おやすみナイチンゲール 12話
202号室には、天馬以外の夏組がそろっていた。床に敷かれた布団には青白い顔の一成が眠っており、周りには思いつめたような様子の夏組が無言で座っていた。ただ、扉の開く音で全員が一斉に視線を向ける。入ってきたのが天馬だと気づいて、空気がわずかに緩んだ。
「悪い。遅くなった」
「ううん。お仕事終わってすぐ帰ってきてくれたのはわかってるから……」
無理に浮かべたような笑みで椋は言う。ただ、真実心から思ってのことだということはわかっているし、急いで帰ってきたのは事実だった。
「……本当ならもっと早く帰ってきたかったんだけどな」
言いながら布団へ近づくと、幸が枕元にスペースを空けてくれた。視線で礼を告げて腰を下ろす。眉を寄せて眠っている一成の顔を、天馬はそっと見つめた。
※
撮影休憩の合間にスマートフォンを確認すると、メッセージがいくつも来ていた。何かあったのでは、という不安は的中して、一成が倒れたという。一成は無事なのか、何があったのか。焦る気持ちを抑えながらメッセージに目を通す。
大よその事情を理解した天馬は、今すぐに飛んで帰りたいと思った。しかし、ここで撮影を放り出すことはできないと天馬は判断した。一成の命に別状はないと知らされたことは大きかったし、ここで撮影を休止すれば一成が気に病む可能性が高いということもある。
ただ、一番は、一成ならば役者皇天馬であることを何よりも尊重するという確信があったからだ。ここで何もかもを放り投げることを、一成は良しとしない。だから天馬は、役者として現場に留まることを選んだ。
結局天馬は驚異的な集中力を発揮し、予定よりもずいぶん早くMANKAI寮へと帰ってきた。出迎えてくれたのは監督で、一成は202号室で眠っているという。そのまま部屋に直行しようとしたけれど、その前に少し話がしたい、と言われてひとまず談話室へ向かったのだ。
談話室には他のメンバーもいて、全員が心配そうに天馬へ声を掛けた。夏組の姿がないのは、全員202号室にいるかららしい。
談話室のソファに監督が座り、天馬も向かいに着席した。万里は監督の隣に座ると、真っ先に口を開いた。
LIMEのメッセージでは、大学の課題中に一成が倒れて病院へ搬送されたこと、容態の説明などが簡単に記されていた。万里はその間を埋めるような、詳細を説明するつもりらしいと察する。
「連絡先わかるの俺だけだったっぽいんだよな」
淡々と万里は語る。
一成は大学のフィールドワークで訪れた公園で、突然昏倒した。明らかにパニックを起こしており、尋常ではない状態に周囲にいた友人が救急車を呼んだのだ。それを待つ傍ら、家族に連絡するべきではと思ったらしいけれど、家族の連絡先など知るはずもない。
ただ、そこで思い浮かんだのが、一成が現在同じ屋根の下で暮らしている存在――MANKAIカンパニーだった。
友人は、幸い万里の連絡先なら知っていた。教授などの学校関係者に連絡してから、万里にひとまずメッセージを送ったのだ。一成が倒れたこと、これから病院に向かうこと、病院がわかったらまた連絡すること。
「今日はたまたま寮にいたんだよな。だから、ソッコーそいつと連絡取って、病院聞き出して監督ちゃんたちと一成んとこ行った」
天馬以外の夏組は寮にいたので、ともに病院へ向かった。その頃には一成の家族とも連絡がついており、病室には見知った顔がそろうことになったのだ。
「検査は一通りしたの。だから、どこか怪我をしたとか、体の調子が悪いわけじゃないってことはわかったんだけど……一成くん、ひどく混乱してて……」
沈痛な面持ちで監督はつぶやく。体に異常がないことは良い知らせと言えた。ただ、いつもは明るい笑顔で周囲に光を連れてくるような一成が、怯えと混乱で体を縮こまらせる様子は、監督の胸にひどい痛みを与えた。
「家に帰ったほうがいいんじゃないかって話にもなったんだけど、一成くん夏組と一緒にいるのが一番落ち着くみたい。だから、寮に帰ってきてもらったの」
傷ついたようなまなざしを浮かべていたけれど、監督は真っ直ぐと天馬を見つめて言った。何かを決意するような、凛とした空気が漂っている。
恐らく、監督は病室で一成の様子を目にして、周囲の状況を理解し、決意したのだ。一成が寮に帰るというのなら、その場所を全力で守るのだと。
監督は言う。病室の一成はひどく混乱していたけれど、夏組の存在を認識するとわずかに落ち着きを取り戻した。その様子を見ていた家族や医師は、夏組と共に過ごすことが最良の選択であると判断した。だからこそ、家ではなく寮へ戻ることになったのだろう。
「ただ、完全に落ち着いてるわけじゃないから、今は薬を飲んで眠ってるところだよ。あんまり眠れないかもしれないからって、今晩の薬ももらってきてる」
夏組の存在で混乱が静まったとは言え、調子を取り戻したわけではない。起きている間にひどく混乱するようなら、今日は薬を飲んで眠るよう医師からは伝えられている。夢も見ずに深く眠れるはずだ。
それから監督は、手短に現在の状況を説明する。
ロフトベッドでは様子がわからないから、下で眠れるようにしてあること。夏組が添い寝していたことは知ってるけれど、今日は人数を増やして202号室で一緒に寝てほしいこと。夜間には、時々一成の様子を見てほしいこと。
告げられた言葉の一つ一つに、天馬はうなずく。監督に言われるまでもなくそうするつもりだったし、一成のためにできることなら何だってしてやりたかった。
監督は天馬の様子を少しだけ見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。ためらうような空気がわずかに流れたけれど、すぐに吹っ切ったようだ。
「天馬くんなら、言わなくてもそうしてくれると思うけど……今日はずっと、一成くんのそばにいてあげてね」
微笑みを浮かべようとして上手くいかなかったような顔で、監督が言った。天馬が思わず目をまたたかせたのは、そんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
もちろん、言われなくてもそばにいるつもりだった。だけれど、なぜ改めてそんなことを言われるのか、という気持ちで監督を見つめた。
「一成くん、ずっと天馬くんのこと探してたんだよ」
落ち着いた口調で監督は言う。
病室に夏組が現れた時、一成の混乱はわずかに静まった。ぎゅうぎゅうと自分を抱きしめてくれる夏組の存在に、ようやく自分を取り戻したようだった。ただ、ある程度落ち着いた一成は誰かを探すように視線をさまよわせた。
はっきりと名前を口にしなくても、誰を思い浮かべているかなんて一目瞭然だった。ここにはいない夏組のたった一人。全員がそろうには足りない。天馬の姿を探していた。
もちろん、一成は「天馬はどこか」なんて聞かなかった。だけれど、一人分の空白を確認するような視線に、病室に誰かが訪れる度にはっとしたような表情を浮かべる姿に、大多数の人間は察しただろう。ここにはいない人を、夏組の最後の一人をずっと探している。
告げられた事実に、天馬は唇を噛む。監督がためらったのは、天馬が動揺することを予想していたからだろう。
実際、天馬の心はざわざわと波立って騒がしい。現場を放り出さなかった自分の判断は間違っていないと、今も天馬は思っている。一成とてうなずいてくれると思う。
だけれど、それでも、一成が自分を探していたと聞かされて平静でいられるわけではなかった。
「刺された時のこと、思い出してるみてえなんだよな」
ぼそり、と万里が言った。混乱した一成の言葉を拾い集めれば、一体何がそこまでの恐慌を引き起こしているのかを察することは難しくなかった。理由もきっかけもわからない。ただ、一成は自分自身が刺された時のことを繰り返し思い出している。
「だから、まあ、天馬がいれば安心なんじゃねえの」
いつもの笑みに似た軽い口調で、だけれど奥底に真摯さを潜ませて万里は告げる。
一成が刺された時、路地裏に天馬が現れたことで犯人は現場から逃げ去った。だからこそ、天馬がいれば脅威は去ると思えるのではないか、というのが万里や監督の見解だ。
天馬がいれば安心だと、天馬がいればもう襲われないのだと。そう思えるからこそ、天馬のことを探したのではないか。そう考えているから、「一成のそばにいてほしい」と告げたのだろう。
天馬は自分の拳をぎゅっと握った。二人の予想が間違っているとは限らない。一成がそんな風に思って、天馬のことを求めてくれるのかもしれない。だけれど、恐らく違うのだと天馬は理解していた。
監督や万里をはじめ、カンパニーのメンバーに過去の記憶はない。だから、一成の混乱は路地裏で襲われたことに起因していると考えるのが自然だ。
だけれど、夏組だけは知っていた。一成が昏倒したという場所を聞いた時点で、一体何が起きたのかを理解してしまった。
一成の頭によみがえるものは、路地裏で襲われて結果的に助かった光景ではないはずだ。恐らく、一成が思い出したのは、まざまざとよみがえったのは、夜の公園で、たった一人命を奪われる瞬間だ。
その時、一成が天馬にすがりついたことを知っている。駆けつけられなかった天馬のことを思ってクマのストラップを握りしめて、最期に天馬の声が聞きたいと願った。天馬がいれば安心できるだとか、そういう話ではない。ただせめて、終わってしまう前の願いの欠片が残っていたから、一成は天馬の姿を探したのだろう。
それを二人に言うつもりはなかったし、どんな気持ちからであろうと、自分を探したことは事実だ。それなら応えるまでだし、今度こそそばにいてやりたいというのは限りない天馬の本心だ。
だから、天馬は小さく深呼吸して表情を引き締める。瞳に宿った決意は演技でもないし取り繕ったものでもない。今度は一成の手を握っていてやるのだ、と思いながら口を開く。
「ああ。一成を守ってやる」
きっぱりと告げれば監督はほっとしたようにうなずいて、202号室へと送り出してくれた。
※
ここに来るまでの経緯を思い出した天馬は、改めて一成の寝顔を見つめる。最近ではずいぶんと調子も良さそうだった。だけれど、今横たわる一成の顔はひどく青白く見えた。
薬が効いているはずだけれど、苦しそうな表情が浮かんでいて天馬は泣きたい気持ちになる。二度と辛い思いなんてしてほしくないのに。苦しませたくないのに。
「――そろそろ、薬が切れる時間なんだって」
ぽつり、と言葉を落としたのは九門だった。九門が引き寄せたお盆には、ミネラルウォーターのペットボトルとグラス、薬の袋が置かれていた。
「カズさん、水だけでも飲めるかな。何にも飲んでないみたいなんだ」
混乱している間は何も口にしていないし、それ以外はこんこんと眠り続けている。せめて目を覚ました時には、水だけでも飲めたらいいんだけど、と言う九門は心配そうに一成を見つめていた。
九門以外の夏組も、似たような表情で眠る一成を見守っている。「かず……」と言葉を落としたのは三角だ。迷子になったみたいな顔で、布団の端っこを握りしめていた。一成がどこかへ行ってしまわないように、この場所につなぎとめておこうとするみたいに。
その顔に浮かんだものに、天馬の胸は締めつけられる。全員一成のことが心配でたまらないのは当然だけれど、三角の表情が意味するものはそれだけではないのだとわかっていた。三角はきっと思い出している。一成が倒れた場所が持つ意味を理解しているからこそ。
三角と二人で、一成を探して夜の街を走った。集った猫からの情報で公園へ向かった。三角と天馬はがらんとした駐車場で、コンテナの裏へ向かおうとしたところを引き留められた。
そこに一成はいたのだ。血だまりの中で、輝きを一切失って事切れていた。千景や密、左京によって直接遺体を見てはいない。だけれど、あの公園で一成が死んだことは事実だった。
その場所で、一成は倒れたのだ。まるで、過去が一成を連れて行こうとするみたいに。遠ざかったはずの過去が、再び一成ににじり寄ってくるみたいに。だからこそ、三角は不安げな表情を浮かべているのだと、天馬にははっきりとわかる。
「――あの公園に用ができるなんて、思わなかった」
後悔を塗り固めたような声で幸がつぶやく。
一成が倒れた公園。天鵞絨駅から二駅ほど離れた場所にある。木々が多く茂る、存外に大きな公園だ。過去の記憶を持つ夏組だけが知っている。あの場所で、一成は死んだ。犯人によって殺された。
ただ、夏組は誰も一成にそのことを伝えていなかった。天鵞絨町内にある公園とは言え、一成とは縁のない場所だ。日常生活で訪れる理由もないのに、わざわざ自分が殺された記憶を明確にする情報なんて教えなくていいと思ったのだ。
万が一用事ができたとしたら、その時に初めて告げることにしたかもしれない。だけれど、そんな予兆はかけらもなかったから、黙っていることにした。それが結果として、一成を混乱に陥れることになってしまった。
後悔しているのは全員同じだった。
何も知ってほしくなくて、殺された記憶なんてなかったことにしてほしくて、何も伝えないことにした。だけれど、きちんと教えていたならこんな風に苦しまなくて済んだのではないか。一成のことだから上手に回避してくれたかもしれないのに。守ろうとした行動が、却って一成を傷つけることになるなんて。
夏組の誰もが沈痛な面持ちで、自分たちの選択の間違いを思い知っていた。
誰も何も言わない。時計が秒針を刻む音だけが響いている。ただ、眠る一成を見つめているだけの時間が過ぎていく。ふだんの騒がしさが嘘のように、沈黙だけが部屋を支配していた。
それが一体どれくらいの時間だったのか、夏組にはわからない。だけれど、静まり返る部屋に突如別の音が飛び込んで、誰もがぴくりと反応した。眠る一成が身じろぎをして、小さく声を漏らしたからだ。
夏組は勢い込んだ様子で、一成へ視線を向ける。一成はぎゅっと眉を寄せて、くぐもった声を唇から落とす。それから、ゆっくりと目を開けた。緑色の瞳が、ぼんやりとした様子で周囲を見渡す。
「カズくん!」
「かず!」
椋と三角が声を掛ければ、一成はぼうっとした調子ながら二人の名前を呼んだ。人物としての認識はしているようだけれど、声は未だにぼんやりしていた。九門がはっとしたように「カズさん、水飲める?」と尋ねて、幸が「全然何も飲んでないでしょ」と続ける。
一成は「みず……」とつぶやいたあと、ゆっくりと肯定を返した。体を起こそうとしていることを察して、天馬が手を貸してやると、一成が少しだけ驚いたような顔をした。
まさかいるとは思っていなかった、といった様子に天馬は意識して笑顔を浮かべた。泣きそうな顔を見せたくはなかったし、一成は天馬の浮かべる笑顔が好きなのだと知っていたから。
九門は手際よく水を用意した。グラスを受け取った一成は「ありがとねん」と言って笑った。明らかに無理をしているぎこちない笑顔だった。
「――てか、みんなごめんね。テンテンも、仕事だったっしょ」
グラスの水を二口ほど飲んでから、一成は言った。だいぶ落ち着きは取り戻しているのか、ここに来るまでの経緯もきちんと把握しているらしい。病室での混乱ぶりや夏組の存在で自分を取り戻した過程を指して、迷惑をかけてしまった、と申し訳なく思っている。
夏組は当然そんなことはない、と言い張ったし、天馬も撮影は全部終わってる、と告げた。一成はほんの少しだけ、ほっとしたような空気を流した。
「ならよかったんだけど。でも、マジでめっちゃ迷惑かけちゃったな~って。大学の友達もびびらせちゃったと思うし、まさかいきなり思い出すとか思わないじゃん?」
軽い口調だった。冗談を口にするような響きだった。だけれど、それが一成の精一杯の強がりであることくらい、全員わかっていた。一成は笑顔を浮かべたまま、水の入ったグラスを両手で包んで言葉を続ける。
「マジで予想外っていうか、もうちょっと予兆とかほしいよねん。こんな、いきなり思い出す、とか――」
貼りつけた笑顔のまま並べた言葉が、弱々しく消えていく。視線がぎこちなく揺れて、自分の手元に注がれている。グラスを握る手に力が入る。
「ただの夢じゃないってわかってたんだけどさ。これは過去に起きたことなんだって、オレの二つ目の記憶なんだって、わかってた」
唇だけは引き上げたまま、一成は言う。自分が死ぬ夢を見るということを、夏組は知っている。一成自身、それが単なる夢ではなく過去に起きるはずの出来事だと理解していた。だから、突然よみがえった記憶は夢の再現だということもできるはずだった。
「でも、違うんだ。こんなの、全然違う。夢じゃなかった」
視線を上げた一成は、ほほえみながら告げる。声は震えて今にも泣き出しそうなのに、浮かんだ表情はどこまでもよくできた笑顔だ。
天馬はとっさに口を開く。いつだって笑顔でいようとする一成の強さを、天馬は尊敬している。何よりも美しいものだと思っている。だけれどそれでも、今だけは。
「笑うな」
心やさしい目の前の人間は、自分が辛い顔をすれば悲しんでしまう人のことを思って胸を痛めるのだ。だから笑っていようとするけれど、今だけはそんなことをしなくていい。
心から思って告げると、一成はくしゃりと顔を歪めた。ゆらゆらと揺れる瞳で、犯した罪を告白するような響きで、一成は言った。
「思い出したよ」
小さな声で言う一成は、もう笑ってはいなかった。思いつめるような表情で、苦しそうな顔で告げた。
夜の公園で、一成ははっきりと理解した。夢で見ていた光景は、過去に起きたはずの出来事だ。自分が体験すべきただの現実だ。わかっていたから、単なる夢ではなく己が宿すべき記憶だと認識していた。だけれど、今日夜の公園で何もかもがよみがえった時、一成は理解した。
「夢の再現じゃない。夢を覚えたんじゃない。これは、オレの記憶だ」
現実のような夢ではなかった。起こるはずだった出来事の追体験ではなかった。渦巻く記憶に、襲い来る情景に、一成は理解した。全身の全てで悟った。
これはオレの記憶だ。オレが実際に体験したことだ。今までずっと忘れていただけだ。
本当はずっと奥底で眠っていた。どこか遠くの、ほんの少し違う世界の自分が体験した出来事を夢に見ているような気でいた。だけれど違う。これは全部、間違いなくオレが体験したことだった。オレの記憶だ。
「――オレは死んだ」
告げる声は震えていた。グラスを握る指が力を込めすぎて白くなっている。天馬はその手に自分の手を重ねた。
思い出した、と一成は言う。恐らくそれは、自分たちが二つの記憶を取り戻したのと同じ意味を持つ。だけれど、一成の告げる言葉はどれほど残酷なものか。だってそれは、自分の命が失われる瞬間だ。
天馬をはじめとした夏組は、一成が死ぬ過去も一成が助かった過去も、どちらの記憶も持っている。並立するはずはないけれど、間違いなく自分自身のものだと認識していた。だからこそ、一成の言葉の残酷さを誰より理解している。
一成は確かにここに生きている。だけれど、同時に一成は自分自身が死んだ過去を自分のものにしてしまった。まるで現実のような夢ではなく、遠い世界の自分に起きた出来事を体験するのではなく。全ては自分自身に宿った記憶だったのだと認識してしまった。
どこかの自分ではなく、今ここにいる自分自身の身に起きたことなのだと。他の誰でもない自分の記憶として、思い出してしまった。
さらに、一成が思い出したのはただ死ぬだけの過去ではなかった。悪意を持って、命を終わらせることを目的として、何もかもが踏みにじられた。己自身の最期の瞬間は、たった一つの残酷な現実を思い知らせた。
一成の奥底で眠っていた記憶は、まざまざと告げる。何度もナイフを突き立てられて、痛みと苦しみを与えられて、一成は。
「ころされたんだ」
落ちる言葉が揺れている。緑色の目はただ茫然としていて、どんな光も宿っていなかった。天馬はただその手を包み込むしかできなくて、夏組の誰も言葉を発せなかった。