Happy ever after――Scene2.present




 通話を終えた水瀬は、リビングの引き出しから、厳重なケースに入った一枚のディスクを取り出す。リビングのローテーブルへ置くと、テレビとディスク再生機の電源を入れる。厳重な手つきでケースから中身を取り出して、再生機へセットした。

 慣れた調子で操作をすれば、画面には映像が映し出される。

 現れるのは、日当たりのいいリビングの風景。木製フレームのソファとローテーブルが置かれ、観葉植物の緑があざやかに背景を彩っている。
 画面には誰も映っていないものの、ガタガタという音がしている。続いて「もう始まってるんですか」という声が聞こえた。懐かしいな、と思う水瀬の唇は自然と笑みを作っている。尋ねる声に「始まってますよ」と答える自分の声も少し若く感じられた。
 本来であれば編集なり何なりで削除してしまうこともできるけれど、水瀬はそうするつもりがなかった。こういったものを楽しむ性分だろうと予想していたこともあるけれど、些細な日常の瞬間を消してしまうことを望むような人間ではないと知っていたからだ。

「――自分がカメラの前に立つなんて、不思議なものですね」

 そんな声とともにフレームインしたのは、小柄な老人だ。襟付きのシャツに、えんじ色のベスト。ふっさりとした白髪にべっこうの眼鏡をかけているのは、日本だけでなく世界でも名前を知られた染井芳暢監督だった。

「取材ならしょっちゅう受けてるじゃないですか」

 水瀬の声が聞こえるものの、姿が映ることはない。カメラはただ、染井監督だけをとらえている。映像の中の染井監督は、おだやかさに楽しげな雰囲気を交えて答えた。

「そうですが、カメラマンが水瀬くんというのは初めてですからね」
「本職のカメラマンをご指名すればよかったでしょうに」
「そうなると緊張しそうなんですよねぇ」
「私だと緊張しないんですか」
「水瀬くんですし」

 水瀬の軽口へ答えるように、染井監督の言葉も冗談めいた響きをしている。笑みを浮かべて映像を見ている水瀬は、思わず目を細めた。
 世界に名だたる有名監督ではあるものの、水瀬にとってはあくまで映画監督の一人である。実力は当然知っているし、素直に尊敬もしている。
 ただ、名監督に対する気負いのようなものは、昔からなかった。なので、周囲の人間には不遜な態度だと取られることもあったけれど、染井監督はそれを面白がっていたし、だからこそ冗談めいたやり取りも自然だったのだ。
 こんなやり取りをしていたな、と水瀬は思う。
 この映像を撮ってからしばらくして、染井監督は体調を崩すことが多くなった。恐らく、薄々自身の変化に気づいていたからこそ、動画が撮りたいと声を掛けてきたのだろうと水瀬は察している。残された時間が少ないのなら、と終わりの準備を入念に行うような人だった。
 結局染井監督は、必要なことはきちんと手配をして静かに旅立った。
 世界中が悲嘆に暮れて追悼番組がいくつも作られたし、これまでの業績を称えて染井監督作品が各地でリバイバル上映されていた。染井監督の名前は、しっかり歴史と記憶に刻み込まれる存在となったのだ。
 そんな人から託されたのがこの動画だった。撮影にくわえて、来るべき時がくるまで預かっていてほしいと頼まれたのだ。
 データ自体はこのディスク以外に、各種記録メディアにバックアップを含めて保存しているけれど。直接渡すならこの一枚のつもりだったので、中身を確認する必要があった。
 映像の中の染井監督は、楽しそうに笑って口を開く。

「まあ、でも、水瀬くんなら一番適当だと思うんですよね。騙すの得意でしょう?」
「人聞きが悪い」
「事実じゃないですか」
「否定はしませんが」

 ひょうひょうとした受け答えに、染井監督は面白そうに笑った。それから、やさしい表情を浮かべて続ける。

「今はまだ時期ではないですからね。しかるべき時に、天馬くんと一成くんにメッセージを届けてほしいのです。恐らく私は間に合いそうにありませんから」

 最後の言葉は小さなつぶやきだった。水瀬に向けられたものではないとわかっていたから、聞かなかったことにして水瀬は口を開いたのだ。冗談の響きで、軽やかに。

「相変わらず、染井監督はあの二人に甘い。辛辣な顔なんて見せたことないんじゃないですか」
「必要とあればそういう態度も取りますが――天馬くんも一成くんもいい子ですからねぇ。水瀬くんと違って」
「そういうところですよ」
「今までの被害実績並べましょうか?」
「おや、藪蛇だったな」

 軽快なやり取りに、染井監督は楽しそうに笑っている。その表情は悪戯を仕掛ける時のようでもあり、相手をやり込めることを楽しんでいるようでもある。
 天馬と一成が「浅き春のカノン」撮影以降染井監督と親交を深めていることは水瀬も知っていた。一成の呼び名も「三好さん」から「一成くん」に変わっていたし、ときどき自宅を訪れるなどプライベートでも友好関係を築いていたのだ。
 三人のやり取りは何だかほほえましくて、見るものの心を温めるような雰囲気があった。お互いへの親愛があふれるようだったし、祖父と孫のようだと言う人が多かったのもうなずける。

「でも、水瀬くんならちゃんと隠しておいてくれると思ってるんですよ」

 カメラを構える水瀬を真っ直ぐ見つめて、染井監督は言った。静かな声で、丁寧に。奥底に確かな意志を忍ばせて。

「天馬くんと一成くんにとって、一番のタイミングまで何も知らない顔をしてくれるでしょう?」

 告げられた言葉は、水瀬への確かな信頼だった。水瀬ならば誰かに口外することもなく、素知らぬ顔をしてくれる。時には嘘を吐く必要もあるかもしれないし、誰かを騙すこともあるかもしれない。水瀬ならば確かにやり切ってくれると信じたからこそ、染井監督は今回の話を持ち掛けた。
 理解してしまえば、うなずく以外に道はないのだ。有名な映画監督だからとかそういうことではなく、あまりにも真っ直ぐとした信頼を向けられれば、全力で応えたいと思うのは自身の性とも言えた。そんなこと、とっくにお見通しなのだろう。

「――ええ、わかりました。必要な時まで、周囲の人にも一切漏らさず隠し通しましょう」
「これは頼もしい」

 水瀬の返答に、染井監督はにっこり笑った。結局上手いこと乗せられているな、と思いつつも悪い気はしないのだ。

「二人の未来の邪魔をしたくはないですからね。よけいな情報が、こちらから漏れることがあってはいけません。まあ、水瀬くんが気づいているのはわかってるんですよ。それもあっての人選なので」
「なるほど。腑に落ちました」

 苦笑を浮かべて、水瀬は答える。どうやら自分に白羽の矢が立ったのは、恐らくこの辺りが重要だったんだろうな、と思ったからだ。
 天馬と一成。二人は大変仲のいい友人だと評判だし、長く共に暮らしている。ほほえましい関係性だと思われているけれど、恐らくそれだけではないと水瀬は気づき始めていた。
 染井監督は水瀬の答えに、しみじみとした調子で言った。本当に心の底から、という響きで。

「口は堅いし周囲を謀る手練手管もありますし、事情も察している。これほど適任者はいないなと、感謝したくらいですよ」
「ずいぶんと買ってくれますね」
「まあ、事実ですからね」

 さらりと告げられた言葉は、染井監督の至って純粋な本心である。それを察することができる程度には水瀬も染井監督との付き合いが長かった。なので、思ったよりも自分が信頼されているらしい、ということを感じ取った。秘密を共有する相手として選ばれたくらいなのだから。
 水瀬は笑みを浮かべて一つ息を吐き出すと、あらためて、といった調子で尋ねる。

「薄々予想はついてますが、メッセージというのは?」
「もちろん、二人の結婚祝いですよ」

 当然といった顔で告げられた答えに、水瀬は「そうだろうな」と思う。
 染井監督が二人の関係に気づいていることくらい、水瀬もさすがに察している。反対するどころか、完全に応援体制であることも話の端々から伝わってきた。
 天馬と一成に対しては基本的に全肯定の勢いだし、そもそも染井監督は同性だからと嫌悪を向けるような人間ではないのだ。「浅き春のカノン」という作品もそうだし、愛によって結ばれる関係性をいつでもやさしく見つめてきた人だと、作品が語っている。そんな染井監督が、同性だからという理由だけで二人に育まれた愛を否定するはずがなかった。

「残念ながら、今はまだ公表するにはリスクが大きすぎる。だから黙ったまま、友人の顔をしているという選択はうなずけます。何もかもを開示することが正しいわけではありませんからね」

 淡々とした調子で言う染井監督は、当然の顔をしている。現在の状況がどういったものかを、きちんと把握しているからこその言葉だろうし、水瀬とてうなずける。
 少しずつ理解は広まってきたし、表立って嫌悪を示せば眉をひそめられる。少なくとも、一昔前のようにありえないことだと否定して侮蔑の言葉を向けるなんてことは、許されない風潮ができあがっている。
 とはいえ、全面的に認められているかと言えばノーと言わざるを得ない。
 今もまだ嫌悪を覚える人間がいなくなったわけではないのだ。それに、少数派であることはどうしたって変わらない現実だった。普通とは違う、その一点だけで二人に悪意が向くことは避けられない。
 わかっているから、今はまだその時ではない、と染井監督は思っている。
 だけれど、同時に信じてもいるのだ。もう少し時間が経って、世間の風向きが変わっていったなら。天馬と一成の才能が、彼らの持つ魅力が、世界中に伝わったなら。誰もが彼らの幸せを願って、悪意や侮蔑よりもっと大きな応援の声が届くようになったら。
 きっといつの日か、二人が自分たちの関係を公表する時が来る。その時は心から祝いたいと望んでいるから、こうして動画を撮影している。

「そうですね。それでは、来たるべき時のためにメッセージをお願いしましょう」

 同意の言葉を返してから、いささか真剣な声音で言う。すると、染井監督ははっとした表情を浮かべて、真っ直ぐカメラを見つめる

「――天馬くん、一成くん」

 いくらかの沈黙のあと、染井監督はゆっくり口を開いた。緊張感を残した面持ちで、一つ一つ言葉を選んで形にしていく。

「いきなりこんな動画を見せられて、困惑しているかもしれませんね。驚かせるつもりはなかったのですが、どうしてもきちんと言いたくて……。水瀬くんにも無理を言って協力してもらいました」

 一旦言葉を切ると、染井監督は大きく深呼吸をした。それから、唇をほころばせて言う。

「ご結婚おめでとうございます。この動画を見ているということは、お二人が結婚した時のはずですからね。ふふ、おめでとうと言えることがとても嬉しいんですよ」

 自然と浮かんだ笑みをそのままに、染井監督は弾んだ調子でこれまでの思い出を語っていく。「浅き春のカノン」撮影時のあれこれや、プライベートで親交を深めていった時のエピソードなど、並べられていく話はどれもが二人の仲睦まじさを伝えている。

「はっきりとした言葉にしたことはありませんでしたね。それでも充分でしたし、何もかもを公表することが正しいとは思っていません。お二人の決断が一番です。だから、申し訳ないと思う必要はないのですが――今こうやって、あらためて祝福を伝えられることは、やっぱり嬉しくなってしまいます」

 染井監督はずっと近くで、二人のことを見守ってきた。勘のいい人だということもあるし、天馬と一成のことをつぶさに見つめ続けてきたゆえだろう。だから、二人がただの友人としてだけではなく、たった一人の特別だと思い定めていることを知っていた。日常のささやかな瞬間に、互いに向けられる愛情をずっと感じていた。

「公表せずに隠していくことが、対応として妥当だということはわかっていました。でも、やっぱり、そんな現実がもどかしくもありました」

 天馬と一成の決断は、現実的なものだ。周囲からの評価が大きく仕事に影響するのだから、わずかでもマイナスを持たれる要素を排除するのは当然だろう。
 だから、マイノリティであることやともすれば嫌悪を抱かれる要素は、隠しておくのが妥当な判断だ。そんなことは、染井監督だってわかっていたのだけれど。

「二人の間にあるものは、隠さなくてはならないものではない。こんなにもうつくしくて、やさしくて、愛おしいものはないのだと、何度だって思っていました。だから、お互いの手を取って歩いていくのだと、二人は特別な相手なのだと、公にできることが嬉しい。結婚するのだと、人生のパートナーはこの人なのだと、言える未来が来たことが嬉しい」

 あふれるような喜びを声に宿して、染井監督は言う。
 天馬と一成と親交を深めているうちに、時代の空気が少しずつ変化していることに染井監督は気づいた。奇異の目を向けられ、眉をひそめられるものだった同性同士の恋愛や結婚が、当たり前の一つになりつつあったのだ。
 特別な人たちの特別な関係が、どこかにいる誰かの日常になっていく。大多数だとか少数派だとかではなく、いろいろな形の関係性が存在するのは当然だと認識する人たちが増えていた。
 くわえて、天馬と一成は飛躍的に活動の場を広げていた。
 天馬は世界に名だたる役者になっていたし、一成も日本画家として世界各地で個展を開催するかたわら、海外のドラマに出演して賞を取るなど、すっかり知られた存在になっていた。日本の芸能界でも確固とした地位を築きつつあり、二人を応援するファンの数は日に日に増えていった。
 そういった諸々の状況にくわえて、日本国内では同性婚成立の機運が高まっていた。遠くはない未来に、正式に法律が可決されるだろうことを染井監督は予想していた。
 だからきっと、いつか二人が結婚を公表する日が来ると思ったのだ。決してそれは夢物語ではなく、単なる現実となる日が来るのだと。唯一の懸念はそれまで自分の健康が持つかどうかだったので、こうして動画という形で祝福を残すことにしたのだ。

「本当におめでとうございます。誰よりお二人が一番喜んでいると思いますし、夏組やカンパニーのみなさん、ご家族にとっても素晴らしい日になったでしょう」

 染井監督は穏やかな表情に、はっきりと喜びをたたえている。
 天馬と一成が人生をともに歩むのだと、結婚という形を取ったのだと、隠すことなく告げる未来が訪れることを微塵も疑っておらず、心からの祝福を贈っているのだということが、画面の向こうからはっきりと伝わってくる。

「これからの幸福を願うのも、何だか野暮のような気がしますね。天馬くんと一成くんが一緒なら、幸せになることは確かなんですから。それに、長く一緒に暮らしていますしね。あらためて結婚生活が始まるというわけでもないですし――ああ、でも、正式には新婚という扱いなんでしょうか」

 そういえば、と言う染井監督は楽しそうだ。天馬と一成が、言葉にしてこなかっただけで互いを特別なパートナーと思い定めていることは知っている。だから、二人はすでに伴侶としての生活を営んでいるのだ。法律的な肩書が新しく追加されただけ、とも言える。

「ふふ。長年連れ添った二人が、あらためて新婚扱いになるのは何だか面白いですね。一成くんは特に楽しんでくれそうですし、天馬くんもまんざらではないでしょう。せっかくなので、新婚らしい毎日をあえて過ごしてみるのもいいかもしれませんね」

 やさしい表情で、きらきらと瞳を輝かせて、染井監督は言葉を並べる。
 天馬と一成がともにいること、これから先の未来を歩いていくこと。確かな名前がつけられて、隠すことなく多くの人に関係性を告げられること。この人が特別なのだと、大好きな人と生きていくのだと、胸を張って言えること。
 それら全ての幸福を、喜びを、抱きしめているような表情だった。

「本当におめでとうございます。こんな日が来ることを、ずっと待っていました。お二人に比べればささやかなものですが――本当に嬉しいのです。だから、何度でも言わせてください」

 そう言って、染井監督は真っ直ぐ視線を向けた。カメラを構えた水瀬ではなく、この映像を見るであろう二人に向けて。今ここにはいなくても、染井監督の目には確かに映っているのだと確信できるまなざしで、染井監督は言った。

「天馬くん、一成くん。ご結婚おめでとうございます」

 静かな声で、どこまでも力強い響きで、告げられた言葉。カメラを構える水瀬は、しんとした心で思っていた。
 天馬と一成を思い浮かべる。この映像を見るのがいつのことになるかはわからない。もしかしたら、思った以上に長い時間が経つかもしれない。
 それでも、どれだけの時間を超えたとしてもきっと届く。染井監督の、心からの祝福を余すところなく彼らは受け取ってくれるだろう。
 確かに思った水瀬は、ここがメッセージの締めとしてふさわしいと判断する。実際、染井監督はにこにこしたままで続きの言葉を口にしないので、間違ってはいないはずだ。水瀬がちらりと視線を向ければ染井監督はこくりとうなずくので。

「――それでは、ここでメッセージを終わります」

 終了を告げる意味でそう言えば、染井監督がゆっくりソファから立ち上がる。画面から姿が消えるのと同時に、「水瀬くん、すみませんね。ありがとうございます」という声が聞こえた。
 それから数秒誰もいない部屋の様子を映してから、ぷつりと映像は途切れる。画面が暗くなり、どんな映像も映ることがないのは、ここで水瀬が撮影を終了させたからだ。


(編集して整えるより、変に手を加えない方がいいかな)

 映像に乱れはなかったし、このまま渡しても問題はなさそうだ、と思いながら水瀬はディスクを取り出した。丁重にケースへ仕舞って、このメッセージを渡すべき二人のことを思った。
 天馬も一成も、映像作品に携わるプロとして第一線で活躍している。こんな風に素材のまま、素人が撮った動画を渡すなんて、場合によっては馬鹿にされていると思われる可能性もある。ただ、二人の人となりを知っているので、そんな心配は微塵もしていなかった。
 むしろ、二人のことだ。どんな編集もない映像を、きっと楽しんでくれるだろうという確信があった。その場所の空気をまるごと閉じ込めたような、染井監督が目の前にいるような映像だからこそ。
 このディスクを渡せば、二人はいぶかしみながら受け取るだろう。内容について詳しい話はするつもりがないから、再生するまで中身はわからない。
 画面に染井監督が映ったら、結婚祝いのメッセージを贈られたら、一体どんな顔をするだろうと水瀬は思う。直接確認することはできないけれど、きっと心底驚いて、それからこの上もなく嬉しそうに笑うのだろうと思った。
 もうここにはいない。それでも、天馬と一成を心底大事にした人からのこの上もない祝いの言葉を、しっかりと受け取ってくれるに違いない。

(それにしても、おおむねあの人の言った通りだな)

 手の中のケースを弄びつつ水瀬が思い出すのは、この動画を撮影した時のことだ。カメラを止めたあと、水瀬に感謝の言葉を述べた染井監督と雑談を交わしていた。

 ――お二人に動画を渡したあとは、ちゃんと存在を匂わせておいてくださいね。

 何でもない話の合間に、染井監督はそう言った。マスコミ向けに祝いのメッセージを公開するつもりはない。あれはあくまで天馬と一成のためのものなのだから当然だ。
 ただ、染井芳暢が二人の結婚を祝っていた、という事実は世間に知らしめてほしい、と染井監督は言ったのだ。その意味はわかっていたから、水瀬は相槌を打つ。

 ――まあ、マスコミは騒ぐでしょうからね。
 ――ええ。二人が結婚を公表する状況ですから、表立って糾弾する向きは少ないでしょうが……。それでも、まだとやかく言う人はいるでしょう。だから、私の名前を出してほしいんです。

 淡々とした調子ではあるけれど、それは自身の権威や名声をよく理解しているからだ。
 二人が結婚を公表すれば、必然的に天馬と一成が恋人同士を演じた「浅き春のカノン」も言及される。染井監督が一体どんなコメントを残すのか、と注目されることは想像に難くない。
 もしも染井監督が存命であれば、祝福のメッセージを贈ることはできる。しかし、すでに鬼籍に入っていたなら、どんな言葉も発することはできない。これ幸いと、好き勝手な憶測で「染井監督が生きていたら」とメッセージを予想される可能性はあった。

 ――思った通りのものなら良いのですが。勝手に二人に苦言を呈する立場にされたら叶いませんからね。

 静かな口調ではあるけれど、奥底にはどこか冷やりとした空気が宿っている。それは、染井監督が状況を正しく理解しているからだ。恐らく、表立って二人を揶揄したり侮蔑したりすることはない。しかし、全面的な好意だけを伝えるかと言えば疑問だった。
 両論併記にかこつけて、同性同士の結婚を非難する声を取り上げる可能性は高い。
 上の年代からの反発を鑑みて、同年代である染井監督も消極的な態度を取るのではないか、なんてことをしたり顔で言われる可能性は否定できないのだ。だからこそ、動画の存在が重要だった。

 ――二人の結婚を心から祝っていたのだと、ずっと前からこの日を待っていたのだと、おおいに伝えてください。権威なら充分でしょう? 染井芳暢の名前を有効活用しましょう。

 にっこりと笑う染井監督は、力強さと悪戯っ子のような風情を漂わせている。
 染井監督は、自身のネームバリューをよく知っていた。日本国内はおろか、世界的にも評価された監督であり、著名人のファンは数多い。伝説的とも言える人物が、はっきりと二人の結婚を祝福することは大きな意味を持つのだ。
 あの染井監督が、天馬と一成の結婚を心から祝っている。事前に動画を撮って準備をしているくらい、ずっと心待ちにしていた。その事実は、世間への力強いメッセージになるだろう。
 二人の結婚がどれほどすばらしいことなのか。限りない祝福を与えられるにふさわしいのか。マイナスの要素などかけらもない。ただあふれるように、二人の結婚は幸いで彩られるのだ、と世間に強く訴える。
 染井監督は、自分がいなくなったあとでも天馬と一成の力になれるよう祈っていた。できるならば直接伝えたかったけれど、それが叶わないなら。心からの祝いを届けるのと同時に、世間にとっての武器になるのだと決めていたのだ。
 二人が一緒ならどんな困難も打ち勝っていけるだろうし、何よりも彼らには心強い仲間がいる。だからきっと、自分が心配しなくても問題はないのだとわかっていても、力になりたかった。
 天馬と一成。二人がともに人生を歩むのは、いたって当たり前のことだ。誰かに後ろ指をさされることではないし、異性同士の結婚と何一つ変わらないと染井監督は思っていた。
 だけれど、現実はそうではない。少しずつ受け入れられているとしても、奇異な目を向ける人間はゼロではなかった。それどころか、「世間の声」として非難めいた言葉を口にする可能性は未だに残っている。旧時代の遺物だと放置しておくには、いささか声が大きい人間がいるのも事実だったのだ。
 だから染井監督は、こうして武器を用意しておくことにした。もちろん一番は、直接届けられないメッセージを二人に贈りたいという気持ちだけれど。穏やかな顔をして、好々爺の見本みたいな顔をしてしっかり牙を研いでいたのだ。

(天馬くんと一成くんには、見せない顔だろうな)

 水瀬の唇に笑みが浮かぶのは、昔の染井監督を思い出したからだ。
 天馬と一成に出会った時は、年を取ってすっかり丸くなったと評判だったし、そもそも二人が心根のやさしい人間なので染井監督が怒るような場面がない。くわえて、染井監督は二人に対して甘いので、いつだってやさしい顔しか見せていなかったはずだ。
 ただ、昔の染井監督を水瀬は知っているし、ある程度の年齢の役者なら全員理解しているのだ。
 基本的に穏やかでやさしい人ではあるものの、自分の芯をしっかり持っている。己の意志を貫くためなら、どんな手段も厭わない。戦うことも辞さず、的確な手段を用いて相手を迎え撃つ。穏やかさの中に、確かな勇ましさも持っているのが染井芳暢という人間だ。
 だからこそ、天馬と一成という大切な二人が蔑ろにされる可能性を排除するためには、己のネームバリューだって最大限に利用する。世界的に有名な映画監督しての立場をフル活用して、外野の声を黙らせることに決めたのだ。

(一応、あっちも確認しておいた方がいいかな)

 手の中のケースを見つめてから、水瀬はそっと思う。
 この動画を撮影して雑談を交わしたあと、「念のため」ということでマスコミ向けのメッセージも一応撮ってはいる。ただ、わざわざ公表するかどうかは未知数だ。
 染井芳暢の祝福メッセージが存在する、というだけで役目を充分果たしたなら追撃する必要はないだろう。その辺りは、もう少し状況を静観して判断しようと水瀬は思っている。

(まあ、あまり必要はないと思うけれど)

 天馬と一成が結婚を公表してからの世間の反応は、おおむね好意的だ。これは二人が今まで積み重ねてきたものが実を結んだことが大きいのだろう。
 世の中の流れとして、受け入れられる土壌ができていたということもあるけれど、天馬と一成の誠実な人柄が浸透していたことも起因しているはずだ。
 世界に名前を轟かせても天狗になることはなく、いつだって謙虚であり、ファンや周りの人を大切にする。芝居や絵画、デザインなど自分のフィールドで真摯に活躍する姿は、年月を重ねてよりいっそう輝きを増していた。
 それに、天馬と一成が長く一緒に暮らしていることや、夏組の中でも親密であることは単なる事実として認識されていたのだ。二人が互いを特別な相手として選んで、新しい名前をつけたのだ、という事実は比較的すんなりと受け入れられたと言える。
 染井監督の祝福は、さらにそれを後押しするに違いない。
 全世界の人間全てに祝福されるのがむりなんてことはわかっている。しかし、少なくとも悪意を向けることが正しいだなんて思われる世間は間違っている。他の誰かと変わらないまま、ただ祝福を受けてほしい。それが染井監督の願いだったし、水瀬とて同じ気持ちだった。
 そして、恐らくその願いは叶うのだ。天馬と一成が彼ららしく生きて、大事な仲間や家族とともに時間を重ねて、ファンたちに支えられて。世間の反応は好意的なものばかりで、祝福の声が大半を占める。ここに染井監督のメッセージがくわわれば、それはいっそう強固なものになる。
 確信めいた気持ちを抱く水瀬は、机の上に出していたスマートフォンを手に取った。スケジュールを確認する必要があったからだ。

(ひとまずはメッセンジャーの役目を果たすとしようか)

 いろいろな思惑が存在していることは確かだけれど、一番大事なのはこの映像を二人に届けることだ。天馬も一成も多忙な人間だし、水瀬も例外ではない。決して簡単ではないけれど、どうにか日程を確保して、ディスクを届けるつもりだった。
 染井監督との約束を果たすのだ、という気持ちも当然あるけれど。単純に、二人へのサプライズを仕掛けることが楽しかったし、何よりも天馬と一成を心から祝福できることが水瀬だって嬉しい。
 子供みたいにわくわくした気持ちで、水瀬は自分のスケジュールを確認する。