おやすみナイチンゲール 14話
談話室には重苦しい沈黙が流れている。部屋にいるのは、咲也・万里・紬、それから監督の4人だけで、他のメンバーは部屋に戻っている。天馬が戻ってくるのを待って、リーダー会議が開かれることを知っているからだ。
何の話になるかはわかっている。
もうそろそろ夕食になるという時間帯、一成の様子がおかしくなった。202号室前の廊下でうずくまって震える様子は、何人もの団員が目撃している。何があったのかはわからない。だけれど、理由は察することができた。通り魔事件の犯人に襲われた記憶が、唐突によみがえったのだ。
襲われてからしばらくの間、一成の様子に異変はなかった。それどころか、夏組が不調に陥った時は率先して手助けを行うなど、すっかり落ち着いていた。だから一成は大丈夫なのだと、何もかもを乗り越えたのだと誰もが思っていた。
しかし、現実は違っていたのだと団員たちは悟った。表に出るまで時間がかかっただけで、一成の心は一つだって元通りにはなっていなかった。むしろ、かかった時間はその分だけ、負った傷の深さを語っているようだった。
「待たせたな、悪い」
誰も何も言わずにソファに腰掛けていると、天馬が談話室へ入ってきた。弾かれたように顔を上げた咲也が首を振り、それからおずおずと口を開いた。
「天馬くん、一成さんは……?」
「ああ、今はだいぶ落ち着いてる。心配かけて悪かったって謝っておいてほしいって言われた」
「そんな……」
ぎゅっと眉を寄せて咲也がつぶやく。謝っておいてほしいなんて、一成が言う必要がないことは全員わかっている。それでも謝罪を口にするのが一成だということも。
「お前のせいじゃないって、散々言ってるんだけどな。妙なところが頑固なんだ」
冗談めいた口調で告げる天馬が、ソファに座った。明るい笑顔を浮かべているように見えるけれど、無理していることは一目瞭然だった。一成の憂いを理解しているからこそ笑い飛ばしてやろうとするような、だけれどどうしたって傷つく心を理解しているから、上手に笑えていないような。
「――カズくんらしいね」
ぽつりと紬が言って、やわらかな微笑を浮かべる。それは一成を思ってのものでもあったし、天馬に向けてのほほえみでもあった。一成のために強くあろうとする決意をたたえるような、そういう表情だった。
「夏組のやつらがついてるんだろ」
「ああ。一成を一人にするのは心配だから、しばらくはついててやるつもりだ」
万里の言葉に天馬はきっぱり答えて、監督も「うん。それが一番だと思う」と力強く同意を示す。一成にとって夏組の存在がどれほど大きいものであるかは、病室での一件からも強く理解していたからだ。それから天馬は一成の状態について一通り説明したあと、言葉を切った。
誰も何も言わないのは、天馬の次の言葉を待っているからだ。天馬はその沈黙の意味を理解していた。深呼吸をしてから、ゆっくり口を開いた。
「これが原因だ、とはっきり言うことはできない。だけど、たぶんって理由なら見当がついてる」
ソファに座った天馬は指を組んで、机の上をじっと見つめている。自分の頭を整理するような、何かを思い出すまなざしで言葉を続けた。
「一成は、夜の公園を思い出す場所がだめなんだと思う。倒れた場所もそうだったし、廊下で調子が悪くなったのも、たぶん中庭があるからだ。あそこ、外灯とかないから結構暗いだろ」
外廊下の明かりだけでも事は足りるし、慣れた場所なので多少暗くても問題はなかった。ただ、中庭自体に照明がないことは事実であり、改めて眺めてみれば確かにずいぶんと暗い。
「木が多いってわけじゃないんだけどな。でも、風が吹いて揺れる音を聞くとだめみたいだ。小さな音でも過敏になってるってのもあると思う。とにかく、木が揺れたりして葉っぱ同士がこすれる音とか、そういうのを聞くと思い出す」
何を、とは言う必要はなかった。一成が思い出すもの。自分が刺された瞬間の恐怖だ。
天馬は組んだ指に力を込めた。カンパニーのメンバーには、過去の記憶の話をしていない。だから、一成が思い出すのは襲われた時のことであり、死の瞬間ではないと思っているはずだ。
自分たちにはかつて起きたはずだった過去の記憶がある。一成が思い出すのは、その過去で自分が死んだ瞬間だ。それを伝えることも考えたけれど、結局夏組はこのまま黙っていることを選んだ。
荒唐無稽な話だと笑い飛ばすことはないだろう。それどころか、心から心配してくれることもわかっていた。ただ、今のこの状況でそれを伝えたところでできることがあるわけではなかったし、一成自身が知らせることを望んでいない。
だから、天馬は少しだけ嘘を吐く。他のみんなには知らせない。一成の死に痛ましい顔をする人たちをこれ以上増やしたくないということもある。
それに、知らないままでいてくれる人たちの存在は、恐らく一成の助けにもなると思ったのだ。知ったものを知らないことにはできないから、今はただ知らないままでいてほしかった。
「夜の公園で倒れたことが大きいんだと思う。あの時、一成は自分が殺されるって思ったって言ってた。実際はそうじゃないってわかってるけど、夜の公園は一成にとって自分が殺される記憶になった」
事実は少しだけ違っているけれど、天馬はあえてそう言った。
本当は、過去に夜の公園で殺されたからこそ、その場所を訪れた一成は昏倒した。だけれど、カンパニーのみんなには伝えないと決めたから、順序を逆にした。殺されたから夜の公園に怯えたのではなく、夜の公園で倒れたことが殺される恐怖を植えつけてしまったと。
「一成さん……」
ぽつりと言葉を落としたのは咲也だ。泣きそうに顔を歪めて、一成の身に起きた出来事に心を痛めているのは一目瞭然だった。それは、談話室にいる全員の感情だろう。
通り魔事件を目撃した時だって、一成はショックを受けていた。争い事を好まない性質だし、暴力とは縁の遠い生活を送っていた。
それなのに、悪意ある凶行を直に目にしてしまった。それだけに飽き足らず、その悪意は一成自身に牙を剥いたのだ。天馬が来なければ、恐らく命を奪われていた。ギリギリのところで助かっただけで、死んでしまってもおかしくはなかった。
いつだって明るくて、周囲に光を連れてくる。一成と言えばいつだって笑顔が思い浮かぶくらい、きらきらとした光の似合う人間だ。それなのに、一成は暗闇と血まみれの世界を知ってしまった。何一つ知らなくていいはずの世界に無理矢理連れて行かれて、閉じ込められて、否応なく心を傷つけられる。
それは今も変わらない。いつもの生活を取り戻したはずだった。暗闇は遠ざかり、血の匂いは次第に消えていくはずだった。だけれどそれは幻想で、一成は未だに捕まえられたままなのだ。
部屋にいる全員は、天馬の言葉にその事実を思い知る。どうして、と誰もが思っている。答えなんて返らないし、誰に問うたところで意味がないとわかっていた。それでも、思わずにはいられなかった。
だって一成は何一つ悪くない。自業自得の結果なら、まだ良かったのかもしれない。こんな目に遭う理由が見つかれば、もしかしたらまだ納得できたかもしれない。自分自身を苛むとしても、少なくとも因果関係ははっきりしていると思える。
だけれど、一成はただ普通に生きているだけだった。危ないことをしたわけでもなければ、誰かを意図的に傷つけたわけではない。
それどころか、他人のことを思いやって心を砕き、明るい笑顔で周囲を照らしてくれた。いつもの通りに生きて、いつもの日常をこれから先も送れるはずだったのに。唐突に、全ては塗り替えられたのだ。
「どうして、あいつがこんなに苦しまなきゃいけないんだ」
組んだ指に力を入れて、天馬は言葉を落とした。静かな声だったけれど、奥底に宿るのは燃え盛るような炎だった。ゆらゆらと、まなざしに熱をたぎらせて天馬はつぶやく。
「夜の公園なんて、一成にとって何でもない場所のはずなんだ。寮の中庭を怖がる必要だって、本当はなかった。いつもみたいに行き来できる場所で、時々中庭から星を眺めることだってできる。あいつにとって中庭は、好きな場所の一つなんだ」
それなのに、今の一成にとって中庭は恐怖の対象になってしまった。大好きなMANKAI寮の一部が自分の心に影を落とすなんて、一成はその事実に心を痛めるだろう。大好きなものを大切にできないことは、一成にとって辛いことに違いないから。
「一成は何も悪くない。それなのに、いつもの日常は理不尽に奪われた。一つだってあいつのせいじゃないのに、一成がどうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだ」
答えなんて誰も持っていないことを、天馬とて理解している。だから、問いかけの形をしていても答えを求めているわけではないのだろう。これはただ、天馬の心からこぼれおちる慟哭であり、どうしようもない憤怒でもある。
普通に生きられるはずだった。いつも通りの毎日を送れるはずだった。夜に怯えることもなければ、木々の音に恐慌を来たすこともなく、夜に沈む中庭だってきっと何だか素敵なもののように思って毎日を過ごしただろう。襲われることがなければ。ナイフを突き立てられることがなければ。暴力に蹂躙されることさえなければ。
しかし、現実は非情で残酷だ。明確な因果関係はなく、ただ偶然そこにいた、それだけで一成は襲われた。訪れなかった過去で殺された。整合性なんてあるはずもない。現実はただ理不尽だった。
「一成がどんなにやさしいやつか知ってる。誰かが傷ついたら寄り添って、痛みだって引き受けようとする。傷の治し方を探して、どうしたら治るかなって悩んでくれる。オレの痛みも、みんなの痛みも一緒に抱えようとしてくれるやつだ」
だから、と天馬は言う。燃えるような目で、いっそ何かに挑みかかるような雰囲気で告げる。
「一成がこれ以上傷つくのが許せない」
一成は何一つ悪くない。それなのに、暴力によって蹂躙され、日常は奪われた。元通りになることもなく、一成は今も恐怖に震えたままで傷を増やす。
ただでさえ、他人の痛みを自分に引き寄せる人間だ。大事な人の痛みも傷も自分のことのように抱えてしまう。そんな一成が、これ以上勝手な暴力で傷つくことが、天馬には許せない。
燃えるような言葉を口にした天馬は、そこで一つ息を吐き出した。深く大きな吐息が、談話室へゆっくり溶けていく。
天馬はまばたきをして、組んだ指から力を抜いた。視線をゆっくり上げて、ソファに座るそれぞれの顔を見つめる。憤怒ではなく、強い決意を宿すまなざしで口を開く。
「本当は、何もかもからオレが守ってやりたいし、持ってるもの全部で一成を守るって決める。だけど、オレだけの力じゃ足りないから、みんなの力を貸してほしい」
そう言って、天馬が頭を下げた。一瞬流れた沈黙は、天馬の行動が予想外だったからだ。慌てたように声を発したのは咲也だった。
「そんなの当たり前だよ……!」
一成の力になれることがあるなら、全員応える用意はある。だから、わざわざ天馬が頭を下げる必要は一つだってないのだ。監督も「そうだよ、天馬くん!」と言って頭を上げるよう促した。
リーダーとしてのけじめとしてなのだろうけれど、一成の力になるのはカンパニーとして当然の行動なのだ。天馬が一人で背負う必要はないのだ、という気持ちで監督は言葉を続ける。
「私たちみんなで、一成くんのこと守らせてね。もちろん、夏組には一番力になってもらうけど!」
一成にとって夏組の存在がどれだけ力になっているのかは、よくわかっている。それだけではなく、夏組にとっても一成の力になれることは彼らの心を強くするものである、と監督は理解していた。だからこその言葉だった。
天馬はふっと笑みを浮かべて「そうだな」とうなずく。それは、さっきまでの憤怒でもなければ思いつめたものでもなかったので、咲也たちもわずかに力を抜いた。
「……それじゃ、中庭の鉢も移動したほうがいいね。花壇のものは音をたてたりはしないけど、鉢植えのシマトネリコがあるんだ。あれは意外と音がするから……」
考え込みながら、紬がぶつぶつとつぶやく。緑は一成の癒しにもなるだろうけれど、木々の音が恐れを呼ぶというなら対処するのが先決という判断だ。紬が丹精を込めて育てた植物を蔑ろにしてしまうようで、天馬は申し訳なさそうな顔で謝罪を口にする。紬はやわらかく首を振った。
「気にしないで、天馬くん。カズくんの調子が良くなったらまた中庭に戻すし、植物だってカズくんに怖い思いをさせたいわけじゃないからね」
穏やかに告げられた言葉は、紬にとってまったくの本心だった。天馬たちが植物を蔑ろにしているだなんてまったく思っていないし、一成の心を守るために必要ならば当然の行動なのだ。
「てか、まずは中庭の暗さをどうするかが先決じゃね。今のままだと、夜になったら一切外出らんねぇんじゃねーの」
万里の言葉に、監督も「そうなんだよね」とうなずいた。
基本的に一成は202号室にいるものの、全てが部屋で完結できるわけではない。トイレや洗面所は外にあるので、部屋を出る必要があるのだ。今は夏組の誰かが懐中電灯持参で付き添っているものの、夜中などもそれで対応するのはいささか現実味に欠けた。
「寮に明かりを増やしたほうがいいかもしれませんね。とりあえず、トイレまでだけでも……それとも中庭に目隠しとか……」
監督の言葉に答えを返した咲也は、どうすれば一成が恐怖を感じなくて済むかについて思考を巡らせているらしい。
天馬の言葉の通りなら、一成は暗闇と木の音に反応する。その中で真っ先に対処できるものといえば、明かりを灯すことだろう。寮内の電気を点けておくことはもちろん、暗い場所にもどうにか明かりを置けないか、とそれぞれが意見を出し合っている。
「――ありがとな」
4人の様子を見つめていた天馬の唇から、ぽとりと言葉が落ちる。思わずこぼれたといった響きだった。
全員が当たり前のように、一成のことを思って行動してくれる。一つだってためらう様子はなかった。天馬がもしも逆の立場だったとしてもそうするから、不思議ではなかった。だけれどそれでも、心からの感謝は声になったのだ。
大事な人だ。失ってから知った、天馬にとっての特別な一人だ。笑っていてほしいと望んでいる。幸せだけをあげたかった。
だけれど今、一成は恐怖に震えて夜闇に捕まっている。そんな一成のために、全力になってくれる人たちがこんなにもいるという事実が嬉しかったし、心強かった。だからこその言葉だった。
「当たり前のことだよ、天馬くん!」
天馬の言葉に答えたのは監督だ。奥底では動揺だってしているだろうし、困惑や恐怖だってあるかもしれない。それでも彼女はいつだって決意をすれば強いのだ。
真っ直ぐとしたまなざしで前を見つめて、どんな壁だって乗り越えてきた。団員たちを心から信用して、みんなならできると背中を押してくれた。きっと今だってそうなのだ。
監督は、一切の翳りを見せずに笑った。それに倣うように、咲也もふわりと笑みを浮かべる。万里が挑みかかる強さで、紬が全てを包み込む笑顔で続いた。
「天馬くんは、一成さんのこと安心させてあげてね」
「一成のやつ、無駄に気にしそうだしな」
「俺たちがしたくてしてることなんだって、伝えておいてほしいな」
それぞれからの言葉は、恐らく各組からのメッセージでもある。MANKAIカンパニーの誰もが、一成のことを守りたいと願っている。その事実を握りしめた天馬は、心の中で一成へ言葉を掛ける。
なあ、一成。お前はオレの特別なたった一人で、宝物みたいに大事にしてやるって決めてる。だけど、お前はオレ以外にだって、こんなにも大切な気持ちで思われてるんだ。
泣きたいような気持ちは、悲しみではなかった。天馬にとっての宝物を、大切なカンパニーのメンバーが同じように大事にしてくれることが嬉しかった。天馬はそれぞれの言葉にこくりとうなずいて、もう一度礼を言った。