水仙の咲く頃に
階段を上がってすぐのところにあるのが、一成の部屋だという。
両親は天馬をなるべく視界に入れないようにしているのか、場所だけを告げると居間に戻ってしまった。もっとも、天馬としても長時間顔を合わせていたいわけでもなかったから、そうしてくれた方が助かるといった気持ちもある。
とん、とん、と階段を上がっていき、部屋の前に到着した時だ。奥の方にある部屋の扉が開いて、女性が一人出てきた。
年齢は二十代くらい。栗色の髪は短く切りそろえられ、聡明そうな雰囲気が漂っている。女性は扉の前に立ったまま、天馬をじっと見つめていた。一成とは特に似ていないものの、年齢から考えても恐らく一成の姉だろうと察しがついた。
天馬は少しだけ考えたあと、ぺこりとお辞儀をしてから一成の友人である旨を告げた。すると、一成の姉は少し意外そうに「友達とかいたんだ」とつぶやく。天馬はその様子を、それとなく見つめた。
一成の姉は、天馬に対してさしたる興味はなさそうだった。果たしてこれは、天馬が知らない人間だからなのか。それとも弟の友人だからだろうか。思いながら、天馬はそっと口を開く。
「長く海外にいたんですが、久しぶりに日本へ帰ってきたので会いに来たんです。そしたら事故で亡くなったと聞いて……」
「ああ、そういうことになってるんだっけ」
沈痛な面持ちで告げた天馬に、一成の姉は平淡な声で言った。どんな感情もなく、ただ事実だけを述べる口調。何かをごまかそうとか、取り繕おうといった響きはなかった。
その言葉に、天馬は静かに「やっぱり」と思っていた。
一成が死んでいないことは事実として知っている。遺体が見つからないのは当然で、死んだことは確認できない。あくまで失踪している状態なのだ。
しかし、家族は一成を死んだ者として扱うことにした。どんな経緯があってその結論になったのかはわからないけれど、姉に向かっても「弟は死んだと思うように」と告げたのだろう。だから、「そういうことになっている」とつぶやいた。
実際の生死は問題ではなかった。ただ、この家で一成はすでに亡き者になっているというのが、揺るぎない事実だった。
「……一成のお姉さんですよね。話は聞いてます」
深呼吸をしてから、天馬はゆっくり言った。さっきから、一成の姉は無表情でどんな反応もない。実際死んではいないとしても、半年行方不明の弟の話だ。もう少し感情に変化があってもおかしくはないのでは、と思った。
だから、もしかしたら何かリアクションがあるかもしれない、と思って天馬は言った。一成が自分のことを話していたと知ったら少しでも心は動くだろうか、という祈りのような気持ちで。
「一成が?」
一成の姉は、目を瞬かせて問い返した。無機質だった顔に、わずかばかり意外そうな表情が浮かぶ。本当に予想外だ、という顔だった。天馬はこくりとうなずく。
「はい。とても頭がよくてすごい人なんだと聞いています。自慢の姉だったと言っていました」
楽しい話として口にされた話題ではないけれど、あれは一成の本心で間違いない。
優秀な姉と比較され続けて、次第に苦手意識を持つようになったとしても。規格外とも言えるほどずば抜けた聡明さを、一成は純粋に尊敬もしていた。だからこその言葉を伝えると、一成の姉は不思議そうな顔をしていた。
話を聞いた限り、とうてい仲のいい姉弟ではなかったようだ。姉はことさら弟をかわいがることもないし、弟である一成も姉にくっついて回るなんてこともなかった。よそよそしい姉弟関係というのがしっくり来るのだろう。だから、そんな一成が自分の話をしていた、というのは想定外だったのかもしれない。
「ふうん」
しばらくの沈黙のあと、一成の姉はぽつりと言った。笑顔を浮かべるでもなければ、戸惑っているわけでもない。ただ、もたらされた情報を飲み込んで受け取った、といった調子で、続く言葉はなかった。
天馬に対して、どんな話をしていたのかと問うこともないし、一成についてもっと話を聞きたいと言うこともない。
半年失踪している弟の友人だ。自分たちの知らない情報が手に入るんじゃないかと、行方を探す手掛かりになるんじゃないかと、情報を求める様子は一切なかった。それは一成の両親も同じで、いなくなった一成を探そうというそぶりはまるでないのだ。
多少意外に思ったとしても、結局一成に対する興味がほとんどないことを、天馬は一成の姉から感じ取る。さらに突っ込んだ話をするつもりもないのだろう。
一成の姉からは、結局どんな感情の変化も見られなかった。最初に見た時のような平淡な顔で、一歩足を踏み出す。全てはもう終わって、用はないのだといったように。ただ、天馬の前を通り過ぎる際に、無機質な声で言った。
「一成の部屋に用があるみたいだけど、ほとんど全部処分してるから。何もないと思うよ」
一成の部屋の前に立っている、という状況からおおむね事態を察したらしい。友人として何か用事があったとしても、恐らく目的は果たせないだろう、という意味合いだ。
アドバイスというより、ただ事実を伝えただけのつもりなのだろう。一成の姉は天馬からの答えを期待しているわけでもなく、言いたいことだけを言って落ち着いた足取りで階段を下りて行った。
残された天馬は、部屋の扉を見つめる。母親も姉も部屋のものは処分したと言う。一成の姉の言葉から考えても、家族は恐らく一成の死を信じていない。死体もないのだから当然だろうし、書き置きを残しているのだから、失踪の類だと判断するのが妥当だ。
つまり、どこかで生きている可能性が高いことはわかっているはずだ。それなのに、全てを処分したという。遺品整理とはわけが違うのだ。永遠に戻らない相手ではなく、もしかしたら帰ってくるかもしれないとわかっていて、処分に踏み切った。それが意味するものを、天馬は察している。
半ば覚悟しながら、部屋の扉を開いた。一成の自室だと聞いていた部屋だ。机やベッドがあり、一定の生活ができる空間が広がっているはずだった。しかし、天馬を出迎えたのは部屋いっぱいに並んだ本棚だった。
壁には作り付けの書棚があり、まるで書庫のような様相だ。机も椅子もなければ、ベッドもない。生活の痕跡はどこにもなく、この部屋を使っていた人間がいたなんてとても信じられない。
天馬は中に入り、書棚の本を眺める。六法や判例集、法律学者が書いた専門書や司法試験の問題集など、法律関係の本でぎっしり埋まっていた。
一つ一つの本棚に目を通し、背表紙を確認する。物語の類は当然ないし、日常生活に関わるような実用書の本もなかった。一成の話では画集は全て処分されたと聞いているから、芸術関係の本がないのはうなずけるけれど、ここには法律に関わるものしかないようだった。
一成の姉はロースクールに通っていると聞いているし、姉の書庫として部屋を使っていると母親は言っていた。言葉通り、一成の部屋だった場所は姉のための場所になったのだ。たった半年経っただけで。どこかで生きている可能性を知っていても、永遠になかったことにして。
引っ越したこともないし、実家から大学に通っていたことは知っている。一成はずっとこの部屋で寝起きして毎日机にかじりついて勉強していた。それなのに、どんな痕跡もこの場所にはない。
机もベッドも処分されたのだろうし、残していった実用書もこの部屋にはないのだろう。着ていた服や細々とした雑貨は、もしかしたらクローゼットの中に眠っているのだろうか。ちらりと思ったけれど、一成の生きていた痕跡が拭い去られた部屋を目の当たりにしては、きっと全てが処分されているのだろうと思った。
ここに一成はいたのに。二十年近くずっとここで生きていたのに。何もかもはなかったことになって、まるで姉一人だけがこの家の子供のようだった。
失踪した一成。何もかもを捨てて、家からいなくなった。だから、家族の方も一成を捨てることにしたのだろうか。今まで受け取ったものを蔑ろにするような行為だと、腹を立てて一成にまつわるものを全て処分したのだろうか。
もしかしたら、そうだった方がよっぽどいいのかもしれない、と天馬は思う。
だってきっと違うのだ。両親や姉の態度はただ無機質で、激情のかけらさえなかった。事務的に淡々と「子供を亡くした親はこうするのだ」というテンプレートに沿って行動するだけ。二度と会わないだろう相手には、表面的に接して取り繕うこともしない。
その奥底には、怒りや憎しみの類もなかった。ただ無機質に無関心で、面倒な作業をこなすだけといった様相しかなかった。
恐らく家族は腹立ちや憎悪すら持っていない。突き動かされる激情で全てを処分したのではなく、単純に邪魔なものを片付けただけなのだ。
いなくなったなら。もういないなら。残しておく意味なんて一つだってないと、ためらうことなく一成にまつわるものを、根こそぎ捨てたのだろう。
胸が苦しくなりながら、天馬は視線を動かす。法律関係の本ばかり並んでいるけれど、もしかしたらここにあるものの数冊は一成のものなのかもしれない。一成が法学部に通っていたことは知っているし、芙蓉大学で使用した教科書があってもおかしくはない。
祈るような気持ちで、一つ一つ本棚へ目を走らせていた時だ。
作り付けの書棚の一番下、部屋の片隅にあたる場所。並んだ本の上に空いたスペースへ、横向きに置かれた本が一冊あることに気づいた。
行儀よく並んだ中で横向きにされていることはもちろん、青い背表紙が目を引いた。銀色の箔押しで印刷されたタイトルはよく見えず、法律関係の書籍ではないように見える。
天馬はしゃがみこんで、青い本を抜き取った。
紙製のケースに入っており、手にはずしりとした重みがある。表紙には「BLUE LANDSCAPE」と書かれていて、青をテーマにした風景を集めた画集らしい。それを認識した瞬間、思い出すのは一成の言葉だ。
――うちに画集があってさ。それ見るの好きだったんだよねん。青がテーマの風景画でまとめられてるやつだったんだけど。
楽しい思い出として一成が口にしたのは、好きだった画集の話だ。幼い頃に見て心が惹かれて、ときおり取り出して眺めていた。こちらでも手に入れたかったけれど、見つからないと言っていた画集。もしかして、それがこれなんじゃないか、と思った。
ただ、一成の話では居間の本棚にあると聞いていた。インテリアの一種として飾られていて、置物のような扱いだったという。
家族が手に取ることはなくても、なくなっていればさすがにわかるかもしれない。絵に興味があるのだと発覚しないよう、なるべく動かさないよう気をつけていた、と言っていたことを覚えている。
書庫代わりの部屋に置いてあるのは話が違うから、違う本なのかもしれない。ただ、一成が口にするのにふさわしい画集のように思えた。
表紙に描かれるのは、一面の海と空。夜明け前だろうか。薄暗さの中に差し込む青い光が、景色を包み込んでいる。静謐さとドラマチックさを感じさせる絵で、一成が好きだという言葉にもうなずける。
これが一成の言っていた画集なのか、何か手がかりはないだろうか、とケースから取り出す。ゆっくりページをめくると、中からひらりと紙が落ちた。ほとんど反射的に拾った天馬は、ぱちりと目を瞬かせて手の中を見つめた。
本から落ちたのは一枚の写真だった。
撮影場所はこの家の居間だろうか。中央に映るのは利発そうな小学生くらいの少女で、賞状とトロフィーを持っている。面影から、一成の姉であることは察しがついた。その横で所在なげに立っているのは、幼い頃の一成だ。黒い髪に大きな緑色の目。笑顔にも似た曖昧な表情で、うかがうような視線をカメラに向けている。
自信満々といった姉と違って、一成は戸惑っているようにも見えた。賞状もトロフィーも持っておらず手持ち無沙汰なこともあり、何だか一成はずいぶん場違いに見える。
笑顔を向けるわけでもないし、ピースサインを掲げるわけでもない。これが家の外であったなら、たまたま写り込んでしまった無関係の人間だと思うかもしれない。
どう見てもこの写真の主役は姉だったし、一体どうしてこれが画集に挟まっていたのか。この家の人間で画集を開くのは、恐らく一成しかいない。だから、これは一成が挟んだと考えるのが妥当だろうけれど、それならもっと自分が中心に写ったものにするんじゃないか。
天馬はそう思って、いぶかしげな表情を浮かべる。しかし、あらためて写真を見つめると、はっと息を飲んだ。
二人の背後に写るのは、居間の風景だ。ソファや棚があり、整理はされているものの細々としたものが置かれて生活感がある。
その中で天馬の目が吸い寄せられたのは、棚の前に置かれたものだ。果たして一体どういう経緯だったのかはわからない。美術の授業で持ち帰ったものが、たまたまそこに置かれているのだろうか。
一成の背後に写るのは、画用紙いっぱいに描かれた大きな虹と空の絵だった。
幼い頃の一成の絵を見たことはないから断言はできない。しかし、天馬は直感で思った。これは一成の絵だ。一成が描いた絵が写真に残っている。
理解するのと同時に、どうして一成がこの写真を画集に挟んだのかも察してしまった。
恐らく偶然写り込んだ一枚だ。両親がわざわざ一成の絵を写真に撮るなんてこと、するとは思えない。だからこれは、ささいな偶然で残った写真なのだ。それを、こんな風に一成が画集に挟んでいた意味。
今までの一成の話はずっと聞いていた。絵を描くことを否定されて、もし見つかれば叱責される。描いた絵はゴミとして捨てられ、何もかもがなかったことにされてきた。
ここに写った絵も、授業が終われば用済みで、すぐに捨てられたのだろう。今はもうどこにも存在していない。だから一成は、偶然残ったこの写真を画集に挟んだ。青い風景を描いた一枚として、画集へくわえるように。
一体どんな気持ちだったのか、と思う天馬の胸は苦しい。
絵を描くことが好きで、楽しそうに筆を走らせる姿を知っている。好きな絵を話す時、きらきらと輝く瞳がきれいだった。まるで一成の心そのものを絵にするように、いつだって描いてきたのだろう。
それなのに、一成は今までずっと許されなかった。この場所で、この家で、絵を描くことはタブーで、罪深い行為だった。だから捨てられてゴミにされて、なかったことにされる。
一成にとって当たり前の現実でしかなかったから受け入れてきたのだろう。それでも、一成は偶然残った一枚をここにこうして大事に保管していた。本物の絵は残せなくても、写真の絵なら捨てられずに済むと信じて。
これは、一成の祈りだ。大好きな画集に、自分の絵をくわえたいという幼い憧れ。いつかこんな絵を描きたいという無邪気な願い。そういうものも確かにあっただろう。しかし、きっとそれだけではない。
一成は恐らく、何もかが捨てられることを理解していた。描いたものは、いずれゴミになるとわかっていた。
だからせめて写真の中の絵だけは、この世に残っていられるように。たとえ描いた絵も自分にまつわるものも全てが捨てられても、この画集の中であれば生きていられるように。身を切るような祈りとともに、この一枚を挟んだのだ。
写真の中の小さな絵を見つめる天馬は、かろうじてこらえていたものが決壊するのを感じていた。
だって天馬は、ここへ辿り着くまでに嫌というほど思い知らされたのだ。
一成の生まれた家を訪ねて、一成の家族と顔を合わせた。自分の行動によって、一成との別れを余儀なくされた人たちだ。一成の話を聞いた限りでは、決して家族仲がよくないことはわかっていた。
それでも、一成が失踪したことでなくしたものの大きさに気づいたかもしれない、と思っていた。いなくなって初めて大事だったのだと理解して、悲嘆に暮れているかもしれない。今までの行動を後悔して、どうか帰ってきてほしいと願っているんじゃないか、と。
もしもそうだったなら、一成はこちらの世界に戻るのが望ましい姿なんじゃないか、と天馬は考えていた。
一成の手を取ったのは自分だから、人生丸ごと引き受ける覚悟はしていた。なくしてしまった過去を知るのは、一成の過去を受け止めて大事にしてやるのは、自分の役目だと心から思っている。だから、どんな危険があろうとこちらの世界へ渡ることを決断した。
ただ、同じくらいに思ってもいたのだ。
本来の世界でのびのび絵を描けるなら。もといた場所で幸せになれるなら。今まで歩いてきた過去も、辿った足跡も失われることなく、一成が自分の心を大事にして生きていくことができるなら。きっと元の世界で暮らすことが自然だし、そうあるべきだろう。
離れたくなかったし、ずっと隣にいてほしいという気持ちは確かだ。天馬にとって一成は特別な人だから、別々の世界で生きていくことを進んで選びたいわけではない。ただ、それが一成の幸せを犠牲にするなら話は別だ。
天馬が「こっちに来い」と言ったのは、一成が元いた場所では決して幸せになれないと思ったからだ。一成の生きる世界が一成を大事にしないのなら、オレが代わりに大事にしてやると決意して手を伸ばした。
しかし、もしもその前提が崩れて、元の世界で幸せになれるなら。本来の場所で生きていくことが最も自然な姿だし、辿り着くべきゴールなんじゃないかと天馬は思っていた。
だから、密かに心に決めていたのだ。家族がこれまでのことを後悔して、一成に帰ってきてほしいと心から望んでいるなら、こちらの世界にきちんと一成を帰してやるのだと。
寂しくても辛くても、一成にとっての一番の幸せを間違えてはいけないのだ。過去を失うことなく、今までの足跡全てで幸せになれるならきっとその方がいい。こちらの世界で、家族が温かく一成を迎え入れて絵を描いていけるなら、天馬は一成を送り出そうと決めていた。
しかし、実態はどうだ。こちらの世界で思い知らされた現実は、容赦なく天馬を打ちのめした。
失踪した一成は、帰りを待たれることもなく死んだことにされていた。形だけの弔いもなく、仏壇には写真も花も何もなかった。悼む気持ちさえ表す必要もないのだと、何もかもが語っていた。
一成の友人である天馬への態度も例外ではない。いなくなった息子の友人だ。話を聞きたいと、どんな様子だったのかとあれこれ尋ねてもおかしくはない。しかし、天馬の言葉に両親は曖昧な返事をするだけで、「あの子のことはよくわからなくて」と答えるだけだ。
これ以上一成の話をされても困る、という雰囲気を漂わせて。感情をあらわにすることもなく、面倒な作業を事務的にこなしていくように。必要だからそうしているのだという態度で、一成に向ける気持ちはついぞ感じることはできなかった。
あからさまに不快感をあらわにするわけではないし、子供を失った親の顔はしていた。ただ、下手な芝居なんて天馬にはわかってしまう。長年役者として生きてきた天馬には、取り繕った演技を見抜くなんてたやすい。だから、一成の両親の本音を理解して悟ってしまった。
後悔なんてしていない。本当にどうでもよかったんだと、否応なく現実が突きつける。
一成がいなくなって、大事だったと気づくんじゃないかなんて、とんだ幻想だった。生きているかもしれないと望みを掛けることもなく、死んだ者として扱う。失踪して半年で、ほとんど全てのものは処分された。生きていた痕跡を丸ごと消して、まるで最初からいなかったみたいに一成は消し去られる。
目に入れるのが辛いからなんて理由ではなかったし、前へ進むための決断でもないことは、家族の態度が何より教えていた。弔う気持ちのない仏壇、興味のなさを隠しもしない姉に、一成の気配が一つもない部屋。今までそこにいたことが嘘みたいに、いなくなったのをこれ幸いとするように、姉の書庫へと上書きされた。
誰一人それをおかしなことだとは思っていない。一成の友人である天馬に対しても、愛想を浮かべることはない。邪険には扱わないもののそれだけで、決して歓迎されていないことは感じ取っていた。この家にとって天馬は邪魔者だったし、一成に連なる人間への扱いはそれが妥当だった。
こんな風に、家族はずっと一成と接してきたのだと天馬は思い知る。
存在を無視して、いなかったことにして。いざいなくなったところで、態度は変わっていなかった。戻ってきてほしいなんて、誰も思っていなかった。一成は家族にとって取るに足らない人間で、いなくたって構わない。不用品を処分するように、一成はなかったことにされたのだ。
一成を帰さなくていい、とほっとすればいいのかもしれない。離れ離れになることもなく、これからも同じ世界にいられるのだと安堵すればいいのかもしれない。しかし、それよりも天馬はただ打ちのめされていた。
だって一成だ。思い出すのは、きらきらと輝く笑顔。大きな瞳に光が入ってきれいだった。どんな宝石も、きっとあのきらめきには敵わない。
一成の声で呼ばれる自分の名前が好きだ。天馬を見つけて、顔を輝かせてくれることの喜び。薔薇色に頬を染めて、やわらかく目を細めて笑う姿があざやかに焼きつく。ぴかぴか明るくて、誰よりやさしくてきれいなのだと知っている。
一成はいつだって、天馬に寄り添っていてくれた。軽い雰囲気に上手く隠しているけれど、一成はとてもやさしくて聡明だ。いつだって人の心を気遣うし、他人の細やかな感情を汲み取ることに長けている。
相手の求めるものをすぐに理解して差し出すことも厭わないし、他人の気持ちを自分のことのように感じて心を砕く。天馬は何度だって、そんな一成に助けられてきた。
誰よりきれいに、まぶしく笑ってくれる一成は、美しいものを見つけることも得意だ。
目に映るもの一つ一つを丹念に見つめて、この世界にあるきれいなものを描き出す。一成の指先は、ありふれたものさえとびきりの宝石に変えていく。何でもない風景が、見たこともないまばゆさを放っていく。
それはきっと、一成自身が持つ美しさが理由だと天馬は思っている。
だって天馬は、一成ほどきれいに笑う人を知らない。どんな時もやさしく目を細めて、天馬のことを大事にしてくれる。決して否定せず天馬のことを真っ直ぐ信じた。どんな言葉も受け止めて、やわらかく抱きしめてくれる。一成が笑うたび、世界はきらきらと光を放つのだ。
一成の持つ全てが、天馬にとっては大事で仕方なかったし、何もかもがまばゆく光る。大事にされて当然だった。誰だって一成のことを好きになる。こんなにやさしくてきれいなのだ。あらゆる全てから愛されて当然なのに。
この家で、この世界で、一成は一成として生きることを許されなかったのだと知ってしまった。生きていた痕跡は簡単に消し去られて、なかったことにされた。一成が愛したものは処分されて、誰一人惜しむことはなかった。
写真一枚でもあの家に飾ってあっただろうか。描いた絵の一枚でも、あの家には残っていただろうか。天馬は答えを知っている。
何もなかった。仏壇はおろか、居間のどこにも一成の写真は見つけられなかった。姉の写真は飾られても、一成の写るものはないのだ。
描いた絵なんて、持っての外だ。ことごとく絵は捨てられてきたと聞いていた通り、この家には一成の描いた絵は跡形もなかった。失踪した息子が残したものだと、痕跡をかき集めるようなこともしない。それどころか、いなくなったのを幸いと、まるでせいせいしたとでも言うように、何もかもを処分した。
絵が好きで、物語が好きで、創作世界を愛した一成は、この家では異端だった。
勉強以外に目を向けるなんて言語道断の行為だったから、求める道から外れた一成は不要だったのだ。絵なんて、一成が大事にしたものなんて、みんなゴミでしかないから捨てるのは当然だ。この家では当然の結論で、誰も疑わない。
天馬は熱い息を吐き出して、手の中の写真を見つめた。
偶然写り込んだ一成の絵。画集に挟まっていた写真は、唯一残された一成の絵なのだろう。痕跡を全て消し去るように、描いた絵は処分された。
何もかも捨てられてきた一成は、痛いほど理解していた。描いた絵が残ることはない。見つかったならゴミになる。それならせめて、背景に写る一枚だけでも残しておこうと思ったのだろう。
意図せず写ったものであり、よく見なければきっと気づかれない。だから一成はこの一枚を抜き出して保管していた。そうしなければ、絵に連なるものは全て消されてしまう。何もかもが奪われると理解していたから。
一成の心情を想像した天馬の胸は、苦しくて今にもつぶれそうだった。
どれだけ絵が好きなのか知っている。胸を弾ませてスケッチブックに向かう横顔、出来上がった絵を見せてくれる時の目の輝き。朝から晩までずっと絵を描いていても飽きることなく、筆を走らせていた。
見たものを、感じたものを、心を取り出して描き出すような作品たちだ。一成の気持ちがそのまま形になったような絵を、一成ははにかみながら見せてくれた。心そのものをそっと預けるように、内側のやわらかい部分を教えてくれるみたいに。
そんな風に描かれた絵が一枚だって残されていないという事実が、天馬には苦しい。
この世界で一成は、絵を描くことを許されなかった。取り上げられて捨てられて、ゴミにされた。それは一成の心が、存在がどんな風に扱われてきたのかという答えだ。
一成はこの世界で許されなかった。あんなにきれいでやさしい人は、この場所で何度も心を殺されて、存在を踏みにじられてきた。今ここで直面した家族の態度や扱いから、天馬はその現実を嫌というほど思い知った。