく,、隅にはうっすらほこりがたまっていた。さらに、いざ線香をあげようとしても、肝心の線香も火をつける道具も何もなかった。その事実に、天馬は悟るしかない。
 これは単なる置物と変わらないのだ。恐らく、仏壇はあるのだというポーズのためだけに必要で、弔う気持ちから置かれたものではない。供養の仕方は人それぞれだと納得しようとしたけれど、どうしたってだめだった。
 だってここには、一つだって一成に連なるものはない。本当は死んでいないのだから当然だと思えばいいのかもしれないけれど、両親は間違いなく「死んだ」と言ったのだ。
 それなのに、弔いのために用意されたものが何一つもない現実は、天馬に対して一つの答えを突きつける。両親にとっての一成が一体どんな存在だったのかを如実に語るのだ。
 線香を上げることもできず、手を合わせる対象もない。天馬は仏壇の様子を少し眺めたあと、部屋を出た。
 長居する意味はなかった。そのまま帰ってもよかったのかもしれないけれど、天馬は居間に顔を出した。せめてもう少し、一成の家族の話を聞きたかった。今までのことは全て自分の思い違いかもしれない、という可能性はまだ消し切れていないのだ。
 すがるように思っていたけれど、願いはむなしく崩れ去る。
 さすがに両親は、わかりやすく邪険な態度を取らなかった。ただ、取り繕う必要も感じてはいないのだろう。「ありがとうございました」と挨拶した天馬に向かって、「ええ」と短くうなずくだけで、続く言葉はなかった。
 世間体を気にする人たちだ、というのは一成から聞いていた。だから、わかりやすく暴言を吐くだとかぞんざいに扱うようなことはしない。しかし、天馬に対して取り繕う必要性もあまり感じていないのだろう。
 そうでなければ、あの仏壇に案内するはずがない。手入れもされておらず、弔いの気持ちの見えない仏壇だ。事前に連絡があれば、それなりの何かを用意したのかもしれない。しかし、突然の来訪では対応することもできなかったのだろう。世間体という意味なら、何か理由をつけて遠ざけようとするはずだ。
 それをしなかったのは、両親が「一成の友達」という存在に重きを置いていないからだろう。
 深く付き合うこともないし、今一瞬すれ違うだけの人間に、時間や手間を掛ける必要はないと判断したのかもしれない。だから仏壇を見せたし、天馬に対しても愛想を浮かべることはない。
 沈黙が流れる居間で、天馬は一成の話題を口に出した。
 友人として親しくしてもらったこと。一成がどれだけやさしくて、一緒にいると心が弾んだのか。実際の一成の様子を思い浮かべた言葉に対して、反応は曖昧だった。かろうじて母親が「そうなんですか。あの子のことはよくわからなくて」と言ったものの、父親に至っては無言を貫くだけだった。天馬の声なんて、一つも聞こえていないように。
 それからしばらく、天馬は一成との思い出としてあちらでの話を口にしたけれど。結局、はかばかしい成果は得られなかった。曖昧な答えと沈黙が返るだけという現実に、これ以上ここにいても、何の話もできないことを天馬は悟る。
 一成が暮らしてきた過去を少しでも知りたかった。両親からその片鱗を聞けると思ったけれど、期待は叶わないようだった。一成から聞いていたことや、薄々感じていたことが目前で形になっていく。
 興味を持っていない両親。一成の存在の否応ない軽さ。いくらここで粘っても、一成の過去を知ることはできないだろう。両親にとって一成は心底どうでもいい存在で、語るような言葉を持ってはいないのだから。
 それなら、自分がすべきことは何だ。すぐさま思考を切り替えた天馬は、はっとした表情を浮かべて言った。

「そうだ。一成に貸していたものがあったんです。少し部屋を確認させてもらっても構いませんか」

 たった今思い出した、といった顔で言うけれど、当然これは単なる芝居だ。一成の生きてきた過去を両親から知ることができないなら、今まで生きてきた場所をこの目で見たいと思ったのだ。
 母親は天馬の言葉に困惑を浮かべて、「あの子からは何も聞かなかったので、ほとんど処分してしまいましたよ」と答える。

「ええ、でも一応確認がしたいんです」

 やんわりとした拒絶にも怯まず答えると、「今は姉の書庫として使っていて……」と続いて、あまり気乗りはしないようだった。辞退してほしいと思っていることはわかっていたけれど、ここで引くつもりはなかった。
 一成の過ごしてきた部屋。大学に入ってからは存在を無視されて、家にいる間中ほとんど部屋にこもっていたと聞いている。その場所をちゃんと自分の目で確かめたい。

「念のためです。そう時間はかかりません」

 一歩も引かない意志で告げたからだろうか。天馬の決意を理解したのか、母親は「わかりました」とうなずいた。