スウィートホーム・シンフォニー 16話




 スタジオ内には、カレーの匂いが漂っている。
 遼一郎と蒼生の食事シーンの撮影である。すっかり馴染んだ1LDKのセットでキッチンに立つ二人は、カレーの鍋を前にしている。
 台本には書かれていないものの、実際の調理も天馬と一成が行っている。当然、遼一郎と蒼生としてカレーを作り上げたのだ。
 二人が作るカレーはどんなものか、と散々話し合いを重ね実際に試行錯誤した結果、至って平凡なカレーを作った。
 牛肉ではなく鶏肉を使用して、野菜は小さめ。カレーのルーは甘口と中辛を混ぜて、弱火で煮込む。出来上がったのは、どこにでもあるようなありふれたカレーだ。

 蒼生はとろみを確認するように、お玉で鍋をかき混ぜている。それから、充分だと判断して手を止めるのと同時に、遼一郎が無言で動いた。食器棚からカレー皿を取り出す。
 鍋の火を止めた蒼生は、遼一郎から皿を受け取った。「いい匂いだな」「お腹空いたね」なんて言いながら、炊きあがっていた白米とともにカレーライスを盛りつけて、ダイニングテーブルへと持っていく。
 雑談を交えながらスプーンや水の入ったコップとともに配膳すれば、食卓の準備は整った。予定では、ここで一旦カットが入るはずだった。モニターチェックを行って、OKが出れば食事のシーンへと移るという流れだ。しかし、カットの声はかからない。
 判断は一瞬だった。
 恐らく、ここまでいい流れで来ていることから、撮影は続行だ。声が掛かるわけでも合図があったわけでもないけれど、すぐさま理解する。お互いが察していることも、このまま食事のシーンへ入ることも、暗黙の内に了解しあう。
 次のシーンのことなら、当然頭に入っている。アドリブ満載の夏組千秋楽だって、何度も一緒に演じてきた相手だ。互いの芝居のことはよくわかっている。体中全てで応えられる自信はあった。
 二人は向かい合わせに座って、「いただきます」と手を合わせる。それから、明日の天気だとか今日の買い物での一コマなど、他愛ない雑談が流れる。少し気の抜けた、二人で過ごす日常が垣間見えるような会話。この辺りは、完全に二人のアドリブだ。
 着々と食事は進む。遼一郎はスプーンで白米をすくい、ルーをつけて口に入れる。指先まで神経の行き届いた所作。口の中のものを飲み込むと、思い出した、といった様子で口を開く。

「ああ、そうだ。明日は蒼生と同じ時間に出る」
「そうなの? 珍しいね」
「マスターの昔馴染みが来るから、特別に朝から開けるらしい」

 遼一郎は隣駅の路地裏にあるバーでアルバイトをしている。基本的に十六時の出勤だけれど、明日はイレギュラーらしい。蒼生は遼一郎の言葉に、ぽつりとつぶやく。

「同じ時間なら、駅まで一緒に行けるかな」

 蒼生のアルバイト先は駅近くに立地する地元の工務店だ。駅に向かう遼一郎と方向は同じになる。だからこその言葉は、遼一郎に告げるというより、心の内側が思わずこぼれてしまった、という様子だった。
 わずかに目を伏せて、照れるような表情を遼一郎は思わず見つめた。普段は落ち着いた顔をしていることが多いし、あまり感情をあらわにする方ではない。
 だけれど、今目の前にいる蒼生は、ふわふわとした雰囲気を漂わせていた。一緒に同じ道を歩ける、それだけの事実がたまらなく嬉しいとその顔が告げている。
 遼一郎は何かを言おうとして、だけれど上手く言葉にならなくて口をつぐんだ。すると、沈黙に気づいた蒼生がちらりと視線を向けた。どうしたのか、と問いかけるようなまなざしは何だか少し幼かった。

「――そうだな。同じ時間に出るんだ、駅まで一緒に行くぞ」

 同じ道を歩く。それだけで嬉しそうになんてしなくていいんだ、と本当は言ってやりたい。だけれど、それは決して簡単なことではないのだと遼一郎も知っている。
 本当なら、肩を並べて二人で歩くことさえ難しい。だってそうでなければ、こんな風に二人で手を取り合って逃げてはこなかった。
 蒼生は自分のつぶやきへ答えがあったことに、いくつかまばたきをしたけれど。遼一郎の言葉を受け取って、嬉しそうに「うん」とうなずいた。それから、声の雰囲気を変えて続ける。

「それじゃ、今日は早めに寝ないと。遼一郎、いつも起きるの遅いし」
「帰りが遅いから仕方ないだろ」
「前の日が休日でも遅いでしょ。夜更かししてるのは知ってるよ。同じ部屋なんだから」

 いくらか鋭くなった声に、遼一郎は眉根を寄せた。蒼生が小言モードに入っていることを察したからだ。

「夜更かしは体に良くないって言ってるよね。体力があるのは知ってるけど過信は良くないし、そうだちゃんと野菜も食べてる?」
「食べてるだろ、ほら」

 示したカレー皿は、順調にルーとご飯が減っている。不自然に野菜が残っている、なんてことはないのだと主張すれば、蒼生は「確かに」とうなずいた。

「野菜小さめにして正解かな。遼一郎も食べてくれるし」

 肩をすくめて言いながら、水の入ったピッチャーを遼一郎の近くに置いた。グラスが空になっていることに気づいたからだ。

「子供扱いするなよ」
「野菜が苦手なのは子供扱いされても仕方ないと思うけど」

 グラスに水を入れつつ、ふてくされたように言うので。蒼生は冗談めいた口調で言葉を返し、それから軽口めいた雑談が続いていく。
 夏組の本領発揮とも言えるアドリブの応酬だ。必要なシーンは全て終えている。だから、ここから先は完全に二人だけの独壇場だ。

 気安い掛け合いをしばらく続けていると、カットの声が掛かった。すぐさまモニターチェックに向かったけれど、染井監督の表情で結果は予想できた。嬉しそうににこにことしていて、満足そうな雰囲気が漂っていたのだ。

「良いシーンが撮れました。二人の日常を描く場面ですからね。同じ家でともに暮らしているという生活感に、説得力が必要でした」

 そう言った染井監督は、モニターに映し出される二人を示す。
 タイミングよくカレー皿を取り出す遼一郎や、狭いキッチンでも難なく動き回る様子。思いついたことをそのまま口にするような他愛ない雑談に、心安い空気。その中に現れる、相手を愛おしいと思う瞬間。

「お二人のアドリブも、自宅での雑談のような雰囲気がよく出ています。そこから続く台詞も同じ空気感がありますし、食事をともにするのが至って自然なことなのだ、ということが伝わります」

 モニターを見ていた染井監督は、目を細めて「いいですね」とつぶやく。一成がピッチャーを天馬の近くに置いたシーンだ。これは台本に書かれていない。

「天馬くんがカレー皿を取った時も思いましたが、この辺りは自然な動きでしょう。台本では特に指定していません。一緒に生活をしているからこそ、でしょうね」

 ある程度の動きなら、事前に二人で打ち合わせはしている。ただ、皿を取るタイミングだとか空になったグラスを察するだとか、その辺りは至って自然に出てきた動きだった。
 事実として一緒に暮らしているからこそ、とっさに体が動くのだ。演技ではない自然な行動が芝居に入ることで、作品にはリアリティが生まれる。染井監督はそう思っているからこそ、二人へともに暮らすよう頼んだのだし、その成果が出ていると言えた。

「二人の日々の生活が活かされたシーンですね。ともに日常を過ごしているのだ、という説得力が違います。実際一緒に暮らしているんですから」

 にこやかな言葉に、天馬と一成は嬉しそうにうなずく。
 理想的な映像が撮れたことはもちろん、一緒に暮らしていることが力になった、という事実に高揚した気持ちになったのだ。何だか恋人同士の自分たちが表に出るようで、わずかばかり照れくさい気持ちもあるけれど。望まれたものを、思う以上の演技で返せたことは二人にとって確かな喜びだった。
 染井監督は満足そうに再度うなずき、今しがたのシーン撮影が無事完了したことを告げる。次はロケの予定なので、スタッフたちはばたばたと動き始めた。