スウィートホーム・シンフォニー 17話
天馬と一成は、ロケへ出発するまでもう少し時間があった。なので、楽屋に戻って早めの昼食を取ることにした。もっとも、撮影でほぼ一皿カレーを食べ終えていたので、少しばかり軽食をつまむ程度だ。
この後のスケジュールは、スーパーマーケットでの買い物シーンのため、実際の店舗へロケに出る予定だ。ただ、店舗貸し切りの時間は決まっている。今しがたのシーンが一回のテイクで終わったため、ロケまでは束の間の自由時間になった。
何かをするには中途半端だったので、天馬と一成は昼食後そのまま楽屋で過ごすことにした。SNSの更新や雑誌インタビューの準備などを交えつつ、二人は何でもない雑談をしている。
「今日のロケ、ちょっと楽しみなんだよねん。最近、スタジオ撮影ばっかだったから!」
「スーパーの撮影終わったら、またスタジオ戻ってくるけどな。本格的なロケって言ったら、もうすぐ高原ロケがある」
「そそ! そっちもめっちゃ楽しみ! お目当ての美術館、ギリで貸し切りできてよかったよねん」
にこにことした笑顔で、一成は大きくうなずいた。「浅き春のカノン」は、基本的に二人の住む家とその周辺が舞台となっている。ただ、終盤のシーンはロケを行うことになっていた。
遼一郎との口論により家を飛び出した蒼生は、あてもなく街をさまよったあと、クロッカスの絵を見たいとギャラリーを訪れる。しかし、作品はもともと別の美術館に所蔵されているものであり、ギャラリーには期間限定で貸し出しされていただけ、と伝えられる。
本来の美術館に返却されているため、絵を見ることは叶わないと知らされるも、蒼生は決意する。行き場がなかったこともあり、その絵を見るために蒼生は美術館へ向かうのだ。
染井監督のイメージに合致した美術館は、都内から車で二時間ほどの高原にあった。個人経営の小さな美術館で、当初は撮影に難色を示していたらしい。
しかし、染井監督をはじめとしたスタッフの熱意により、一日だけ撮影が許可された。それ以外にもいくつか高原でのシーンがあるため、八日後には丸一日高原ロケを行うことが予定されているのだ。
「そういえば、絵は直接美術館に持っていくって言ってたな。画家がそっちの方に住んでるとかだったか」
「うん。実際の展示の仕方とかも、いろいろアドバイスしてくれるっぽいよん。どんな絵なのか、見るの楽しみ!」
好奇心を目いっぱいに宿した瞳で、一成は言う。鍵となる作品ということで話には聞いていたものの、誰も実物を見たことがない。そのため、スタッフや出演者の間でもしばし話題に上っていたし、一成も一成で「どんな構図かな~とか、どういう光の入れ方してんのかな~とか考えちゃうよねん」と言っていた。
映画関係者が絵を気に掛けていることは、染井監督も理解していたのだろう。クロッカスの絵は無事に完成した、と報告があったのだ。さすがに美術館のシーンで、絵がないまま撮影することは難しいので、誰もがほっと安堵していた。
ただ、最後まで手直しをしたいということで、絵自体は画家の自宅にある。幸い、画家の住居は美術館にほど近い。展示方法についての助言も行うということで、ロケの数日前にはスタッフが画家本人と絵を迎えにいってそのまま美術館へ向かう予定になっていた。
舞台となる美術館についてだとか、日帰りでも観光するタイミングはあるかだとか、二人はあれこれと話をしている。遊びに行くわけではないとわかっていても、スタジオとは違う場所での撮影は何だかわくわくしてしまうのだ。
「今日のスーパーもさ、チェーン店じゃないから新鮮だよねん」
ロケの話題から、今日撮影で使うスーパーマーケットへと話が流れていく。遼一郎と蒼生が訪れるスーパーマーケットは、全国展開されている店ではない。天馬も一成も初めて聞く店名だったけれど、地元住民には広く愛されているという。
「まあな。実際初めて行く場所だから、どこに何があるかわからないし、多少戸惑った方がリアリティはある」
重々しい言葉に、一成は楽しそうに笑った。今日撮影するシーンを思い出したからだ。笑い声をそのまま形にしたような声で、一成は言う。
「遼一郎初めてのお買い物だもんね~。テンテン、めっちゃリアリティあるお芝居できるっしょ。実体験だし。迷子になったし」
「あれは迷子じゃない。お前たちがいなくなっただけだ」
若干ふてくされたように天馬が答える。
今日のロケは、二人での買い物のシーンを撮影する。ただ、それは引っ越して来たばかりと、すっかり生活に慣れた日々、二つの時間だ。当初の遼一郎は、スーパーマーケットでの買い物などしたことがないため、戸惑いながら買い物を行うことになる。
台本上そう記されているからではあるものの、一成は最初に読んだ時から思っている。これ、最初の頃のテンテンじゃね。
天馬はMANKAI寮で過ごすようになるまで、スーパーマーケットで買い物をしたことがなかった。必要なものは誰かが買ってくるか届けられるか、という生活なので必要がなかったのだ。
団員たちは「さすがセレブ」と口々に言い合っていたけれど、カンパニーでそれが許されるわけがない。なので、早々にスーパーマーケットへ連れ出されて、強制的な「初めてのお買い物」が展開されたわけである。その際、持ち前の方向音痴を発揮して、店内で迷子になった件は後々まで語り継がれている。
「めんご、めんご~。でも、今は頼りにしてるかんね。なくなりそうになったら牛乳とか買ってきてくれるし、お気に入りのシャンプーとかも覚えててくれるし」
カンパニーでの生活を経て、天馬はスーパーマーケットでの買い物も難なくできるようになった。二人で暮らすようになってからも、充分戦力になってくれているのだ。
多忙ゆえあまり買い物へは行けないし、宅配サービスを利用することも多々ある。それでも近所のスーパーマーケットの商品配置は把握しているし、迷子にならずきちんと買い物を果たしてきてくれる。
「さすがに慣れるし、一成にだけ任せるわけにはいかないだろ。オレだって一緒に暮らしてるんだから」
きっぱりと告げられた言葉に、一成は目を細めた。
買い物もしたことがなくて、スーパーマーケットに戸惑っていた天馬を知っている。カンパニーで過ごすうちに、いろんなことを覚えていった。
たくさんの思い出と記憶を積み重ねた先に、今目の前の天馬がいる。そして、これから先だってたくさんの出来事を分かち合っていくのだ。
「――うん。そだね。一緒に暮らしてるんだもんね」
あの頃の、出会ったばかりの自分はこんな未来を想像していなかった。天馬とともに未来を生きていくなんて。大好きな人が同じ気持ちでいてくれて、手を取り合って歩いていくなんて。
一つだって想像しなかった未来に立っているけれど、それがどれだけすてきな光景かなんてことは誰よりよく知っている。
◆
スーパーの駐車場に、撮影用の機材が並んでいる。衣装を身に着けた天馬と一成は、挨拶をしながら現場に入った。
「撮影まだな感じ?」
ほうぼうからの挨拶に明るい声を返したあと、一成は首をかしげた。すぐにでも撮影が始まると思っていたものの、流れる空気は何だかのんびりしていたからだ。
「今ちょっと監督が店長さんと話してるんですよ」
答えたのは制作部スタッフの一人だった。何でもスーパーで臨時のタイムセールを行ったので、貸し切り時間が少し後ろにズレたらしい。その辺りのスケジュールを再度確認しているという言葉に、一成は目を瞬かせて言った。
「え、臨時のタイムセールって何だろ。レアアイテムとかあったんじゃね!?」
「見に行くなよ。お前絶対よけいなもの買うだろ」
わくわくした様子で目を輝かせる一成に、天馬が釘を刺す。一成はお祭りのような雰囲気が好きだし、タイムセールの空気にテンションが上がるらしく、あれこれ買ってくることがあるのだ。
一成は天馬の言葉に肩をすくめて、「えー、だってレア感あるじゃん」と言ってから、周囲のスタッフへ視線を向けた。
めいめいが忙しく立ち回っているということもなく、雑談をしたり手持ちの機材を確認したりしている。メイキング担当のカメラマンがスタッフたちの様子を撮影しているものの、準備はすでに終わっているのだろう。現場の様子を確認したあと、一成は口を開いた。
「タイムセールって何かテンション上がりません?」
撮影待ちをしているスクリプターや、手持ちぶさたにガンマイクを持つ録音助手、洋服のチェックを終えた衣装担当。楽しそうな空気で問いかければ、それぞれは少しだけ沈黙を流したあと口を開いた。
「そうですね……思いがけずいっぱい買っちゃいますよね」
「何か買わないと損みたいな気はします」
「むしろタイムセール狙いで行きます」
「でしょ!? ほら、テンテン~!」
タイムセールへの肯定的な意見に、一成が我が意を得たりといった顔で言うけれど。天馬は「それは別に、お前の行動の正当性にはならないだろ……」とにべもない。
「この前、『タイムセールしてた!』って言ってキュウリ三十本くらい買ってきたんですよ」
今度は天馬が、スタッフへ言葉を向ける。それはつい最近の一成の行動について是非を問うものだ。「限度ってものがあるだろ」と重々しく言って、「そう思いませんか」と尋ねる。
質問を向けられて、真っ先に答えたのは衣装担当スタッフだった。「確かに」と重々しくつぶやいてから言葉を続ける。
「二人で食べるのに、三十本は多いですね……」
「というかそれ、箱詰めサイズじゃないですか?」
録音助手が続き、天馬は「そうです。箱買いです」と答えた。一成は「だっていっぱいあるとテンション上がるじゃん」と楽しそうだ。
最終的にカンパニーへ差し入れとして持って行ったり、世界のキュウリ料理を作ったりして、何だかんだで無事全ては食べ終えたのだけれど。三十本がなかなかの量だったことは確かだ。
わきあいあいと、世界中にキュウリ料理意外とあるよね、なんて話をすれば天馬が「結構美味かったな」と感想を口にする。にぎやかな空気に気づいたのか、メイキングカメラマンが近づいてきて雑談の様子を撮影している。
今ではすっかり、メイキングカメラマンにもスタッフ一同慣れている。気にすることもなく会話は続き、スクリプターが「そもそも」と言葉を重ねる。
「そんなにキュウリあっても、冷蔵庫に入らないですねうちは」
心からといった感想に「あ~」「うちも無理かも」という同意の声が上がる。
それから、天馬と一成の家は広い、なんて話になる。さすがは染井監督が用意した家だの、ものすごい豪邸なんだろうと盛り上がる。気づけば、他のスタッフも話に加わっていた。
他愛のない雑談だ。撮影が始まるまでの、ほんの少しの時間に交わされるだけの、すぐに忘れてしまうような。どんなたいそうな話でもないけれど、わきあいあいと楽しそうに言葉を交わし合う。
明るい雰囲気で包まれる現場に、一成はこっそりと笑みを浮かべた。
撮影現場でみんなが笑っていられてよかった。天馬に対する気負いもほとんどない。適度な距離感と節度は持って、それでいて慕わしげに何でもない話ができていることが嬉しい。大スターの皇天馬ではなく、映画を作り上げるための一員なのだと伝わるような光景だ。
こんな風に、みんなで一つの作品を作り上げていく。最初は天馬に対してためらいや遠慮が見られたスタッフも、今では楽しそうに雑談をしている。その事実が嬉しくて、一成の唇は自然とほころぶのだ。
「どうした、一成」
そっと浮かぶ微笑に気づいた天馬が、声を掛ける。一成は少しだけ考えて、「何でもないよん」と首を振る。
天馬に話しても問題ないことはわかっていたけれど。撮影が始まったばかりのぎこちなさを思い出させることもないだろう、と何も言わないことを選んだ。その代わり、胸の内に芽生えた気持ちを取り出して、天馬にそっと耳打ちした。
「今日は久しぶりに、オレが料理作りたいなって思ったとこ!」
お互い仕事も忙しいことから、食事は作り置きの総菜がメインになりがちだ。ただ、キュウリ料理を作ったことを思い出した一成は、久しぶりにキッチンに立ちたいなと思っていた。だから素直にそう言えば、天馬は一瞬だけ目をまたたかせる。
それからすぐに、笑みを浮かべた。心底嬉しそうな、あふれでる喜びがこらえきれずにこぼれたような表情。きらきらと目を輝かせて、無邪気な子供に似た雰囲気が広がる。
一成の手料理が食べられる、という事実が嬉しくて仕方ないのだ。きらきらと、まばゆいほどの笑みが顔中に浮かんでいる。
「――おや、何だか盛り上がっていますね」
天馬の笑顔に一成も嬉しくなっていると、おだやかな声が飛び込む。染井監督が柔和な表情を浮かべて立っていたので、スタッフたちの雰囲気が切り替わる。ただ、染井監督はやんわりと「あと十分ほどで撮影を開始します」と告げた。
「ですので、もう少しゆっくりしていても構いませんよ。撮影の準備はみなさん整っているでしょうから」
落ち着いた声音は、スタッフたちへの信頼が現れていた。誰もが最善の状態で撮影に臨めるよう準備は済んでいるはずだ、と疑ってもいない。事実として、あとは染井監督の号令を待つだけなのだ。多少ゆっくりしても問題はなかった。
染井監督の言葉を受けて、真っ先に口を開いたのは一成だった。純粋に聞きたいことがあったのも事実だし、わきあいあいとした雰囲気が染井監督の登場で途切れる形になったことを気にしてのことでもある。
「臨時タイムセールがあったって聞いたんですけど、何のタイムセールだったか聞いてます?」
はつらつとした問いかけに、呆れたように天馬は息を吐く。「一成、お前な……」なんて言うけれど、唇には明らかな笑みが浮かんでいるし、名前を呼ぶ響きは明るい。面白がっていることは明白だったので、周囲のスタッフも楽しそうな目を向けている。
周りの雰囲気を的確に感じ取ったのだろう。染井監督は「なるほど」とうなずいてから、にっこりと笑って答える。
「輸入菓子を扱っていたようですよ。何でも朝の情報番組で特集が組まれて問い合わせが増えただとか。それならいい機会だ、と臨時のタイムセールになったようです」
染井監督はのんびり「ずいぶん大きなチョコレートやマシュマロが売ってましたよ」と続けるので、思わず天馬と一成は目を見合わせた。もちろん、カンパニーのマシュマロ好きを思い出したからだ。
「ヒソヒソに買って帰る?」
「存在知ってそうだけどな」
密はぼんやりしているように見えて、マシュマロ情報には詳しい。本人が積極的に集めているというより、周囲の人間が教えてくれるので気づいたら大体のことは把握しているのだ。
だから、もしかしたら巨大マシュマロのことも知っているかもしれないけれど。
「まあ、密さんなら受け取ってくれるだろ」
お気に召すかはわからない。ただ、密はプレゼントしたいという気持ちは汲んでくれる人間だ。天馬と一成二人からのマシュマロを、きっと受け取ってくれだろう。
一成は天馬の言葉に「だよねん!」と笑って、撮影帰りにマシュマロを買うことにしようと告げる。天馬がうなずくのと同時に、そろそろ撮影の準備へ入るという声が響いた。