おやすみナイチンゲール 20話
中庭には、いくつものガーデンライトが設置されている。
電池式からソーラー式まで、様々な種類のライトが庭のあちこちに置かれて、2階の手すりには吊り下げ型の屋外灯がぶら下がっていた。おかげで、今までの暗さが嘘のように中庭は光に満ちている。
「カズくん、大丈夫?」
気づかわしげな視線を向けたのは、ベンチに並んで腰かけた椋だ。一成はぱっと笑って「だいじょぶだよん!」と答える。強がりの類ではなく、心からの言葉だ。椋はほっと息を吐き出した。
「良かった。でも、無理はしないでね。たくさん明かりはあるけど、夜なのは変わらないから……」
そう言って、椋は周囲を見渡す。中庭はあちこちに光が灯されているおかげでずいぶんと明るいけれど、見上げた空には星が輝いている。いくら明るいと言えど、夜であることは間違いないのだ。一成が体調を崩す可能性がゼロだとは言えない。
「調子悪くなりそうだったら部屋戻るけど、マジでだいじょぶだと思うんだよねん。大学より余裕で明るいもん。みんな頑張りすぎじゃね?」
冗談めかして告げるけれど、これは至って純粋な一成の本心である。
大学構内にも外灯は設置されているので、夜になっても明るさは保たれる。ただ、それはあくまでも夜道を照らすことが目的であって、現在の中庭のように暗闇を追い払うことを目指しているわけではない。空間に対して設置されているライトが多いので、必要以上の明るさが確保されているだろう。
「これくらい当然だよ。カズくんが夜になっても動けるようにだもん」
真剣な顔で椋が言う通り、中庭をこうこうと照らすライトは一成のために用意されたものだ。
一成がMANKAI寮で生活するにあたって、一番の問題は中庭の暗さだった。寮の構造上、中庭を避けて生活することはほぼ不可能にも関わらず、照明がないことから夜の暗さが際立つ場所だ。樹木も植わっていることから、夜の公園を連想させる条件もそろっている。
中庭に対して何らかの対策を打たない限り、一成の行動が制限されることは明白だった。
そういうわけで導き出された結論は、中庭に照明を設置することだ。ただ、配線の関係から本格的な外灯の設置は見送られ、ガーデンライトが導入されることになった。その結果が現在の中庭である。
ガーデンライトを設置すると聞いた時、一成は素直にありがたいなと思った。
中庭が明るくなれば、夜になっても多少は動けるようになるかもしれない。そうすれば、談話室は今まで通り使えるようになるし、夜間でもできることが増えるかもしれない。つまりはみんなにかける迷惑が減るということで、一成はほっと安堵したのだけれど。
最初は呑気に、ガーデンライトって意外と種類あるんだなぁくらいの気持ちで中庭を見守っていた。しかし、日に日に数が増えていくにつれて、段々不安になったのは仕方ない。思わず一成は天馬に尋ねた。待って、これ何個置く予定なの。
天馬は不思議そうな顔で「そういえば聞いてなかったな」と言うので、一成は悟った。なるほど、テンテンに聞いたのが間違いだった。天馬のことだ、個数なんて一切気にしていないに違いない。彼の目的はあくまで明るさの確保なので、多ければ多いと思っている節がある。
それならば、と寮の財布を握る左京に話を聞こうと考えたのは当然の結論だろう。ベンチに腰掛ける一成は、周囲に灯る明かりを見つめながら、左京と交わした会話を思い出す。
※
談話室でのふとした時間だ。ソファで書類に目を通していた左京を見つけて、一成は向かいに座った。おおむね仕事が終わったころを見計らい、なるべく明るい調子で中庭のガーデンライトについて尋ねた。
あくまでも興味を持ったから聞いただけ、という口調だったはずだ。しかし、左京は一成の意志を見透かしたようにきっぱり言った。
「お前が気にすることじゃない」
話は終わりだ、というように左京はそれ以上何も口にしない。恐らく、左京はこのままだんまりを決め込むつもりだということは察した。いつもの一成ならそのまま引き下がったかもしれない。だけれど、今回ばかりはそうも行かないと思ったのだ。だから、一成は「でも」と口を開いた。
「オレのせいで必要になっちゃったなら、オレが知っておかなくちゃじゃん」
みんなの気持ちが嬉しかったのは本当だ。中庭が明るくなることに安堵も覚えた。だけれど、ガーデンライトが増えていくたび、一成の胸には別の気持ちも浮かんでいた。
「絶対あれ結構するやつだし、維持費もかかるっしょ」
中庭に設置されるガーデンライトは、屋外用ということもあり防水機能も備えているという。一定以上の明るさを確保するためサイズも大いし、本格的な照明器具がそろっているので二束三文で導入できるものではないのだ。
さらに、実際に使用するとなれば、電気代やメンテナンス代など維持費もかかる。左京がそれを把握していないわけがないし、恐らくそれなりの出費になっただろうと思ったのだ。
だから、きちんと知らなければと一成は思った。だってこれは、当たり前のように用意されたものではない。金銭だったり労力だったり、某かと引き換えに得られるものに対して、知らない顔をしていたくはなかった。対価を把握しておくのは、義務だとさえ思ったのだ。
真剣な顔で一成が言えば、左京は数秒黙った。しかし、すぐに笑みを浮かべる。そうして、何だか困ったような呆れたような、それでいてやわらかなまなざしを浮かべて一成に言ったのだ。
「確かにそこそこの額にはなった。それは否定しねぇ。でもな、お前の健康と天秤にかけるもんじゃねぇだろ」
落ち着いた声は、左京にとって当然のことを告げる響きをしていた。一成の予想通り、導入費用は決して安価な金額ではなかったのだろう。
しかし、それが一体何か、と左京は言うのだ。中庭に明かりを置くことで、一成が怯えなくて済むのなら。自分が殺される恐怖に震えなくていいのなら。そのために灯す明かりくらい、用意するのは当然なのだと言い切る。
「金とお前なんざ、比べるまでもねぇ」
強い響きで放たれた言葉だけれど、浮かべる表情はやわらかい。カンパニーでもしょっちゅう小言を口にしているし、鬼や般若として恐れられる存在である。だけれど、時々こんな風に全てを見守るような笑みを浮かべることを、カンパニーメンバーはちゃんと知っていた。
何より、左京は普段ケチだ何だと言われても、出すべき時にはきちんとお金を出す人間だ。カンパニーに必要だと判断すれば、金払いは良い。だから、今回もその判断が為されたのだ。一成の心を守れるなら、怯えずにいつもの生活ができるなら、それに勝るものはないと。
「だから、お前は何も気にしないでいい」
左京はそれだけ言うと、本格的に話は終わりにするつもりらしい。それから先は、特に何も話してくれなかったので具体的な金額を知ることはできなかった。
もどかしい気持ちも、申し訳なさも消えたわけではない。それでも、左京から真っ直ぐと言われてしまえば。こうすることは当たり前で、カンパニーにとって必要な選択なのだと告げられてしまえば。これ以上食い下がるのは、恐らく彼らの気持ちを蔑ろにすることなのだ、と一成は察した。
だから、一成は左京にそれ以上問うことはしなかった。ただ、心からのお礼を告げれば左京は少しだけ目をまたたかせたあと、「せいぜい元気な顔でも見せてくれ」と言って笑ったのだ。
※
「カズくん、寒くない?」
ガーデンライト導入についてのあれこれを考えていると、椋に声を掛けられた。
はっと我に返って「めっちゃ防寒してるから平気!」と答える。夜の屋外ということで、ダウンジャケットやらマフラーやらカイロやら毛糸の帽子やら、様々な防寒道具を持たされたおかげで寒さはあまり感じていなかった。それは椋も同様だ。
「ならよかった。でも、寒くなったらすぐ言ってね。風邪引いちゃったら大変だし、長居しないほうがいいかも……」
「まだ平気だよん。それに、あんまり早く戻るとみんな心配しそうだし!」
明るい笑顔で告げるのは、そもそも一成と椋が二人だけで中庭にいる理由だ。
ガーデンライトの導入により、中庭は格段に明るくなった。これなら一成も問題なく動けるだろう、という予想通り、廊下の行き来は問題なかった。
ただ、中庭自体で過ごすことができるかは別問題だ。夜の公園を連想させる条件がそろっている場所だからこそ、中庭そのものに恐怖を覚える可能性はあった。
そこで、段階的に状況を確かめることにしたのだ。ひとまず、風のない日を選んで、夏組の5人と一緒なら、4人になったら、3人だったら、と人数を減らしていく。
特に問題はなかったので、今日は椋と一成、二人きりで中庭で過ごすミッションの最中なのである。一成は「任務って感じでテンアゲ!」と騒いでいたし、実際そこまで心配はしていなかった。ただ、仕事の関係で今日は寮に帰って来られそうにない天馬は、夏組一同に真剣な顔で「一成を頼む」と言っていた。
「うん、それもそうだよね。カズくんが大丈夫そうなら、もうちょっとここにいたいな。明かりがいっぱいあって、すごくきれいだもん」
「マジそれな! 中庭に映えスポット誕生じゃん」
一成はスマートフォンを取り出して、さっき撮った中庭の写真を椋に見せる。あちこちの明かりは雰囲気たっぷりだし、一成の写真の撮り方もあいまって異国の祭のような写真が何枚も映し出されている。
椋は頬を紅潮させて「すごく素敵な写真だね……!」と瞳を輝かせた。
その様子を見つめる一成は、やっぱりむっくんにはこんな風に笑っててほしいな、と思う。もちろん椋だけではない。夏組のみんなも、カンパニーのみんなも、悲しい顔をしてほしくない。
たくさん笑って、楽しいことをいっぱい知ってほしい。そのためにできることは、きっと自分が元気になることなのだ、とも一成は思う。
誰一人、一成が無理に笑うことは望んでいない。だから、今ここで夜の中庭で、椋と一緒に穏やかに過ごせるという事実が嬉しかった。
そういう風にいられるようにと、できることをしてくれるカンパニーみんなの気持ちが嬉しかった。それを確かに受け取ったのだと伝えるのは、きっと申し訳なさで悲しい顔をすることではない。
「あ、これ今日の夕ご飯だね。いつも美味しいし、盛り付けも綺麗ですごいなぁ」
一成がスライドさせた写真を見ていた椋が、しみじみとした調子で言葉を落とす。視線の先は本日の夕食――シーフードパエリアの大皿だ。サフランのあざやかな黄色に、エビやプチトマトの赤、イカやタラの白がカラフルで、アクセントに添えられるのはアスパラの緑色だ。
それ以外にも、パプリカのマリネ風サラダやミートボールのトマト煮などが並んでおり、カラフルな色彩で夕食の席はあふれていたのだ。
「昨日の手まり寿司もかわいかったね。お花の形になってたりしてて、食べるのがもったいないくらい」
「ね、マジでおみみ器用だよね~。ブーケサラダもやばたんだった!」
グリーンリーフにハムやサーモンを花に見立てたサラダは見た目も華やかで、食卓は一気に特別な色合いを増した。臣の料理は当然いつでも美味しいのだけれど、最近は特に見た目に気を遣っている。
理由を直接聞いたわけではない。それでも、一成が嬉々として写真を撮る姿を嬉しそうに眺めているし、一成にしょっちゅう「どんな料理がいいか」と相談に来ることからも、察することはできる。
美味しい料理を食べさせること。一成を笑顔にすること。
言葉として形にしたわけではないけれど、臣はそっと決意したのだ。自分のできることで一成の力になるのだと。見た目にも楽しい料理で、お腹をいっぱいにさせてやりたい、という臣の気持ちは充分一成に伝わっている。
連日の料理写真を二人で見ていると、何だか段々お腹が空いてくる。それに気づいて、一成と椋は顔を見合わせて笑った。
明日の朝ごはん楽しみだねん、だとか、お昼ご飯は何を食べようかな、なんてささやかな会話をしていた時だ。
「カズ、ムク、ちょっとお邪魔虫するネ~!」
陽気な声とともにシトロンが二人の前に現れた。シトロンはニコニコと、夜にも負けない明るい笑みとともに口を開いた。
「アズマがムクのこと探してたヨ。そろそろ丁度いいって言ってたネ! 完成品がお待ちかねダヨ!」
シトロンの言葉に椋ははっとした表情を浮かべるけれど、一成には何のことだかわからない。「完成品?」と首をかしげると、椋がはにかんで答えた。
「あず姉さんに、安眠のために何かできることはないかって相談したんだ。そしたら、アロマオイルがいいんじゃないかなって言われて、せっかくだから自分で作ってみようと思って……」
とつとつと語る椋は、一成の睡眠が浅いことに気づいていた。やはり時々夢を見ていることも、それゆえ上手く寝付けないことも。それに対してできることを考えて東に相談した結果が、手作りのアロマオイルだったらしい。
話を聞いた椋は、一成のためにできることをしたいと、どうかきちんと眠れるようにと、願いを込めてアロマオイルを作ることにしたのだという。
「あ、でも、ボクなんかが作ったアロマオイルとか全然効能ないかもしれないし無理に使わなくても平気だしいい匂いするかもわからないけど……」
「むっくんが作ってくれたら、それだけでめっちゃ効果あるっしょ!」
いつもの卑屈モードに入りかける椋を制して、心からの言葉を掛ける。椋ははっとした顔になって一成を見つめたあと、ゆっくりうなずいた。
「――そうだといいな。ああ、だけど、あず姉さんに教えてもらったんだから、きっと素敵なアロマオイルになるよね」
唇に小さな笑みを浮かべた椋は、ゼラニウムのアロマオイルを作っているのだと教えてくれた。心を落ち着かせてリラックスさせ、安眠に効果があるという。
水蒸気蒸留という方法で、家でも作ることができる。概ね蒸留が終わったということで、東が椋を探していたらしい。それに気づいたシトロンが呼びに来たようだ。
ただ、椋は何だかためらっているような空気を漂わせる。その理由に一成はすぐ気がついたし、シトロンも同様だ。
「オレなら平気だから、むっくん様子見て来ておけまるだよん!」
「そうネ、カズのナイトならお待たせダヨ!」
一成は笑顔で口を開き、シトロンは真面目な顔で言って胸を叩いた。椋は少しだけ沈黙を流したあと、真っ直ぐと二人を見つめて口を開く。
「そうですよね。シトロン様ならカズくんのことをお任せできるし、少しお願いしてもいいですか?」
「もちのろんダヨ~!」
一成を残していくことに、椋は少なからず不安を覚えてためらったのだろう。しかし、一成本人が平気だと言うし、シトロンと一緒なのだ。心配することはない、と結論を出した椋は東のところへ向かった。
その背を見送ったシトロンは、楽しそうな笑顔を浮かべて一成の隣に座った。そのままの調子で、「ムク、とっても張り切ってたヨ! きっと素敵なアロマオイルになるネ」と教えてくれた。
「うん。むっくんにはマジで感謝だし、アズーにもあとでお礼言わないとねん」
「二人とも、カズが喜んでくれるならそれが一番のお礼ダヨ」
隣に座るシトロンはやはり笑顔を浮かべてそう答えた。だけれど、それは普段のシトロンが見せる笑顔とは違っている。辺りに太陽を連れてくるような、楽しそうな笑い声が弾けるものではなく、ただ静かで穏やかな微笑だ。
「カズが少しでも安心して眠れるなら、それでいいんだって言うネ」
中庭に灯る明かりに照らされて、シトロンは落ち着いた声で言った。
椋と東がアロマオイルを作っているのは、ただ一つの確かな祈りから出発している。どうか一成に穏やかな夜が訪れるように。暗闇に怯えることもなければ、悪夢にうなされることもなく、ただ安らいでくれることを願って、二人は手ずからアロマオイルを作ろうとしてくれている。
「ワタシもおんなじ気持ちダヨ。カズが安心して眠れるように、いっぱい祈ってるヨ」
真っ直ぐと一成を見つめてシトロンは言う。心からの思いを視線に託すような、しんしんとしたまなざし。どうか安らいでくれますように、という思いが形になったようだった。
「ありがと、ロンロン」
はにかむように一成が言えば、シトロンは「ノープロテインネ!」と朗らかに答えた。それから周囲を見渡すと、続けて言葉を口にする。
「中庭もとっても明るくなったネ! 元気がいっぱいで、夜だってこと忘れそうダヨ!」
「電気だと思うけど、確かに元気いっぱいになっちゃうよねん」
シトロンの言い間違いを訂正しつつも、その内容にもつい一成はうなずく。
カンパニーみんなの気持ちを形にしたような中庭のガーデンライトなのだ。これだけの気持ちで思われているのだと伝えてくれるようで、一成を元気づけるものであることは間違いない。
「懐かしいネ。タンジェリンも、夜が怖い時は庭に明かりをつけてあげたヨ」
遠くを見つめるまなざしを浮かべて、シトロンが小さくつぶやいた。彼の弟の名前に、一成は目をまたたかせた。シトロンはそんな一成へ小さな笑みを唇に上らせてから静かに言う。
「ザフラの寝物語に、お化けが出てくるものがあるネ。タンジェリンはそれが怖くて、夜を怖がってたことがあるヨ。そんな時は、庭に明かりをつけてあげたネ」
タンジェリンの寝室からは、庭が見える作りになっている。基本的にプライベート空間なので、申し訳程度の明かりくらいしか置かれていない。だからこそ、暗がりにお化けが潜んでいるように思えたのだろう。
そんなタンジェリンのために、シトロンはいくつも明かりを用意して庭を照らしたのだ。どこにもお化けなんていないのだと、やさしい明かりが暗闇を拭い去ってくれるように。
その様子を思い浮かべた一成は、しみじみとした調子で感想を口にした。
「さすがロンロン、やさしいお兄ちゃんじゃん」
「可愛い弟のためなら当然ダヨ!」
きっぱり告げるシトロンはすっかり兄の顔をしていて、それはカンパニーではあまり見られない類のものだ。
普段はどちらかというとカンパニーに面白い騒動の種を持ち込む人間だけれど、本質的には面倒見がいいし、深い愛情を持っているのがシトロンという人間だった。
「カズもワタシの弟になるネ?」
「マ? ロンロンお兄ちゃんとか、めっちゃ楽しそう!」
楽しそうだったので素直にそう答えると、シトロンは思いの外力強くうなずいた。「歓迎するネ、ザフラにも招待するヨ!」と言うので、「ガチなやつじゃん」と笑ったのだけれど。
シトロンはじっと一成を見つめると、そっと口を開いた。笑みを浮かべて、どこまでも真摯な表情で。
「カズが苦しくないなら、ザフラにだって連れて行きたいヨ」
一成が今苦しんでいること、その原因はシトロンだって知っている。理不尽な暴力によって傷つけられて、今もなおその傷は一成を苦しませている。
あの夜を思い出すことが辛いなら、目に映る景色に己が襲われた瞬間を思い出してしまうのなら、まるで違う場所で療養することだって悪い手段ではないと思ったのだ。
もしも一成の傷が少しでも和らぐのなら。恐怖がわずかでも遠ざかるなら。ザフラに行くことだって、選択肢の一つにしてもいいはずだとシトロンは思っていた。だからこその言葉だったのけれど、シトロンはすぐにイタズラっぽい笑みを浮かべて言葉を続けた。
「でも、止めておくネ。カズを連れて行くと、夏組と――それからテンマに怒られるヨ! 犬に蹴られてしまうネ!」
大袈裟な身振りで「怖いネ~」と言うシトロンに、一成は思わず固まった。
犬に蹴られて云々は恐らく馬に蹴られての間違いだし、そもそも天馬が名指しされているという点から考えて十中八九バレてるな、と思ったからだ。一応ハッキリ言ってないんだけど。まあ、ロンロンだし。
別にバレて困るわけではないのだけれど、いまいちどんな表情を浮かべればいいのかわからなかった。なので、何だか曖昧な笑みでシトロンを見つめてしまった。
シトロンはその視線を面白そうな表情で受け止めたあと、楽し気に口を開く。
「カズをザフラに連れていくことは諦めるヨ! でも、その代わり、取って置きのおまじないを教えてあげるネ!」
言ったシトロンは、そっと一成に顔を寄せた。内緒話をする響きで「ザフラに伝わるおまじないネ。タンジェリンもワタシも効果はバッチリ確認済みネ」と言ってウィンクをしてみせる。一成は思わず感嘆の言葉を漏らした。
「王家ご用達のおまじないとかマジですげーやつ!」
タンジェリンにもシトロンにも効果がある、ということはザフラ王宮で使用されているものなのだ。ザフラのおまじない、というだけでも効果がありそうなのに王宮ご用達となるとさらに効果が上乗せされそうな気がしてくるのは仕方ないだろう。
シトロンは一成の言葉に満足そうに笑ったあと、顔を離して周囲へ視線を巡らせた。すると、不意に立ち上がって大きく手を振った。
「ガイ、こっちネ~! ナイスダイニングネ~!」
「ナスのダイニングとは新しい料理だろうか」
首をかしげながらベンチの二人に近づいてきたのはガイだった。手には小さな水筒とカップを持っている。シトロンは一成の隣を示して、ここへ座るようにと促す。ガイは少しだけためらったあと、一成の隣に腰を下ろした。
「カズ、このおまじないはガイが得意ダヨ。きっとカズに安心を連れて来てくれるネ」
にっこりと笑ったシトロンは、やさしいまなざしを一成へ向ける。いつものシトロンの笑みに似て、だけれど奥底に宿る深く広い愛情を感じさせる目をしていた。
国を継ぐものとして、多くの諍いや後ろ暗い現実を知りながら、それでもやさしさと愛情を決して失わなかった。いつだって笑顔と限りない親愛を降らせてくれる。愛すべき友としての、心からの祈りで紡がれた言葉だった。
「ガイ、あとは頼んだヨ~!」
一転して朗らかな雰囲気になったシトロンは、ザフラ後で二言三言、ガイへ何かをささやきかける。ガイが同じようにザフラ後で答えを返し、それを確認したシトロンは「ワタシはムクの様子を見てくるネ!」と言って中庭から去っていった。
残されたのは、ベンチに座る一成とガイだけだ。ガイは静かな視線を一成に向け、「寒くはないだろうか」と尋ねる。さっきもむっくんに聞かれたなぁ、と思いながら一成は軽やかに答えを返した。
「おけまるだよん! 防寒グッズいっぱい持ってるかんね!」
「そうか。体を冷やすと体調を崩しやすい。防寒対策は重要だ」
「ガイガイこそ寒くないん?」
「ああ。体温調整は得意だ。最適な衣服を選択しているから問題はない」
重々しい雰囲気で答えたガイはあまり厚着をしているようには見えなかったけれど、特に寒そうでもなかった。体を鍛えていることもあり、寒さには強いのかもしれない。ならいんだけど、と一成がうなずくと、ガイは自分の手元に視線を向けてから口を開いた。
「三好。シトロニアから話は聞いているのだろうか」
「おまじないの話っしょ? ザフラ王宮ご用達のおまじないってテンアゲだよねん!」
好奇心で彩られた声で言えば、ガイは唇に小さな笑みを浮かべた。何かを思い出すような、遠い記憶を丁寧に紐解くような、そういう笑みだった。
「――ザフラでもずいぶんと古いものだ。シトロニアが、最近よく眠れないと言っていたことがあった。その時に、安眠できる方法を文献で探していて見つけたまじないだ」
実践的な方法を探していたガイにとって、それは取り立てて目を引くものではなかった。ただ、記述の一つとして記憶には残っていた。シトロンにおまじないの話をしたのも深い意味はなく、ほんの偶然だ。
「シトロニアがそのまじないをねだったものでな。半信半疑で試したところ、意外にも効果があったようだ。ただ、次第にまじないも必要なくなったのだが、タンジェリン王子にもしてやってくれと頼まれるようになった」
取り立てて人物の指定があるわけではない。だけれどシトロンは、そのおまじないはガイがかけることでよりいっそう効果があると考えたのだろう。自分がガイにかけてもらい、弟のタンジェリンに引き継がれたのなら、今もまた一成に効果があるように。
「何かめっちゃ由緒正しい感じじゃね? オレが聞いちゃっていいやつなの? ザフラの王族限定おまじないとかじゃなくて?」
思っていたよりも由緒がありそうなおまじないらしい、と察した一成は若干心配そうに尋ねた。王族どころかザフラの人間ですらない一成が聞いてもいいものだろうか、と思ったからだ。
ガイは「忘れられていたようなまじないだ。使用者対する制限も特に記述されていなかったな」と答える。たまたまガイが知っているだけで、本来なら失われたおまじないのようなものなのだから、気にすることはない、と言う。
「それに、友人のために使うのなら問題はないだろう。シトロニアも俺も、三好が悪夢を見なくて済むこと以上に喜ばしいことはない」
何の不思議もないといった顔で告げられた言葉。いつも通りの温度で口にされたからこそ、却ってガイやシトロンの真剣さが伝わるようだった。
一成は数秒黙ったものの、すぐに「ありがとねん」と感謝を口にした。ただ真っ直ぐと祈ってくれるのなら、それを受け取るのだ、と思ったからだ。ガイは小さくうなずいて、口を開いた。
「まじないには明確な作法があるわけではないんだが、夜に一対一で行うのが定番だ」
「なる~。ロンロンちゃんとしてんね」
ガイと一成を二人にすることで、おまじないが効力を発揮するようにと考えたのだろう。だから自分は席を外したのだ。
ガイは「そうだな」と言って小さく笑った。それから、静かに一成を見つめた。いつでも落ち着いて、理知的な瞳だ。しかし、今それは少しだけ不思議な色をたたえていて、何か魔術師と相対しているような気持ちにもなってくる。ガイは静かに口を開く。
「このまじないは、悪夢を見なくなるというものだ。シトロニアもタンジェリン王子も、悪い夢を見て眠れない時にこのまじないを試している。結果としてはよく眠れるようになっているから、三好にも効果があることを期待しよう」
ただ事実だけを述べるような口調。しかし、奥底に宿るのは限りない祈りの響きだ。一成の耳はそれを拾い上げて、ガイやシトロンのやさしさを感じ取る。夜を恐れる一成は、その暗がりだけではなく訪れる悪夢にも怯えていることを知って、どうか安らいでくれるよう願っている。
「ありがとねん。でも、毎日夢見てるわけじゃなくて、全然見ない日もあるし!」
「頻度の問題ではないだろう。三好が辛いと思うなら、それだけで充分脅威だと言っていい」
大したことではない、という意味で軽い口調で言うけれど、ガイは真顔で首を振った。大事なのはただ一つ、一成の心の安寧が脅かされるかどうかなのだと。だからこそ、ザフラに伝わるおまじないが一成の力になるよう祈っている。その気持ちを込めて、ガイは穏やかに口を開く。
「ザフラにはいくつか精霊に関する言い伝えがあるのだが、これは夜になると活動を始める精霊に由来するものだ」
言いながら、ガイは水筒の蓋を開いた。手慣れた所作でカップに中身を注いでいく。ふわりと甘い香りが漂った。
「花にまつわる食べ物や飲み物を口にして、おまじないを唱えてから眠ると、夜の間に怖いものを持ち去ってくれる。悪い夢を花に変えて刈り取っていくと言われているな」
夜になると寝所に現れて良い夢をもたらす精霊と、悪いものを花に変える精霊の話が混ざって成立したのだろう、とガイは言う。それを聞く一成は、思わず感想を漏らした。
「悪夢を持ってってくれるとか、バクみたいだねん」
「ああ。似たような言い伝えというものが存在するのは面白い符号だ」
唇の端に笑みを浮かべたガイは、たっぷりと黄金色が注がれたカップを一成へ差し出した。両手で受け取ると、フルーティーな香りとともに確かな温もりが伝わってくる。
「一口飲んだら、まじないの言葉を唱えてくれ。ただ、あまり聞き慣れないものだ。俺のあとに続いてくれ」
「りょっす!」
明るい口調で了承を伝えた一成は、受け取ったカップに口をつける。香りから果実の類だと予想していたけれど、どうやら柑橘類らしい。わずかな苦みに蜂蜜の甘さが調和して、さわやかに喉を滑り落ちていく。
ガイは一成の様子を確認してから、一つ呼吸を置いた。しんとしたまなざしを向けて、ゆっくりと口を開いた。
「アージル・ハッサト・ビ・カフナ」
ぱちり、と一成がまばたきをしたのは、確かにあまり聞いたことのない響きの言葉だったからだ。小さな動揺をガイは察した。瞳をやさしく細めると、一言ずつ区切って発音をしてくれるので、一成はおずおずとあとに続く。
「アージル・ハッサト・ビ・カフナ」
不思議な言葉だった。意味はまったくわからない。だけれど、ザフラに確かに存在するおまじないで、意味のある音の連なりなのだろう。日本語とも英語とも違っているし、今まで一成が触れてきた外国語とも異なっている。
しかし、ガイにとっては馴染みのある言葉なのだろう。いたって自然な調子でおまじないを口にする様子は、何だか本当に魔術師のようだな、と一成は思った。
ザフラに古くから伝わるおまじないを、遠い異国の日本で一成に授けてくれる。確かな祈りとやさしい心を込めてもたらされた、あたたかな魔法だ。
一成はもう一度カップに口をつけて、教えられたおまじないを口にした。
それを聞くガイは何だか嬉しそうで、胸の奥がふわふわとあたたかくなる気がした。これなら今日は夢を見ずに眠れそうだ、と素直に思う。
「マジでありがとねん。ロンロンにもお礼言わなくちゃだし――てか、これもめっちゃ美味しい! ちょっと蜂蜜入ってるけど、何だろ紅茶?」
「ハーブティーだな。オレンジブロッサムを選んだ」
柑橘類だと思ってはいたけれど、なるほどオレンジなのか、と一成は思う。何だか心が浮き立つような気持ちでいると、ガイは落ち着いた口調で続けた。
「花にまつわるハーブティーならカモミールやラベンダーが定番だが、三好ならオレンジブロッサムがぴったりだろうと思ってな」
何の他意もなさそうな言葉だった。しかし、何だか心を見透かされたようで一成の心臓がドキリと鳴った。
シトロンのこともあるので、もしかしたらガイにも色々バレているのだろうか。別にそこまで積極的に隠してないけど……と思いつつガイへ視線を向ける。
「やはり夏組と言えば皇らしいオレンジがいいだろうと考えた。寝つきにも効果があると言われるハーブティーだ。もっとも、花を乾燥させたものなので実の部分は使用していないのだが」
どうやらガイは純粋に、夏組と言えば、という観点からオレンジブロッサムを選んだらしい。一成はほっとするようなちょっとだけ惜しいような気持ちで、「なるなる~」とうなずいた。
カップに口をつけて、ハーブティーを飲む。ほのかな苦みにまろやかさが加わって、じんわりと一成の体をあたためていく。
「うん。めっちゃ美味しいし、オレンジって何かテンテンっぽくていいよねん!」
嘘偽りのない一成の本心だ。オレンジと聞いた時点で、ほとんど反射的に浮かぶ相手なんて、一成にはたった一人しかいなかった。天馬を連想するのは夏組としても自然だったし、一成にとってもそれは至って当たり前の結論だ。
今日は恐らく寮には帰れない、とは聞いていた。天馬はそれを申し訳なく思っているようだけれど、仕事ならば仕方ない。天馬が芝居に懸ける情熱をよく知っているし、役者としての天馬を尊重するのは一成にとって当然の結論だ。
だから、夜の中庭に一緒にいられないことを気に病む必要はまるでないと思っている。それでも。
(テンテンに会いたくなっちゃうよねん)
オレンジブロッサムのハーブティーを飲みながら、一成は思う。ここに天馬がいないことは一成とて納得している。だけれど、頭に思い浮かべれば自ずと願いも一緒に生まれるのだ。
天馬に会って話したいことがたくさんある。
臣の作ってくれた夕食のこと。椋と東がアロマオイルを手作りしてくれたこと。シトロンが願ってくれたこと。ガイに教わったおまじないのこと。
カンパニーのみんなから届けられる祈りがどれだけ嬉しかったか、どれだけ一成の心を勇気づけたか。それを話せば、きっと天馬は嬉しそうに笑ってくれるだろう。
天馬に会いたい。夜を照らすような笑顔が見たいし、その声で名前を呼んでほしい。明かりの灯る中庭で、一成はただ素直に思っている。