夏と神様 29話
細い階段を下って辿り着いたのは、木々の中、突如としてぽっかり開けた空き地だ。一本の外灯がひっそりと照らすのは、石造りのベンチと雑草の生えた地面。外灯に羽虫がぶつかり、ぱちりと音を立てた。
「さすがテンテン、有名人!」
呼吸を整えた一成は、つかんでいた腕を離すと明るく言った。スマートフォンを操作して、祭りの状況をざっと確認する。もしも騒ぎになっていたら目撃情報が投稿されるはずだった。だけれど、特に何の情報も見当たらない。天馬本人が見つからなかったことで、うやむやになったのだろう。
その旨を告げると、天馬はほっとしたように息を吐き出す。騒ぎになって人が集まれば、思いがけないアクシデントが起きるかもしれない。それは避けられたらしい。
「助かった。一成のおかげで、バレずに済んだ」
「ちゃんとそっくりさんって思われたらいいんだけど!」
「堂々してたし、説得力はあった。芝居もできそうだなって思ったぞ」
「マ!? テンテンに言われるとテンアゲ!」
天馬の素直な感想に、一成は明るく笑った。
実際、とっさの機転で天馬をそっくりさんとして乗り切ったのだ。ハッタリが上手いということは、舞台の上でも堂々と振る舞える可能性がある。心からの言葉を、一成は嬉しそうに受け取っている。
「――それにしても、ここは何なんだ?」
「わかんない! やばいなって思ったんだけど、参道突っ切るのは無理そうだし、どうしよって思ったら階段あるのが見えたんだよねん」
天馬の質問に、一成はあっさり答えた。そっくりさんということで騒ぎが収まらなかったら、どうにかしてこの場から抜け出さなくては、と一成は思った。
参道は人が多すぎる。だからそれ以外の場所――と周囲を見渡した一成は、屋台の裏に広がる木々に目を止めた。薄ぼんやりとした明かりの中、階段が見えたのだ。辺りをよく見ている一成でなければ気づかなかったかもしれない。
数秒考えて、一成は即決した。ここで天馬の存在がバレて大騒ぎになることは避けたかった。何が起きるかわからないし、天馬の名前に傷がつくのも嫌だった。身を隠すだけでは心もとない。この場所からすぐ離れる必要がある。
瞬時に判断した一成は、階段の先へ避難することにした。一体どこにつながっているかはわからないから、ある種の賭けとも言えるのかもしれない。しかし、一成は不思議とこの先にあるのが悪いものではないと思ったのだ。
天馬に詳しい話を伝えられる状況ではなかった。それでも、目と目が合った瞬間、天馬は力強くうなずいてくれた。一成が決めたことなら受け入れると、言葉ではなく伝えてくれた。
だから、一成は天馬の手を引いて走り出した。木々に飛び込み、階段を駆け下りてこの場所に辿り着いたのだ。誰もこんなところに階段があるとは気づいていないからだろうか。あとを追ってくるような人間はいなかった。
風が吹いて、周りを囲む木々を揺らした。しかし、それもすぐに収まると、辺りはすっかり静まり返る。さっきまでの人込みや、祭りのにぎわいが夢のようだった。
今ここには二人しかいないのだ、とあらためて思い知る。この場所には二人きり。周囲から区切られたような空間。誰かが訪れることもないだろう。まるで、秘密基地のような。そう思ったのは、どちらか片方だけではない。
「ちょっとのんびりしてから戻ろっか」
「そうだな。すぐに戻って騒ぎになっても困る」
実際、あまりすぐ戻っては意味がない、と思ったのは本当だ。ただ、もう少し二人きりでいたいという気持ちもあった。祭りの喧騒は夏らしくて胸が弾む。ただ、二人だけの時間を過ごすことも、同じくらいに胸が高鳴った。
二人は空き地を横断して、石作りのベンチに腰掛けた。今までずっと歩き通しだったのだ。ようやく腰を落ち着けることができる。人の来る気配はないので、天馬は帽子とサングラスを取った。あらためて周囲を見渡すと、ぽつりと言葉をこぼす。
「……不思議な場所だな。ベンチしかないっていうのも変な感じだ」
「オレも思った! 何か足りない気がするんだよねん」
「ああ、そうだな。何かもっと別のものがあったような……」
二人ともこの場所へ来たのは初めてのはずだ。それなのに、何かが足りないと思った。この風景を知っている。前にもここを訪れたような感覚がある。その時、この場所にはもっと別の何かがあったような気がするのだ。
「うん。何かこう――ちっちゃい神社とか?」
この場所にあるべきだったもの。一成の唇からするりと落ちた言葉は、突拍子もない。単なる空き地か、せいぜい小さな公園といった風情なのだ。決して神社がありそうな場所ではない。
それなのに、一成も天馬も違和感を覚えないどころか、すとんと納得してしまった。
「ああ。あの辺にあってもおかしくなさそうだ」
うなずいた天馬は、ベンチから直角の位置を示す。北側の木々との境に神社を思い描けば、やけにしっくり来る。むしろ、今そこに何もないことの方が不自然に思えるくらい。
二人の間に沈黙が流れる。存在しないはずのものを思い描いて、まるでそれを当たり前のように感じている。一人だけなら勘違いで済ませられるかもしれない。だけれど、目の前の相手もきっと同じことを思っている。
奇妙な事態だ。どうしてそんな風に思うのか、まるで説明もつかない。不思議な感覚が胸にあって、違和感が募っていく。
しかし、同時に理解もしていた。何かがおかしいと思ったところで、一体自分たちに何ができるのか。違和感の正体をどうやって探ればいいのかも、どうすれば解決できるかも、さっぱりわからなかった。
それに、これがもしも一人だけならば心細く思ったかもしれないけれど。奇妙な感覚を一緒に抱えてくれる人がいる。二人そろって、同じ事態に直面している。それなら大丈夫だと思った。一人じゃなかった。二人一緒なら、不可思議な事態だって恐れる必要はないのだ。
同じことを考えているのだと、天馬も一成もわかっていた。だから、一成は明るく声を発する。奇妙な違和感は消えないままでも、暗い顔をしていなくちゃいけないわけじゃない。楽しいことならいくらだって頭に浮かぶのだ。
「お祭り楽しかったねん。いっぱい食べられたし!」
「一成は食べすぎだろ。細いくせによく入るよな」
「よく言われる~!」
弾んだ声で一成は答える。体格と集中すると食事を抜くせいで、小食に見られがちなのだ。一成は楽しげな声で、言葉を続ける。
「景品もいっぱいゲットできたし、めっちゃ満喫した!」
言いながら、獲得した景品をベンチに並べ直した。ヨーヨー。スーパーボールのビニール袋。お菓子に大きな鈴、文房具やキャラクターグッズ。
夏祭りの思い出を、一つずつ取り出してそっとなぞるような気持ちだった。天馬も同じように景品を広げるので、ベンチの上はカラフルな色彩であふれる。
「ヨーヨー、割れてなくてよかった~」
心からといった風情で言葉を落とした一成は、ベンチに置いたヨーヨーを手に取った。階段を駆け下りてきたのだ。衝撃で割れてしまうんじゃないか、と心配だったけれど問題はなさそうだった。
ほっと安堵してベンチに戻すものの、そこであらためてヨーヨーを見る。天馬が上手く釣ったので、ここには三つのヨーヨーがある。どれもがピンク色で、レース調の模様などがほどこされたかわいらしいものだ。
「三つともピンクなんだな」
そういえば、といった風情で天馬がこぼした。一成も「ピンクがいいな~って思ったんだよねん」と答えると、「オレもだ」と天馬も言う。
当時のことを、二人は思い出す。いざヨーヨー釣りに臨んだ時、当たり前のようにこのヨーヨーを選んだ。一番かわいい、と思ったからで、これを持って帰りたいとすんなり思った。
ただ、考えてみれば不思議な話だ。天馬も一成も、特にかわいらしいものを好んでいるわけではない。取り立てて遠ざけているつもりもないけれど、積極的に選んだことはなかった。それなのに、自分たちは当たり前のようにピンク色を選んだ。
ちりり、と胸の奥で何が動いた気がした。これを選んだ理由。きっとどこかにあるのに、どうしてなのかはっきりとした形にならない。
天馬も一成も、何とも言えない表情を浮かべている。おかしい。違和感が強くなる。この場所を訪れた時に感じていたものが、どんどん色濃くなっていく。
だって、気づいてしまったのだ。夏祭りを二人で楽しんだ。目についた屋台に入って、景品を獲得した。おおいに満喫したし、心から楽しんだのは事実だ。
だけれど、あらためて考えてみて気づいてしまった。
目の前に並んだ縁日の景品。こうすることが当たり前だったと強く確信しているのに、どうしてそれを選んだのか。理由が一つもわからない。
スーパーボールすくいで、野球のボールに狙いを定めた。バスケットボールやサッカーボールだってあったのに、迷わず野球ボールだけを集めたのだ。他のボールは目に入らなかった。持って帰るならこれに違いないと確信していた。二人とも、野球の経験なんかないのに?
違和感はいくつも見つかった。
二人で挑戦したさんかくクジ。クジなら紐を引くものやガラガラを使う屋台だって、参道には並んでいた。特に興味は引かれなくて通り過ぎていたのに、さんかくクジだけが目に止まった。外れたのに何回も挑戦したのは、賞品がほしかったからじゃない。さんかくクジを集めたかったのだと、今ならわかる。
わたあめを選ぶ時。パッケージはいろんな種類があったのだ。カラフルさを意識するなら透明にすればいいし、インステに映えそうなお洒落なものは他にもあった。それに、天馬の好みは特にメルヘンチックなものではないのだ。どうして王子様とお姫様のパッケージに目を惹かれたのか、理由が思いつかない。ただ確かなのは、二人ともこれが一番いい、と思ったことだけだ。
理由は一つもわからない。それなのに、これが正しいという確信だけがあった。
縁日で選んだもの。こうすることが当たり前だった。ずっと前から決まっていた。並べられた景品を、二人は見つめる。吸い寄せられる。目が離せない。
ヨーヨー。スーパーボール。さんかくクジ。わたあめ。
知っている。どうしてこれを選んだのか。だって、これは必要だった。これがほしかった。だってきっと喜んでくれる。笑ってほしかった。誰に? どうして?
思い出せない。それでも知っている。違和感が強くなり、心臓が早鐘を打つ。何かがおかしい、と思った。自分のことなのにわからない。違和感が募る。おかしなことが自分の身に起きている。その事実が胸を焼く。
何かを忘れている、と天馬も一成も思った。景品がここにある意味。これを選んだ理由。知っているはずの何かを忘れている。こうすることが決まっていた。ずっと前からこうだった。この選択は正しい。はっきり確信しているのに、理由だけが思い出せない。
何かを忘れている。何かとても大事なことを。決して忘れちゃいけないことを。ずっと前から知っている。とても大事な何かを、オレたちは忘れている。
記憶と心がバラバラになったような感覚に襲われて、天馬も一成も何も言えない。記憶を探り、心の奥底をさらう。忘れちゃいけないこと。ずっと前から知っている。その理由を、欠片でもいいからつかみ取りたい。思い出さなくちゃいけない。だって忘れちゃいけなかった。
二人は焦燥を浮かべて、記憶の底を探った。
とても大事なこと。失くしたくない。ここで思い出さなければ、消えてしまう気がした。だめだと思った。ちゃんと思い出す。忘れたくない。必ず思い出す。絶対に見つけてみせる。天馬も一成も、本能のようにそう思った時だ。
――りん
風が吹いた。思いの外強く、周りの木々を揺らす。同時に響いたのは、鈴の音。さんかくクジの景品でもらった大きな鈴が、風で動いて音を立てる。
その瞬間、二人の脳内に浮かぶものがある。
雨が降っている。強い風。冷たい空気。あるはずのない鈴が鳴る。記憶と鼓膜、同時に響く鈴の音。きっとそれが引き金だった。
りん、と鳴る鈴が合図になって、記憶の扉が開け放たれる。乱れ飛ぶように、脳裏にいくつもの映像が駆け抜ける。
夏祭り。石段。参道を歩く。屋台の前。見つけたもの。心惹かれたのは。かわいいもの、野球、サンカク、王子様とお姫様。
明滅する。奥底からよみがえる。知っている。ずっと前から、もっと前から知っている。つながるものは。今ここに並ぶものは。
――「みんなにお土産だよん!」
――「土産がないと、あいつらうるさいからな」
自分の声が、頭の中で弾ける。瞬間、声ではなく言葉ではなく、全身で理解する。並んだ景品。目の前にあるもの。
ああ、これは全部、夏組のためのものだ。