おやすみナイチンゲール 26話
一成が死んだ過去で、椋や夏組は何度だって後悔した。一成を失った痛みを、永遠に戻らない苦しみを知った。
一成が生きている間にしたかったことがいくつも思い浮かんで、それが叶わない現実に打ちのめされた。自分たちの選択の間違いを、これでもかというほど思い知らされた。
だから、奇跡の果てに今一成が生きていてくれるなら、思う限りの全てで大事にしたいのだ。
痛みだって苦しみだって、分けてほしい。一成が重荷を背負うのなら、一緒にそれを負わせてほしい。全てを肩代わりできなくても、手を伸ばした分だけきっと軽くなるに違いないから。
椋から告げられた言葉は、夏組全員からの願いであることくらい、一成だって理解している。心から言ってくれているのだ。過去の後悔を知っているからこそ、一成を大事にしたい。一人で苦しむのではなく、苦しみは分けてほしい。切実な祈りは、夏組全員の心からの懇願だ。
わかっていても、一成の心は揺らぐ。
だってこの記憶は、殺される瞬間は、あまりにも重かった。自分一人ではとうてい抱えきれないことは、一成だってわかっている。このまま耐え続けても、いつかぽきりと折れてしまうだろう。だから、夏組のみんなは自分たちに分けてくれと願ってくれる。
だけれど、それでも、同じ痛みを、苦しみを、彼らに渡したくないと思うのも、一成の限りない本心だ。
自分が死ぬ瞬間の恐怖や痛みを、殺される傷を味わってほしくなかった。一成の苦しみを知れば、夏組の彼らは同じように苦しい顔をする。
ただの夢では片付けられない。間違いようのない現実だと理解しているからこそ、命を奪われた一成を思って、夏組の心は否応なく傷つけられる。だから渡してはいけない。選んではいけない。
二つの相反する感情で、一成の心はぐらぐらと揺れる。それでも、ほとんど反射で一成の唇は笑みを浮かべていた。無意識の内に、笑顔と一緒に言葉はこぼれる。
「――大丈夫だよ」
いつだって何度だって、口にしてきた。自分に言い聞かせるように、すがりつく呪文みたいに声にしてきた言葉が、勝手に唇から落ちていった。
大丈夫。一体何が。オレは何を大丈夫だと言っているんだろう。思いながらも、一成はもう一度「大丈夫だから」とつぶやいた。
みんながオレの傷を背負わなくていいよ。一緒に苦しんでくれなくて平気だよ。そう思う一方で、冷静な自分は、一体あとどれくらい一人で耐えられるのだろうともいぶかしんでいる。
大丈夫。本当にそうだろうか。だって一人では夜も眠れないのに。外へ出掛けることすらためらっているのに。大丈夫なんかじゃないのに。
ぐらぐらと揺れる心で、無意識に落ちた言葉を一成はなぞっている。一体何が大丈夫なのか、自分でもわからない。この記憶は、思い出す全ては、こんなにも重いのに。
「一成」
うわごとを漏らすような調子で「大丈夫」と繰り返す一成に、天馬がそっと声をかけた。
明るい光を放つ調子ではなく、やわらかに織り上げるような声だった。一成が反射的に視線を向けると、落ち着いた表情の天馬が一成を見つめている。
「オレたちは、6人なら何だってできるって信じてる。どんな壁も乗り越えられるし、最高の舞台を何度だって作っていける。6人がそろってるなら、どこへだって行ける。何だってできる」
静かに口にされる言葉は、天馬から夏組への限りない信頼だった。
熱に浮かされることもなく、ただ落ち着いて語られるからこそ、余計に天馬の強い思いがうかがえる。一時の狂騒ではなく、未来永劫変わることのない、不変の誓いだ。
「だから、オレたちならお前の重荷も引き受けられる。痛みも傷も、お前の分を背負ったって、つぶれたりなんかしない。お前の傷ごと抱えて歩いていける。オレたちは、6人なら何だってできるんだ」
6人だった夏組は、一人が欠けて5人になった。永遠の不在は5人の心を傷つけて、夏組はバラバラになった。
だけれど今、夏組は誰一人欠けていない。いなくなってしまった一人が、奇跡のようにここにいてくれる。
6人がそろった夏組がここにいるなら、何だってできるのだと嘘偽りなく天馬は信じている。それはもちろん天馬だけではなく、他の夏組も同様だ。
「なあ、一成。お前もそう思うだろ?」
パープルの瞳に光をまたたかせた天馬が、一成に問いかける。しかし、それは問いかけの形をしているものの、答えなんてわかりきっていた。
6人がそろっているなら。天馬がいて、幸がいて、椋がいて、三角がいて、九門がいて、そして一成がいるなら。どこへだって行ける。何だってできる。
怖いことならたくさんあった。立ちすくんでしまうことも、どうしたらいいかわからないことも、たくさんあった。それでも。
一成は、天馬の瞳を見つめながら素直に思った。言葉ではなく、声ではなく、ただ心は答えを知っていた。
ああ、そうだ。オレたちは全員一緒なら、どこだって行ける。
怖いものは怖いままでも、それでも6人がそろっているなら、その足は前へ進む。オレたちは、夏組が全員一緒なら、どんなに高い空までだって駆け上がっていけるんだ。
何かに導かれるようにこくり、とうなずくと天馬が笑った。
心底嬉しそうに、真夏の太陽を引き連れるようなまばゆさで。青空の下で、きらきらと光が散る。何もかもを美しく輝かせて、世界をあざやかに彩っていく。
あんまり光が強くて、一成はぱちぱちと目をまたたかせた。天馬はその様子に、くすぐったそうな笑みを浮かべた。
力強い光は、とたんにやわらかくなる。天馬は、白い歯をこぼして、瞳を細めて、口を開いた。全ての祝福を一成に降らせるような笑みで、天馬は言った。
「だからもう、いいんだ」
やさしい声が、一成の鼓膜にやわらかく触れる。
まばゆい光ではなく、包み込むような明かりだと思った。抱きしめる腕の力強さと、頭を撫でてくれる手のひらみたいな声だった。
それは、あまりにも真っ直ぐと一成の胸の奥底に届く。深い場所にそっと隠していた、一番やわらかい場所に触れた。
もういいのか、と一成は思った。
夏組の願い。天馬の言葉。みんなの望み、6人なら何だってできると信じられる。だからそれなら、もういいのか。これ以上、一人で抱えなくて。一人で戦わなくて。もういいのか。
思うのと同時に、一成の唇から声が落ちた。理性や意志ですらなかった。ただ、心に浮かんだ言葉が声になってこぼれた。
「――早く帰らなきゃって、思ったんだ」
抑揚のない声で、一成は言う。真っ直ぐと前を見つめていたけれど、その瞳には夏組の誰も映っておらず、過去の光景をなぞっている。
自分が殺された記憶を思い出した一成は、そこに至るまでの経緯もはっきりと認識していた。以前は単なる夢だと思っていた全てが、過去の自分に起きた出来事であると、今の一成は理解している。
「迎えを頼まれたからって言われて、車に乗った。焦ってたから乗っちゃったんだ。ひと気のないほうへ行くからおかしいと思った。逃げようと思ったけどすぐに捕まった。スマホを渡しちゃだめだと思ったんだ」
ぽろぽろと落ちていく言葉は、ただ心に浮かんだ順序で並べられていく。論理的に話を組み立てる一成にしては珍しく、つながりを意識して語られる話ではない。だけれど、それでよかった。夏組が望んだのは客観的な事実ではなく、一成が感じた心のままの言葉だ。
「刺された時、最初は何が起きたかわからなかった。でも、刺されたんだって思ったら、めちゃくちゃ痛くて。逃げようと思ったんだ。絶対やばいって思って、早く逃げなきゃって。だけど、だめだった。逃げようとしたら、背中刺されて、すげー痛くて、全然力入らなかった」
呆然とした調子で一成は言葉を落とす。
動けなかった。電話を掛けたけどすぐに壊された。ストラップを握りしめた。刺される。痛い。動けないんだ。何回も刺される。痛い。息ができなかった。苦しかった。痛かった。
うわごとのように言葉をこぼす様子は、暗がりや木の音に怯える姿と重なった。とっさに手を伸ばしたのは椋だった。隣に座る一成の腕を、ぎゅっと掴んだ。あの夜のことを思い出して、恐慌を来たすのではないかと恐れたからだ。
びくり、と一成は体を震わせた。それから、ゆっくりと椋へ視線を向けた。自分の腕を掴んでいるのが誰なのかを確認するように、じっと椋を見つめる。
一成はぼんやりとしたまなざしを浮かべていた。心ここにあらずといったような、あの夜に囚われたままのような。
無理をしないで、と椋は口を開きかけた。傷を、痛みを分けてほしいと思う。だけれど、一成の心に負担を強いたいわけではないのだ。詳細を口にしてくれただけでも充分だ、と言おうとした。
しかし、それより早く一成の唇が動く。遠い場所を見つめていたような瞳は、いつの間にかはっきりと椋を映していた。他の誰でもない、目の前の椋を認識した一成は言った。
「死にたくなかった」
椋の腕を握り返した一成は、はっきりと言った。すがりつくように、椋の腕を掴む手に力を込めながら、一成はさらに言葉を続けた。
「動けなくて、めちゃくちゃいっぱい血が出てて、息もできなくて、痛くて。オレここで――死んじゃうんだって思った。でも、オレ、死にたくなかった」
ぎゅっと顔を歪めた一成は、あえぐように言う。
あの時、血の海に倒れながら一成は自分の死が迫っていることを理解した。だってもう体は動かない。逃げることもできず、己を襲った警官は未だに背後に立っている。夜の公園なんて、誰かが訪れる可能性も低いだろう。
まだ残っていた理性は、冷淡に自分の状況を分析して、もうじきやって来るであろう死を予告した。
「みんなともっと一緒にいたい。死にたくない」
やりたいことがいっぱいあった。未来はいつだって輝いていた。家族の顔が、大学の友人たちが、カンパニーのみんなが、夏組の顔が、天馬の顔が浮かんだ。
これから先、ずっとずっと一緒にいるんだと思っていた。未来までずっと、6人でいられるのだと思っていた。いつか離れる日が来るとしたって、それはこんな形じゃない。
離れていても、顔を合わせればいつだって続きが始まるみたいな。何かあったら絶対駆けつけちゃうような。距離なんて関係なく、お互いの居場所が心の中にあって、いつでもつながっている。会いたいと望んだらいつだって会いに行ける。
そんな6人でいるんだと信じていた。だけれど、それはここで途切れる。無情にも断ち切られて、たった一人で死んでいく。
一成は椋の腕にすがりつく。
死の瞬間が一成の全身に鮮明によみがえって、今の自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。全身を貫く痛みが、迫る暗闇が、いくら呼吸をしても入ってこない酸素が、咆哮のような木々の音が、あまりにもあざやかに一成の何もかもを塗りつぶしていく。
それでも、たった一つだけ。今一成の指に触れる椋の腕だけが、あの時とは違っていた。
だから一成は、その腕を握りしめて、くしゃくしゃの顔で言った。死んでしまう。殺される。命が終わる。ここでさよならだ。何もかもが消えていく。
「怖かった」
言葉が唇から離れるのと同時に、一成の瞳から大粒の涙がこぼれた。雫は見る間に盛り上がり、ぱしゃりと崩れて頬を伝ってすべらかに落ちていく。あとから、あとから、透明な雫をこぼしながら一成は言う。
「怖かった。怖かったよ。嫌だ。死にたくない。痛い。怖い。怖いよ」
その様子は、恐慌を来たす時の一成によく似ていた。だけれど、今の一成はその目にしかと椋を映していた。
夜の暗がりに怯え、木々の音を恐れる時、一成はあの夜に囚われる。その瞳は暗く塗りつぶされ、目の前の光景を見ていない。「こわい」「いやだ」と繰り返す時、一成はただあの夜を繰り返している。だけれど。
「こわいよ、むっくん」
震える声は確かに椋の名前を呼んだ。それに導かれるようにして、椋は一成を抱きしめる。同じようにぼろぼろと涙をこぼしながら、両腕で一成を包み込んで口を開く。
「うん。カズくん、怖かったよね」
自分の命が終わる瞬間だ。体中を刺されて、全身から血を流して、途方もない痛みに貫かれた。悪意と暴力によって蹂躙され、命を奪われる。
悪い夢みたいなそれは、一成にとっての現実だった。
それがどれほどの恐怖なのかなんて、椋の想像だけではとうてい足りないだろう。それでも、答える言葉は一つだと椋は知っていた。
「怖い」と告げる一成に「怖かったよね、カズくん」と涙声で言って、抱きしめる腕に力を込めた。一成はしゃくりあげるように答える。
「こわかった。こわかったよ」
幼い口調の言葉に、動いたのは三角だった。ぎゅっと眉を寄せて、泣き出しそうにゆらゆらと視線をさまよわせながら、抱き合う椋と一成二人に両腕を広げる。まとめて抱きかかえるようにして、ぎゅっと力を込めた。
「かず、みんなここにいるよ」
殺された瞬間を思い出す一成は、命を奪われる恐怖に怯えている。
それでも、今ここにいる椋に「怖い」と言ってくれるなら、あの夜ではなく今ここにいる椋に伝えてくれるなら。自分たちの存在もきっと思い出してくれると信じて三角は告げる。
一成の顔が歪み、涙はさらに大粒となって頬を伝う。
「カズさん、オレもここにいる。ちゃんといるよ」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、九門も言った。一成の腕を掴んで、自分も確かにここにいるのだと伝える。
怖いと震える一成に「大丈夫だよ」と言ってあげたいと思う。だけれど、いくら望んだって記憶を消し去ることはできないから、今ここに、一成と共に自分がいるのだと伝えるのだ。怖い、と言うその言葉をきちんと受け取るのだ。
「オレもいる。一成は一人じゃない。自分だけで抱えるな」
きっぱりと告げた幸は、真っ赤な目をして言った。もう片方の腕をぎゅっと握って、力強いまなざしで告げるのは、夏組全員の決意だ。
怖い、と一成は言う。今まで自分の記憶に閉じ込められて、誰にも向かわなかったその言葉が、今の夏組には届く。
だから、一人で抱える必要はない。怖いのなら怖いと言えばいい。誰もそれを否定しないし、怖いと震える一成ごと、全員で受け止めてやると決めたのだ。
幸の言葉に、一成は子どものようにしゃくり上げて涙をこぼす。
泣いてほしいわけではない。それでも、心のままで怖いと言ってくれるなら、無理して笑うよりよっぽどよかった。大丈夫だよなんて、慣れた言葉を口にするくらいなら、怖いのだと泣いてほしかった。
「6人がいるんだ。何を言ったって全部抱えてやる。お前の傷も、痛みも、苦しみも、恐怖だって何だって、オレたち全員で持ってやる」
瞳を潤ませて、それでも揺るぎない決意を宿して天馬がきっぱりと言った。そっと手を伸ばすと、一成の頭を撫でてやる。呼応するように一成の泣きじゃくる声が大きくなる。
合間にこぼれるのは、あの夜の記憶に怯える言葉だ。こわい。いやだ。いたい。しにたくない。こわい。こわいよ。
一成にとってその記憶は、夢ではなかった。過去に起きた出来事を追体験するのではなく、自分自身に降りかかった紛れもない現実だ。
奥底に眠っていただけで、まざまざとよみがえった。全ては一成が実際に体験した出来事で、一成は殺された記憶が自分のものだと知っている。
だからこそ、夜に怯えて木々の音に恐慌を来たす。目前で泣きながら言葉をこぼす一成は、その時の様子に似ていた。だけれど違った。
誰にも届かない言葉を吐き出し続けていた一成は、椋の腕にすがりついて、夏組に言うのだ。
怖かった。痛かった。死にたくなかった。苦しかった。怖かった。心の中に閉じ込められて、誰にも向かわなかった言葉を、夏組は受け止める。
大丈夫だと言って、何もかもを消し去ることはできない。一成の記憶は確かにあった出来事で、過去を変えることはできないと、よくわかっている。
だから、夏組はただ一成の言葉を受け取るのだ。恐怖も苦痛も、背負いきれない重荷もみんな、一緒に抱えて分かち合う。
「オレたちは、6人で夏組だろ」
ありったけのやさしさを込めて、天馬は言う。一成の瞳から雫がこぼれてゆき、椋や九門のしゃくりあげる声が響く。三角が揺れる声で「そうだよ、かず」とうなずいて、幸は涙を浮かべながら「当たり前でしょ」と答える。
それらを見つめた天馬は、ぎゅっと唇を噛んでから腕を広げる。目の前の夏組を、全員まとめて抱きしめる。
本当は、大丈夫だと言ってやりたい。怖さも痛みもあの夜の記憶ごと消し去って、安心しろと言ってやりたい。だけれどそれができないとわかっている。だからそれなら。
痛みも苦しみも、オレたちが引き受ける。一成の傷も重荷も、オレたちが一緒に分け合う。だからもうこれ以上、一成を傷つけさせたりはしない。腕の中の温もりを抱きしめながら、天馬は思っている。