向日葵畑で待ち合わせ
『アラジンってお前なのか!?』
『アラジンなら、オレのことだけど……』
『魔法のランプをくれ!』
『は……? えっと、人違いみたいなんで……オレはこれで……』
目を逸らしつつ一成が言うと、天馬の雰囲気が変わる。弾むような空気がすっと消えて、落ち着いた調子で口を開いた。
「そこはもっと、突き放した感じでいい。罪悪感が見えると、次の台詞につなげにくいだろ」
「あー、そっか、『関わっちゃいけない人と遭遇した時の対応やめろ』だもんね」
「お前は若干、断るのに慣れてない感じがある。もうちょっとそっけなくなれ」
「なるなる~。って、これじゃテンテンの練習にならなくね?」
ひとしきり感心したあと、一成は手元の台本から顔を上げて言った。天馬は数秒沈黙を流してから「それはそうだな」とうなずく。指摘したいポイントがあると、自然と注意をしてしまうのは役者皇天馬らしいとは言えるけれど。
「テンテン、台詞は全部覚えてるし、ほとんどばっちりだから練習要らないかもだけどね~」
向日葵畑の天馬に向けて、朗らかに一成は言う。いつもと同じように、キャンバスを境界にしたあちら側とこちら側で、二人は芝居の稽古をしていた。
初めての出会いを果たしてから、一成は毎日ギャラリーを訪れていた。
両親には外部講師を招いての勉強会へ参加すると言って、時間が遅くなることは誤魔化した。
東大での講義経験もあり、何冊か書籍を出している講師の名前を出したので、比較的すんなりとうなずいてくれたのは幸いだった。
一成は今まで反抗らしい反抗をしたこともないので、嘘を吐いているとは思っていないのかもしれない。
本当のことを言わずギャラリーへ通っていることに対して、後ろめたさも罪悪感もある。だけれど、素直に事態を口にしたところでロクな結果にはならないだろう、と一成は理解している。
そもそも、勉強に役立ちもしない絵を見に行くこと自体、両親にとっては受け入れられない行為だ。加えて、絵の中の人間と話をしているなんて知られたら、病院に連れて行かれることは間違いない。
外聞を気にするので、親戚の医者のところで静養させられる程度だろうけれど、少なくとももうギャラリーには来られないだろう。
わかっているから、一成は痛む胸を無視して嘘を吐く。天馬と話すこの時間を守りたくて、もっとたくさん話がしたくて。
だって、天馬はいつだって一成が訪れると嬉しそうに出迎えてくれる。それがどれだけ嬉しくて幸せで、胸がいっぱいになるのか。十九年生きてきて、喜びで泣きそうになるなんて初めてだった。
天馬と一成の時間は、不思議な流れ方をしている。一成にとっての一日が天馬にとっての数十分のこともあれば、一成が翌日ギャラリーを訪れれば天馬の方も翌日になっていたりする。
仕組みも因果関係もさっぱりわからないので、二人ともすでに理解は諦めている。ただ、経過時間は違っても体感時間は同じだ。重ねた時間は天馬と一成に等しく刻まれていた。
その中で、一成は天馬がなぜ向日葵畑にいるのかも教えられた。
天馬は映像作品をメインに活動していたけれど、舞台へ挑戦するために所属する劇団を探していた。そんな時に見つけたのが、MANKAIカンパニーという劇団だ。
天鵞絨町というところにあると言うけれど、そんな地名は聞いたこともなかったし、劇団について調べても当然何も引っかからなかった。
MANKAIカンパニーは春夏秋冬の四つの組が、順番に公演を行うことが特徴の劇団で、天馬はこの夏組に所属する。他に仲間は三人おり、舞台へ立つため日夜稽古をしていたのだ。
ただ、どうにもメンバーと上手く行っておらず、組としてのまとまりに欠ける。打開策として天馬が提案したのが、全員での合宿だった。その合宿所の近くにこの向日葵畑がある。
メンバーに強く当たってしまい、頭を冷やすために歩いている内にこの向日葵畑を見つけたのだ、と天馬は言う。そこから先の経緯は、一成も知っての通りだ。
「オレはまだまだだ。舞台へ立つには、こんなんじゃだめだ」
ぼんやりと今日までのことを思い出していると、天馬が険しい表情で答えた。テンテンならそう言うだろうなぁ、と一成が思うのは、天馬の人となりを理解し始めているからだ。
天馬は言動も雰囲気も圧が強い。確かな自信を持っているので尊大な態度になりがちだし、言葉もきつい。
ただ、その自信は努力によって裏打ちされたものだし、言葉がきつくなるのはどこまでも真剣に向き合おうとするからだ。人に対してもそうだし、芝居に対しては特に顕著だ。
そうでなければ、素人の一成を読み合わせに付き合わせるなんてことはしないだろう。
スマートフォンを取りに来た翌日、再びギャラリーを訪れた一成に向かって天馬は「今日こそ付き合ってもらうぞ」と言った。
今度はもう、一成は驚かない。どういうことかと尋ねれば、MANKAIカンパニーの夏組合宿の話をしてくれたのだ。
アラビアンナイトをモチーフにした舞台を演じること。天馬は主演のアリババを演じること。個性が強いメンバー、それぞれが印象的な役を演じること。その中でまだ、アラジン役が決まっていないこと。
夏組の前に公演を行った春組は、五人で舞台に立った。最低限の人数として五人は必要だ、ということで五人での脚本も書いてもらった。ただ、夏組は未だ四人しかないのだ。
カンパニーの主宰でもある総監督は「必ず五人をそろえる」と請け負って、本当なら合宿までにアラジン役が決まるはずだったのだけれど、上手く行かずに合宿を迎えてしまった。
ツテを探していてくれることは知っていても、アラジン役が不在のままでは読み合わせすらできない。だから、誰か相手に読み合わせだけでもしたいと思っていたところに現れたのが一成だった。
「テンテンのそういう真面目なところ、めっちゃいいところだと思うけどねん。でもほら、息抜きも大事っしょ! 余裕のある男は上手く休憩もできるし、そういうのがモテるんだよん。アラジンも言ってなかった?」
軽快な口調で、冗談めいた響きで尋ねる。天馬はぱちり、とまばたきをしたあと唇に笑みを浮かべた。愉快な気持ちが思わずこぼれてしまったような、そんな表情。
「やっぱりお前、アラジンに合ってると思うぞ。軽いところが特に」
「それ褒めてなくね?」
「今だけは褒めてる」
「今以外は!?」
テンポよくツッコミを入れると、今度こそ天馬が笑い声を上げた。面白くて仕方ない、といった声に一成も同じように笑ってしまう。こんな風にやり取りできることも、一成にとっては嬉しい出来事だった。
「でもさ、マジでちょっと休憩した方がいいと思うんだよねん」
一通り笑ってから、あらためて一成は口を開いた。それからポケットを探ると、キャンディーの包み紙を一つ取り出した。キャンバスの向こうの天馬に向かって放り投げると、びっくりはしたようだけれどちゃんと受け取る。
「テンテン、ナイスキャッチ!」
「いきなり投げるなよ。何だこれ……飴か」
「そそ。フルーツキャンディーだよん。色がきれいっしょ」
透明なフィルムには、丸いオレンジが包まれている。もちろん、天馬の頭髪から連想したチョイスだ。
一成もポケットから自分のキャンディーを取り出して口へ放る。天馬は少し考えてから、フィルムを解いて口へと持っていく。
その様子を眺める一成は、不思議な気持ちになっていた。
キャンバスのあちら側とこちら側。確かに目の前に存在しているのに、少しずつどこかが違う世界だ。
天馬は確かにここにいるのに、一成は芸能人としての天馬を知らない。一成はどこかにいるのかもしれないけれど、少なくとも今の一成のようにインステを頻繁に更新するような存在ではない。
電話はつながるのだろうかとかけてみたけれど、全然別人のところにつながってしまって平謝りするしかなかった。『贈りものをさがして』について聞いてみると天馬も読んだことがあったし、内容も同じだった。ただ、絶版にならず今も書店に並んでいるという。
重なり合っても、全てがぴたりと合わさるわけではない。二つの世界は、似ているけれど同じではないのだ。少しずつ、何かがズレてちぐはぐに存在する。
それでも、物のやり取り自体は可能だった。
キャンバスの境には何もないように見えるだけで、実は何らかの仕掛けがほどこされている可能性は考えた。 しかし、たった今一成が放ったキャンディーは無事に天馬のもとへ渡っている。
一成が今手にしている台本だって、もとは天馬のものだ。振り返った天馬が手にしている紙の本は、一体何かと思えば台本だった。読み合わせ用にとキャンバスの向こうから渡された。台詞なら既に入っているから、一成はこれを読んでくれと言われたのだ。
ドキドキしながら手を伸ばせば、紙の台本は消えることなく一成の手に渡った。夢でも幻でもなく、天馬から渡されたものは手の中に存在していた。
時間の流れも季節も場所も違っている。それでも、物理的な行き来が可能という事実は、確かに目の前の相手とつながっているのだという確信になった。
恐らく、互いに手を伸ばせば触れ合うこともできるのだろう。ただ、そんな機会もなかったし迂闊なことをしてこの現実が崩れてしまうのも怖くて、二人は互いに触れることはしないようにしていた。
「これ、結構フルーツの味濃いめでおいしくない? オレのおすすめなんだよねん!」
「ああ。柑橘系の味がちゃんとするな」
「でしょ~!」
ニコニコと笑顔で答えながら、一成は床に座った。天馬も少しだけ考えて、土の地面に腰を下ろし、二人はキャンバスを挟んで向き合う。
立ったままでも話はできるけれど、座った方が目線は近い。互いの絵は実寸大で直接下に置かれているから、地面の高さが同じなのだ。
天馬は土の上に座ることを、当初渋っていた。ただ、疲れた様子の一成に椅子をすすめると「オレ一人だけ座るの悪いじゃん」と言うので、何事かを考えたあと「そうか」と言って地面に座ったのだ。
自分のことを気遣っての結果だということはわかったから、一成が心底恐縮していると「疲れた顔の人間見てるよりはマシだから気にするな」ときっぱり答える。そこには嫌悪や不機嫌の類はなくて、一成はほっと息を吐いたのだ。
天馬は感情表現が比較的素直だ。だから、言葉と心情は基本的に一致している。
「気にするな」と言いうならそれ以外の意味はないので、一成はただ素直に受け取ることができる。裏側だとか隠された心情だとか、漂う空気だとかを読む必要はなかった。
「これね、オーナーもおいしいって言ってたよん。イチゴのやつがお気に入りだって!」
思い出しながら告げるのは、ギャラリーのオーナーとのやり取りだ。
毎日ギャラリーを訪れていれば、すっかり顔見知りになる。沈黙は気まずいし、挨拶だけというのも味気ない。ちゃんと相手を認識しているのだ、ということも伝えたくて話しかける内に、雑談を交わすようになったのだ。
結果として、持っているキャンディーを快く受け取ってもらえるようになった。
「……お前、本当人と仲良くなるの得意だよな」
感心しきった調子で、天馬は言葉を落とす。一成とはいろいろな話をしているから、友達が多いことも誰彼構わず話しかける人間であることも知っている。
気づけば天馬もずいぶんと打ち解けているのは、ひとえに一成のコミュニケーション能力の高さゆえだろう、ということは天馬も察していた。
軽くてチャラい雰囲気に隠しているけれど、一成の明るさは相手を見極めた気遣いの上で発揮されるものだ。それと気づかせない軽やかさで、居心地の良い答えを返すことに長けている。結果として、親密になることが上手いのだ。
「相手をよく見てるんだろうな。だから、相手にちゃんと合わせられる。誰であってもそれができるっていうのは、柔軟性がある証拠だと思う」
今まで聞いた話から、天馬は自分なりの結論を口にする。
天馬はあまり人と仲良くなるのが上手くない。幼い頃から子役として活動していたこともあり、友人と呼ばれる存在は誰もいない。加えて、自分の意見を伝えることに重きを置いてしまう性分なので、とっつきにくいと思われがちだ。
しかし、一成は違う。誰を相手にしても明るく話しかけ、それでいて無遠慮に距離を詰めることはない。
天馬とのやり取りだって、不躾な態度に見えて実の所天馬が不快な思いをしないよう、だいぶ言葉を選んでいたのだ。それに気づいた時から、天馬は一成についての見方をずいぶんと変えた。
こいつは、ただ明るくて何も考えてないやつじゃない。笑顔でいることを選んでここに立っている。
「そうやって、人に合わせて対応を変えられるっていうのは一成の長所だし、芝居にも活かせる」
一成を相手に読み合わせをしている内に、天馬は気づいたのだ。最初は、ただ相手役がほしかっただけで演技力は求めていなかったけれど。
たとえば天馬がアリババの演技を少し変える。これまでの子供っぽさを押さえて、大人のピエロめいた調子で台詞を言う。すると一成は、クラスメイトとおどけるような調子から、呆れた雰囲気を上乗せして同僚めいた様子で台詞を返す。
もちろん演技は拙いから、芝居として成り立っているとは言えない。ただ、天馬に合わせてきちんと年齢層を変えて反応するのだ。それは恐らく、一成が天馬のことをよく見てどんな空気で発せられた言葉なのかを敏感に察するからだ。
気質としてそれができるということは、本気で芝居に取り組んだなら、きっと一成の大きな武器になるだろうと天馬は思った。
「マ!? 別にオレ的には全然普通にしてるだけなのにさ、そうやって言われるのすげー嬉しい!」
目を輝かせて、紅潮した頬で言うのはまったく素直な一成の本心だ。
芝居なんて、一成は今まで一度だって経験がない。最初は戸惑ったし、書かれた文章を読むだけでいいのだ、と思ったけれど。真剣な天馬へ適当に返すことはしたくなくて、アラジンならどんな風に受け答えするだろうか、と頭を巡らせて言葉を口にした。
大学で調子よく接する自分にアラジンは似ているから、あまり苦なくなじむことはできた。自分ではない他者だからこそ、受け答えも気軽だ。
ただ、真剣な天馬と向き合うにつれて一成は理解した。
アラジンは他人だ。よく似ているとは言え、台本の中にいるのは一成ではない。だけれど、アラジンが発する言葉に一成が解釈を与えた時点で、どうしたって三好一成の姿が見える。
アラジンの言葉ではあるけれど、それは同時に一成の言葉でもあった。自分自身の奥底にある、誰にも知られずひっそりと仕舞いこんでいた、本心からこぼれていく言葉だ。
拙い芝居だとしても、適当に誤魔化すこともしたくなくて、一成は自分の解釈でアラジンを演じる。その度、本音がにじみだす。天馬は一つだって余すところなく受け取って、同じ熱量で返してくれた。
天馬と比べればひどい演技しかできないのに、そんなことはまるで関係ないと、天馬は一成のにじんだ本心ごと受け取って、きちんと心を返してくれた。
芝居の練習へ付き合う内に一成はそれを理解した。だから、一成は天馬に対して素直に本心を口にできる。
天馬なら一成の言葉を受け取ってくれる。奥底に宿る本音のかけらだって蔑ろにせずいてくれる。返される演技で、発せられる言葉で理解する。
他人の気持ちを察することは得意だ。加えて、天馬は言葉と行動が一致している。一成の放った言葉を、宿した心を、嘘偽りなく受け取ってくれていることは、天馬の全てが告げていた。
「何かさ、オレがやってきたことにも意味があったんだなって思えるっていうか。思いがけない発見できたって感じで嬉しいよねん」
こぼれる笑みのまま告げると、天馬は何だか複雑な表情を浮かべた。そっと一成の調子をうかがうような、揺れるまなざし。天馬はその雰囲気を形にしたような声で尋ねる。
「お前、時間はまだ大丈夫なのか。あんまり遅くなると、家の方が大変なんだろ」
心配そうな空気は、一成の家庭環境を知っているからだ。
天馬が一成の長所だと言ってくれたポイントが培われたのは、ひとえに家庭環境が原因だ。テストで良い点数を取ることと、良い大学へ行くこと、エリートとして法曹界に入ること。ゴールに向かっていく以外は許されない環境で、一成は家族の顔色をうかがいながら日々を過ごしてきた。
勉強ができることはもちろん、選ぶことや望むもの、取るべき行動の全てには目に見えない正解がある。両親にとっての正しさを選び続けることで一成は居場所を与えられるから、何を望むのか欲しいものは何であるかを察するのは、一成にとって生き延びるための方法でもあったのだ。
もとからの性質もあって、相手に合わせることが上手くなった。本音を殺して欲しいものを差し出すのは、一成にとってあまりにも当然の環境だった。そんな風に、家という場所で緊張を強いられ続けていることを知っているから、一成が叱責されるような事態に見舞われることはないか、と心配している。
勉強会に出席するからと門限の時間を延長しているだけで、時間の制限がなくなったわけではない。あまりに遅くなれば厳しく咎められるだろう。一成にとって家は安心できる場所ではないのなら、辛い目に遭うような可能性は避けてほしかった。
「んー、もうちょっとおけまるだよん。電車の時間とかもバッチリ把握してるし、どういうルートで帰ったことにしてるかとかも、全部決めてるかんね!」
ニコニコと一成は答えた。心配してくれる天馬を安心させたかったし、何を聞かれてもすぐに答えらえるよう、乗るべき電車や車両まで決めているのは事実だ。
それに沿ったスケジューリングで帰宅すればいいので、ここを出なければいけない最低限の時間は把握している。まだその時間ではないから問題ない、というのはまったくの事実だ。
だけれど、それを置いても一成はまだここにいたいと思っている。理由はたった一つだけ。
「それに、テンテンの役に立ちたいもん。素人のオレに何ができるかって話だけど」
そっと目を細めて一成は告げる。天馬は真っ直ぐ一成を見つめると、少し口ごもってから「助かる」と告げた。
奇妙な邂逅から、少しずつ同じ時間を重ねた。
有り得ない事態が起きているからだろうか。同じ世界ではないと知っているからだろうか。不思議な体験を共有しているからだろうか。
恐らく全てが理由になって、二人の距離は奇妙に近づいた。同志のような、唯一同じものを分かち合えるような。普通ではない出会いを経た二人は、ぽつりぽつりと自分のことを話した。
一成は自分の家族のこと。天馬は自身が抱えたトラウマのこと。言葉は少なかったけれど、お互いの抱える傷を知っていく。
何ができるかなんて、二人ともわからない。だけれど、その傷がもう痛むことがないようにという気持ちだけは、本物だ。
だからこその言葉なのだと、天馬はきちんと理解している。一成は心から天馬の力になりたいと思っていて、トラウマを克服するためにできることをしたいのだ。それを確かに受け取ったから、やるべきことは一つだ。
「――よし。なら、もうちょっと付き合ってくれ。確認したいことがある」
「りょっす!」
立ち上がりながら声を掛ければ、一成は明るい笑顔でうなずいた。
◆ ◆ ◆
帰宅すると、珍しく姉と鉢合わせた。大学院で勉強していることが多いのと、一成は基本的に自室にこもっているせいで顔を見る機会はあまりない。
姉は両親の覚えもめでたいので、リビングで気兼ねなくくつろいでいるけれど、一成にとってはあまり居心地のいい場所ではないからなるべく顔を出さないようにしているのだ。
姉の比較材料として、出来の悪さを卑下され続けても笑っていなくてはならない。慣れてしまったから悲しくなることもないけれど、楽しい時間ではないのも確かだ。
リビングのソファでマグカップを傾けていた姉は、一成を一瞥しただけで特に何も言わなかった。基本的に一成に興味がないので、横柄な態度を取るだとか強い言葉を投げつけることもない。
弟としての親愛も特にないのだろうけれど、罵詈雑言を向けられるわけではないのでありがたかった。
「――オレ、部屋にいるね」
一応「ただいま」と言ってみたけれど、当然「おかえり」が帰ってくることはない。いつものことなので気にすることなく言葉を続けた。無視して部屋に直行するのも気が引けたからだ。姉は特に何も言わないけれど、聞こえてはいるだろう。
ただ、母親の姿が見えなくて一成はリビングを見渡す。
父親が帰宅する時間ではないから不在は不思議ではないけれど、母親は特に仕事はしていない。もっとも、一成に用事を伝えないのはいつものことなので、気にしても仕方がないこともわかっていた。
「今日、夕食外だって」
自室に戻ろうと踵を返したところで、姉が不意に言った。思わず振り返って、姉の顔を見つめてしまったのは「外食なんて珍しい」と思ったからだ。
母親は料理が得意だから、基本的に食事は家で取ることが常なのに。姉は一成の困惑を読み取ったのか、それともただの気まぐれか、淡々と言葉を継ぐ。
「カルチャースクールの関係で遅くなるからって。せっかくなら、外食も久しぶりでいいんじゃないかって話になったから」
母親は週に二日ほどカルチャースクールに通っている、というのは一成もうっすらと聞いて知っている。具体的に何を習っているのかは知らないけれど。その関係で遅くなるから夕食は外で、ということになった。その事実を告げられる一成は、同時に理解している。
感情の読めない姉の瞳。だけれど言いたいことならわかる。家族の顔色を読み取るなんて、一成にとっては造作もないことだ。だから、至って平淡な口調で告げる。
「そっか。オレ、今日ちょっと課題やらなきゃいけないんだよね。勉強会でいろいろ出ててさ。だから、家で食べるよ」
一成の言葉に、姉は少しだけ表情を動かした。つぶやいた名前は、一成が出席していることになっている勉強会の講師のものだ。東大で講義を持っていたから、姉も知っているのかもしれない。わずかに心臓が冷やりとしたけれど、質問をされることはなくてほっとする。
「わかった。それじゃ、一成は抜きで」
「うん。気にしないで行ってきて」
ニコニコと笑顔を浮かべて、一成は告げた。とんだ茶番だということは、お互いにわかっている。
「気にしないで」なんて言ったけれど、初めから姉は一成と連れ立って行くつもりなどなかった。言葉にしなくても、雰囲気が、取り巻く空気が、声にならない声が告げていた。――まさか、一緒に食事へ行くなんて言わないでしょ。
小さな頃から薄々感じてはいた。出来の悪い自分は、おまけで家族の一員になっているだけだ。本当は両親と姉の三人が正しい形で、何かの間違いで自分が生まれてしまったのかもしれない。
成長するにつれて違和感は大きくなって、大学受験に失敗したことでそれは決定的になった。それまでは、かろうじて家族で出掛ける際に一成はカウントされていたけれど、大学に入ってからはすっかり除外されるようになった。
だから今日の夕食だって、一応一成に声は掛かったけれど断ることが前提の言葉なのだ。
話はまとまっただろう、と一成は部屋を出る。リビングでは早速姉が母親に電話を掛けていて、嬉しそうに一成の不在を報告している。遅くなっても父親は合流できるかもしれないだとか、行きたいレストランの話だとかをしている。機嫌のいい姉の声を背中にして、一成は自室へと上がった。
明日の講義の予習をしていると、姉が出掛けたらしい音が聞こえた。しばらく耳を澄ませても帰ってくる気配がないことを確認して、一成は夕食の準備をすることにした。とは言っても、常備しているカップラーメンにお湯を注ぐだけだ。
秘密裏のアルバイトで稼いだお金は、こういうものや画材、趣味の本に使っている。両親から小遣いはもらっているものの、何だか使うのには気が引けて学用品以外では手をつけていなかった。
(これならもうちょっとテンテンと話せたのにな~)
早々に空腹を満たした一成は、無地のノートを取り出す。せっかく家族が誰もいないので、のびのび絵が描けると思ったからだ。
ただ、鉛筆を持つ一成は残念な気持ちになってしまう。イレギュラーで母親の帰りが遅くなるなら、もうちょっとギャラリーにいることができた。別れるのが名残惜しくて、だけれど家族に𠮟責される恐れがあるからと、「また会えるだろ」と言われてどうにかギャラリーをあとにしたのに。
姉は一成に興味がないから、帰宅して一成の姿がないとしても気にしないだろう。それなら、もう少し長居をしても大丈夫だったのではないか。考えても意味のないことだとわかっていても、一成の胸には後悔に似た気持ちが広がる。
(どうにもならないこと考えても、だめだよね)
思考を振り切るように、一成は手を動かす。事実として、今何を思ったところで過去が巻き戻るわけがないのだ。天馬だって呆れるだろうし、今過去を悔やむのなら未来にできることを考えたほうがいいと思えた。
(アラビアンナイトモチーフの舞台、実際どんな風になるんだろ。台本は読ませてもらったけど、上手く想像できないんだよねん)
一成はアリババとアラジンの大蛇のシーンを思い浮かべて、蛇を描いてみる。図鑑を思い浮かべていたせいか、やたらとリアルな出来だ。
まさかこれがそのまま再現されるわけがないだろうし、そもそも舞台上ではどんな風に大蛇を表現するのかもわからない。舞台芸術にはとんと縁がなかったので、まるでピンと来ないのだ。
天馬と話をしていると、自分の知らないことがたくさんあるのだ、ということを何度も思い知る。
数式や化学式、英単語に古典文法、年号や地名などの知識なら頭には詰まっているけれど、天馬の語る物語や舞台の世界、演劇論や芝居の方法なんて一成は今まで一度も接することがなかった。
試験で良い点数を取ることは得意でも、それ以外の自分は空っぽなのだと思う。
(テンテンはやりたいことがちゃんとあって、そのために努力できる人だ)
天馬のことを思い浮かべると、まぶしいような泣きたいような気持ちになる。
悲しいわけではなくて、ひどく美しいものを目前にしていると思うからだ。自分とはまるで違って、求めるものに向かって一直線に駆けてゆく人。
いつか世界中の主演男優賞を全て獲得するのだと言い放っていたし、そんな俳優になるべく天馬は努力を続ける。真摯に演技に向き合って、トラウマを持つ舞台すらも克服しようと懸命にあがいているのだ。
そんな天馬に対して、自分は一体どうだろうと一成は思う。
勉強することは一成にとっての義務だった。良い大学に行くことも、優秀な成績で法曹界へ入ることも、定められたゴールだ。それを叶えるのが自分の義務だと思ってきたけれど、一つだって一成が望んだものではない。
勉強することが無駄だとは思っていないし、叶えたい夢のために学ぶこともあるだろう。誰しもが目標を持っているとは限らない。勉強を続ける内に見えていくものだってあるだろう。
しかし、一成はただ唯々諾々と定められたゴールを目指して歩いているだけだった。
それが義務で正しいことなのだと信じていたけれど、果たして本当にそうだろうかと思う。だってそこに一成の意志は一切なくて、自分で選び取ったものなんか一つもないのに。
天馬はなりたいものに向かって全力で努力する。自分の意志で、自分の頭で考えて、自分の足で進みたい道に進む。一成は一つだってしたことがない全て。
進む方向も目指す場所もみんな決められて、言われた通りに歩いてきただけで、何かになりたいと思っていたわけじゃない。
(――オレの望み)
無地のノートを見つめて一成は思う。定められたゴールも求められる将来もなく、真っ白な未来が広がっているとしたらオレは何を望むだろう、と一成は考えた。
(オレがしたいこと)
持っていた鉛筆を握りしめて、一成は白いページへ線を描く。何度も見つめてきた向日葵畑を形にしていく。天馬と見た風景を絵にするのだ。
(絵が描きたい)
鉛筆を動かしながら、はっきりと思う。希望や衝動があるとしたら、それはきっといつだって絵の形をしているのだと思う。
だって、家族の目を盗んで絵を描いてきた。誰に望まれなくても、咎められても止めることができなかった。望みはずっとこれだった。
(お芝居だって、もっとやってみたいな)
演技の経験なんて一つだってないけれど、天馬と演じる時間が一成は好きだった。
自分ではない誰かになって、この世界にいない人を生きる。まったくの別人のようで、自分の心をそっと忍ばせる。言葉や声や、仕草やまなざしで、お互いの気持ちを受け取り合って、二人で世界を広げていく。
全てが初めての経験で、戸惑いもしたけれどそれ以上に、もっと知りたいという欲求がふくらんでいった。演技としては拙いという自覚はあるから、もっと上手くなったらどんな景色が見られるだろうと思うのだ。
未来というのは、一成にとってスケジュールに記されたただの事実でしかなかったけれど。きっともっと違う意味があるのだと思った。
絵が描きたい。芝居がやりたい。見つけた願いが、空っぽだった自分を少しずつ満たしていく。