スウィートホーム・シンフォニー 04話
映画の撮影が始まった。初日から、役者やスタッフたちの作品に対する熱意が伝わるような現場で、天馬も一成も気合が入る。主役として撮影を引っ張っていくという自負はもちろん、この作品をいいものにしたいという気持ちがより高まっていくのを感じていた。
とはいえ、他の仕事が一切なくなったわけではない。大きなものは入れていなくても、細々としたインタビューや単発の仕事は入っている。映画撮影の現場から他の仕事先へ行くこともあるし、その逆も然りだ。
今日の一成のスケジュールはまさしくその通りで、一成はドキュメンタリーのナレーション収録を終えて、撮影現場へ向かおうとしていた。ただ、思ったよりも全てがスムーズに進んで、予定よりもずいぶん早く収録が終わってしまった。
撮影スケジュールはすでに組まれているし、早くに現場へ入ったとしても一成の撮影がすぐに始まるかはわからない。もっとも、遅くなるならまだしも早い分には問題もないだろう。もしかしたら、急きょ一成の出番が必要になるかもしれない。
そう思った一成はさっそく現場へ向かおうとしたのだけれど。控室に戻り身支度を整えて、オフにしていたスマートフォンを取り出す。受信していたメッセージを確認していった一成は、すぐに予定を変更した。
◆
慌ただしくリビングへ駆け込むと、たたずむ人影に一成は大きく声を上げる。
「ほんとにいたー!」
言いながらダッシュして、飛びつくように抱きついたのはもちろん天馬だった。天馬は「おっと」と言いつつ、危なげなく一成を抱き留める。面白そうな笑みを浮かべて答えた。
「待ってるって言ったんだ。いるに決まってるだろ」
「そーだけど! 夢かと思うじゃん!?」
頬を紅潮させて、一成は言う。
収録を終えた控室で、一つ一つメッセージを見ていった。仕事用のものに急用がないことを確認して、プライベート用へ目を向ければ天馬からのメッセージが入っていたのだ。――取りに行きたいものがあるから、一旦家に戻る。何か用事があれば言え。
特に用事はないので「大丈夫だよん!」と答えることもできた。ただ、一成はそうせずに別のメッセージを送った。今自分がいる場所から、二人で住むあのマンションまですぐだということはわかっていたので。――今フリーになったから、オレも帰る!
「テンテンに会いたいっていつも思ってるから、都合のいい幻覚かも、的な!」
ぎゅう、と抱き着いたまま言うと天馬が軽やかな笑い声を立てる。それが心地よくくすぐったい。天馬は回した腕に力を込めて、目を細めて答える。
「毎日顔合わせてるだろ」
「毎日会ってても、いつもテンテンには会いたいもん」
わざとらしく唇を尖らせて、拗ねるように答えた。子供みたいな態度に、天馬はますます笑みを深くした。きらきらと光がこぼれるようなまばゆさだった。
「てか、テンテンは他の用事とか大丈夫? 待っててくれて嬉しかったけど」
嬉しそうにその輝きを受け止めたあと、普段通りの顔に戻った一成は問いかける。一成のメッセージに、天馬は「わかった。お前が帰ってくるの待ってる」とは言ってくれた。ただ、何か別の用事があるのにあえて待っていてくれるのでは申し訳ない、と思ったのだ。天馬はあっさり答えた。
「あとは撮影に向かうだけだからな。特に何か用事があるってわけじゃない」
「そか。ならもう少し時間ある感じだねん」
天馬の言葉に、一成はほっと息を吐き出す。撮影の入り時間が自分と同じである、ということはわかっていたので比較的余裕はあるようだ。
「そうだな。ただ、何かをするにはちょっと微妙な時間なんだよな。インタビュー用に確認したいことがあったから、今回はちょうどよかったが」
ちょっとした確認程度なら可能だけれど、本格的に何か作業をするほどの時間はない、ということだろう。一成は「そだねん」とうなずいた。
「オレもフリーになったけど、ちょっと微妙な時間だな~って思ったんだよねん。だから早めに現場入ろうかなって思ってたとこに、テンテンのメッセージ見たからナイスタイミング!」
きらきらとした笑顔で言えば、天馬は嬉しそうにうなずく。ただ、すぐに真面目な顔になると言った。
「早く入るのが悪いわけじゃないが、ちょっとした隙間時間ならここに帰ってくればいい。ソファもあるし、リラックスできるだろ」
言った天馬はぐるりと周囲を見渡す。業者やカンパニーの仲間たちによって、部屋にはいくつかの家具が運び込まれている。まだメインのものだけとは言え、天馬の自宅から持ち込んだソファもある。一成が落ち着くと言っていたことを天馬は覚えていた。
「どこからでも戻って来られるってわけじゃないが、今日のスタジオなら充分帰れるだろ。一成も忙しいんだ。ちゃんと休める場所を確保してくれ」
天馬はそう言って、するりと一成の頬を撫でた。手つきはただやさしくて、一成のことを気遣っているのだということが伝わってくる。
確かに、二人が住むマンションは立地として申し分ない。都内でも一等地に構えられているので利便性が高く、特に都内中心部での仕事であれば時間を見つけて帰ってくることもできる。それは目の前の天馬が実証していることでもあるのだ。
さすがに、今までのようにふらりとカフェへ立ち寄るほどの気軽さではないけれど。店内よりも自宅の方が格段にリラックスできるのは確かだ。それに、何よりも重大な事実が一つ。
「今のお前じゃ、カフェでくつろぐのも難しいだろ?」
ほんの少し眉を下げて言われるので、一成は困ったような笑みで「そだねん」と答える。
染井芳暢新作映画の報せは世界中を駆け巡った。メディアでは連日続報を伝え続けており、三好一成という存在はあっという間に日本中が知ることになったのだ。
今までも決して無名の存在ではなかった。しかし、「浅き春のカノン」制作発表会見を皮切りに、これまでの比ではないほど一気に知名度が上がったのだ。カフェに入ろうものなら、瞬く間に人に囲まれることはすでに経験済みである。
「なら、ここに帰ってくればいい。ここは、オレと一成の家なんだから」
少しだけ照れくさそうに、だけれど力強く天馬は言った。
利便性の高さという意味では、天馬が一人暮らししていたマンションも同様だ。我が家のような気軽さで一成は来訪していたし、合鍵だって持っていた。
ただ、さすがに仕事の合間に休憩時間のように立ち寄るようなことはしていない。天馬は「お前が使いたいように使ってくれ」と特に気にしていなかったけれど、あくまで天馬の家なのだから、と一成は固辞していた。
だけれど、今は違うのだ。役作りのためという一過性のものだったとしても、この場所は紛れもなく天馬と一成、二人だけの家だ。だから、一成が遠慮する必要はないし好きな時に帰ってくればいいと天馬は言う。
「――うん、そだね。帰ってくるのはここだもんね」
ふわふわとやわらかな笑みで答えた一成は、自身の頬に触れる天馬の手に己の手をそっと重ねた。温もりを確かめるような、触れる手を通して宿る心を受け取るような仕草だった。
映画撮影が始まる前に、二人はこの家での生活をスタートさせた。もともと寮で共同生活していたし、それぞれの家に泊まることもあるから何もかもが初めてというわけではない。それでも、二人きりで同じ家に住む、という事実は二人の胸を高鳴らせた。
毎朝同じベッドで目覚めること。出掛ける時、帰宅する時に言葉を交わすこと、二人分の献立を考え共にキッチンに立ち、食事を囲むこと。掃除の分担をあれこれ試し、洗濯のタイミングを試行錯誤して、買い物はどうするか一緒に頭を悩ませる。
今までだってお互いのスケジュールは把握していたけれど、今ではもっと詳細な時間や場所だって知っている。買い物をして帰る時、自然と選ぶものが二人分になっていく。家の中で自分以外の気配を感じることが当たり前で、答えが返ることを疑いもせず何でもない話を始める。名前を呼べば、嬉しそうに答えてくれる。
今までよりもっと強く、もっと深く。互いの存在が日常に組み込まれていくのだ。
そうやって、毎日の単位が二人分になっていくことを感じるのは、くすぐったくてどうしようもなく嬉しい。幸せで満たされて、胸がいっぱいになる。そんな気持ちを、重ねた手のひらから分かち合っていることを、二人は言葉ではなく理解していた。
天馬はもう片方の手を一成の頬へ添えると、そっと顔を近づけた。すぐに察した一成が瞼を閉じると、やわらかく唇が重なった。丁寧に、思いの全てを込めるような長い口づけを交わしたあと、天馬はやさしく唇を食んで、ゆっくり離れる。
「こういうことできるのも、帰ってこられる特権かも」
目を開いた一成が嬉しそうにつぶやけば、天馬もおだやかに「そうだな。外じゃ無理だ」と答える。人目がないからこそ、こうして恋人同士として触れ合うことができるのだ。
「他に、何かしたいことはあるか。時間ならもう少しあるだろ」
木製の掛け時計に目を向けた天馬が、やさしく一成へ問いかける。家を出る時間には、井川が迎えに来てくれることになっている。同じ現場へ向かうのだから、一成も同乗することはすでに決まっていた。
一成はと言えば、天馬の言葉に数秒目をまたたかせる。それから、きらきらとした輝きを宿して、明るく答える。
「日向ぼっこしよ!」
◆
天馬と一成は、光にあふれた庭へと出る。
引っ越してきてから、何度かこうして庭での時間を楽しんでいる。まるで森の中にいるような雰囲気が一成は好きだったし、緑に囲まれた時天馬はほっとしたような空気を流す。忙しい日常を離れた気持ちになるのかもしれない。そうやって、リラックスしてくれることも一成には嬉しかったのだ。
もっとも、撮影が始まってからは、日中帰れることも少なかった。ささやかな時間とは言え、今日は久しぶりに太陽の下で庭を楽しむことができる。
「ちょっと暑くなってきたけど、木の下だと気持ちいいね」
そう言って、一成はヤマモモの木の下に腰を下ろした。庭のシンボルとも言えるヤマモモは、旺盛な葉を茂らせている。直射日光は避けつつも太陽の光は充分感じられるので、ちょうどいいと言えた。
「ああ。風も通るし、暑くなりすぎなくていいな」
天馬はゆっくりと、一成の隣に座った。ちらちらとした木漏れ日が、二人の上に落ちる。
ささやかな風を受けながら、二人は他愛ない話をしていた。
今日の帰りは遅くなりそうだから、夕食はスープメインにしようかだとか。作り置きの総菜メニューの残りは何があっただろうかとか。リビングと寝室以外は、以前と変わらず契約しているハウスキーパーを頼んだのは正解だったとか。
そんな日常の会話から、三角が今度咲也と舞台で共演するだとか、幸がファッションを監修するドラマが始まるだとかのMANKAIカンパニーの話に、それぞれの仕事についてのあれこれなど、ゆるやかに話は続いていく。
「今度時間できたら、庭でゆっくりしたいな~。晴れの日はめっちゃ気持ちいいし、ハンモックとかあってもいいかも」
目を細めて頭上を見つめる一成が、そっとつぶやく。
密集した濃い緑に、ほんの少し見え隠れする丸い実。ささやかに揺れる木の葉同士がこすれる音。降りそそぐ光は明るく、強い生命力を宿してきらきらと輝く。かすかに立ち昇るのは、ひだまりを含んだ土の匂い。
それら全てを抱きしめるような気持ちで、一成は言葉を続ける。
「それでさ、テンテンの隣で絵描きたいな」
丁寧に心を取り出すように、一成は言う。いつもの明るさではなく、もっとやわらかい。天馬は一成の心を掬いあげる真摯さでじっと耳を傾ける。
「この庭の風景とか、テンテンと過ごす時間を絵にしたい」
天馬と二人で暮らす毎日を、一成は大切にしている。ささやかな時間も宝物みたいに思っているし、その全てを抱きしめていたいと願っている。その内の一つとして、絵を描きたいと一成は言う。
「いろんな場所でいっぱい絵描きたいけど。やっぱ、ここが最初かなって思って」
一成の記憶に浮かぶのは、染井監督に伴われてこの家を訪れた時の光景だ。
大きな窓は額縁のようで、庭の風景はまるで、ヤマモモの木を中心に描かれた絵画にも思えた。光を集めて立つ一本の木のまばゆさは、一成の胸にすっと入り込んで、強く焼きついている。これから先に待っている、天馬と二人の生活を明るく照らす灯火のように、何かの祝福みたいに。
だからこそ、一成はこの庭の風景をまず描きたいと思った。
光をすくいとって絵筆に乗せて。この庭の景色を、漂う空気を、天馬の隣で見つめた景色を、何もかも描きたい。この場所で天馬と過ごすのだ、という幸せな予感を抱いた胸の喜びも。これから先の未来を祝福されているような、震えるような高揚感も。全てを一枚の絵にしたいと願った。
「周りから隠れてるみたいなところだからさ。オレたちだけの場所って感じじゃん? あったかくてきらきらしてて、胸がきゅってなるよね」
くすぐったそうに告げられる言葉を、天馬は静かに聞いていた。思わず目を細めてしまうのは、一成が心底嬉しそうだからだ。
一成はどんな時でも、美しいものを見つけることに長けている。そんな一成の目にこの庭は、快くて愛おしいものとして映っているのだ。その事実が天馬には嬉しかった。美しいものを、きれいなものを、いくらだって降らせてやりたいと願っているのだから。
「――そうだな。手入れもしっかりされてるし、雰囲気もいいよな。それに、オレたちだけの庭っていう感じがいい」
濃淡の違う緑で囲まれた庭へ視線を向けて、天馬は答える。一成が嬉しそうだから、という点を差し引いても、素直に好ましい場所だとは天馬も思っているのだ。
周囲の風景を上手く隠していることもあいまって、森の中の別荘にでもいるような気持ちにさせてくれるし、仕事で疲れていてもほっと一息吐くことができる。何より、周囲からの目を一切気にする必要のないことがありがたかった。
天馬の答えは、きっぱりと力強い。一成はその言葉に、ぴかぴかと光る笑顔を浮かべた。
「だよねん! テンテンと一緒に暮らすってだけでテンアゲだったけど、こんな庭まであるとか最高じゃん!?」
勢い込んでの言葉に、天馬もつられたように笑顔を浮かべた。尻尾があれば振ってそうだな、と思いつつ「ああ」とうなずく。
どんな場所だったとしても、一成がいれば天馬は満足するし一成だってそうだろう。ただ、結果としては予想外に暮らしやすい家だったし、加えて雰囲気のいい庭まであるのだ。
「そもそも、役作りとして一緒に暮らしてくれって時点でラッキーだしな。合法的に二人で住める」
イタズラっぽい輝きを宿した瞳で天馬が言えば、「それな~」と一成が同意を返した。染井監督は「自分の無理を聞いてくれてありがたい」という雰囲気だったけれど、無理も何もないのだ。互いを人生の伴侶として定めた二人なのだから、むしろありがたいと思うのはこちらの方だ、と思っていた。
「……まあ、本当のことは言えないから仕方ないけどな」
「ちょっと申し訳ないな~ってなっちゃうよねん」
二人のことを知っているのは、カンパニーと家族、それから一部の関係者だけだ。他には口外しないと決めているから、何も言うことはできない。
それゆえの罪悪感は確かにあったけれど、二人で共に人生を歩むためには、それすら背負っていくのだととっくに二人は決めていた。
だから、天馬はゆっくり口を開く。自分たちにとっては当然のことを、あらためて確認する素振りで。
「それすらひっくるめて、全部演技で返すんだろ」
罪悪感も申し訳なさも後ろめたさも、消えてなくなるわけではない。だけれど、それに拘泥し続けるつもりはなかった。自分たちは役者を名乗って、ここまで歩いてきた。それならば、すべきことは一つだった。抱えたものも背負ったものも、全てを乗り越えて最高の演技で答えるのだ。
一成は天馬の言葉に、数秒黙る。それから、ゆっくりと笑みを広げた。やわらかでおだやかな笑みに似ていた。だけれど、奥底には何よりも力強い凛とした意志を秘めている。
「うん。そだねん」
心から一成は答える。自分たちは役者だ。それならば、返すべきものなど一つきりだ。最高の演技で作品を作り上げる。それこそが、自分たちに求められる使命だと知っている。