夏と神様 31話





 思い出すものはたくさんあった。ずっと身近にいた、神様という存在。きっと自分の知らないところで、たくさん働きかけた。いろんなことが上手くいくよう、思いわずらうことがないよう、世界を少しずつ作り替えた。
 馬鹿げていても、無茶苦茶なことを言っているとしても、神様ならきっとそんな風に動いたのだと思えた。だって、知っている。

「オレはかなり早くトラウマを克服してたんだな。だから、舞台だってたくさん出られた。舞台を怖いと思わなかった」

 天馬は真っ直ぐ燦飛を見つめて言った。
 本来の記憶――MANKAIカンパニーに所属していた天馬は、小学生時代のトラウマを高校生まで抱えていた。誰かに弱音を吐くこともできなくて、自力でどうにかしようとして辿り着いたのがMANKAIカンパニーだ。
 結果として、それは天馬に掛け替えのない人たちとの出会いをもたらした。舞台のトラウマを克服して、大切な仲間と舞台に立つ喜びを、完璧以上の最高を知った。
 今の天馬にその記憶はない。だって天馬は、小学生のあの時にトラウマを克服している。
 高校生まで抱えることはなかったから、今の天馬は多くの舞台に立っている。弱音を吐くことだってできるようになっていたから、憂いもなく日々を過ごしている。苦しみの記憶は、本来の日々よりもずっと少なかった。

「高校の時、オレの本音を受け止めてくれたんだね。だからオレは、思ったことを素直に言えるようになったんだ」

 一成はやさしく目を細めて、皓望に言った。
 本来辿るべき日々で、一成は夏組と出会うまで誰にも本音を言えなかった。自分の本音なんて押し殺すのが当然だったのに、夏組やMANKAIカンパニーのみんなは当たり前のように、一成の本心を受け入れた。誰かのためではない一成を、心から認めてくれた。
 だから、一成は自分の心を、自分自身の気持ちを大切にして、選びたい未来を歩く決意をした。
 今の一成にとって、それは高校時代にもたらされた。大学へ入る頃には何の憂いもなかったから、一成は心のままにどんなことだってできた。
 好きなことを選んで、自分自身を大切にして、未来に向かって邁進していくことにためらいはなかった。怖くたって乗り越えられると確信していた。苦しみの記憶は、本来の日々よりもずっと少なかった。
 天馬にも一成にも、辛いことはあったのだ。苦しみも恐怖も消えたわけではなく、確かに直面した。けれどそれは早々に解消されている。
 舞台のトラウマ。本音を言えないこと。MANKAIカンパニーに出会わないことの代わりのように、乗り越える手助けをしたのは燦飛と皓望だった。
 弱音を吐ける相手。他の誰でもない自分を大切にする。世界を変えたひと。初めての特別なひと。カンパニーに出会う時期より早く、神様は天馬と一成に手を貸した。
 生きやすかった。息をするのが楽になった。本来の記憶よりもっと前に、世界中に祝福されるような日々を与えられた。苦しみの芽を摘んで、根幹を取り除いた。苦しまないよう、辛い思いをしないよう、燦飛と皓望が力を尽くしたからだ。

「だって、幸せでいてほしかったんだ」

 一成の言葉に、皓望は泣きそうな顔で答えた。願いなんてこれだけだ。一成に願うことなんて、これしかなかった。

「辛いことも苦しいことも、味わわせたくなかったんだ」

 天馬の言葉に燦飛は答える。落ち着いているように聞こえて、揺れる心を隠しもせず。天馬にあげたいものなんて、幸せ以外に存在しない。
 燦飛と皓望にとって、望みは一つしかなかった。
 幸せでいてほしい。呆れるほどの幸福を、ただ一心に受けてほしい。だから、世界はそういう形をしている。この世界は、全身全霊で天馬と一成を愛するようにできている。これから先の未来までずっと。

「幸せだけを約束するよ」
「世界の全部で、幸せにする」

 燦飛が言って、皓望が続く。これは二人に懸ける誓いで、絶対の事実だ。この世界で生きる限り、天馬にも一成にも幸福が約束されている。だってそう望んだ。そういう風に作り上げた。
 好きなように、思うがままに生きていいのだ、と燦飛と皓望は言う。
 天馬はたくさん芝居をしてくれ。いくらだって、どんな舞台にだって立てる。カズはたくさん絵を描いて。カズに描けないものなんかない。何だってどんなものだって描けるよ。

「カズはすごい画家になる」
「天馬は世界に名前を響かせる役者になる」

 誇らしげな顔で言うのは、二人の未来の姿だ。一成の絵。天馬の芝居。あの神社で見守っていた時から虜になった。生み出される作品が、心そのものを形にしたような何もかもが好きだった。

「カズはすごいんだ。僕の力なんかなくたって、たくさんの人がカズを認める」
「天馬もだ。俺の力を使ったことなんか一度もないが、輝かしい成果を上げている」

 自分のことのように誇らしげに、燦飛は天馬を、皓望は一成をほめたたえる。得意げな顔つきで語るのは、二人の持つ力への絶対的な信頼だ。
 芝居も絵も、神様の力は一つも使わなかった。それだけの実力があると知っていたからだし、よけいなことはしたくなかった。混じり物なんて要らない。純粋な、あるがままのきみがいい。それでも充分に世界へ羽ばたく力がある、という事実が何よりも嬉しくて、誇らしかったのだと、神様たちははにかんで言った。
 告白のような言葉に、天馬も一成も、ただ素直に思った。ああ、本当に、自分たちを信じて愛していたのだと。
 世界を作って、望んだように動かせる神様ならば、絵や芝居に干渉することは決して難しくなかっただろう。どんな賞だって簡単に取れるし、どんな役だって射止めることができる。思うがまま、天馬と一成に好きなだけ賞賛を浴びさせることができる。
 だけれど、それを選ばなかった。あくまでも、全ては二人の実力に任せて、関与することを避けた。どうしてなのか。簡単だ。天馬と一成が、芝居や絵を大切にしていることを大事にしてくれたから、神様の力を使わなかった。
 それは、天馬と一成を信じたからこその結論だ。何一つ手を貸さなくても。神様の力なんか使わなくても。天馬も一成も、世界へ羽ばたく力があるのだと。この神様たちは心から信じた。

「それ以外は全部任せてほしいんだ」
「他の全て、邪魔するものは取り除こう」

 自分たちの役目は、二人が進む道を阻むものを取り除くことだ。芝居をすること、絵を描くこと。それを邪魔するものは、害をなすものはみんな消してしまおう。立ちはだかるものはなかったことにしてしまおう。そうして、きみの進むべき道を守ることが自分の役目だ。
 燦飛と皓望は、目を細めてそう言ったあと、さらに言葉を続ける。やさしい笑顔で、あふれ出しそうな心を抱えて、この世界のたった一人だけを見つめて言う。

「この世界で、きみを幸せにするよ」

 何度も告げられた言葉。どれほど本気なのか、心からのものなのか知っている。どんなに荒唐無稽でも、これまでの出来事から全ては事実なのだと、どうしようもなく天馬も一成も理解している。
 事実として、MANKAIカンパニーと出会わない別世界で、今まで違和感なく過ごしていた。何もかもを忘れ去って、一つだって疑問に思うことなく、毎日を送っていたことを覚えている。
 今までのことから考えても、世界に干渉する力を持っていることはわかっている。
 この世界を作り上げた神様なのだ。きっと何だってできる。この世界なら、神様の力でどんな苦労もなく過ごすことができるのだろう。天馬と一成を心から大事に思っているのだ。幸せを阻むものを全て排除する、という言葉は単なる事実でしかない。
 今ここでうなずけば、どんな苦しみもなく、芝居や絵に邁進できる。何に阻まれることもなく、自分の実力で勝負できる。ここは、何もかもの幸福が約束された世界だ。
 はっきりと告げられる神様の言葉に返す答えは、一つだけだった。
 心から愛してくれた。大事にしてくれた。持っている力を信じてくれた。何度だって助けてくれた相手だ。
 ベンチに座っていた二人は、そっと立ち上がった。今まで何度も向き合っていた。大事な友人として、特別な人として接してきた。これまでの日々と同じように顔を見つめて、一成が口を開いた。

「ありがと。そういう風に思ってくれて、めっちゃ嬉しい」
「それに、今まで世話になったのも事実だしな。ありがたいと思う」

 天馬も続く。二人が告げる言葉は、やさしい響きをしていた。
 もしかしたら、言うべきことはもっと他にもあるのかもしれない。本来であれば、カンパニーや夏組と重ねるはずだった日々を、都合よく自分のものにしているのだ。何てことをしてくれたんだと怒ってもいいのかもしれないし、嫌悪を示してもおかしくはないのかもしれない。
 だけれど、どうしたって消えない記憶があった。共に過ごした年月を、毎日を、どうしようもなく覚えている。
 二人で交わした会話や、分かち合った出来事。確かに力になって、助けられた。二人でいたから、たくさん笑えたのだと知っている。楽しかった。胸が躍った。共に過ごした日々は、確かに輝いていた。だからこそ、告げたいのは感謝の言葉だったのだ。
 二柱の神様は、天馬と一成の言葉に嬉しそうに笑った。記憶の中で子供のように笑った顔と重なる。同じ顔で笑うんだな、と思う。神様だと正体を明かしても、見せる笑顔は変わらない。無邪気で、嬉しそうで、神様らしい面影なんて一つもなく、記憶の中と同じ顔で笑う。
 このまま、何もかもにうなずいてしまえば、きっとそれで丸く収まるのだとわかっていた。昨日の続きを今日も始めて、神様の加護を受けて幸せな世界を生きていく。何一つ憂えることなく、ただ幸いだけが降りそそぐ日々を送る。
 もしかしたら、それが正しいのかもしれないとさえ思った。だけど、それでも、告げる言葉は、返す答えは、とっくに決まっている。

「オレたちは、全部思い出したんだ」

 きっぱりと天馬は言った。
 MANKAIカンパニーに出会った。心の震える瞬間を知っている。怖くてたまらなかった舞台。一緒に並んで立ってくれた。夏組の千秋楽。
 一人じゃなかった。支えてもらった。同じように支えたかった。力になりたかった。受け取ってくれた人たちがいる。一緒に過ごした。あの全ての日々。
 思い出すもの。知っているもの。みんな、みんな、まばゆく頭に浮かぶものたち。震える心で告げれば、一成が続いた。天馬の心を受け取って、そっと寄り添うように。

「苦しいことも、辛いことも、きっとこれからたくさんあるよね。望んだことだって全ては叶わないかもしれない」

 一人になるのが怖くて本音を言えなかった。初めて口にした本音を受け取って返してくれた。世界が変わった。どんな言葉も受け止めて、ありのままの心をありったけの力強さで認めてくれた人たち。
 みんながいる。一緒ならどこまでだって走っていけると知っている。思い出す。夏組。カンパニー。大事な人たちの顔、思い出、過ごした時間。
 知っているから、答えは変わらない。思い出した全てがどうしようもなく告げている。重ねた時間が、確かに刻んだ足跡が、たった一つの答えを導き出す。

「みんなに会えた。大事な人たちに会えた。思い出したんだ。もう二度と、なくしたくないよ」

 揺れる声で、一成は言う。思い出すまで、MANKAIカンパニーのことは何一つ知らなかった。きっとあのままなら、知らないままで生きていたはずだ。カンパニーのみんなも、夏組のことも知らないままで、それが当たり前のように。
 思ってぞっとした。みんながいない。カンパニーも知らない。夏組のみんなと会えない。一緒に過ごした日々も、駆け抜けた舞台も、何もかもがなかったことになる。思い至った可能性が怖くて仕方なかった。そんなの嫌だと全身が叫んでいた。
 天馬は隣に立つ一成の手を、ぎゅっと握った。同じ答えだと、同じ思いを抱いているのだと伝えるために。MANKAIカンパニーも夏組も知らないままなんて嫌だ。もう二度となくしたくない。忘れたくない。もう二度と、なかったことになんかするもんか。
 一成がつないだ手に力を込める。その強さを手のひらから感じながら、天馬は二柱の神様を見つめた。人間ではない、この世界を作った存在。紛れもなく自分たちを愛して、大事にしてくれた。神様へ告げる誓いのような強さで言う。

「これからオレたちは何度だって傷つくんだろう。苦しいことも辛いことも、たくさん知ると思う。それでいい」

 これは虚勢なのかもしれない。事実として、困難も苦痛も喜んで受け入れられるわけじゃない。できるなら、そんなものはなかった方がいい。でも、心から思っていることは確かだった。
 天馬の言葉へうなずくように、一成が天馬の手を握る。強く、強く、離すまいとするように。ここにいると伝えるように。
 ああ、そうだ、と天馬は思う。オレはここに一人じゃない。この世界でも、ちゃんと会えた。一人じゃない。神様にだって言える。この世界を作った存在にだって、はっきり言える。背中を押される気持ちで、天馬は告げた。

「傷のつかない、みんなのいない世界よりも。痛くても苦しくても、みんなのいる世界がいい」

 ほしいものなら知っている。
 進んで傷つきたいわけじゃない。痛いことは嫌だ。怖い思いもしたくない。だけど、ほしいのは。幸福を約束された、誰とも出会わない世界じゃなくて。傷ついても苦しくても、痛くて辛いことが待っていても、みんなのいるあの世界なんだ。
 宣誓のような力強さで言うと、一成が天馬の手を引いた。視線を向ければ、きらきらとしたまなざしで天馬を見つめている。言葉なんかなくてもわかった。こぼれるような輝きが、やさしい瞳が告げている。
 ――そうだね、テンテン。オレもおんなじ気持ちだよ。
 心に直接触れられるようだった。天馬の胸がきゅう、と締めつけられる。気持ちがあふれていく。どうしようもなくこぼれていく。ああ、そうだ、と思った。一成がいる。一緒にいてくれる。
 オレたちの帰りたい場所。生きたいところ。MANKAIカンパニーのある、夏組のいる世界。
 きっとそこに神様はいない。何だって思い通りにできるわけじゃないから、困難もハードルもあるのだろう。何もかもから守られたわけじゃない。痛くて苦しいことも待っているだろう。
 だけど、それでも大丈夫だ。一人じゃないと知っている。だって、隣にはきみがいる。
 思い出す光景があった。
 山の中を、川のそばを、二人で歩いた。夏の光が散っている。どこまでも、どこまでも、二人で道を歩いている。汗だくになって、容赦ない太陽の下を歩くのは、しんどいし疲れるし、全然楽しくないはずなのに、どうにも笑顔になって仕方なかった。あの夏の日を覚えている。
 何もかもが輝いていた。きらきら、きらきら、光が散る。今この場所も、辿ってきた道も、これから先の未来まで、全てが美しく輝いている。あの時抱いた気持ちは、確信になって胸に宿る。

 きみとなら、どんな場所でも、どこまでだって歩いていける。きみとなら、傷だらけの世界だって笑っていられる。二人なら、未来はいつだって一番明るいんだ。

 天馬を見つめる一成のきらきらとした瞳が、まばゆい笑顔が、同じ思いを抱いていると告げていた。天馬はつないだ手を強く握り、自分の方へ引き寄せる。一成の体が動いて、二人は真正面から向き合った。二柱の神様が、慌てた素振りで何かを口にするけれど、どちらの耳にも入らない。
 見えているのは一人だけ。目の前のたった一人だけに告げる言葉があるのだと、わかっていた。
 天馬は一成の両手を握った。一成はやわらかく目を細めて、同じように握り返す。望んだ世界へ戻るための鍵ならわかっている。
 だけれど、それよりもただ伝えたかった。ずっと言いたかった。お互いの気持ちなんてわかっていた。あとは言葉にするだけだと知っていた。きみに思いを告げたいと、体と心が叫んでいる。だから、あの夜の続きを始めるのだ。
 天馬は真っ直ぐ一成を見つめた。一成も同じように天馬へ視線を向けて、ばちりと目が合う。
 何度だってこの瞳を見てきたのだ、と天馬も一成も思っていた。きらきらとした輝き。目もくらむほどのまばゆさ。なんてきれいなんだろう。どんな言葉でも、きっとこの美しさを言い表すことはできない。
 魅入られたように、視線が外せない。力強い紫も、揺らめく緑も、どうしようもなく胸に迫って仕方がない。心臓の音が、どくどくと頭に響いていた。
 何も言わなくても、お互いの気持ちなんてとっくにわかっている。特別な人といって、思い浮かぶのは一人だけだ。いつの頃からか、友達だけの感情ではとうていおさまらなくなっていた。
 夏組の大切な一人。それは今でも変わらないけれど、この世界でたった一人を選ぶならこの人だけだと、もうとっくにわかっていた。
 あとは言葉にするだけだ。気持ちを伝えて、同じ心を交し合うだけだ。ずっとその時を待っていた。満ちていく心があふれだす瞬間を。目の前のたった一人に、確かな言葉を伝える瞬間を。
 今がそうだ、と理解していた。お互いの瞳を見つめて、天馬は言う。心の全てを取り出して、ずっと前から伝えたかった言葉を口にする。

「一成が好きだ」

 告げた瞬間、一成が嬉しそうに笑う。世界中の幸福を抱きしめたみたいに、あざやかに頬を染めて。
 それから、一成は答えた。どんなものよりも美しい、世界で一番のまばゆさで。ずっと前から決まっていた言葉を返す。

「オレも、テンテンが大好きだよ」

 最後のピースがはまる音がした。求めていた半身。魂の番。欠けていたことさえ知らなかった。埋まらない隙間さえ気づいていなかった。何もかもが満たされる。ぴたりと重なる。ずっとこの時を待っていた。
 互いの言葉が心の奥底に、体の隅々まで染み渡った瞬間、世界は光に包まれる。