おやすみナイチンゲール 13話
それから一成は、処方された薬を飲んで眠りについた。
夏組の存在のおかげでずいぶん落ち着いてはいたけれど、混乱が去ったわけではなかったからだ。殺された瞬間は唐突によみがえる。すると、呼吸が上手くできなくなり、動悸や眩暈を引き起こす。
辛そうに横になって丸くなり、顔を歪める様子からは身体的な負荷が顕著であることが見て取れた。ひとまず今晩はゆっくり休ませるべきだと判断した。
夏組は全員202号室で眠って、一成の様子を見守った。幸い薬はよく効いて、一成は一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。
◆
朝になれば、一成はだいぶすっきりした顔をしていた。薬の力とは言え、よく眠れたことが良かったのかもしれない。
202号室に全員集合している夏組に「マジでみんなめんご~」と両手を合わせる様子は軽い。「お前が謝ることじゃない」と天馬が答えれば、「テンテン、さすがイケピコ☆」と笑う顔も、まるでいつものようだった。
談話室で、心配していたメンバーや監督に挨拶する時も、一成はテンションが高かった。
昨日の様子を知らなければいつも通りだと思ってしまうくらい、軽やかな調子で言葉を交わしているのだ。ただ、それが一成の空元気であることは恐らく全員気づいている。それでも、一成がいつも通りを望んでいるのだと察して、特段変わらない様子で振る舞ったのだ。
ただ、「大学に行く」と言い出した時はさすがに全員止めた。いくら何でも、昨日の状態を知った上で送り出せるわけがない、今日は休め、と言ったのだけれど。
「でも、オレどっか悪いわけじゃないし。怪我も病気もないってお医者さんにも言われてるっしょ」
あっけらかんと一成は言う。確かに、昨日の検査で身体に異常がないことは証明されている。現に、パニックを起こしていない一成は健康そのものなのだ。
「ただでさえいっぱい休んじゃったかんね。また欠席するのはちょっちヤバイし。それにほら、昨日世話になった友達に元気な顔見せておきたい的な?」
軽い口調で告げられた言葉は一成の本心だろう。ただ、恐らくは最後の部分を気にしているんだろうな、というのは天馬にもわかった。
昏倒した一成のために救急車を呼び、病院まで付き添ってくれた。万里をはじめ関係者に連絡を取ってくれたという友人だ。一部始終を目の前で見ているのだから、心配していることは確実だった。
さらに一成は、元々そんなに遅くならないコマ割りであることを主張する。ついでに、寮にこもっているより外に出たほうが気分転換になる、という言葉も付け加えられて、最終的に一成の意見は採用された。
ただし、送り迎えは夏組必須が条件だった。一成は「大丈夫だってば」と相当渋っていたけれど、決心が揺らがないことを見て取って折れてはくれた。
結果から見れば、一成は大学でも特に問題なく過ごしていた。空元気の類ではあったけれど、事情を知らなければ至って普通の一成だった。気分が悪くなることも倒れてしまうこともなく、全ての時間をいつも通りに過ごすことができたのだ。
その事実は一成を勇気づけたのだろう。授業を全て終えて明るい内に帰宅した一成は、ずいぶんと普段の調子を取り戻していた。朝の内の空元気ではなく、実際気分が良さそうだった。
件の友人たちにも元気な様子を見せて、安心させることができたと嬉しそうに報告するので、カンパニーメンバーの間にもほっとした空気が流れる。
ぐったりとした様子で、傍から見てもわかるほどひどい混乱をしていた姿がまるで嘘のようだった。恐らくこの調子であれば、二・三日もあれば元の元気を取り戻すだろう、と自然に誰もが思った。
「一成、何か食べたいものがあればリクエスト聞くぞ」
談話室で大学の様子を楽しそうに話す一成に向けて、臣は尋ねた。昨日は何も食べていないことを聞いていたから、今日は何か好きなものを食べさせてやりたいと思ったのだ。一成はぱっと顔を輝かせて、キッチンへ近づいてくる。
「めっちゃ嬉しい! でも、おみみの作るものって何でも美味しいから逆に迷うんだよねん!」
「はは、ありがとう。そうだな……一応、今日は大事を取って消化のいいもの――うどんにでもするか?」
「そういえば、うどんとか最近食べてないかも!」
わきあいあいとした会話を交わすうちに、本日のメニューが決められていく。サラダや副菜の話をしている間も、一成はいつものようにスマートフォンであれこれ献立の選択肢を挙げている。気づけば椋や九門も加わって、今日の夕食はほとんど夏組のリクエストになっていた。
「夕食めっちゃ楽しみ!」
明るい笑顔で言う一成の様子に、臣をはじめとした談話室のメンバーにはほっとした空気が流れる。今の一成には、混乱の影は欠片も見えない。椋や九門と夕食について話している姿は、すっかりいつも通りだった。
◆
202号室で、一成はパソコンに向かっていた。最近どうも手が回っていなかった、MANKAIカンパニーのWebサイトを更新するためだ。定期的な更新はSNS上でも大事だし、そうでなくてもメンテナンスは必要だった。
部屋には至って自然な様子で夏組が集まっている。ベッドから降ろされた布団や、持ち込んだ布団を端っこに寄せて、めいめいが自分の位置を確保していた。
時折ゆるやかな会話が飛び交いつつも、部屋の雰囲気は穏やかだった。一成もずいぶん集中できたので、更新作業もはかどった。
昨日の混乱を一成はしかと覚えている。だから、普段通りの生活に戻れるのか心配だったけれど、この分なら問題なさそうだった。
大学にも普通に行けたし、授業だって受けられた。カンパニーでもいつも通りだし、Webサイトの更新作業にも問題はない。板の上には立っていないけれど、台本はちゃんと読めたし恐らくいつも通りに行えるだろう。
よかった、と一成は思う。過去を思い出したことで、もしかしたらまた夢を見るかもしれないから、まだ油断はできない。それでも、今のところ普通の生活を送れているという事実は、一成に確かな安堵をもたらしていた。
「そろそろ夕食の時間だね」
パソコンに集中していると、不意に椋の声が響く。一成が顔を上げて時間を確認すれば、確かにもうすぐ夕食の時間だった。
三角と九門が「手伝いに行ってくる」と言って部屋を出ていったことを思い出す。一成も当然手伝いを申し出たけれど、案の定二人は「カズさんは休んでて!」「かずはゆっくりしててね」と言って、同行を許してくれなかった。他にも手伝いはいるだろうし、夏組からは二人で充分だと言って出ていったのだ。
あれからあまり時間が経っていないように思えたけれど、そんなことはなかった。集中できていたという証拠だろう。
一成はぐっと伸びをして、椋に向かって「うどん楽しみだねん」と声を掛ける。椋はぱっと顔を輝かせて「うん! 臣さんのポテトサラダも楽しみなんだ」と答えた。一成は相槌を打ってから、部屋を見渡した時に浮かんだ疑問を口にした。
「てか、テンテンいなくね?」
「何か電話来て部屋戻った。仕事の話なんじゃない」
机上のノートを片付けながら、淡々とした調子で答えたのは幸だ。仕事の話は機密もからむので、天馬は人前で話さないようにしている。わざわざ部屋から出たというのはそういうことなのだろう、と夏組は察した。それ自体はたまにあることなので、集中している一成に声を掛けるほどではない、と判断したらしい。
「さっき出ていったから、すぐ戻ってくると思うけど――夕食行くんでしょ」
「うん。配膳の準備なら人手があっても邪魔じゃないと思うし……」
控えめな椋の言葉に幸はうなずくと、ゆっくり立ち上がった。本とノートを片付けるついでに部屋へ戻るので、天馬に夕飯へ行く旨を連絡すると言う。何も言わないまま談話室へ向かうとあとで拗ねそうだし、と呆れたように肩をすくめるけれど、幸なりの気遣いであることはわかっていた。
幸が部屋を出て行き、202号室には椋と一成だけが残される。椋は手早くノートを片付けるし、一成もパソコンをシャットダウンした。天馬と幸もすぐに来るだろう、というわけで二人は先に談話室へ向かうことにした。
何てことない話をしながら、椋が扉を開いた。
小さな明かりに照らされる廊下と、闇に沈んだ中庭が目に入って、一成はわずかに息を呑む。暗い、と思った。夜の時間帯なのだから当たり前だと理性は言っている。緊張する必要なんかないし、心臓が速くなる理由もない。わかっているのに。
「今日はたぶん、夕食の時間にはみんなそろうみたい――カズくん?」
廊下へ足を踏み出した椋が、不思議そうな表情で問いかける。雰囲気が強張ったことに気づいたのかもしれない。一成はとっさに笑顔を浮かべて、勢いをつけて部屋を出た。そうしなければ、立ち止まってしまうと思ったのだ。
普段通りの生活ができているはずだった。いつもの毎日なら、こんなところで足がすくんでしまうわけがない。だから先へ行かなくては。いつもみたいに進まなくては。いっそ強迫的な意志だけで、一成は足を動かした。椋を追い越し、廊下に立つ。
視界いっぱいに暗闇が広がる気がして、一成は拳を握った。心臓の音が頭に響く。意識して呼吸を繰り返した。ちゃんと息を吸わなくては。ここで倒れてしまうわけにはいかない。
廊下には等間隔に小さな明かりが灯っている。中庭に外灯の類はないから、各部屋の外廊下に取りつけられた電灯と、窓から漏れる明かりが唯一の光源だ。数が多いこともあり、普段ならそれでも事足りる。
だけれど、今の一成にとってはあまりにも弱かった。中庭の暗さが際立って、夜闇が周囲からにじり寄ってくるようだった。
「――行こっか、むっくん」
せめて談話室へ辿り着ければ、という気持ちで一成は声を絞り出す。ただ、その声はとてもいつも通りとは言えない。椋も当然気づいて、心配そうに「体調が悪いなら無理しないで」と声を掛ける。
大丈夫だよ、と言えるはずだった。闇をまとった中庭に平静でいられないのは確かだ。だけれど、明かりのあるところまで行ければ。談話室まで辿り着くことさえできれば、まだ普段通りの生活に戻れると思った。そうしたら、暗いのちょっと苦手になったかも、なんて笑い話にしてしまえる。このまま、暗闇に目を凝らさなければ。真っ暗な中庭を目に映さなければ。殺されたあの瞬間を思い出さなければ。
切実な願いを握りしめて、一成は足を踏み出した。心臓の音が激しく鳴っている。息の仕方がわからなくなりそうだ。だけれどまだ歩ける。まだ進める。このまま談話室まで辿り着ければ、まだ自分は大丈夫だ。今まで通りでいられる。何も変わってなんかいない。ギリギリのラインで踏み止まっていられる。
意識的に呼吸を繰り返しながら、もう一歩進もうとした。その時不意に、風が吹いた。
冷たい空気が一気に駆け抜ける。MANKAI寮の廊下を通り、中庭をかき混ぜてあっという間に去っていく。存外に強い風だった。中庭の木を大きく揺らし、梢同士がざわめきあう。辺りは数秒の喧騒に包まれるものの、すぐに静けさを取り戻した。
たった数秒。ほんのまばたき二つ分程度、それだけだった。それだけで充分だった。
耳鳴りのような葉擦れの音は、ギリギリのところで己を支えていた一成を一瞬であの夜まで連れ去った。
暗い。辺りを覆う暗闇。咆哮する木々。地面に倒れている。動けない。殺される。ナイフ。スマートフォン。血の匂い。痛い。血が出ている。殺される。
「カズくん!」
耳をふさいでその場にしゃがみこむ一成に、椋が叫ぶ。抱きしめるようにその体を支えて、「カズくん、ボクの声が聞こえる?」と尋ねるけれど、一切反応がない。目を開いてはいるのに、何も映していなかった。
病室で混乱していた一成はまさしくこんな状態だった。今、一成の心はここではないどこかに行ってしまった。体を震わせて、うわごとのように「いやだ」「こわい」という言葉だけがこぼれおちていく。
一成の肩を抱いた椋は、とっさに周囲へ視線を向ける。
ボクだけじゃだめだ。夏組のみんながいてくれたから、カズくんは落ち着いてくれた。病室での出来事を思い出した椋は、ほとんど反射で叫ぶ。202号室の隣。見慣れた扉に向かって。
「天馬くん! 幸くん!」
誰より頼りになるリーダーと、いつだってカッコイイ男の子。二人は部屋にいるはずだ、と名前を呼べばすぐに扉が開いた。切羽詰まった声を察したのだろう。天馬と幸は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたものの、即座に事態を理解した。
「っ、一成」
天馬がしゃがみこみ、一成の背に触れる。しかし、反応することはなく耳をふさいだまま体を震わせている。
幸が焦ったような声で椋に事情を尋ねるけれど、椋にも何が起きたのかはよくわかっていない。ただ、部屋を出た時から様子がおかしかったことと、風が吹いたと思ったら一成が崩れ落ちた、という事実を伝える。
「天馬くん。ボク、九ちゃんと三角さん呼んでくる」
立ち上がった椋はそう言って談話室へ駆け出していく。夏組が全員集まったほうがいい、という判断だろう。幸はその言葉にはっとした顔で「監督も連れてきたほうがいいかも」とつぶやく。天馬に向かって強い視線を送り、「一成のことは頼んだから」と告げて足早に去っていった。
その間も、一成はぎゅっと体を縮こまらせて震えている。バタバタと夏組が慌ただしく行き来しているからだろうか。他の部屋からも、ちらほらと団員たちが顔をのぞかせている。
天馬はそれを認識しつつも、状況を説明する余裕がない。「こわい」「いやだ」と言ってカタカタと震える一成を抱きしめながら、自分にできることは何かと必死で頭を働かせている。
監督や万里の話から考えて、恐らく一成は自分が殺される瞬間を思い出している。こぼれる言葉からも、迫るナイフから逃れようとしていることが理解できて、一成の体を抱きしめる腕に力が入った。ここには一成を傷つけるものは何もないのに、一成は今もあの夜に捕まったままだ。ここはMANKAI寮で、誰も一成を傷つけなんかしないのに。
そこまで思ったところで、天馬の胸に疑問が浮かんだ。椋の話を聞いた時から不思議には思っていたのだ。一体どうして、今この瞬間に突然一成があの夜を思い出したのか。だってここはMANKAI寮で、一成が殺された公園ではない。昨日、一成が昏倒したのはまさしくその場所だったからだと思っていた。だけれど、ここは公園じゃない。
天馬は震える一成を抱きしめて「大丈夫だ」とささやきながら、そっと視線を周囲に巡らせる。ここは決して公園じゃない。だけれど、公園を思い出させるような、一成が殺された場所に連なるものがあるとするならば。
椋の言葉と、今目の前の光景が天馬の頭には思い浮かぶ。部屋を出た時。風が吹いた。耳をふさいでいる。あの夜。断片的な事実が明滅を繰り返して、結びついては離れていき、やがて一つの形になる。
「一成、ちょっと移動するぞ」
混乱したままの一成に天馬の声は聞こえていないだろう。それでも名前を呼んでから、天馬は一成を抱きかかえた。一成は抵抗することもなかったし、元々線が細いこともあいまって、思いの外簡単に腕の中に収まる。その軽さに騒ぐ胸を無視して、天馬は一成を抱きかかえて202号室へ戻った。
電気を点けて扉を閉めれば、暗闇は見えなくなる。こうこうとした明かりが灯る部屋では、外の音も遠い。その事実を確認した天馬は、そっと一成を床へ降ろした。しかし、特に反応することはなく、耳をふさいだまま震えている。
天馬は少しだけ考えたあと、細い体を抱き寄せた。一成はされるがまま、天馬の腕の中へ収まる。思う限りのやさしい声で、天馬は言う。
「一成、大丈夫だ。ここはお前の部屋だろ」
動かないままの一成の頭を、天馬はやさしく自分の胸元へ引き寄せる。いつか一成がそうしてくれたように、鼓動の音が安寧を連れてきてくれることを祈って。確かにここに生きている体があるのだと、思い出してほしくて。
胸にもたれかからせた頭をやわらかく撫でてから、天馬は背中に手を回した。
「お前と椋の部屋で、最近だと夏組が全員集合してる。お前の部屋だよ」
一成の体を抱きしめながら、天馬はやさしく言葉を掛ける。聞こえているかはわからない。だけれど、さっきまでの震えは少し小さくなっているように思えた。それに勇気づけられるように、天馬はさらに言葉を継ぐ。
「大丈夫だ。一成、ここはお前の部屋でMANKAI寮だ。夜の公園じゃない」
背中に回した手に力を込めて、どうか届くようにと願いながら、天馬は言う。
一成が突然恐慌を来たした理由。確証はないけれど、天馬は大よその推測をしていた。恐らくきっかけは夜の中庭だ。
一成が殺されたのは、暗闇深い夜のことだ。心もとない外灯だけが灯る駐車場では、闇を追い払うには到底足りない。犯人に襲われ、ナイフを突き立てられたあの場所は、暗闇に染まっていたはずだ。
さらに、あの公園はいっそ森のように木が生い茂っていた。風が吹けば大きく揺れて、ざわざわと音を立てただろう。動くこともできない一成の耳に、葉擦れの音はただ響いていたはずだ。死にゆく体で聞いた音だ。
一成の頭は、それら全てであの夜を思い出してしまった。辺りを覆う夜闇と木々の音は、どうしようもなく一成の死の瞬間とつながってしまったのだ。だからこそ、天馬は一成を部屋へ連れてきた。ここなら暗闇は追い払われ、葉擦れの音は聞こえない。
「ここは暗くもないし、木の音だってしない。夜の公園じゃないんだ」
お前を傷つけるものは一つもない。ここはMANKAI寮で、いつだってお前が笑っていられる場所だ。全ての気持ちを込めて、天馬は一成をぎゅっと抱きしめている。
すると、小さく息を吐く音が聞こえた。はっとした天馬が腕の中の一成へ視線を向ける。両耳をふさいでいた一成の手がゆっくり外れていく。それからわずかにためらうような動きをしたあと、天馬の服をぎゅっとつかんだ。胸に顔を押しつけているから、表情はわからない。それでも。
「テンテン……」
くぐもった声で名前を呼ぶので、一成が混乱を脱したことを天馬は理解する。ほっとして「一成」と名前を呼ぶと、ちょうどそのタイミングで202号室の扉が開いた。慌てた様子で入ってくるのは当然夏組、それから監督だ。
びくり、と反応した一成が顔を上げた。大きな瞳は揺らいでいて、未だ混乱の痕跡を引きずっているけれど視線は確かに扉へ向いていた。
「カズくん……!」
ほとんど泣いているような椋が、名前を呼びながら駆け寄ってくる。それ以外の夏組も一成を囲んでいて、監督はそんな様子を心配そうな表情で見守っている。
大丈夫か、とは誰も聞かなかった。当然だ。誰一人、大丈夫ではないのだとわかっていた。
普段の一成なら、天馬に抱きしめられていることに気づけば、すぐに茶化すような言葉を口にする。夏組の前で恋人らしい振る舞いをすることに照れてしまうから、体を離そうとするだろう。
だけれど、一成の手はぎゅっと天馬の服を掴んだままだし、天馬も一成を離すつもりが毛頭ないことは見て取れた。それは恋人ゆえの独占欲ではなく、一成の心を落ち着かせるために必要なことなのだと、夏組は理解している。
恐らく天馬がこうして抱きしめてやることで、一成はどうにか混乱から戻ってきた。それでも、決して本調子ではない。大丈夫か、なんて聞く必要もないくらい。一成は今、ぎりぎりのところで踏み止まっているだけなのだ。戸惑いも混乱も、全てが拭い去られたわけではないことは、一成が浮かべた表情が告げている。
「……ごめん」
眉を寄せた一成が、ごろりと言葉を口から吐き出した。普段の一成からは想像できないほど、重くて硬い声だった。
「オレ、普通にできると思ってたんだ。いつも通りにできるはずったのに」
くしゃりと顔を歪めて、一成は言う。普段の生活に戻れると思った。混乱はあくまでも一時的なもので、過ぎ去ってしまえば何も問題はないはずだと思ったのに。
「だめだった。ごめん。オレ、だめなんだ」
痛みをこらえるみたいな顔で告げられた言葉に、夏組は首を振る。
だって何一つ一成のせいではない。それどころか、苦しいのも怖いのも一成だというのに、彼はそれを謝るのだ。とても一成らしい言葉であると同時に、もどかしくてたまらない。
夏組は何度も、心からの言葉を告げる。一成のせいじゃない。謝らなくて平気だよ。悪いなんて思わないで。かずがごめんって言うことは一個もないよ。
しかし、いくら言ったところで現実の前では全てが虚しく響くような気がした。なぜなら、夏組は全員理解している。
何もかもが元に戻ったと思った。だけれどそれは違ったのだ。自分の記憶として全てを思い出した瞬間から、一成は今もあの夜に囚われ続けている。