スウィートホーム・シンフォニー 08話
カフェでの撮影は滞りなく進み、午後からの撮影は、チェーン店のファミリーレストランで行われた。撮影のため機材が持ち込まれて、見慣れたファミリーレストランはすっかり様相を変える。
カメラがとらえるのは、奥まったボックス席だ。
一成演じる蒼生と、ファミリーレストランには不釣り合いとも言える、オーダーメイドスーツに身を包んだ男性が向かい合っている。年の頃は五十代。シルバーグレーの髪を品よく整えて、温和な表情を浮かべてはいるものの、まとう雰囲気は鋭い。
「早速だが、本題に入らせてもらおう。こういう場所は不慣れなものでね。長居するつもりはないんだ」
柔和とも言える笑顔で、スーツの男性は告げる。しかし、まなざしはどこまでも冷ややかで侮蔑の色すら漂わせていた。蒼生は強張った表情で、目の前の男性を見つめる。
彼は、遼一郎の生家である大手財閥に連なる人物だ。世界に名だたる一流企業の重役にして、遼一郎の親戚筋にあたる。
蒼生は一度だけ、彼と顔を合わせたことがあった。遼一郎の手を取って共に生きていこうと決意して、本家を訪れた。その際、集っていた顔ぶれの一人が目の前の人物だった。
「遼一郎はいつ頃こちらへ帰ってくるのか、聞かせてもらおうか。今ならまだ、おおごとにはならない。そろそろ潮時だということくらい、きみもわかっているんだろう?」
淡々とした口調には、一切の迷いがなかった。遼一郎はいずれ自分たちのところに戻ってくるのだと、何一つ疑っていない。蒼生との生活は、あくまで一時のものであると確信している口ぶりだった。
「好きにさせてはやっているけれど、さすがに行方をくらませるのはやりすぎだろう。今回は、たまたまきみたちを見つけたからよかったようなものの、戻ってきたらもう少し分別を持たせなくてはいけないな」
ぶつぶつとつぶやく言葉でさえ堂々としていて、某かの台詞を口にしているような響きさえある。
遼一郎は、誰にも行き先を知らせずに姿を消した。ただ、蒼生と人生を共にするのだと宣言した後だったことと、蒼生も共にいなくなっていたことから、二人が一緒であることは周知の事実となっていた。
だから目の前の男性は、仕事の関係で赴いた地方都市で蒼生を見つけて声を掛けたのだ。遼一郎の話がしたい、と。
「一人でここまで来たということは、きみだって現実を理解している証拠だ。二人で生きていくことなど、とうていできないことくらい」
笑顔で告げられた言葉に、蒼生は唇を噛んだ。最初に声を掛けられた時は、お互いにあまり時間がなかった。だから、「また後でここに」と言って日時と場所を指定されたのだ。
本家の人間に会ったのだと、遼一郎に言うべきだと思った。そうでなくても、なかったことにして行かないという選択肢だってあるし、話をした上で遼一郎と共に赴くことだってできた。
だけれど、蒼生は結局何も言わず、一人でこの場所までやって来た。
「賢明な判断だよ。遼一郎は理想論に走りすぎるきらいがあるからね。きみの方が、よっぽど現実が見えている。男同士で人生を共にするなんて、間違っているとわかっているんだ」
揺るぎのない自信に裏打ちされた言葉だった。己の正しさを、一つだって疑うことはない。これが絶対的な真実だと語るような、そんな響き。本家で顔を合わせた時もそうだった、と蒼生は思う。
集まった顔ぶれに、遼一郎は言ったのだ。オレがこの先、共に生きていきたいのは蒼生だけだと。女性と結婚して子供を設けることはできない。オレはこれから先の人生を、蒼生と一緒に生きていく。
きっぱりとした宣誓に、ざわざわと空気が揺れた。それから続くのは、男同士であること、蒼生の家柄を指して、二人の関係を非難する言葉や嫌悪を伴った声だった。集まった人たちは言う。顔をしかめて、声高に、さも当然のことのように。
同性同士で人生を共にするなんて間違っている。女性と結婚し、子供を為すのが義務だ。この家に迎え入れるのは、もっとふさわしい女性だ。人生を共にする相手としてその人間を選ぶのは、間違った決断だ。
あの時と同じ表情で、同じ響きで、目の前の彼は言う。蒼生と遼一郎が共にあることは間違いで、別の道を歩くのが正しい選択なのだと、何一つ疑わない素振りで。
「遼一郎も音を上げる頃なんじゃないか。自由に使えるお金もほとんどなく、狭くて汚い家に住んでいるんだろう。家事なんて自分でしたこともない人間だ。不自由な生活に、いつもの暮らしが恋しくなっている頃だろう」
真っ直ぐと蒼生を見つめて告げるのは、それまでの遼一郎の生活だった。
日本でも名の知れた、財閥の流れを汲む一流企業の創業家一族に名を連ねるのが遼一郎という人間だ。一流のものに囲まれて暮らし、望んだものは苦もなく手に入る環境で生きてきた。
他人が自分のために動くことが当然で、それでいて嫌み一つ感じさせることもない。むしろ、彼の力になってやりたいという愛嬌も持っているから、生活における煩わしさを何一つ知ることなかった。金銭のことで不自由な思いをしたことも、一度だってないはずだ。
今の生活がそれとはまったく違っていることなんて、蒼生が一番よく知っている。
持ち出せたお金はあまり多くなかった。生活を支えるのは、ようやく見つけたアルバイト先での給料だ。それも決して潤沢とは言えず、生活をするだけで金銭は目減りしていく。好きなように使用できるわけもなく、時には我慢することも求められる。
さらに、今の暮らしは二人で支えていかなければならない。以前の遼一郎の生活は、家に仕える専属の使用人たちに支えられていた。だけれど、今の二人の生活では、全てを自分の手で行わなければならない。
蒼生にとっては、以前と大して変わらない生活だ。だけれど、遼一郎からすれば全てが初めてのことばかりで、四苦八苦している。
遼一郎は気にしない顔をしているし、慣れない仕事もどうにかやり遂げようとしてくれている。それを嬉しいと蒼生は思うけれど、同時に思ってもしまうのだ。――本当なら、こんなことをする必要はなかったのに。
「遼一郎は、きみとこんな町で暮らすような人間じゃないんだ」
きっぱりと、宣言する力強さで放たれた言葉。蒼生は黙って聞いている。
だって、そんなことよくわかっている。本当なら、遼一郎は何もかもが一流の場所がふさわしい。洗練とした所作は気品にあふれていて、どこにいたって目を引くカリスマ性を持っている。その場にいるだけで空気が華やぐようだ。
それは遼一郎の生まれながらの性質に加えて、今まで育ってきた環境によって培われた、遼一郎自身の持つ得難い資質だ。彼がいるべき場所は、狭いアパートの一室ではなく、長い歴史を蓄えた重厚な屋敷だ。
もしも蒼生を選ばなければ、遼一郎はまさしくそんな場所で生きていけるはずだった。多くの人にかしずかれて、上質なものに囲まれて、国を動かす人たちとの交流を深めることもできる。
人を惹きつける魅力を武器に、たくさんの人に愛されて、大きなことを成し遂げる未来だって見えていた。遼一郎はそれくらいの力を持っているし、それが許される環境だってあったのだ。
だけれど、蒼生を選んで手を取った時点で、あるはずの道は遼一郎の前から消えてしまった。
「わかっているから、きみは一人でここへ来たんだろう」
揶揄するような口調だった。それでいて、まなざしは冷ややかで何もかもを見透かすようだ。
蒼生の心臓がドキリと跳ねる。遼一郎が得られるはずだったもの。手にするはずの未来。蒼生と生きると決めて、ここまで二人で逃げてきたことで、捨て去ってしまったものを蒼生は理解している。
遼一郎の気持ちを疑ったことはなかった。すぐに人を好きになって愛をささやくし、その態度にやきもきして、しょせん自分のことは遊びなのだと思ったこともあるけれど。
心からの言葉や態度で、嘘偽りなく想っていてくれているのだと実感した。だから、二人で生きるのだと何もかもを捨てることを選んだのだ。
だけれど、それでもどこかでずっと、間違っているのかもしれない、という気持ちがぬぐい切れなかった。スーツの男の言葉は、真っ直ぐと蒼生の罪悪感を貫いた。事実として、そう思うからこそ遼一郎に何も言うことができなかったのだ。
遼一郎のことが大切だった。自分の人生ならいくらだってあげても構わない、と蒼生は本気で思っている。
だけれど、遼一郎が自分のために人生を捨ててしまうことが、未来の可能性をつぶしてしまうことが、どうしても耐えられなかった。
あるはずだった輝かしい未来。遼一郎の前に開けるはずの道が、わずかでも残されているなら、可能性をゼロにしたくなかった。
だから、蒼生は一人で会いに来た。遼一郎が共に訪れれば、遼一郎は何もかもをすっぱり切り捨ててしまうとわかっていた。だから、そうしない道をちゃんと残しておきたかった。
「今ならまだ、全てはなかったことにできる。遼一郎が突拍子もないことをしでかすのは、初めてではないからね。どうせ全ては気の迷いなんだ。戻ってくれば、きみと人生を共に歩こうとしたなんて事実も、いずれ忘れられていくだろう」
おだやかな口調で続けられる言葉を、蒼生は黙って聞いている。これは遼一郎の道を閉ざしてしまう自分にとっての、義務だとさえ思いながら。
「きみとの出来事は、せいぜい小さな傷くらいだ。跡も残さず消えてしまう。束の間の関係性だということくらいわかっているだろう。今戻ってくれば、何もかもはなかったことにできる」
たとえば小さなかすり傷は、数日経てば消えてしまう。そこに傷があったなんてことすら、わからないくらいきれいに。蒼生と遼一郎の日々も、それと同じだと目の前の男性は言う。咎める口調ではなく、心からの親切を告げるような口調で。
実際、それは彼のやさしさなのだと蒼生は思う。
今ならまだ取り返しがつく。蒼生と遼一郎の関係も過ごした日々も、なかったことにして元通りの生活に戻れる。跡形もなく全てを消し去ってしまえば、遼一郎の未来が閉ざされることはないと、はっきり伝えているのだから。
蒼生は唇を結んで、目の前の男性を見つめる。
この人の言うことは間違いじゃない。オレが消えてしまえば、オレとの全てを消してしまえば、遼一郎は今までの生活に戻れる。何一つ捨てなくていい。ずっとくすぶっていた疑問が、胸の中でささやき続ける。
――遼一郎の幸せを奪ってしまうのは、オレなんじゃないだろうか。
揺らめく心情を、そのまま写し取ったような蒼生の瞳。向かい合った状態で流れる、複雑な沈黙。回り続けるカメラは、それら全てを収め続けている。
「――カット!」
ファミリーレストランに声が響いた瞬間、辺りの空気がふっと緩む。それから、すぐに慌ただしくなった。スタッフたちが一斉に動き始めたからだ。
メイクスタッフが近づいてきて、手早く役者を整えて音響や映像担当と監督が今しがたの出来をチェックしている。
それらの動きを肌で感じつつ、一成は口を開いた。真向いに座る共演者と今しがたの演技について話してから、軽やかな空気で「そういえば」と言葉を継ぐ。
「水瀬(みなせ)さんの今日の衣装、自前だってスタッフさんから聞きました。やっぱり、オーダースーツってめっちゃ格好いいですね。デザインとか生地とかもだけど、シルエットが全然違ってさすがだなって」
目を輝かせて、一成は言う。お世辞や愛想ではなく、心から思っての言葉であることは伝わったらしい。共演の俳優――水瀬は面白そうに笑った。
「体になじんでいないと、浮いてしまうだろう。役柄的にも、つるしのスーツを着用するなんて人間ではないし、長年着慣れたオーダースーツなら持っているからね。ちょうどよかったんだ」
目の前の彼は、現場へ来る時も常に洒落た格好をしていることは一成も知っていた。加えて、今回の役柄的には既製品を身に着けるなんて発想もない人間だ。着慣れたオーダースーツ、というのはアイテムとしてぴったりのものと言えるだろう。
それから一成は、どんな店を利用しているのかだとか、オーダースーツを作る時のポイントなどを興味深く聞いていた。監督やスタッフたちは確認が長引いているようで、まだ撮影は始まらないと踏んだのだ。
こういったことは幸も詳しいけれど、実際に利用している人間から直に話を聞けるのは純粋に面白くて、一成は楽しそうにあれこれ質問をしている。
「なる~! 今度スーツ作る時参考にしたいけど、そんな機会あんまりないかも」
「完成試写会用に作るっていうのはどうかな。その時は、ぜひ私の名前を出してもらえるとありがたい。なにせ、こんな役柄だからね。三好くんのファンに恨まれそうだし、現場では良好な関係だってことはアピールしないと」
ひょうひょうとした口調で告げられた言葉に、一成は数度まばたきをしてからおかしそうに笑った。冗談の響きをしかと受け取ったからだ。
「笑いごとではないかもしれないよ。この映画で一番の悪役は確実に私だろう。三好くんと天馬くんファンからすれば、二人の幸せを邪魔する人間だからね。アイツさえいなければ、と思われるんじゃないかな」
肩をすくめながらの言葉は真剣な表情だ。ただ、奥底にはイタズラっぽい光が宿っていて、楽しんでいるのは間違いなかった。だから一成は、軽口めいた響きで返す。
「でも、最終的にはハッピーエンドじゃないですか。いろいろあったけど、最後にはめでたし、めでたし! よかった~!って終わりだから、悪役とかその辺はあんまり思わないかも!」
「まあね。私の存在がスパイスになって、二人のつながりが強くなるなら本望だよ」
重々しい言葉に、一成は楽しそうに笑う。水瀬もすぐに雰囲気を切り替えると、相好を崩して唇に笑みを刻んだ。
確かに、水瀬が演じる役柄が遠因になって、蒼生と遼一郎の間にはすれ違いが生まれる。蒼生は二人で暮らす家を飛び出して、遼一郎の前から姿を消すのだ。だけれど、距離を取ったことで二人は自分の思いをあらためて自覚する。前よりも強く互いへの気持ちを確かめあい、物語は幕を閉じるのだ。
「見方によっては、二人の仲をもっと進展させてくれた人って感じだし、意外と感謝されるかも。てか、オフショットいっぱい撮ってアップしたらいいんじゃね? ってことで、あとで写真撮りません? あ、インステやってたらフォローしていいですか?」
一気にまくしたてると、水瀬は面白そうにうなずく。撮影中はスマートフォンを持っていないので写真は撮れないけれど、休憩中なら時間もあるだろう。どんな構図がいいか、どの辺りで撮るのがいいか、なんて話があとからあとから湧き出てくる。
「三好くんはSNSの類に強い、というのは天馬くんから聞いてたけれど、本当にその通りみたいだね」
感心した素振りの言葉に、一成は目をまたたかせてからすぐに笑みを浮かべる。水瀬と天馬は、以前親子役として、舞台で長く共演していた。その時に夏組や一成のことを話していた、ということは聞いている。
「天馬くんは、よく夏組の話をしてくれたからね。長い舞台だったこともあって、ずいぶん詳しくなったよ。だから、三好くんともあんまり初対面のような気がしなくてね」
肩をすくめて、何だか困ったように。だけれど、やわらかな微笑を浮かべて言う。その表情に、一成は天馬がどんな風に夏組の話をしていたのかを実感する。大切に、宝物みたいに、愛おしさを隠しもせずに話をしてくれたのだろう。天馬とはそういう人間だ。
「――それじゃ、ますますいっぱい撮らないと! 敵対するなら、その分仲良しのとこ撮った方が絶対面白いし。めっちゃいっぱい撮りましょ」
力強く告げれば「それじゃ、私もインステの使い方を教えてもらおうかな」と笑って言うので。一成は大いに胸を叩いてうなずいた。
◆
その後の撮影は比較的順調に進み、ファミリーレストランでのシーンはほぼ全て終えることができた。合間の休憩時間に、一成はやたらと写真を撮りまくっては投稿した。宣言通り、水瀬とのツーショットがほとんどだ。
そもそもSNSに写真があまり上がらないタイプであるため、共演者からの投稿というだけでもなかなかの話題にはなっていたのだけれど。
加えて、ほとんど稼働していなかった、本人のアカウントからも複数枚の写真が投稿されたことで、Webは大いに盛り上がりを見せていた。
明確に告知したわけではないものの、「浅き春のカノン」の撮影中であることは察しがつくので、作品の方にも言及されていて宣伝効果もばっちりだろう。
ファミリーレストランのシーンが終われば、次はスタジオでの撮影だ。現場ではめいめいが、撤収の準備をしているし、役者陣は移動バスへと乗り込んでいく。
ただ、一成の今日のスケジュールはファミリーレストランでの撮影で終了だった。テレビの取材や各種の打ち合わせなどが入っているため、ロケ現場から直行することにしていた。
監督をはじめとした、スタッフや共演者へ一通り挨拶をしてから現場を離れることにする。誰もが一成の忙しさはよくわかっているので、労いの言葉と共に快く送りだしてくれた。
今日の撮影で、最も長い時間を共に過ごした水瀬はしみじみとした調子で、一成に向かって告げる。
「投稿の仕方をいろいろと教えてもらって感謝するよ。リアルタイムで反応があるのは面白いね」
心からといった様子の言葉に、一成は笑顔で首を振る。単純に自分が面白くてやっていることで、特に感謝されるようなことをしたつもりはなかったからだ。
「スタジオ撮影は天馬くんと一緒だからね。今度は、天馬くんとも写真を撮ろうかな」
「あ、それめっちゃいい! 久しぶりの二人のツーショ、絶対めっちゃ喜ばれるやつ!」
二人が共演した舞台を思い浮かべて言えば、「なるほどね」と何やらうなずいている。どの辺りのファンを想定して投稿すればいいのかを理解し始めているのだろう。以前の舞台関係のタグを使うのもいいかもしれない、とつぶやいていたけれど、はっとした表情を浮かべる。
「ああ、引き留めてすまない。次の現場があるんだったね」
「時間はちょい余裕あるから大丈夫です。結構撮影順調だったから」
「確かに。三好くんはやりやすかったし、天馬くんもそうだな。MANKAIカンパニーとは相性がいいのかもしれない」
面白そうに言ったあと、「三好くんは今日、天馬くんと顔を合わせないんだって?」と尋ねた。基本的に、二人は同じ現場にいるので今日のような日は珍しい。
一成がこくりとうなずくと、「何か伝言でもあれば聞くけれど」と言う。ただ、それはからかうような響きがあるので。一成はにっこり笑って答えた。
「ありがとうございます。でも、家帰ったら会えるから大丈夫!」
ピースサインを出して答えれば、水瀬は「ああ、そうだったね」とうなずく。役作りのために二人が一緒に住んでいることは知っているのだ。からかうような響きで尋ねた。
「同棲生活は順調かな?」
「ばっちり! 毎日めっちゃ楽しいし、ラブラブな感じ!」
冗談の雰囲気のまま、一成は軽やかに答える。相手は当然一成の軽口だと思っているから、奇異な目を向けることもなくうなずいている。
冗談にしてしまわなければ、本当のことは口にできない。それでも、嘘偽りのない事実を、確かな形にできることが嬉しかった。水瀬は「熱い二人だね」と面白そうに笑っている。
それから一成はもう一度今日のお礼を述べてから、現場を後にする。手配していたタクシーはすでに来ていたので、乗り込んで行き先を告げる。車はゆっくりと出発した。
後部座席に座った一成は、スマートフォンを取り出して取材先へのメッセージを作成する。撮影の進行によっては遅れてしまうかもしれない、とは事前に言っていたけれど、幸いきちんと間に合いそうなので、その旨を連絡する必要があったのだ。
手早くメッセージを送信してから、他のスケジュールも再度確認した。
ある程度余裕は持たせているものの、他の仕事もパズルのように詰め込まれている。移動が多いこともあり、今日はずっとタクシーの世話になる予定だった。
今までなら、基本的に電車を使っていたけれど時間的にそんな余裕もないし、人に囲まれてしまえば身動きも取れない。以前もそれなりに忙しくしていたとは言え、比べ物にならないほど仕事が詰まっている。
(取材のあとはデザインコンペの詳しい話聞いて、夜はギャラリーの打ち合わせ)
一つ一つを思い浮かべつつ、伝えるべきことや用意するものなど、必要事項を頭の中で羅列していく。思考を整理しながら今日のスケジュールを鑑みると、家に帰るのは日付が変わる頃になるだろう。どれもが一成にとってやりたいことだから、気持ちは弾んでワクワクしている。
ただ疲れは蓄積しているから、体調には気をつけないとねん、と思うけれど、一成の唇には笑みが浮かんでいる。
(今日はテンテンの方が、先に帰ってる感じかな)
天馬は一成と入れ違いのように、スタジオ撮影へ入るはずだった。その後のスケジュールはないと聞いていたから、恐らく一成よりも先に仕事は終わると予想している。だから一成が帰る家には天馬がいてくれる。その事実に、一成の胸は弾む。
(忙しくってもちゃんと顔見られるとか、一緒に住んでるの最高すぎ!)
夜が遅い時は、待たずに眠っているように、というのは二人の暗黙の了解だ。体調管理は仕事の内だからそれは当然の結論なのだけれど。
寝室は同じだから、眠っている顔を見ることはできるし、時間が合えば朝だって顔を合わせられる。それは、別々の家に住んでいては果たされない現実だ。
これまでは、くたくたの体を引きずって帰るのは誰もいない家だった。だけれど、今は違う。
同じ家に住むということは、同じ家に帰るということだ。会いたいと言わなくても、会うための約束をしなくても、帰ればそこには大好きな人がいてくれる。
それがどれほど幸福なことで、どれほど望んでいたことなのかなんて、一成はよくわかっている。
(帰ったらテンテンチャージできるし。もっといっぱい頑張っちゃお!)
内心で決意を固めた一成は、鞄からタブレットを取り出した。移動時間の合間に少しでも仕事を進めておきたかったし、今ならきっと新しいデザインがいくらでも浮かんでくると思えた。
帰ったら天馬がいてくれること、明日の朝も一番におはようと言えること。確かな現実は一成の力になって、イマジネーションの翼はどこまでも羽ばたいていく。