スウィートホーム・シンフォニー 07話




 梅雨晴れのロケ日だった。すっきりとした青空には、久しぶりに力強い太陽が姿を現している。六月中旬と言えど、朝が早いおかげでそこまでの暑さは見られず、気持ちのいい気候と言えた。

 メイクや衣装を調えた一成は、機材の立ち並ぶ現場へと入りスタッフたちと挨拶を交わした。普段は駐車場として使われている場所を、今日はロケのために借りているという。スタッフの祈りが届いただの、日頃の行いが良かっただの、現場はにぎやかな声にあふれていた。
 そのにぎわいに混じって、一成は気さくに声を掛ける。
 久しぶりの晴天を喜ぶ声に「てるてる坊主作ったのが効いたのかも!」なんて言えば、「三好さんのてるてる坊主、何かすごそうですね」と楽しそうな声が返ってくる。
 実際、天馬と作ったてるてる坊主は芸術点に振り切った渾身の出来栄えである。インステにアップしとくねん、と告げればスタッフは「楽しみです!」と笑っている。
 それからしばらく雑談を交わしていると、染井監督がやってくる。撮影スケジュールの確認のためで、一成は気を引き締めて話を聞いている。

「あちらが、今日のメインロケ現場のカフェになります」

 話が一段落したところで、監督が示したのは駐車場の隣の建物だ。
 一成の位置からは、正面の様子は見えない。それでも、こちらから見えるだけでも、クリーム色の壁に、木製の窓枠、モスグリーンの屋根は、こぢんまりとしながら、どことなく目を引く外観をしている。
 今日のロケは、ギャラリー兼カフェへ訪れるシーンの撮影だった。実際にカフェとして営業している店舗をロケ地として借りている。この店を選んだのは、外観の雰囲気もさることながら、道路に面したショーウィンドウには、季節のアートが飾られていることが決め手だった。
 映画では、ここに飾られる絵に蒼生が目を留めることで、店内へ足を踏み入れる。
 この絵は物語上でも鍵となるアイテムで、終盤にかけて大きな意味を持つ。蒼生と絵のファーストコンタクトのシーンでもあるので、重要な一場面と言えた。ただ、一成はその絵を実際に見たことがなかった。

「本来であれば、絵が飾られているはずだったのですが」

 申し訳なさそうに、染井監督は言う。ショーウィンドウには現在、額縁を立てかけるイーゼルだけが置かれており、実際の絵は何もない。ショーウィンドウは空っぽのままだ。

「もう少し手直しをしたい、ということで締め切りを延ばしたという経緯です。もともと、筆が乗るまでに時間がかかる方ではありますので、想定内ではあるのですが……」

 鍵となる絵は美術スタッフではなく、画家に制作を依頼している。本来であれば、今日のロケまでには納品される予定のはずだけれど、果たされないまま当日を迎えていた。
 もっとも、それなりに付き合いのある相手のようで、期日通りには間に合わない可能性は考慮していたのだろう。対応可能な撮影プランを練っているので、大きなアクシデントにはなっていない。

「三好さんの演技力に不安はありませんから、何もない状態での演技にも心配はしていません。ただ、こちらが百パーセントの状態を用意できなかったことは事実です。申し訳ありません」

 そう言って頭を下げるので、一成は慌てて首を振る。事前にその話は聞いていたし、そもそも目の前に何もなくとも芝居をできるから、役者を名乗っているのだ。実物がないから演技ができない、なんてことあるはずがない。
 だから全く問題はないのだ、と一成が告げれば頭を上げた監督は、「そう言っていただけるとありがたいです」と笑った。一成はほっと息を吐いてから、口を開く。

「ただ、一応念のために、もう一度絵についていろいろと聞いておきたくて……」

 実物がなくても演技ができるとは言っても、頭に描いたものに齟齬が生まれるのは避けたい。監督がイメージするものがどんな形をしているのかは、詳細に確認しておきたかったのだ。染井監督は「もちろんです」と言って、言葉を継ぐ。

「サイズは6号の油彩画で、モチーフは黄色いクロッカスです。花瓶に生けられたというより、自然に咲いた場面を切り取ったイメージですね」

 花のモチーフは一成も好んで使うし、MANKAIカンパニーでの思い出とも深く結びついている。だから、クロッカスと言われてすぐにその姿を思い浮かべることができた。
 背丈は低く、地面の近くであざやかな六花弁を咲かせる花だ。小さな姿だけれど、黄色以外に紫や白など、目を引くような色を宿らせる。

「光を集めたような、あざやかな黄色い花弁を描いてほしい、と頼みました。蒼生が目を留めるような絵ですからね。きっと力強い色彩を宿しているはずですし、何よりも春を告げるイメージとして――明かりを灯すような絵にしてほしいと」

 クロッカスは、数種類の色を持つ花だ。その中で、染井監督は黄色を選んだ。蒼生の目を引く色であること。それから、春を告げるイメージとして。一成はこくりとうなずいた。

「蒼生にとって、春を象徴する絵ですね。雪解けを待って、少しずつ近づいていく春の足音を聞くような」

 台本を読み込んで汲み取ったものを、一成はそっと唇へ上らせる。
「浅き春のカノン」という題名の通り、作品は早春の季節を描いている。ただ、それは純粋な季節だけを表すものではなく、蒼生と遼一郎を取り巻く状況も示していた。
 互いの気持ちを確かめ合った二人ではあるけれど、周囲の人々からの祝福を得たわけではない。それどころか、恋人としての関係はふさわしくないと交際に反対され、非難の言葉を向けられる。別れを乗り越えて、手を取り合うこと選んだ二人に訪れた春は、まだ冬の気配を漂わせている。
 だからこそ、蒼生はクロッカスに目を留めるのだと一成は思った。
 クロッカスは、特にヨーロッパで春の訪れを告げる花だ。凍てつく冬を超え、少しずつ光がやわらかくなっていく先駆けのように、あざやかな花を咲かせる。
 蒼生はきっと、これから先の自分たちをその絵に重ねたのだ。これから二人の歩く道が、明るい光で照らされるようにと。春を告げる花が示すように、自分たちの未来にも確かな春が訪れるようにと。

「そうですね。これは、蒼生にとって希望の絵です」

 染井監督は、一成の言葉を受け取ってゆるやかに答えた。おだやかな笑みを浮かべて、真っ直ぐと一成を見つめて。何かを問いかけるような雰囲気が瞳の奥に宿っていて、一成はそれに目を凝らそうとする。だけれど。

「――すみません、監督。準備ができたそうです」

 背後からの声は、遠慮がちなスタッフのものだ。「わかりました」と答える染井監督の雰囲気が変わる。一成へ視線を向けると「そろそろ撮影を始めましょう」と声を掛ける。一成は「はい」とうなずいた。

「暑くならないうちに、外でのシーンは終えてしまいましょう。この季節に冬の格好をしていただいていますから」

 監督が示すのは、長袖のTシャツにカーディガンを羽織っている一成の格好だ。本番ではさらにダウンを着用することになっている。二月のシーンとしては妥当だけれど、六月のこの時期としてはずいぶんと暑苦しい。
 まだ朝が早いので汗ばむほどではないし、保冷剤を活用する予定ではあるものの、このまま順調に気温が上がってこの出で立ちでいれば汗だくになってしまう。一成もそれは充分理解しているので、こくりとうなずいた。
 監督は、先ほど声を掛けてきたスタッフにいくつかの指示を出す。他のスタッフも集まってきて、確認事項について話を交わしている。それが終われば撮影が始まるはずだ。一成は一つ深呼吸をする。
 蒼生になるのだ。
 六月の朝ではなく、二月の午後。まだ寒さが残る季節。仕事場から自宅へ帰る途中の道のりで、初めて目にする絵に足を止める。
 蒼生は何を考えていた。仕事のこと、生活のこと、それから遼一郎のこと。思考回路の中に、飛び込むあざやかな黄色。直接その絵を見てはいないけれど、思い描くイメージは頭の中にある。春を告げる花。これから先の未来を思い描く。
 蒼生になるのだ。今ここにいるのは、三好一成ではなく、たった一人と思い定めた人の手を取って、他の全てを捨てることを選んだ人だ。
 自分自身の輪郭が曖昧になっていく。少しずつ蒼生がなじんでいくのを感じながら、一成は始まりの合図を待っている。