おやすみナイチンゲール 05話



 夢を見ている、と思った。

 脈絡なく流れていく、いくつもの場面。断片的に浮かんでは消えていく景色を、一成はただ目に映している。バラバラになった映画のフィルムのように、意味の汲み取れないシーンが連なる。
 しかし、次第にそれらは順序よく整列を始めて一つの景色を導き出す。

 慌てた様子で大学から飛び出してきた自分自身を、一成は見ていた。周囲の状況はよくわからないはずなのに、これは9月の景色なのだと思う。
 夏が終わっても、まだ暑さが残っていた。夏季課題を提出しにいって、予定よりずいぶん遅くなってしまった。きっとみんな心配している、と思って慌てて飛び出してきた。
 夢を見る一成は、外側から自分を観察している。それなのに、胸の内に渦巻く感情は手に取るようにわかった。
 はやく帰らなくちゃ、と大通りを走っていると車から声を掛けられる。知った顔に安心して、いくつか言葉を交わす。
 顔の部部分はもやがかかっていてはっきりとしないけれど、夢の中の自分は疑いなく車に乗った。
 だめなのに、と夢を見ている一成は思う。
どうしてそんなことを思うのか、理由なんてかけらもわからないのに。笑顔で礼を言って車に乗り込む自分に、焦燥が募る。
 車に乗ってはいけない。そっちへ行っちゃだめだ。しかし、その声が届くことはなかった。車は一成を乗せて走り去っていく。


 それからさらに場面は進み、舞台は夜の公園に変わっていた。
 夢を見る一成にとっては、見覚えのない場所のはずだった。それなのに、この場所にいてはいけないと強く思った。

 辺りはすっかり暗くなっている。周囲の木々は影そのもののようで、風にあおられるたび大きく体を揺らした。まるで咆哮のようだった。
 片隅の駐車場にはかろうじて外灯が立っているけれど、この夜を照らすには到底足りない。何もかもが暗闇に塗りつぶされて、溶けていきそうだった。
 夢の中の一成は、自分がひどい間違いを犯したことに気づいていた。
 ひと気のない場所だ。助けを呼ぶこともできないし、スマートフォンを執拗に狙う相手の前では、操作することもできなかった。
 なぜなのか、一成のスマートフォンに異様に執着している。
 渡してはいけないと思った。大事な人たちにつながるスマートフォンだ。一度手に渡ってしまえば、一体何をされるかわからない。
 守らなければ。絶対に渡してはいけない。大事な人たちを、大好きな人たちを守らなければ。
 密やかな決意をした一成は、隙を見て車から逃げ出した。
 少しでもいい。距離を取ることができれば、助けを呼べる。カンパニーの誰かならきっと答えてくれる。いつだって、絶対に力になってくれる。MANKAIカンパニーのみんななら。

 しかし、夢を見る一成はそれが叶わないことを知っていた。何一つ知らない景色のはずなのに、どうしてなのか一成は全ての結末を理解していた。
 その願いは叶わない。助けは呼べない。何もかもがもう遅いのだ。
 咆哮のような木々の音を聞きながら、夢を見る一成は凪いだ瞳で全てを見つめている。

 逃げられたのは一瞬だった。すぐに追いつかれて、思い切り顔面を殴られる。崩れ落ちた体を掴まれて、駐車場を引きずられる。コンテナの裏に放り投げられた。
 弱々しい外灯が、かろうじて周囲を照らす。すぐそばまで暗闇が迫っていた。風の音が、葉擦れの音が耳鳴りのようにうるさい。
 相手の顔は見えない。ただ、向けられた視線がまとわりつくのを感じていた。
 冷淡でありながらひどく熱い。落ち着いているようで、何かが徹底的に狂っている。ぞわりと背中に走る悪寒は、夢の中の一成のものなのか、それを見ている一成のものなのか。
 からめとられるように動けないでいると、相手が一歩踏み込んだ。ぎくり、と体が強張るけれど一成は自分を叱咤して体を動かす。
 這いつくばったまま手を伸ばしたのは、放り投げられた弾みに落としたスマートフォンだ。助けを呼ぶために取り出していたから、地面に落としてしまった。
 渡してはいけない、という決意だけが一成どうにか動かしていた。
 相手よりはやくスマートフォンを掴み、そのまま立ち上がって走り出そうとする。だけれど腕を掴まれて無理に振り向かされる。
 一成が手にしたスマートフォンをもぎ取ろうと手が伸びてくる。ぎゅっとスマートフォンを胸に抱えて、決して渡すまいと抵抗する。
 大事な人たちにつながるスマートフォンだ。たくさんの思い出を詰め込んだ、一成にとっての宝物だ。決して渡してはいけない。絶対に、目の前の人間の手に渡らせてはいけないのだ。
 恐らく相手は何かを言っていた。なだめすかすような、言うことを聞かせるような、そういう類の言葉だ。だけれど一成は決してうなずかない。
 それを理解したのだろう。いくらかの押し問答のあと、相手がするりとポケットから取り出したものに、一成の体は硬直した。

 弱い外灯の下でも、それでもはっきりとわかった。鈍い銀色を弾くナイフが、一成に向けられている。

 心臓の鼓動が速い。それは夢の中の一成の心臓であり、夢を見ている一成の心臓でもある。この結末を知っている。これから起きることを知っている。体がこわばって、心臓が嘘みたいに鳴っている。
 丁寧とも言える口調で、相手は言ったのだ。スマートフォンを渡せば何もしない。おとなしく渡せばそれだけでいい。痛い思いをしなくて済む、と。
 一成は首を振った。嫌だと言った。絶対に渡さないと抵抗した。渡してはいけない。守らなくては。大切な宝物を、大事な人たちを、守らなくちゃ。
 その一心だけで激しい拒絶を示す。だからなのだろう。刃を向けたまま一成のほうへ近づくと、腕を取って声を荒げる。
 興奮した調子で掴みかかられ、一成は拘束から逃れようと必死で抵抗し、激しいもみ合いになった。
 その時だ。突然、わき腹に強い衝撃が走った。何かが当たった、と一成は思った。それから、焼けつくような熱さが広がった。
 事態を理解できないまま、一成は視線を動かす。左の脇腹に走った灼熱。何かが当たった衝撃。恐る恐る視線を向けると、自分の腹からナイフが突き出ている。

(――刺された)

 理解した瞬間、激しい痛みが一成を襲った。
 心臓の拍動に呼応して、痛みが全身を駆け巡る。視界が一気に暗くなった気がする。耳鳴りが響く。
 混乱のまま、一成は視線を上げる。目の前に相対している、自分を刺した人物を見た。
 今まではっきりとは見えなかった。顔の部分だけ、もやがかかったようにかすんでいて、どんな顔をしているのわからなかった。それなのに。

 視線を上げた瞬間、一成は理解する。夢の中の一成と、夢を見ている一成、二つの視界は重なって同じ光景を目に映す。
 がっしりした体格の、短髪の若い男性。警官の制服に身を包む。寮を見回ると言っていた。任せてください、と胸を叩いていた。
 暗い路地裏。何でもない話をしていたはずだった。スマートフォンを見たいと言う。様子が段々おかしくなる。だめだと思った。外灯の下でナイフを取り出した。逃げようとしたけれど叶わない。
 ナイフ。あの日の記憶。痛い。怖い。路地裏。掴まれる腕。あの目。この顔だ。

 暗い夜の公園でナイフを突き立てたのは、オレを刺したあの警官だ。








 絞り出すような悲鳴で目が覚めた。自分の口から発せられたものであることに気づいて、一成は慌てて口を押さえる。
 恐る恐る周囲の様子をうかがうけれど、椋が起きた気配はなかった。それでも念のため、一成はそっと体を起こした。
 ベッドで眠る椋を見れば、ちゃんと寝てくれているようだ。起こしてしまうことがなかった事実に、一成はほっとして息を吐き出す。

 しかし、心臓の音は飛び出しそうに響いて鳴り止みそうな気配もない。
 ナイフで刺された感触が、まざまざとよみがえる。夢だとは到底思えなかった。自分を刺した警官の顔がくっきりと脳裏に浮かぶ。
 路地裏でナイフを突き立てられたのは紛れもない現実で、一成の体験した過去だ。
 それを思い出してしまったせいだろうか。ひどく汗をかいていて、まるでひとしきり運動をしたようだ。パジャマ代わりのTシャツは汗でぐっしょりと濡れている。このままでは風邪をひいてしまうだろう。

 着替えなくちゃ、と一成は思う。
 さっきまで見ていた夢の内容はまだ頭をちらついている。混乱は引きずっているけれど、風邪を引いたら夏組のみんなを心配させてしまう、という頭くらいは残っていた。
 今すぐベッドから置き出して着替えをしなくては、と思うのに体が上手く動かない。
 心臓の音がうるさい。一成は混乱したままの頭で、それでもどうにか指先を動かす。ほとんど無意識で手を伸ばしたのは、枕元に置いたスマートフォンだ。
 大事な人たちにつながって、宝物みたいな思い出を仕舞っている。その事実に勇気づけられるように、混乱がわずかに静まる。
 スマートフォンにつけられたストラップが目に入った。簡素な作りの、羊毛フェルトで作られたライオン。一成は手のひらに包んで、ぎゅっと握りしめる。
 思い浮かぶもの、辿っていくたった一人。
 一成の願いを知って、叶えようとしてくれた。いつだって大切にしてくれた。心の全てを取り出して、一成に伝えてくれた。真っ直ぐと、大事なのだと言って何もかもから守りたいのだと言ってくれた。
 たった一人を思い浮かべてライオンを撫でると、どうにか一成の心は落ち着きを取り戻し始める。
 今の夢が完全に去ったわけではないけれど、のろのろと体を動かすことはできる。一成は音を立てないよう気をつけながらロフトベッドを降り、汗に濡れた衣服を取り替えた。

 着替えを終えた一成は、大きく息を吐き出した。このままベッドに戻っても眠れそうになかった。頭を切り替えたい、と思った一成はそっと立ち上がる。
 カーディガンをはおり、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。酷く喉が渇いている気がして、談話室で水でも飲んでこようと思ったのだ。
 戻ってくるころにはきっと頭も切り替えられているだろう、という希望も含めて。
 小さな明かりに照らされた廊下へ出る。
 辺りはすっかり夜に沈んでいて、見慣れたMANKAI寮が別世界のように思えた。中庭の木々が風にあおられて大きくざわめいて、一成はぶるりと肩を震わせた。
 夜には風が強くなると言っていたことを思い出す。紬やガイが中庭の鉢を寮内へ移動させていた。そんな話をしていたのだ。
 つい数時間前の会話を思い出した一成は、反射的に隣の部屋へ視線を向けた。
 201号室。倉庫の光景が思い浮かんだからだろうか。天馬の顔が見たい、と一成は思う。
 もちろん、こんな夜中にそんなことができるわけがないことは充分わかっている。だからただ思うだけだ。
 一成は一つ深呼吸をして、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。顔が見られない代わりに、手に触れるライオンから天馬の面影を辿るように。
 どうにか自分を落ち着かせて、一成は一歩踏み出す。
 足取りが重い気がするのは、真夜中のMANKAI寮が知らない場所のように思えるからだろうか。それとも、何だかやけに大きく聞こえる木の揺れる音のせいだろうか。
 わからないけれど、暗い廊下で立ち尽くしていたくなくて、一成は足早に階段をくだった。

 いつもよりも暗く思える寮内を通り、談話室へ到着する。普段なら何てことのない距離が、今夜はやけに遠かった。
 手探りでスイッチをつければ、途端に部屋は明るい光で満たされて、一成はほっと息を吐き出す。影の塊のようだった談話室が、見慣れた光景に姿を変えた。
 こんな時間に電気をつけてたら、フルーチェさんに怒られちゃうかな、なんて思いながら一成はキッチンに立った。
 立てかけられたコップ置き場からグラスを一つ取り、水を入れる。口をつけて、そのまま一気に流し込もうとした。
 喉が渇いているはずだった。それなのに、一口水を含んだ一成はそこで手を止めた。シンクにグラスを置いて、口を手で押さえる。

(――気持ち悪い)

 口の中は乾いている。それなのに、何かを口にすることを身体が拒否しているようだった。どうにか水を飲み込むけれど、同時に胃の奥から何かがせり上がってくるような感覚に襲われる。
 一成は思わずその場にしゃがみ込む。ぎゅっと目をつむり、どうにか吐き気をやり過ごそうとする。しかし、瞼の裏に浮かんだのは、先ほどまで見ていた夢の光景だった。

 暗い。夜の公園。間違えてしまった。逃げられない。鈍く光る。衝撃。焼けるような感覚。ナイフが刺さった。警官。様子がおかしかった。ナイフ。刺された。痛い。暗い。刺された。力が入らない。血が出ている。

 フラッシュバックする光景に、一成はばっと目を開く。飛び込んだのは、キッチンの床だ。一瞬意味するものがわからなくて混乱するけれど、ここがMANKAI寮のキッチンであることを思い出す。
 そうだ。ここは夜の公園じゃない。あれは夢だ。ここは寮のキッチンだ。その事実をどうにか噛み締めるけれど、心臓はドクドクと音を立てている。呼吸も荒く、視界も狭くなったような気がする。
 一成は呼吸を整えながら、自分の脇腹に手を這わせた。
 まるであの夢のように、暑さの残る時期だった。9月のあの日、警官に刺されたのはこの場所だ。押さえても押さえても血が止まらなくて、痛くて怖くてたまらなかった。
 あまりにもリアルな夢に、何だかもう一度刺されたような錯覚を覚える。しかし、傷が開いているということもなかったし、もちろん血なんて一滴も流れていなかった。
 その事実を確認した一成は、わずかに落ち着きを取り戻す。
 酷い夢だ。だけれど、あれはあくまで夢なのだ。現実の自分は怪我なんてしていないし、血だって流していない。
 それに、刺されたのは商店街の路地裏で夜の公園ではないのだ。雑然とした路地裏で警官と二人になり、もみ合ううちに刺された。
 だけれど、天馬がやって来て一成を助けてくれた。血で汚れることも厭わずに傷を押さえて、未来の話をしてくれた。怖いと言う自分に「大丈夫だ」と言ってくれた。
 確かに自分に宿る記憶を取り出して、一成は深呼吸を繰り返す。
 大丈夫。あれは全部夢だ。現実じゃない。天馬が助けてくれたことが現実だ。

 自分自身に言い聞かせた一成は、ゆっくりと立ち上がる。
 水の入ったグラスが目に飛び込むものの、さすがにこれ以上口をつける気にはなれなかった。シンクに中身を流し、グラスを洗う。
 果たして眠れるかどうかはわからなかったけれど、まさかこのまま談話室にいるわけにもいかないことだけはわかっていた。
 部屋へ戻るため、廊下を歩く。談話室の電気は消したから、玄関や廊下の薄明かりだけが寮内をかろうじて照らしている。中庭の暗さがやけに目立つような気がした。こんなに寮は暗かっただろうか。
 ざわざと揺れる木の音にいっそう不安をあおられながら、一成は部屋へ戻る。
 決して後ろは振り返らなかった。もしも立ち止まって、背後を見てしまったら。忍び寄る暗闇にからめとられて、もう二度と歩けなくなってしまう気がしたから。