おやすみナイチンゲール 04話




 日本画の下絵を完成させたあとは作業が必要になる。麻紙ににじみ止めを施し、パネルを張り込まなければならないし、着色に至るまでにはいくつかの工程が発生する。
 道具も場所も必要なことから、大体一成は寮の倉庫を借りていた。今回もその例に漏れず、追課題を完成させるまでは倉庫の使用許可を得ている。
 
夏組は基本的に一成と一緒に過ごしたがる。だけれど、絵を描いたりデザインを制作したり、一人で集中したい時はその限りではなかった。
 一成が一人で過ごす時間を尊重し、無理についてくることはしない。そういう気遣いは、決して独りよがりにならない夏組のやさしさだ。
 ただ、心配する気持ちは健在なので時々誰かが様子を見にやってくる。
 事件が起きるよりも前のこととは言え、根を詰めすぎて食事も睡眠も取らず倒れかけた前科があるからだ。
 集中しすぎると周りのことをシャットアウトして、目の前の創造物にだけ意識が向いてしまうので、現実世界に引き戻す人間が必要なのだ。

 だから、倉庫の扉をノックされた時、一成は誰かが様子を見に来てくれたんだな、と思った。
 集中していて気がつかない時もあるけれど、幸い今日はきちんと音が耳に飛び込んだ。返事をしてから立ち上がり、いそいそと倉庫の扉を開くとそこには天馬が立っていた。一成はぱっと笑った。

「今日はテンテンなんだねん!」
「帰りも早かったから、時間もあったしな。……入っても大丈夫か」
「だいじょぶだよん! あ、でも、この辺は色々塗ってあるからあんま触んないほうがいいかも!」

 倉庫の一角に置かれたパネルを示すと、天馬は神妙な顔でうなずいた。まだ着色はされていないながら、すでに下絵は描かれている。
 悠然とした鷲の姿や風に揺れる薄の穂など、一成の形作る世界が広がっていた。天馬は思わず見入ってしまいそうになるけれど、ここに来た目的を思い出す。
 ペットボトルのミネラルウオーターを渡してやると、「ちょうど喉乾いてたんだよねん!」と嬉しそうに受け取った。天馬はその様子をまじまじと見つめて言葉を吐き出す。

「無理はしてないみたいだな。まあ、ちゃんと返事があった時点で平気だろうとは思ったんだ」

 根を詰めている場合、恐らく返事もないだろうと予想していた。そういう場合は勝手に入って様子を見るし、もしも無理をしているなら強制的に回収する予定だ。
 ただ、そこまでではないのなら放っておくし、そのために飲み物もペットボトルを用意している。これなら、片隅に置いておいて倒れたりしても辺りを汚すこともない。
 一成は天馬の視線を受け止めて、楽しそうに笑った。ペットボトルの蓋を開けて、ごくごくと喉を鳴らしつつ、倉庫の床に座る。視線でうながされた天馬も隣に腰を下ろした。

「まあ、オレ集中してると誰か来ても気づかないかんね~」

 明るい調子で告げる一成は何でもないように言うけれど。一成が絵を描く時に発揮する集中力は見事なもので、天馬は素直にすごいとは思っている。
 ただ、あまりにも周囲を遮断してしまうので、それはそれで心配だった。文字通り身を削るような、凄味さえ感じさせるまなざしで作品と向き合う姿を知っているからこそ。

「――お前が絵描いてるところ、結構好きだけどな」

 ぽつり、と天馬は言葉をこぼす。心配していることは嘘ではない。ただ、同じくらい強烈に心が惹かれるのも事実だった。
 何もない場所に、あざやかに描き出されていく一成の世界。一成の手によって、命を与えられる瞬間は確かに天馬の心を躍らせるのだ。

「マ? ありがとねん!」

 天馬の言葉を受け取った一成は、頬を染めて嬉しそう笑った。白い歯をこぼして、取って置きの宝物でも抱きしめたみたいな表情で言うので、天馬の胸がきゅっと鳴った。
 こんな風に笑ってくれることが、その顔を見られることが嬉しい。自分自身の心臓の音を聞きながら、天馬はそっと口を開く。

「お前が絵を描くのを邪魔したいわけじゃないんだ。ただ、集中しすぎると心配になるから様子を見にきてるだけだしな。まだ描くんだろ?」

 とりあえず根を詰めすぎているわけではない、ということは確認できた。それなら、天馬がここで一成を止める理由もない。恐らく一成はまだ絵を描くのだろう。
 集中したいなら、自分はここにいないほうがいいのではないか、と思ってそう尋ねた。一成は一つまばたきをするときゅっと唇を結ぶ。
 何かをためらうように視線をさまよわせたあと、へにゃりと眉を下げて言った。

「そのつもりだったけど、一段落ついてるからちょい休憩かな。追課題も大体終わってるしねん」

 言いながら天馬へ視線を向けた一成は、数秒黙る。それから、隣に座る天馬の服のすそをそっとつかむ。かろうじて指が引っかかるような、おずおずとした所作だ。
 思わず一成を注視したのは、行動の意味が分からなかったからではない。むしろ、正しく理解したからこそまじまじと見つめ返してしまったのだ。
 一成は、小さな声でささやくように言った。課題は目途がついてるから、時間ならまだあるから。

「もうちょっとここにいて」

 いつもの笑顔に似たものを浮かべて、だけれど耳まで真っ赤に染めてそんな言葉を告げられたら。イエス以外の答えなんてあるわけないだろう、と思いながら天馬はうなずいた。








 追課題としてあれこれと提出物はあるけれど、一成は順調に全てを仕上げているらしい。
 元々制作スピードの速い人間だ。集中力の高さも手伝って、インスピレーションさえ湧けば、あっという間に作品が完成する。
 今制作している三連作が最後の課題らしいので、ほとんど終わっていると言っていい状況だった。

「お前本当、同時進行作業得意だよな……課題以外も色々やってただろ」

 マルチタスクが得意な人間だということは知っていた。
 大体、絵を描きながらデザイン関係を手掛けて、舞台にまで立っているのだ。複数並行作業やスケジュール管理が不得手ではとても成り立たない。一成は明るく答えた。

「レポートは書くこと決まっちゃえば早いし、試験対策は慣れだしねん! やることパズルみたいに組み立てていって、ハマると面白いし!」

 本人は何でもないことのように言うけれど、天馬からすれば特殊能力にすら思える。天馬とてスケジュール管理が苦手なわけではないし、やるべきことをこなすことは得意だ。ただ、一成ほどではない。

「オレの場合は倉庫借りられるのも結構大きいんだよねん。作業途中でもそのままにできるし、片付けの時間取られない分課題進められるし。毎回倉庫貸してもらえてマジでありがたいな~思ってるもん」

 しみじみとした調子で一成は言って、誰にともなく感謝の言葉を口にしている。確かに、この倉庫を本来の目的以外で最も頻繁に使っているのは一成だろう。倉庫にこもる姿はよく見ている。

 一成と倉庫。その組み合わせに、天馬の頭に自然と浮かぶものがある。
 倉庫へ向かう姿を何度も見送って、何をしているのかと不思議に思っていた。大量の課題があると聞いてもいないのに、どうしてあんなに倉庫にこもるのかといぶかしんだ。
 同時によみがえるのは、スマートフォン越しに会話を交わした姿だ。この倉庫で過ごす一成と何度も話をした。
 見慣れた倉庫にいる一成の姿が、大事で仕方なかった。声を聞けることが、姿を見られることが、名前を呼ばれることが、どうしようもなく嬉しかった。

「――マジで、この倉庫にはお世話になってるよねん」

 冗談を口にするような表情で、だけれど奥底に真摯な響きを潜ませて口にされた言葉。一成が何を思い出しているのか、天馬も理解している。二人が思い描くのは、夏組に訪れた奇跡のような出来事だ。

 天馬は覚えている。一成が通り魔事件の犯人に襲われて、世界のどこを探してもいなくなった。
 二度と会えない。名前も呼べない。笑顔を見られない。伝えたい言葉は二度と届かない。永遠の喪失は、天馬の心に深く刻み込まれた。
 だけれど、天馬が訪れた別荘で過去の一成と電話がつながって、夏組は懸命に一成から死を遠ざけようとした。結果として、一成は今ここで生きていてくれる。
 ありあえるはずのない荒唐無稽な話だ。それでも、夏組にとっては紛れもない事実だったし、過去の一成が未来の夏組と電話をする際使用していたのがこの倉庫だったのだ。

「倉庫にこもってたのはたまたまだったけどさ。ラッキーだったよねん」

 一成は、何だか懐かしそうなまなざしを浮かべて周囲を見渡す。
 あの時倉庫にどんな風景が広がっていたのか、天馬は知らない。ただ、元々は課題のために倉庫を借りていたのだから、今と同じような様子だったのかもしれない。一成は小さな笑みを浮かべてつぶやく。

「別荘行けたのも嬉しかったな。通話で見せてもらってたけど、実際どんなところかな~って思ってたんだよねん」

 倉庫で一人、未来の夏組と通話をしていた時のことを一成は思い出しているらしい。
 夏組はみんな天馬の別荘にいるけれど、一成は基本的にMANKAI寮だ。みんなのいる場所はどんなところだろう、と思うのもうなずける。
 事件はあったものの、最終的に件の別荘を訪れることができたのは事実なので、一成としては嬉しかったらしい。
 天馬はその言葉に思い出すものがあって、口を開く。事件以降、天馬も別荘のことを気にしていたし、それを知っている井川は逐一情報を教えてくれたのだ。

「あの部屋、無事に修理が終わったって連絡があった。壊された窓も元通りだし、むしろ前より綺麗になってありがたいって言ってたらしい」

 恐らくそれは、別荘の管理人夫妻の気遣いなのだろうな、とは思った。だけれど、壊された部屋が元通りになったことは事実だ。通り魔事件の犯人が斧で叩き割った窓は、綺麗に修復され以前の姿を取り戻した。
 ただ、たった一つだけ元に戻らなかったものの存在を、天馬も一成も知っている。
 あの部屋には、床置きの柱時計があった。
 黒檀製で、真鍮の振り子を持っていた。青と黒のグラデーションで描かれる星空のような文字盤は美しく、それを囲む星座の絵も精緻で繊細な雰囲気があった。全ては破壊され、元の姿を取り戻すことはない。

「――時計自体はできる範囲で修復はしたらしい」
「ほんとに? よかったぁ」

 ぽつりと天馬が言葉をこぼすと、一成がやわらかに答える。無残な姿を目にしているからこそ、時計が無事に修復されたという情報は一成にとって嬉しいものなのだろう。

「職人もいないし、文字盤に使えそうな隕石も見つからなかったから、今度は普通の文字盤になってるって言ってたけどな」

 装飾的な文字盤は職人の手が必要だけれど、今はもう修理のできる職人はいないと聞く。
 さらに、銀河のような文字盤には隕石が使用されていたことは、管理人から聞いていた。だけれど、さすがに再び加工できる隕石を入手することはできなかったらしい。
 だから文字盤の修復はできなかったものの、時計自体の修理は可能だったようで、柱時計は本来の機能を取り戻したらしい。
 一成は天馬の言葉に「そっかぁ」とつぶやいた。浮かんだほほえみは、何かをそっと撫でるような慈しみと、失ったものを悼む憂いを含んでいる。

「あの文字盤、彗星と一緒に行っちゃうみたいだねん」

 静かな調子で一成は言った。壊れてしまった時計は、星の欠片を宿していた。遠い宇宙を渡ってやってきた隕石だ。だから、彗星が遠ざかるのと一緒に消えてしまうのかもしれない、と一成は言う。

 夏組みんなで見ようと言っていた彗星は、歴史に残る大彗星になった。美しい尾をたなびかせ、明るく輝く彗星は多くの人の口に上り、記憶に残るだろう。
 ただ、彗星はいずれ地球から離れていく運命だ。
 あれだけ明るかった彗星は次第に光度を落としており、11月に入ってからはずいぶんと暗くなった。かろうじて尾は見えているけれど、別荘の裏庭で見た彗星に比べればずいぶんと薄くなっている。
 連日報道されていたことが嘘のように、メディアでは一切彗星の話題が出ることはなくなった。月末には肉眼では見えなくなるだろう。
 彗星は遠ざかり、時計に宿った星の欠片は失われた。呼応するように二つは消えていく。その事実を指して、一緒に行ってしまうみたいだと一成は言うのだ。

「それなら、一緒に旅立ったのかな。だったらいいよねん。あの時計の願いと一緒に宇宙に飛び出して、好きなところに行けるなら、願った人にも会えるかもだし!」

 ぱっと笑って言うのは、時計に伝わる話を知っているからだ。
 星になった恋人ともう一度会いたいと願って作られた。だからそれなら。あの時計が宿した星の欠片が、宇宙に飛び出して夜空を渡っていけるのなら、それはきっと亡くした恋人との再会につながっている。
 失うものにすら、そうやって新しい意味を見出そうとする。それはとても一成らしい言葉で、天馬が大事にしたいと思うものだ。
 一成はいつだって、どんなに辛くて苦しい場所でも、美しいものを見ようとする。それがどれだけ天馬の支えになったか。どれだけ大切で、守りたいと思っているか。

「――そうだな」

 一成の言葉に、天馬は心から答える。
 会いたいと願った人を知っている。この世界のどこからもいなくなってしまった。何だっていいから、どんな形だっていいから会いたかった。
 そんな風に願った相手に再び会えるのだとしたら、あの時計が二度と元には戻らないという事実にも、新しい意味は生まれるのだ。

 天馬は隣に座る一成に手を伸ばして、そっと頭を撫でた。突き動かされるような愛おしさがあふれて、ほとんど衝動のままに体は動く。
 思いのほか指通りのいい髪を辿り、頬に手のひらをすべらせる。
 一成は少しだけ驚いたような表情を浮かべたあと、くすぐったそうに喉の奥で笑い声を立てた。「どしたの、テンテン」と尋ねる声はやわらかくて甘かった。

「……触りたくなった」

 少しだけ考えてから、素直にそう告げる。一成は「テンテンってば熱烈~」と笑うけれど耳は少し赤い。
 そのあざやかさがひたひたと胸に満ちて、天馬は何だか泣きたくなる。
 悲しいのでもなければ辛いのでもない。目の前で天馬の手のひらを受け入れてくれる一成が、確かにここにいる。呼吸をして、心臓を動かして、確かな血潮が体を巡っている。
 このあざやかさが、触れる温もりが答えだ。
 いなくなってしまった。冷たい体で横たわり、二度と目を開かないはずだった。だけれど奇跡が起きて今ここにいてくれるのだ。その事実が、天馬には泣きたくなるほど嬉しかった。
 天馬も一成も言葉を発することはなかった。どんな言葉も必要ではなく、分かち合う体温だけがあれば充分なのだとわかっていた。倉庫に満ちる沈黙はただ穏やかに、二人をやさしく包んでいた。

「――風が出てきたみたいだな」

 どれくらいそうしていたのか。ゆっくりと手を離した天馬は、木々の揺れる音を指してそう言う。沈黙の漂う倉庫では、風にあおられる葉の音はやけに大きく響いた。
 一成は少し耳を澄ましてから、軽やかに答える。

「夜はちょっと強風になるって言ってたかも。つむつむとガイガイが植木鉢とか避難してたよん」
「そういえばそんな話してたな」

 慌ただしく中庭と寮内を行き来していた姿を思い出して、天馬はつぶやく。ひどい嵐になるという予報ではないけれど念のために移動させておこう、と冬組が言っていたな、と思う。
 同時にずいぶん夜も更けてきたという事実に思い至る。ずいぶんと倉庫に長居しているし、恐らくいい時間だろう。
 ポケットにしまったスマートフォンを取り出して時刻を確認する。23時を少し過ぎた時間に、天馬はわずかに眉を寄せた。

「一成、お前はそろそろ寝る準備しろ。あんまり絵の時間取らせてやれなくて悪かったけどな」

 自分が来たせいで課題が進まなかったのは申し訳ないと思う。しかし、睡眠時間はきちんと取らせなくては、という思いで言えば一成が軽やかに笑い声を立てた。

「目途ついてるからだいじょぶだけど、テンテン何かオレの保護者みたいでウケんね!」

 心底面白そうに言う一成は、「すみーも保護者みたいだって言われてたし、オレの周り保護者めっちゃ多いんだけど!」と笑っている。
 確かに夏組一同は一成に対して過保護なので、その見解もあながち間違ってはいない。

「まあ、でも今日はこれくらいでおしまいにしよっかな。オレってばいい子ちゃんだから、パピーの言うことはちゃんと聞くよん」

 綺麗なウィンクを寄越した一成は、周囲に広げた画材を片付け始める。大きなものは出したままにしておくとしても、細々とした道具を放り出しておくつもりはないのだろう。
 天馬も散らばっていた雑誌や新聞紙を集めて「これはどこに置くんだ」と声を掛ける。

「別にオレが片付けるからいいのに」
「二人でやったほうが早いだろ」
「さすがパピー~!」

 イタズラを仕掛けるような表情は、単純に面白がっているだけだということはわかっている。冗談100パーセントで構成された言葉だから、特に目くじらを立てる必要はない。
 ただ、何とも言えない気持ちになってしまうのは、一成相手に父親役を担うつもりがないからだ。単なるお遊びの台詞だとわかっていても、若干複雑な天馬の心情を一成は見抜いたらしい。

「テンテン、パピーって呼ばれるの嫌な感じ?」

 わずかに心細げな表情で問いかけられて、天馬は一瞬口をつぐむ。他人の感情の機微に聡い人間だということはよくわかっていた。だから、こんな風に些細な気持ちの変化すら拾い上げてしまうのだ。
 そうして、何か酷い間違いをしてしまっただろうか、と怯えるような表情を浮かべる。そんな顔させたくないのに。思った天馬は、わずかに浮かんだためらいをすぐに掻き消して答えた。

「嫌なわけじゃない。ただ、一成相手に父親役をやるつもりがないってだけだ」

 きっぱりと言えば、一成は数秒不思議そうな表情を浮かべた。天馬の心情を探るような視線を浮かべるけれど、真っ直ぐと注がれるまなざしにすぐさま理解したらしい。
 父親でもなければ、友人相手でもない。二人きりだけの時にだけ交わされる、特別な熱をはらんだ視線。真っ直ぐと、射抜くような力強さで一成へ向かう。
 その熱につけられた名前を知っている。一成は照れくさそうに頬を染めて、それでも明るい笑顔で言った。

「うん、そだねん、ダーリン!」

 保護者の立場ではなく、恋人の呼び名がいいなんてとんだワガママだ、と天馬は思うけれど。呼びかける一成が心底嬉しそうだから何だかそれで充分だった。