おやすみナイチンゲール 11話




 夏組が一緒に寝てくれるようになって、一成は夢を見なくなった。
 耳に心地よい寝息やすぐ近くで感じる体温は、手を伸ばせばそこには夏組がいてくれることの何よりの証明だ。
 ここは夜の公園でもないし、MANKAI寮の202号室であるという事実を、言葉よりも確かに教えてくれる。悪い夢が入り込む隙もなく、一成は安心して眠ることができるようになった。
 天馬は椋から話を聞いていたようで「良い夢を見られる道具はないみたいだな」なんて、少し申し訳なさそうに言っていたけれど。「なくても全然だいじょぶだよん!」と一成は嬉しそうに答えていた。
 そういうわけで、最近では一成も一人で眠っているし、いつも通りの日常に戻っている。ただ、みんなで一緒に寝るのは楽しかったし、夏組は名残惜しそうな顔をしていたので、定期的にこんな機会を設けていいかもしれない、と一成は思っている。椋と話していたように、6人で合宿めいた夜を過ごすのだ。

 すっかり夢も見なくなったことで、一成の体調はすこぶる良い。最近では規則正しい生活をしていることもあわさって、いつにも増して生き生きといていると言えるだろう。
 おかげで、大学でもいっそうハイテンションであるとの評判だ。それは今日の都市デザイン論のフィールドワークでも同じだった。率先して張り切っており、三人グループの内一成以外の二人からは「めちゃくちゃ楽しそう」「一人テンションが違う」とコメントされている。

「やっぱ、フィールドワークってテンション上がるよねん!」

 美術館の駐車場で、車の持ち主兼運転手を待っている。平日の夕方という時間帯もあいまって、駐車場には他に車も停まっていない。駅から離れた立地ということもあり、静かな空間で一成の声はやけによく響いた。
「まあな~」と相槌を打ったのは、以前、一成のことを心配して休憩所で声を掛けてくれた友人だ。同じグループで、共にフィールドワークを実施している。
 彼は三角との会話がなかなか印象的だったようで、サンカクの某かを見つけると「これ、サンカクの人喜ぶ?」と聞いてくるようになった。一成にはそれが何だか面白い。

「いつもは構図とか塗りとか見るほうが多いから、別視点っていうのも新鮮だし!」
「確かに。順路の組み方とかあんな考えてんだなって思ったし」

 今日は、美術館のディスプレイにおける空間デザインとして、いくつかの美術館をはしごしていた。
 移動手段は車だったので、それなりに遠出もできたのはありがたかった。グループの最後の一人が免許と自家用車を持っていたのは幸いだったのだろう。
 もっとも件の運転手は、ゼミの先輩である学芸員と話をしており、まだ戻ってきていない。先輩のツテで詳細な説明を聞いたりバックヤードを見せてもらえたりできたので、実りのあるフィールドワークになった。
 全てが終わったあと、二人が親しそうに話をしていたので、一成と友人は気を利かせて「先に戻ってるから」と駐車場へ向かったのだ。ただ、そこまで長くなるとは思っていなかったので、駐車場でずっと立ち話をすることになった。

「遅くなりそうなら中入ってたほうがいいかも。カズ、寒くね? 体調悪いとかないよな?」

 何か連絡があるだろうか、とスマートフォンを取り出した友人が、ふと気づいた、といった調子で一成に問いかける。
 次第に日が落ちてきているし、気温は下がってきているので寒くはないか、と尋ねるのは自然なことだろう。ただ、体調を気遣われるとは思っていなくて一成は目をまたたかせる。

「めっちゃ元気だよん! 今日だって張り切りすぎって言われたくらいだし!」
「それはすげー知ってる。でも、ほら、カズ何かみんなに心配されてるからさ。サンカクの人もだし、摂津も気にしてたから、何かオレもうつった的な」

 真顔で言われて、一成は思わず笑ってしまう。目の前の友人は万里とも親交があるし、何となくカンパニーメンバーとの接点もある。そのおかげなのか、一成への過保護っぷりが友人にまで伝播しているのがおかしかった。

「ありがとねん! でも、オレ普通に元気だから心配しなくていいよん!」
「ならいいけど――つっても、風邪引いたら普通にやばいからやっぱ中入ってたほうがよくね?」

 言いながら、友人はスマートフォンを操作する。待ち人に対して「中で待ってるから」とでも連絡を取ろうとしたのだろう。しかし、動きは途中で止まった。遠くから「待たせた、悪い!」という声が聞こえてきたからだ。
 一成と二人で視線を向ければ、予想通り車の持ち主がこちらに向かって駆け寄ってくる。目の前まで来ると両手を合わせて「マジでごめん!」と大きな体を縮こまらせて謝罪を繰り返した。

「だいじょぶだよん! 久しぶりに会うと話弾んじゃうっしょ!」
「あの先輩話面白かったもんな」

 放っておいたら土下座でも始めそうな雰囲気の相手に、一成も友人も口々に言葉を添える。二人で話をしていたので、そこまで待ったという気もしなかったし、一成も友人もあまり他人に腹を立てるタイプではなかった。

「いや、でもマジで悪かった。大学戻ったら何かおごるわ……」

 言いながら車のロックを解除して、二人に乗車を促す。一成と友人は来た時同様後部座席へ乗り込んだ。運転席の運転手は二人が着席したことを確認すると、エンジンをかけた。ゆっくり車が動き出す。

「ただ、その前にちょっと寄り道したいっていうか、先生から連絡来ててさ。何か公共系空間グループ、オブジェとか持っていったっぽいんだけど、車出したやつが途中で抜けたっぽくて回収係が欲しいんだと」

 慣れた調子でハンドルをさばきながら、運転手はそう告げる。どうやら、戻ってくるのが遅くなったのは先輩との話が弾んだことに加え、都市デザイン論の教授から連絡が来ていたことも起因しているらしい。
 都市デザイン論のフィールドワークでは、公園などの公共系空間を選択したグループもある。その際、実際の建造物として制作したオブジェを持って行ったのはいいものの、運搬役が途中で不在になってしまったらしい。
 そこで白羽の矢が立てられたのが、車を運転している彼だったのだろう。車を使うための申請書は提出しているので、代打を探すのはそれほど難しくはない。

「おけまる~! オブジェ公園に置きっぱなしにしたほうがやばたんっしょ!」
「謎のオブジェが突然出現とか怪しすぎる。うちの大学ってバレたらやばい」
「天鵞絨町の公園だからたぶんバレる」

 軽やかに一成が答えて、友人も了承を伝える。乾いた笑いの運転手によれば、該当の公園は天鵞絨駅から二駅ほど離れた先にあるという。駅から離れていても天鵞絨町内ではあるので、謎のオブジェが出現しようものなら、十中八九天鵞絨美術大学と関連づけられるだろう。
 元々否というつもりは誰にもなかった。しかし、状況から見てもこれはもはや義務であると理解できる程度に、車内の三人は察しが良かった。

「ただでさえ予定が遅くなったのに、もう少しかかってマジでごめん。予定とかないか?」

 夕方には大学に戻る予定だったにも関わらず、車は未だ美術館で、さらにこれから公園へ向かわなくてはならない。予定があったなら大幅に狂ってしまうだろう。

「予定は特にないからだいじょぶだよん!」

 一成はすでに、夏組には遅くなる旨を連絡済みだ。大学まで迎えに行く、と言われているので帰る時間がわかったら再度連絡すると伝えてある。
 友人は特に予定がないらしく、「平気だから気にすんな」と答えている。運転手はほっとしたように息を吐いた。

「それじゃ、さっさと行ってさっさと帰ろう」

 ゆっくりアクセルが踏み込まれ、車は次第にスピードを速めていく。いつの間にか太陽はすっかり西に沈み、辺りには暗闇が立ち込め始めている。









 公共系空間を選択したグループとは、一成が連絡を取った。グループには友人がいたので、連絡先なら知っていたからだ。
 これから車で向かう旨を告げれば、感謝のスタンプが連打で返ってきたし、続いてどれだけ助かるかといった旨の言葉がこれでもかと送られてきたので、よっぽど困っていたらしい。
 行き先の公園について、一成はよく知らなかった。名前くらいは聞いたことがあるものの、特に縁がなかったのだ。
 ざっと調べてみれば、テニスコートや野球場なども完備しており思ったよりも広い。古い公園なのか大木も多く、一種森のような雰囲気さえあるらしい。
 駐車場の位置を把握していないと迷いそうだな、と判断した一成は事前に調べておく。

「こっからだとテニスコート側に着くっぽいんだけど、駐車場はそれより北にあるみたいだねん」

 スマートフォンを見ながら運転手に告げると、「なるほど」とうなずいて進路が変更される。
 幸い道はあまり混んでいなかったので、思ったよりもスムーズに車は公園に到着した。
 もっとも、すっかり日も沈んだ時間帯だ。辺りが暗闇に覆われた公園には、子どもの遊ぶ声が響くこともないし、テニスコートや野球場を利用している人間もいないのだろう。
 公園はやたらとひっそりとしていて、周囲の木々がやけに強い存在感を放っていた。昼間の主役が人間ならば、夜の主役はそびえたつような木々だと主張するように。

「……夜の公園って結構不気味じゃね」

 ゆっくりと公園へ入っていく車から周囲を見渡した友人が、ぽつりとつぶやく。
 公園の北側に位置する駐車場には、他に車は停まっていない。申し訳程度の外灯はついているけれど、周囲の暗闇を追い払うには到底足りなかった。周りを取り囲む木々に光は届かず、固まった影のようだった。

「雰囲気全然違うもんね。ちょっとホラー映画っぽい感じ?」

 茶化すように一成も答えるけれど、確かに何だかあまり長居をしたくないような気がした。背筋がぞくりと粟立って、ずっと外にいたから風邪引いたのかな、と思う。

「外灯とかあんまりないから、思ったより暗いよな。早く済ませて帰ろう」

 手早く車を駐車させた運転手が、車のドアを開けながら言う。
 一成に向かって「落ち合う場所どこだっけ?」と問いかけるので、一成はスマートフォンへ視線を向ける。這い上がるような悪寒は無視して、明るく答えた。

「中央広場にいるみたいだよん。大体解体はしたけど、重いのとかもあるから人手がほしいって!」

 笑顔で告げる間に友人も車外へ出ていくので、一成も当然あとに続いた。アスファルトの駐車場へ降り立つと、その瞬間に、奇妙な感覚が一成を襲った。
 間違えた、と思ったのだ。一体何が。一体何に対して。答えなんて見つからないのに、どういうわけか直感的に思ってしまった。間違えた。オレは間違ってしまった。
 ぞくりと背中に悪寒が走った。思わず体を震わせる。何だか胃の奥がムカつくような気がした。いつかに感じた吐き気がまた襲ってくる気がして、一成はわずかに眉を寄せる。
 些細な変化に気づいたのだろうか。先に降り立ち、広場へ向かおうとしていた友人が「カズ?」と呼びかける。
 一成は慌てていつもの笑顔を浮かべて「今行くよん」と答えた。友人は安心したようにうなずいて、広場へ向かって歩き出す。
 一成も手に持ったスマートフォンを握り直して、車のドアを閉める。前方の友人たちとは少し距離が空いてしまったから、そのまま駆け出そうと一歩踏み出したところで。
 視界に銀色のコンテナが飛び込んだ。
 駐車場の一番奥。周囲の木々との境のような位置に置かれている。それを認識した瞬間、一成の視界がぐらりと揺れる。
 暗闇が迫る。木の音がする。血の匂いがする。殴られた。引きずって行かれた。放り投げられた。ナイフ。血の匂い。スマートフォン。血が出ている。血だまりに倒れている。暗闇に侵される。耳鳴りみたいな木の音がする。

(――知ってる)

 ざああああっと、木の音が耳の奥でこだまする。実際の音なのか、記憶の音なのか、一成にはわからない。それなのに、この音を知っていることだけは確かだった。
 一成の手からスマートフォンが滑り落ちる。心臓が胸を突き破りそうに暴れている。呼吸が浅い。間違ってしまった。オレは間違ってしまった。奇妙な確信が頭を埋める。
 一成の目には、ここまで乗ってきた車も、駐車場も外灯ももはや映っていなかった。目の前を覆うのはじわじわと迫る暗闇だ。暗がりの中、地面に倒れていた。動けない。広がっていく血だまり。耳鳴りみたいな木の音がしていた。

(ここだ)

 絶望的なまでの直感で、一成は理解した。ここだ。この場所を知っている。
 一成の目に映るのは、いつかあったであろう光景だ。地面に倒れて、スマートフォンが壊されるのを見ていた。クマのストラップを必死で握りしめた。痛い。背中から、腹から、全身から血が出ている。背中に乗り上げて体を押さえつける。動けない。
 夢よりもっと確かなあざやかさで、光景の全てが一成の脳内によみがえる。
 これからどうなるのか、自分がどうなるのか。ここで一体何が起きたのか。理性ではなく意識ではなく、本能と呼ばれるべき場所はとっくに知っていた。

(この場所だ)

 思うのと同時に、一成はその場に膝から崩れ落ちた。力が入らなくて立っていられなかった。ガタガタと体中が震えている。歯の根があわず、かちかちと音を立てる。木の音を聞きたくなくて、一成は両耳をふさぐ。けれどまるで意味はなかった。
 音は脳髄をかき乱して、ただ一成を追いたてる。血の匂い。壊されたスマートフォン。血だまり。人形のような自分の手。息ができない。苦しい。暗闇が迫ってくる。うるさい。葉擦れの音。背中に乗り上げる。振り下ろされる。
 ひゅ、と喉を空気が空回る。嗚咽にも似た声が漏れて、続いて激しく咳き込んだ。体を折るようにしてうずくまる。一成の目には何も映らないし、混乱した頭では、周囲の状況も一切わからない。異変に気づいた二人が慌てて一成のもとに駆け寄ってきたことも、必死に一成の名前を呼んでいることも、何一つ認識していなかった。
 一成の頭は、ぶちまけられた感情でただひたすらに埋め尽くされる。
 痛い。怖い。いやだ。ここにいたくない。痛い。いやだ。いやだ。こにいたくない。いやだ。たすけて。ここにいたくない。ここはいやだ。
 明滅する思考の中で、一成はただ一つの確信を導き出す。この場所を知っている。この場所で起きたことを知っている。夜の公園。コンテナの裏。咆哮みたいな木々の音。振り下ろされるナイフ。何度も体に突き立てられる。この場所を知っている。ここにいたくない。怖い。助けて。いやだ。

(オレはここで殺された)

 はっきりと認識した瞬間、張りつめた意識は限界を迎えた。