水仙の咲く頃に





 部屋で見つけた画集を持って、天馬は一成の家を辞した。

 一成がこの家で受けてきた仕打ちを目の当たりにして、ひっそりと写真を挟んだ一成のいじらしさを思い知って、心をかき乱されて仕方なかった。揺さぶられる感情のまま、家族を問い詰めたいと思ったけれど、ぐっとこらえた。
 きっと一成はそんなことを望まないし、何を言っても届きはしないだろうということもわかっていた。取るに足りない息子の友人が口にする言葉なんて、どんな意味も持たない。
 もうこの場所には用がなかった。今の自分がすべきことは、一成のところに帰ることだ。結論を出した天馬は、画集を持って居間に顔を出した。帰宅する旨を告げると、当然引き留めることはしなかったし、それどころかほっとしたような雰囲気が流れる。
 天馬は平然とした顔で「貸していたものがありました」と言って、画集を見せた。一成は、自分のものではないから、と持ち出すことを良しとしなかった。それなら、面と向かって持ち帰る許可を得ればいいと考えた。
 人からのもらいものだということは聞いているし、貸していたという事実はない。しかし、居間にあったはずのものが、書庫代わりの部屋に移動していたのだ。手元から離してもいいと判断された可能性がある。その場合、天馬が持ち帰ることに異を唱えないかもしれない。
 賭けに出るような気持ちで身構えていると、一成の両親はちらりと青い表紙を眺める。数秒の沈黙のあと、「そうですか」とだけ言って、そこから続く言葉はなかった。拒否も否定もなかった。持って帰ったところでどうでもいい、と言わんばかりの態度だった。
 画集なんてどんな価値もないのだ、と天馬は実感する。もともと、処分されていなかったことが例外だったのかもしれない。何らかのしがらみによって、持っていただけなのかもしれない。恐らく今は、もうそのしがらみさえなくなったのだろう。
 捨てるほどの手間を掛ける気はなかったのか、他の本と紛れて部屋の本棚に運ばれたのか。そのまま忘れ去っていたところに、天馬が現れたのかもしれない。
 何にせよ画集に対する態度はそっけなく、持ち出すことにも異を唱えることはなかった。それどころか、処分の手間が省けた、といった空気さえうっすらにじんでいた。
 本当にどうでもいいんだな、と天馬は思う。
 一成があれだけ愛した絵画という世界は、家族にとっては取るに足らない無価値のものだ。画集を大事に思う気持ちも、持ち帰りたいと思う理由も、きっと理解できない。一成の大事なものを大事にするつもりはないのだ。

 最後の最後まで、一成が大切にされていなかったことを感じながら天馬は家を出た。一歩屋外へ出ればじっとりとした暑さに取り囲まれて、夏の気配を強く感じる。ただ、辺りは少しずつ夕暮れに染まっていて、太陽の光は昼間のものとは違っていた。
 もうすぐ日が暮れる。それまでに帰らなくては、とギャラリーへの道を辿るけれど天馬はとても冷静でいられなかった。
 一成の家族の前では、努めて平静を装っていた。しかし、天馬の心はどうしようもなく乱れたままだ。
 いっそこのまま泣き出したい気持ちで、天馬はもと来た道を歩いている。日没までは、恐らくそこまで時間はない。オーナーからは、太陽が沈むまでに帰ってこなければ絵は閉じると言われている。そうなれば、あちらの世界に戻れない。
 わかっているから、一目散にギャラリーへ戻らなければいけないとわかっているのに。天馬の胸はずっと騒いでいて、とうてい落ち着いていられなかった。ギャラリーへの帰り道より、もっと強く心に浮かぶもの。一目散に心が向かうものを知っている。
 こちらの世界で、天馬は一成がこれまで過ごした日々がどれだけ理不尽で、やさしい心を傷つけられてきたのかを知ってしまった。とうてい許せなかったし、ショックだって受けていた。しかし、何よりも強く胸に残るのは、怒りや悲しみではなかった。
 家族の誰からも一成が大事にされていない現実を知った天馬は、ただ思った。真っ直ぐ強い気持ちで、一成と向日葵畑で向かい合っていた時のように、はっきりと思ったのだ。
 家族の誰も一成を大事にしないなら。なかったことにされて、生きた痕跡を丸ごと消し去って。いなくなったことを悼むわけでもなく、自分たちの行いを後悔することもなく、いなくてもいいのだと思っているのが家族だというなら。

 ――そんなもの全部捨てていい。そんなものよりずっと強く、力いっぱい、世界で一番、オレがお前を大事にしてやる。

 一成の姿を思い浮かべた天馬の胸には、強い決意が宿っていた。向日葵畑で向かい合った一成が涙ながらに告げた言葉を聞いて、天馬は「こっちへ来い」と手を伸ばした。あの時の決意をより強固にした誓いだ。
 あの時から、天馬はずっと思っている。自分の世界に一成がやってきて、決意はいっそう確かになった。そして今、揺るぎない意志が胸には満ちていた。想いははっきりとした形になり、確かな言葉があふれるように生まれていく。
 今までの世界を捨てさせて、自分の世界に呼び寄せた責任感や義務じゃない。ただオレがそうしたい。オレの意志で、オレの心が言っている。何をしたいか、どうしたいのか。考えるまでもなくはっきりわかる。

 一成を幸せにしたい。
 誰より一番大事にして、宝物みたいに扱ってやりたい。
 オレの宝物はお前だと言いたい。
 今までの二十年分を取り返せるくらい、幸せで仕方ないって毎日を一成にやりたい。

 ふつふつと燃えたぎるような感情で、天馬は思っている。迷いはなかった。ただ一目散に心が駆けだす先は、たった一人だ。世界中の誰よりも天馬の手で幸せにしたいのは、一成だとはっきり言える。
 幸せな未来は、きっとカンパニーで過ごせば叶えられるとわかっていた。だから、ただ今までの日々を守ればいいのかもしれない。
 しかし、天馬は一成のことが好きなのだ。他の誰より特別な相手だと自覚している相手なのだ。だからこそ、一番の幸せをあげるのは自分がよかった。
 笑顔にしたい。苦しみなんて一つだって味わわせたくない。心を殺されることなく、一成を一成のままで大事にしたい。その役目は自分が背負いたかったし、誰にも譲りたくない。これはきっと単なるワガママなのだとわかっていたけれど。
 義務や責任感ではなく、ただ心が叫ぶのだ。どうしようもなく願っている。叶えたい望みなら知っている。揺るぎなく芽生えた誓いをなぞるように、天馬は胸中でつぶやく。

 一成が好きだ。これから先の未来まで、一成を世界で一番大事にして、幸せにするのはオレがいい。

 燃えるような気持ちでそう思う天馬は、ただ一成に会いたかった。
 直接顔を見て、今まで以上に大事にしてやりたいし、行動全部でどれだけ大切なのかと示したかった。カンパニーで共に日々を過ごして、掛け替えのない思い出をたくさん積み重ねていく。些細な瞬間で一成がどれだけ大切なのかと伝えて、呆れるくらいに幸せにしてやりたい。
 そのためには、ギャラリーへ帰り着かなければいけないのだとわかっていた。ここは別世界で、あの絵を通らなければ元の世界に戻れないのだから。
 わずかに冷静さを取り戻した天馬は、視線を周囲へ向けた。
 ギャラリーまでのルートは、簡単な一本道のはずだ。事実として、絵を通った天馬は真っ直ぐ道を歩いて一成の家へ辿り着いた。あの時歩いた距離はそう長くなかったはずだけれど、さっきから進んだ距離は明らかに記憶より長い。とっくにギャラリーへ通じる絵まで辿り着いてもおかしくないのに、一向にその気配はない。
 どこかで道を間違えてしまったのだろうか、と天馬は思う。一本道を進んでいたはずだけれど、無意識に曲がってしまったのか。一成の家を出た時点で、頭は冷静でいられなかった。もしかしたら、何か重大な見落としをしている可能性はある。
 嫌な予感を抱きながら、知った道に出ないかと天馬はうろうろと道を歩き回った。
 しかし、何の変哲もない住宅街だ。どこも似たような風景に見えてしまって、だんだん自分がどこから来たのかもわからなくなってくる。一体どこへ進めばいいのか、と天馬は途方に暮れるしかなかった。
 さらに、そうこうしている内に太陽は西へと沈んでいく。まだ辺りは夕暮れに染まっているとはいえ、日没までそう時間はないだろう。天馬の額にじわりと冷や汗がにじんだ。
 もしかして、これはまずいことになったのではないか。
 そう思う天馬の頭に、オーナーの言葉がよみがえる。「太陽が沈むまでに帰ってこなければ、絵は閉じてしまいます」「そうなったら、あなたは元の世界には戻れない」――実際に不思議な力を持つオーナーの言うことなのだ。嘘や冗談ではないだろう。日没までに自分が通ってきた絵の元まで辿り着き、ギャラリーへ戻ることは帰還のための絶対条件だ。
 このまま夜になってしまったら、元いた世界とのつながりは閉ざされる。そうなってしまったら、天馬はこの世界から帰れない。誰一人皇天馬を知らない場所で、カンパニーも夏組も一成もいない世界で生きていかなければならない。
 そんなこと受け入れられるはずがなかった。天馬は役者としてまだまだやりたいことがあったし、カンパニーで過ごす日々は掛け替えのないもので、これからも大事にしていくつもりだ。
 何より、夏組ともっとたくさん一緒に舞台へ立ちたかった。一度だけではなく、何度だって夏組の仲間と最高の瞬間を感じたいのだ。そして一成と一緒に、同じ世界で未来まで生きていきたい。隣同士、一番近い場所でこれから先の道を歩いていきたいのだ。自分の望みなら、誰より知っている。こんなところに閉じ込められるわけにはいかないのだ。
 どうにか手立てはないか。そもそも、日没まではあとどれくらいか。今は何時なのか。めまぐるしく頭を巡らせた天馬は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 世界を超えたせいなのか、見た目は変化がないにもかかわらず、検索や通話ができないことは最初にこちらへやって来た時に確認していた。ただ、時計は正確に動いているから時間は確認できる。
 あとどれくらいの猶予があるのかと思いながら、画面を起動した時だ。スマートフォンが着信画面に切り替わり、天馬は目を瞬かせる。通話はできないはずなのにどうして、という意味と、もう一つ。着信相手が一成だったからだ。

「――一成か?」
『テンテン!? 今どこ!?』

 ほとんど反射で通話ボタンを押すと、焦ったような一成の声が流れてくる。どこ、と言われても現状を一体どう説明したらいいか――と悩んでいると、一成が早口でまくし立てた。

『日没までに帰らないとやばいんだよね!? 今どこにいる系!? 何見える!?』

 どうやら一成は事情を把握しているらしい、と天馬は悟る。夕暮れまでに帰らないとならないうえ、時間が差し迫っているから焦っているのだろう。
 天馬とてこの世界に残りたいわけではないのだ。だから素直に「普通の家だな。白い壁の家と、広い庭のある家が見える」と答えた。一成はその言葉に数秒黙ってから「おけまる!」と言って続ける。

『テンテン、一回電話切ってもらっていい? それからもう一回かけるから、出ないで待ってて!』

 一成の意図することは、さすがにわかった。どうやら、着信音で居場所を探そうとしているらしい。となると、一成もこちらに来ているのだろうか。同じ場所にいなければ、いくら音を鳴らしても意味はないだろう。

『テンテンは動かないで待っててね! 今からオレが迎えに行くから!』

 力強い言葉は、一成の揺るぎない本心だろう。しかし、天馬はただ待っているなんて性に合わないのだ。オレも何かするべきなんじゃないか、と思って口を開きかけたのだけれど。それより早く一成が言った。

『オレにちゃんと、テンテンのこと迎えに行かせて! 絶対ちゃんと行くから!』

 その声はあまりにも必死で、心からの懇願を宿していた。天馬が思わず押し黙ったのは、ここで首を振るのは、一成の言葉を疑うみたいじゃないか、と思ったからだ。「絶対ちゃんと行く」という言葉を、一成のことを信じているなら、答えは一つしかない。
 だから、全ての気持ちを込めて、天馬は「わかった」とうなずいた。すると、「おけまる!」と言う返事のあと、すぐ通話が切れる。しかしそれも数秒で、すぐに着信があった。当然一成からのもので、天馬は言われた通り通話ボタンを押さずに待っている。
 住宅街に着信音が流れる。閑静な場所では、無機質な音はやたらとよく響くような気がする。普段、着信にはすぐ出ているということもあり、ただ着信音を流し続けているのも、何だか落ち着かない。それでも、一成との約束だと天馬はじっと待っていた。
 着信音は流れ続ける。急かされるような気持ちになるからなのか、ずっと鳴っていれば迷惑になるんじゃないか、と思っているからか。止む気配のない着信音に、さすがにそわそわした気持ちになっていた時だ。

「テンテン!」

 背後から、耳慣れた声がした。明るさとまばゆさを含んだ、どこかやわらかな響き。この声を聞き間違えるはずがなかったし、この世界で一人しか呼ばない名前だ。振り向くと、一成が天馬を目指して真っ直ぐ走ってくる。
 夕日に染まった一成。真剣な表情で、一直線に天馬を目指して近づいてくる。天馬はじっとそれを見つめる。
 太陽の光を受ける様子が、きらきらと輝いていた。揺れる髪の先、わずかに開いた唇、しなやかな手足。何もかもがまばゆく光る。見間違いでもなければ、絵の中の人物でもない。他でもない一成が、目の前まで駆けてくる。
 天馬はその事実を噛みしめて思う。一成だ。一成がここにいる。ここまで来てくれる。
 そこまで長い時間、顔を見ていなかったわけではない。それでも、違う世界へ渡ったからだろうか。
 一成が間違いなく同じ場所にいること、自分と同じ世界を生きてくれることの、たとえようもない幸福が胸の奥まで広がっていく。お互いのことを知らずに生きてきた。別々の世界で生まれて、一生出会わないはずだった。しかし、ちゃんと二人は出会ったのだ。絵のあちらとこちらではなく、同じ世界で生きていけるのだ。
 そんな場面ではないことはわかっていた。しかし、天馬の唇は自然と笑みの形を作っていた。
 無意識の内に足が動き、一成の方へ一歩踏み出す。一成も全速力で駆けてくるから、すぐに二人は道の上で相対した。通話ボタンはすでに切られていて、着信音はもう鳴らない。
 一成は肩で息をしながら立ち止まり、荒い呼吸を整える。天馬は何か言葉を掛けようとしたものの、その前に一成が口を開いた。

「言いたいことはいろいろあるんだけど――今は走って!」

 それだけ言うと、一成は天馬の手を取った。ぎゅっと握りしめる力強さに、手のひらから伝わるぬくもりに天馬の胸がドキドキと高鳴る。気づいているのかいないのか。一成は何も言わず、手を引いて走り出すので、天馬も一緒になって駆けていく。







「水仙の咲く頃に」END