おやすみナイチンゲール 28話
中庭のガーデンライトが少しずつ減っている。吊り下げ型のライトはまだあるけれど、所狭しといった様子で置かれていた中庭のライトたちは少しずつ数を減らして、倉庫へと仕舞われていた。
理由は簡単で、一成が「ちょっとずつ暗闇に慣れないとねん」と言っていたからだ。
レッスン室で夏組全員と夜を共にして泣きじゃくった日から、一成の調子は目に見えて良くなった。
唐突に訪れるフラッシュバックや、眠りを妨げる悪夢に対して、「怖い」と言えるようになったことが大きいのだろう、というのは一成が通う診療内科の医師の言葉だ。
大丈夫だよ、と言って内にため込んでいた一成は、暗がりや木々に立ちすくんだ時「怖い」と口にする。
大抵傍には夏組がいるので、誰かの腕を掴んで自分の心を吐露するのだ。思い出すものやよみがえる光景がどんな風に怖いのか、痛かったのか、死にたくなかったのか。
一つ一つを言葉にするたび、一成の心は少しずつ落ち着きを取り戻す。
渾沌とした恐怖に言葉を与えて恐ろしさにラベリングをすれば、得体の知れなさは遠ざかる。形のわかるものとして対処ができるし、何よりも言葉になった恐怖を夏組が受け入れてくれることが大きかった。
一つ一つに寄り添って「怖いね」とただ一成の心を肯定するのだ。恐怖を乗り越えるのでもなければ、なかったことにするのでもない。そこにあるものを、すぐ近くで同じまなざしで見つめていてくれた。
その現実を何度も積み重ねることで、一成は体験として理解していく。この恐怖は、一人で抱えなくていい。夏組のみんなが分かち合ってくれるのなら、この傷も重荷も少しずつ小さくなっていく。
レッスン室の夜から、一成はそれをじょじょに理解していった。
怖いと言うこと、嫌だと言うこと、死にたくなかったと言うこと。言葉にして形にして夏組と分け合うことで、一成の心は本来のしなやかさを取り戻しつつあった。
「一成、無理をするなよ」
夜の中庭で、一成はガーデンライトを一つ片付けていた。その背中に声を掛けたのは、ずっと様子を見守っていた天馬だ。
特に具合が悪い兆候は見られないものの、夜の中庭で作業をしていることは事実だし、ライトが減ったということはその分暗さが増す。だから、無理をするなと声を掛けた。
「だいじょぶだよん! 風も強くないしねん」
軽やかに笑う様子に無理をしている様子はない。周囲を見渡す横顔も至っていつも通りだ。それでも天馬が心配を浮かべていることを察して、一成の表情は苦笑めいたものに変わる。
「ほんとに平気だって。これ片付けても、中庭普通に明るいかんね」
じょじょに減っているとは言え、元々数が多いのだ。中庭全体を照らすには充分な量があるので、天馬が心配するほどの暗さになるわけではない。それに、風もほとんどないので木々が揺れることもないだろう。
「オレ、結構暗いのもだいじょぶになったっしょ?」
「それは知ってる。ただ、お前のことだから無理しそうで心配なんだよ」
「にゃはは~。オレってば信用ないな~」
「信用はしてる」
冗談めいた言葉に、天馬は真顔で返した。天馬は一成の誠実さとか真摯さを信用しているので、極端な行動は取らないと思っている。
だけれど、誰かのためを思って発揮されるやさしさが自身の無理につながることがある、というのは重々承知していた。
今まで通りに過ごせるのだ、という姿を見せたくて、多少の無理をしても夜の中庭で作業することを選ぶかもしれない、と思う程度には。
「ありがと、テンテン」
一成は天馬の言葉に少しだけ驚いたような顔をしたあと、ふわりと笑って言った。天馬の真っ直ぐの信頼を受け取ったからだろう。その声の調子で言葉を続ける。
「でもさ、マジで無理はしてないよん。ライトもこれ消したくらいなら平気だし――それに、中庭にだってけっこう長い間いられるし」
言いながら、一成は中庭のベンチに腰掛けた。持っていたガーデンライトを脇に置くと、ちらりと天馬へ視線を向ける。その意味は、天馬にもわかった。
「長い間いられる」という言葉を証明するように、ベンチで休憩をしようという意図なのだろう。元々そのつもりだったのかもしれない、と思いながら天馬は一成の隣に座る。
「寒くないか」
「オレはいつも防寒バッチリだかんね! テンテンもダウンあったかそーだねん!」
中庭で作業をする、ということで夏組を筆頭にしてあれこれと防寒対策品を渡されているらしい。もはや一成に対して過保護になるのは、カンパニー全員の総意なのかもしれない。天馬は一成を見守るということで、最初からダウン着用だ。
天馬と一成は、夜空の下で何でもない会話を交わす。取り止めのない、ささやかな話題だけれど二人で話せばそれだけで、何もかもが特別な意味を持っていくようだった。
恐らく、そういう二人の時間を過ごさせようという配慮もあるのだろう。一成が「中庭のライトちょっと片付けてくんね」と行った時、天馬が見守るなら、と他の夏組は特に同行を申し出なかった。
「この前さ、プロジェクター使った発表があったんだよねん。先生たち事情知ってるから、自分の発表以外は外にいてもいいってことになってたんだけど」
大学の話をしていた一成が、そういえば、といった調子で口を開く。
教室内を暗くする必要があるため、一成の具合が悪くなる可能性があった。だからこそ特例として外に出てもいいと許可されたのだけれど、最近調子が良かったこともあり、一成は教室で発表を聞くことにした。もしも調子が悪くなれば、すぐに教室を出られる位置を確保して。
「ちょっとドキドキしたけど、最後まで見られたんだよねん!」
ブイサインを出した一成が、心底嬉しそうに天馬に向かって告げる。きらきらとした笑顔に、天馬の表情も自然と明るくなっていく。一成はそれを認めて、頬を紅潮させて言葉を続けた。
「ヒソヒソに昼寝誘われた時もさ。木陰の下で木漏れ日がちょっと揺れてるの、何か気持ちよさそうだな~って思って。ちょっとだけ一緒に昼寝できたんだよねん」
一成にとって揺れる木々は恐怖の対象だったはずだ。だけれど、密の上に落ちる木漏れ日や、それが揺れる様子は一成に恐怖も混乱ももたらさなかった。それどころか、真昼の太陽が出ている時であるとは言え、木陰の下で眠ることができたという。
それ以外にも、一成は嬉しそうに天馬へ言うのだ。
最近は、真澄と一緒に気になっていた雑貨屋に行った。太一と一緒にスパイスの店をのぞいた。外へ出かけても、具合を悪くすることなく帰ってこられる。浅いまどろみを繰り返すことがほとんどだったけれど、少しずつ目を覚ます頻度が減ってきた。薬を飲まなくても眠れる日が増えた。
「夢はまだ見ちゃうけど――でも、オレ最近はわりとちゃんと眠れるようになったよ。夜中に起きたりしないっしょ?」
イタズラっぽい光をまたたかせて言うのは、夏組の間では一成の睡眠状況は全員が共有しているからだ。それぞれの報告で、眠れるようになった夜が増えたことは聞いている。事実として、一成は最近あまり薬を飲んでいない。
「ちょっとずつだけどさ、オレ良くなってると思う。外も歩けるし、暗い場所だって木の音だって、前よりは大丈夫になった。夜も眠れるようになったし、前と変わらない感じで生活できてると思う」
一つずつを丁寧に取り出すような、落ち着いた口調だった。一成の言う通り、調子を取り戻していることは確かで、それは夏組をはじめとしたカンパニーメンバーも感じていたことだ。
天馬は常に一成を気にしていたので、事実としても理解している。一成の調子はずいぶんと良くなっている。以前とあまり変わらないと思えるくらい。
「だからたぶん、このまま過ごしてれば、ちゃんと治るんじゃないかって思えるんだ」
天馬を真っ直ぐと見つめた一成は、静かに言った。未来への希望に輝くというより、ただ冷静に事実を見極めた上での結論を口に出したような、そんな雰囲気だ。
恐らく一成は、客観的に自分自身の状況を把握したうえでそう判断したのだろう。
このままであれば、いずれ不調も消えていく。一成を捕まえて離さなかったあの夜から、解き放たれる日は来るのだ。だからこのまま、時間を重ねればいいということは、一成だってわかっているだろう。
「だけど、オレ、ちゃんと区切りをつけたい」
落ち着いた瞳の奥に、意志の炎が宿ったことを天馬は見逃さなかった。きっとこのまま、時間が経てば解決する。だけれど、そうではなく、一成は望んでいる。
グラデーションを描くように、気づけば不調が消えていた、という体験ではなく、今ここで区切りがついたのだと理解したい。
「そしたら、大丈夫だって思えると思う」
すくんでしまう日が来ても、揺り戻しのように調子が悪くなる日が来ても。あの時区切りがついたのだ、と思えたなら、きっと大丈夫だと一成は言う。
少なくとも、一旦区切りはついたのだと、自分自身が心から思えたなら。他の誰かの言葉を受け取るのではなく、自分自身の心がそう言ったなら。きっと大丈夫に違いない。
天馬はただ、一成の決意を聞いている。
恐らくずっと考えていたのだろう。言葉にするのが今のタイミングになっただけで、一成のことだ、ずっと自分がなすべきことを考えていて結論を出したのだ。
一成は目を逸らすことなく天馬を見つめて、そっと口を開く。区切りをつけたい。ここできちんと終わりなのだと、自分自身が心から納得できるような、そんな区切りをつけたい。
「だから、夏組みんなで行きたいところがあるんだ」
ほんの少し揺らいだ瞳で放たれたのは、そんな言葉だった。天馬がぱちりとまばたきをすると、一成の空気がわずかにゆるむ。唇の端に笑みを浮かべて尋ねる。
「だめかな。無理するなって言われる感じかも」
うかがうような口調だった。行きたいところがどこなのか、ハッキリと口にされたわけではないから、イエスともノーとも天馬には答えられない。
ただ、薄々予想していることも事実だ。予想通りの場所であれば、確かに手放しで賛成できるような場所ではないし、心配は尽きない。
「――夏組全員で行くんだな」
天馬は静かに、一成に尋ねた。行きたいところがあると一成は言ったけれど、それはたった一人ではなく夏組全員で、だ。
恐らくそれは、夏組が一成に傷を分かち合うことを、重荷を苦しみを一緒に背負わせてくれと願ったからこその言葉だろうと天馬は思った。一成はこくりとうなずく。
「それならいい」
どこへ行くのかと聞いたわけではない。だから、もしかしたらまるで予想外の場所なのかもしれない。だけれど、一成が一人で行くのではなく夏組が一緒なら大丈夫だと思った。
一成に対する心配が尽きたわけではないから、無理をさせて倒れてしまったらどうしようという不安が拭えないのも事実だ。
それでも、天馬は一成を信頼していることも事実なのだ。夏組の気持ちを受け取ってくれた一成なのだ。無謀な行動を取って、夏組を不安にさせるような行動は取らないだろうと思った。
「オレたちも一緒ならいい」
決然とした口調で天馬が言えば、一成が真剣なまなざしでうなずいた。一成が決意したことも、その決意を天馬が受け取ったことも理解したのだろう。
中庭のガーデンライトは、そんな二人を包み込んでやさしく光を灯している。